詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

萩原健次郎「スミレ論」

2011-03-06 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
萩原健次郎「スミレ論」(「coto」20号=最終号、2010年12月18日発行)

 萩原健次郎「スミレ論」は連作である。「coto」20号には「二十六」から掲載されている。前の部分を読んだ記憶がある。しかし、申し訳ないことに、もう「スミレ論」というタイトルしか覚えていない。もしかしたら、そのタイトルからかってに、昔読んだことがあると私が錯覚しているだけで、ほんとうは今回が最初の作品かもしれない。私は、まあ、そんな具合にいいかげんな読者なのだが、「スミレ論」というのは、あ、萩原健次郎らしいなあ、と思う。そう思うから、前に読んだと思うのかもしれない。
 何が萩原健次郎らしいか--といえば、妙な「古めかしさ」である。「スミレ+論」ということばの連続性が、ぞくっとするくらい、古い。そして、それをどうも、萩原は嫌いではないらしい、ということろに、私はぞくっとするのである。

深泥、足首まですっぽり入る柔らかな泥土であったの
に、この夏場はすっかり雨も少なく、乾土となり、と
きには、微粒子となった、さらさらの砂がただ無造作
に舞っている。
午後の閉域は、午前の閉域に比べてどうだろう。

 ことばの好みというのは、色の好みのように、何かしら「本能」に関係しているのかもしれない。だから、こんなことを書いても萩原は困るだけかもしれないが……。
 書き出しの「深泥」、このことばからして、私はつまずいてしまう。ぞくっとする。「しんでい」と読むのだろう。辞書にもきっと掲載されていることばだと思う。思うけれど--私は、このことばを聞いたことがない。文字を読めば「意味」はわかる。深い泥。ぬかるみのようなものだろう。こういう「意味」は見当がつくけれど、音として聞いたことのないことばに出会うと、私はいやな感じになるのである。「魔物」が、「古いことば」でしか言い表すことのできない何かがひそんでいるような、あ、近づきたくないなあ、という変な感じをもってしまうのである。
 そういうことばは、そういうことばとして自律して動いていけば、それはそれで泉鏡花のようなものになるかもしれないが、そこに「素粒子」が加わると、私の場合、我慢できなくなる。「素粒子」が、なんといえばいいのだろう、「元素」くらいに大きいものに見えてしまう(感じてしまう)のである。
 「午後の閉域」「午前の閉域」も同じである。つかい方次第では、すばやく動くことばなのだと思うが、萩原の文体のなかでは、ことばが重たい。何か妙なものを(魔物)を引きずっている。「どうだろう」ということばが、それに拍車をかける。

スミレの成育圏は、セカイと名づけられているだろうか。
それは、だれが定めた場であるのか。
金属の属性に近い、糸状の細い叫声を発する
笛なのか。
きょうは、泥で
あしたは、かわききった砂にまみれて
いのちの残滓である、花弁をごしごし擦って傷をつけ
て、生きるための官能を棄てて。官能のスイッチをつ
けたり消したり。
明滅している、
スミレの顔色よ。

 これはきっと「好み」のひとにはたまらない「毒」だろうなあ。「金属の属性に近い、糸状の細い叫声を発する/笛なのか。」の「笛なのか。」という短いことば。句点「。」の呼吸。
 それは、ことばが動いて行ってそうなった、というより、私には、ことばをそんなふうに集めてしまったという具合に感じられる。どのことばにも出典があり、萩原はそのことばを萩原の粘着力で統一している。ことばがことば自身で動いていくのを拒絶し、萩原が動いて行ってことばを萩原に定着させる。ときどき、「笛なのか。」というような短いことばで呼吸をととのえながら。(短いことばのあとに、深い、ゆったりした呼吸がある。)

 うまく書けない。書きたいことが書けない。書くべきことではなかったのかもしれない。でも、書かずに置いておいても、けっきょく思ってしまったことなのだから、おなじだよなあ。




冬白
萩原 健次郎
彼方社



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誰も書かなかった西脇順三郎(192 )

2011-03-06 12:49:36 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。
 西脇のことばは、さまざまに乱れる。あることばの運動が、どうしてそんなところへ行ってしまうのかわからない部分がある。ことばとことばの脈絡に断絶がある。--というのは矛盾した表現になってしまうが、あることばの連続が、ふいに切断された瞬間に、ことばが「もの」のようにしてそこに存在する。それが私には美しく感じられる。
 「坂の夕暮れ」。前半は、ことばが「文学」っぽい。

あのまた
悲しい裸の記憶の塔へ
もどらろければならないのか
黄色い野薔薇の海へ
沈んでゆく光りの指で
そめられた無限の断崖へ
いそぐ人間の足音に耳傾け
なければならないのか

 ここには「日常」のことばにはないことばの動きがある。それを私はとりあえず「文学」っぽいと呼んだのだが、こういうことばを読むと、意識が研ぎ澄まされていくというか、意識が緊張していくのがわかる。緊張の中で、いままで見たことのないものが見えはじめる。
 これはたしかに詩である。
 そして、この詩が、後半にがらりとかわる。

頭をあげて
けやきの葉がおののくのを思い
うなだれて下北(しもきた)の女の夕暮の
ふるさとのひと時のにぎわいを思う
まだ食物を集めなければならないのか
菫色にかげる淡島の坂道で
かすかにかむ柿に残された渋さに
はてしない無常が
舌をかなしく
する

 「かすかにかむ柿に残された渋さ」。この具体性は、あまりにも具体的過ぎて、びっくりしてしまう。前半にあらわれた「沈んでゆく光りの指」という「比喩(文学)」の対極にある。そして、それはまた「日常」でもない。「日常」をたたきわったようなものである。それ自体が「日常」をたたきわったようなものであるが、そのことばは前半のことばの脈絡からかけ離れることで、ことばの運動自体に「断面」を誘い込む。それが美しい。この瞬間の「手触り」が私は大好きである。
 そして、そういうことばの運動のあと、「はてしない無常」がくる。「舌をかなしく/する」という不思議な「肉体」がくる。前半の「文学」(頭の中のことば--比喩)が、「肉体」そのものに、突然変わっている。

 「悲しい裸の記憶の塔」と、「舌をかなしく/する」の、ふたつの「悲しい」「かなしく」をつきあわせると、ことばの断面がよりくっきりと見える。

評伝 西脇順三郎
新倉 俊一
慶應義塾大学出版会


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