萩原健次郎「スミレ論」(「coto」20号=最終号、2010年12月18日発行)
萩原健次郎「スミレ論」は連作である。「coto」20号には「二十六」から掲載されている。前の部分を読んだ記憶がある。しかし、申し訳ないことに、もう「スミレ論」というタイトルしか覚えていない。もしかしたら、そのタイトルからかってに、昔読んだことがあると私が錯覚しているだけで、ほんとうは今回が最初の作品かもしれない。私は、まあ、そんな具合にいいかげんな読者なのだが、「スミレ論」というのは、あ、萩原健次郎らしいなあ、と思う。そう思うから、前に読んだと思うのかもしれない。
何が萩原健次郎らしいか--といえば、妙な「古めかしさ」である。「スミレ+論」ということばの連続性が、ぞくっとするくらい、古い。そして、それをどうも、萩原は嫌いではないらしい、ということろに、私はぞくっとするのである。
ことばの好みというのは、色の好みのように、何かしら「本能」に関係しているのかもしれない。だから、こんなことを書いても萩原は困るだけかもしれないが……。
書き出しの「深泥」、このことばからして、私はつまずいてしまう。ぞくっとする。「しんでい」と読むのだろう。辞書にもきっと掲載されていることばだと思う。思うけれど--私は、このことばを聞いたことがない。文字を読めば「意味」はわかる。深い泥。ぬかるみのようなものだろう。こういう「意味」は見当がつくけれど、音として聞いたことのないことばに出会うと、私はいやな感じになるのである。「魔物」が、「古いことば」でしか言い表すことのできない何かがひそんでいるような、あ、近づきたくないなあ、という変な感じをもってしまうのである。
そういうことばは、そういうことばとして自律して動いていけば、それはそれで泉鏡花のようなものになるかもしれないが、そこに「素粒子」が加わると、私の場合、我慢できなくなる。「素粒子」が、なんといえばいいのだろう、「元素」くらいに大きいものに見えてしまう(感じてしまう)のである。
「午後の閉域」「午前の閉域」も同じである。つかい方次第では、すばやく動くことばなのだと思うが、萩原の文体のなかでは、ことばが重たい。何か妙なものを(魔物)を引きずっている。「どうだろう」ということばが、それに拍車をかける。
これはきっと「好み」のひとにはたまらない「毒」だろうなあ。「金属の属性に近い、糸状の細い叫声を発する/笛なのか。」の「笛なのか。」という短いことば。句点「。」の呼吸。
それは、ことばが動いて行ってそうなった、というより、私には、ことばをそんなふうに集めてしまったという具合に感じられる。どのことばにも出典があり、萩原はそのことばを萩原の粘着力で統一している。ことばがことば自身で動いていくのを拒絶し、萩原が動いて行ってことばを萩原に定着させる。ときどき、「笛なのか。」というような短いことばで呼吸をととのえながら。(短いことばのあとに、深い、ゆったりした呼吸がある。)
うまく書けない。書きたいことが書けない。書くべきことではなかったのかもしれない。でも、書かずに置いておいても、けっきょく思ってしまったことなのだから、おなじだよなあ。
萩原健次郎「スミレ論」は連作である。「coto」20号には「二十六」から掲載されている。前の部分を読んだ記憶がある。しかし、申し訳ないことに、もう「スミレ論」というタイトルしか覚えていない。もしかしたら、そのタイトルからかってに、昔読んだことがあると私が錯覚しているだけで、ほんとうは今回が最初の作品かもしれない。私は、まあ、そんな具合にいいかげんな読者なのだが、「スミレ論」というのは、あ、萩原健次郎らしいなあ、と思う。そう思うから、前に読んだと思うのかもしれない。
何が萩原健次郎らしいか--といえば、妙な「古めかしさ」である。「スミレ+論」ということばの連続性が、ぞくっとするくらい、古い。そして、それをどうも、萩原は嫌いではないらしい、ということろに、私はぞくっとするのである。
深泥、足首まですっぽり入る柔らかな泥土であったの
に、この夏場はすっかり雨も少なく、乾土となり、と
きには、微粒子となった、さらさらの砂がただ無造作
に舞っている。
午後の閉域は、午前の閉域に比べてどうだろう。
ことばの好みというのは、色の好みのように、何かしら「本能」に関係しているのかもしれない。だから、こんなことを書いても萩原は困るだけかもしれないが……。
書き出しの「深泥」、このことばからして、私はつまずいてしまう。ぞくっとする。「しんでい」と読むのだろう。辞書にもきっと掲載されていることばだと思う。思うけれど--私は、このことばを聞いたことがない。文字を読めば「意味」はわかる。深い泥。ぬかるみのようなものだろう。こういう「意味」は見当がつくけれど、音として聞いたことのないことばに出会うと、私はいやな感じになるのである。「魔物」が、「古いことば」でしか言い表すことのできない何かがひそんでいるような、あ、近づきたくないなあ、という変な感じをもってしまうのである。
そういうことばは、そういうことばとして自律して動いていけば、それはそれで泉鏡花のようなものになるかもしれないが、そこに「素粒子」が加わると、私の場合、我慢できなくなる。「素粒子」が、なんといえばいいのだろう、「元素」くらいに大きいものに見えてしまう(感じてしまう)のである。
「午後の閉域」「午前の閉域」も同じである。つかい方次第では、すばやく動くことばなのだと思うが、萩原の文体のなかでは、ことばが重たい。何か妙なものを(魔物)を引きずっている。「どうだろう」ということばが、それに拍車をかける。
スミレの成育圏は、セカイと名づけられているだろうか。
それは、だれが定めた場であるのか。
金属の属性に近い、糸状の細い叫声を発する
笛なのか。
きょうは、泥で
あしたは、かわききった砂にまみれて
いのちの残滓である、花弁をごしごし擦って傷をつけ
て、生きるための官能を棄てて。官能のスイッチをつ
けたり消したり。
明滅している、
スミレの顔色よ。
これはきっと「好み」のひとにはたまらない「毒」だろうなあ。「金属の属性に近い、糸状の細い叫声を発する/笛なのか。」の「笛なのか。」という短いことば。句点「。」の呼吸。
それは、ことばが動いて行ってそうなった、というより、私には、ことばをそんなふうに集めてしまったという具合に感じられる。どのことばにも出典があり、萩原はそのことばを萩原の粘着力で統一している。ことばがことば自身で動いていくのを拒絶し、萩原が動いて行ってことばを萩原に定着させる。ときどき、「笛なのか。」というような短いことばで呼吸をととのえながら。(短いことばのあとに、深い、ゆったりした呼吸がある。)
うまく書けない。書きたいことが書けない。書くべきことではなかったのかもしれない。でも、書かずに置いておいても、けっきょく思ってしまったことなのだから、おなじだよなあ。
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