詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池田順子「月」「借りた」

2011-03-14 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
池田順子「月」「借りた」(「ガーネット」63、2011年03月01日)

 池田順子「月」は不思議な作品である。といっても、私がこれから書くことは、実は「誤読」である。ほんとうは池田は違うことを書いているのだが、私は、あえて池田の書いていることを無視して感想を書いておきたい。

つないだ手と手のなかで
ほっこり
月が浮かびあがる
ゆれる
手のなか
ほっこり
月がかたむく

おばあちゃんはいつ生まれたの?

湖のような眼が見上げている
少女の
あかるい問いかけに
歩調がみだれてしまった

おばあちゃんがいつ生まれたのか なんて
知らない

いつだったのだろう

 「おばあちゃんはいつ生まれたの?」と聞かれ、「○年前だよ」と答えればふつうの会話である。
 「○年前だよ」
 「すっごい。私は5年前だよ」
 「そう、○○ちゃんは、5年前に生まれたの」
 「そうだよ、5年前に生まれたから5歳なんだよ」
 「そうなんだ、5年前に生まれたから5歳なんだね。おばあちゃんは○年前に生まれたから、○歳だね」
 子どもは自分の年齢と、何年前に生まれたということが5という数字の中で一致することを発見し、それを知ってもらいたくて、池田にそう問いかけただけなのである。
 でも、池田は、そんなふうに子どもと会話することができなかった。
 ふいに、自分はいったいいつ生まれたのか、言ってしまうことに疑問を感じたのだ。生まれたときのことなど、覚えていない。○年前は知識として知っているだけであり、実感がない。問いかけた子どものように、その「知識」に対する喜び(これを、池田は「あかるい」ということばであらわしている)もない。
 あ、そうなんだ。
 生まれたこと--生まれて生きていること、そのことと「いま」を結びつけるときに何かを「知る」。その「喜び」がない。「あかるい」何かがない。
 と、思ってみるが、いやいや、「あかるい」ものはあるぞ。
 子どもとつないだ手のなかにある「月」。それはあかるいだけではなく、「ほっこり」している。その「ほっこり」を、池田は発見している。子どもが、5年前に生まれたことと、5歳であることが一致するのを発見したように、だれかと手をつなぐとき、その手をつなぐという行為の中に「あかるさ」がうまれる。「ほっこり」という感覚がうまれる。
 「○年前」に生まれた、○歳である、--ということではつたえられないことがら、「月(あかるさ)」と「ほっこり」をことばにしてみたいのだ。
 でも、すぐには、そのことばは思い浮かばない。それで、「歩調がみだれる」のだ。

 (このあと、池田は、別なことばで「歩調のみだれ」を説明している。それはちょっと「月」と「ほっこり」にはそぐわないように私には思える。だから、その部分をあえて省略して、私は、「誤読」というより、「捏造」を書いたのである。)

 歩調はみだれる。それを、どうやって立て直すか。手をつなぎなおすと、それだけで歩調は持ち直す。

並んであるく


ふたつの
月が動く

 月夜の晩のことなのだろうけれど、池田が幼い子どもと歩いてその姿が浮かぶ。つないだ手のなかに、池田があかるさと、あたたかさ(ほっこり)を感じているのが、とても気持ちよく伝わってくる。

 「借りた」には、その「月」の「あかるさ」と「ほっこり」した感じにつながる、ひととひとの触れ合いがある。人間が肉体をもっていることの、不思議なあかるさと信頼がある。

泣きそうになった わたしに
あなたは
いちまいの 胸を
差し出した

おさえていたものはこみあげてくる
ものをこらえて
聲を殺そう

わたしは
胸を
借りた

殺すことで
頭がふるえ
肩がふるえ
ことばより先に
借りた胸が
ふんわり
あたたかい

をたてて
つつんでくれる

吸ってくれる
聲を
あなたは
いちまいの 胸を
置いたまま
帰ってしまった

濡らしても
すぐに乾く
いちまいの 胸
開いては
畳んでみる
畳んでみても
小さくなることはない
何度使っても
古びることはない

ひっぱりだし
たまに話かけてみる

あたたかい

のするばかり

 この作品をどう読むか。池田はだれかの胸の中で泣いた記憶がある。これは、まあ、間違っていないだろう。それから先を私は、やはり「誤読」したい。池田が書いている「事実」とは違うかもしれないことを承知で、私は私の読みたいように読む。
 池田は男の胸で泣いた。シャツが涙で汚れた。それで、池田は「洗って返します」とシャツを預かった。そのシャツをまだ持っている。忘れることのできない記憶のように大事に持っている。ときどき取り出して、畳んだシャツに顔をうずめてみる。そうすると、あのときと同じように、そのシャツの下にある心臓のどくんどくんという音が池田をつつんでくれる。
 それはあたたかくて、(ほっこりしていて)、あかるい。
 ひとは「肉体」でつながって生きている。
 「肉体」と「肉体」が相手をしっかり実感するとき、ひとは、強くなれる。ひとを強くするのは、いま、そこにある「肉体」である。
 池田はシャツを(胸を)貸してくれたひととは、いまはいっしょではないかもしれない。それでも、その記憶が、「肉体」の記憶が、池田を強くしていることがわかる。
 いいなあ、と思う。ほんとうに、あたたくていいなあ。

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誰も書かなかった西脇順三郎(195 )

2011-03-14 11:44:57 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。「田楽」の最後の方にとてもおもしろい展開がある。

「まよ中におれが考えたことを
あの女にきかせるよりは死ん
だ方がましだ」
(そげなことを思いながら)

 西脇の詩には不自然な改行、ことばの「行わたり」が頻繁にみられるけれど、「死ん/だ方がましだ」は、とりわけかわっている。「死んだ/方がましだ」なら、まだ「死んだ」でいったん「意味」が完結し、それが次の行で破壊される(と、いうか、方向転換される)ので、強引な感じはしない。「死ん/だ方がましだ」は、どうみても強引である。
 でも、なぜ、強引に感じるんだろう。「意味」を追うからだろう。しかし、その「意味」とはなんだろう。「頭」で追いかける「意味」だ。
 「肉体」は、ほんとうはそんなふうにことばを追いかけないかもしれない。
 思わず「死」ということばを口にして、そこでいったん立ち止まる。勢いで「死ん」まで言ってしまうが、言いながら、いまのことばでよかったかな? 言っちゃいけないんじゃないかな? ふと、迷う。その迷いの瞬間を乗り越えて、急遽、ことばを別な方向に動かす。そういうことがある。
 そのリズムを、西脇のことの行のわたりは具体的に再現している。
 「意味」ではなく、呼吸。息。息がここにある。

(そげなことを思いながら)

 これは、いまの会話口語で言いなおすなら、「なんちゃって」ということになるだろうか。
 勢いで動いていくことば、肉体が自然に発してしまうことば--それを、状況の変化(まわりの反応)をみて、急に方向転換する。そういうとき、「論理的」なことばの運動ではだめである。「論理的」ではなく、脱論理--肉体の無意味さで、それ以前のことばをたたき壊すような乱暴さ(乱暴のやさしさ)が必要である。

 ことばにとって(日常のことばにとって)、「意味」は重要ではない。対話にとって重要なのは、呼吸、息。息が合えば、なんとかなるのだ。
 西脇のことばは、いろんな「出典」を抱え込んでいる。(そういう分析を熱心にしているひともいる。)「出典」を明確にすることで「意味」がわかることがある。けれど、「出典」では絶対にわからないものがある。なぜ、そこにその「出典」が、という根拠である。
 あらゆることば--西脇のことばにかぎらず、だれのことばでも、そのことばが発せられるとき、そこには独自の呼吸(息)がある。リズムと音楽がある。「意味」ではなく、私は、そういう音楽、呼吸にいつも誘い込まれる。





西脇順三郎と小千谷―折口信夫への序章
太田 昌孝
風媒社



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