詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

稲垣瑞雄「水の炎」

2011-03-26 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
稲垣瑞雄「水の炎」(「双鷲」75、2011年04月05日発行)

 稲垣瑞雄「水の炎」はタイトルが矛盾している。水と炎が出会えば、水が蒸発するか、炎が消えるか、いずれかであり、その二つの存在が「の」で結ばれることはありえない。そして、その「ありえない」ことをことばの運動として成立させてしまうのが詩である。あるいは芸術である。芸術の「特権」である。

水の炎は
抜き手を切るように
流れの上をわたっていく
その火をかいくぐって
ぼくは 生まれた
やがて鱗が生え
ぼくは炎の
魚(うお)になる
 
 この書き出しは、「芸術の特権」を考えるとき、いろいろなヒントを与えてくれる。1行目を読むかぎり「主語」は「水の炎」である。矛盾した存在である。矛盾というものは、瞬間的に存在しえるけれど、永続的には存在しえない。「水の炎」は、最初に書いたように蒸発するか、消えてしまうか、いずれかを否定すること(破壊すること)、一方が生きのびる。--というのが「現実」であるが、「芸術」では、そういう「法則」(学校教科書の「科学」)は無視される。

ぼくは 生まれた

 主語は「ぼく」になることで、「水の炎」という矛盾を超越してしまう。そして「ぼく」はまた「ぼく」ではなくなる。人間であることを否定して、「魚」になる。その「魚」も水のなかにいる普通の魚ではない。「炎の/魚」である。
 この一連の変化のなかの、「生まれる」「なる」という運動--そこに「特権」が象徴的にあらわれている。
 「生まれる」「なる」ということは、それ以前とは完全に違った存在を「主語」とする。「芸術」の「特権」は「主語」を自由に選べるということである。あらゆる法則にしばられず、逆に新しい法則を生み出すために、「主語」は捏造される。
 「芸術」の「主語」は常に「嘘」である。「非現実」である。嘘、非現実を「主語」とすることで、ひとは、いま、ここで起きえないことを体験するのである。
 そして、ここからがちょっと矛盾するのだが、その嘘、非現実の運動を支えることばの動きには矛盾があってはならない。そして、その「矛盾」というのは実は相いれないこと--ではなく、「ためらい」のことである。躊躇のことである。「芸術」の「特権」を生きることばは、あくまでも軽く、すばやく、いろんなことを考えさせてはいけないのだ。軽やかに駆け抜けなければならないのだ。

炎は刻々と
色を変え
新たな魚たちを
生み出(いだ)す
その虹のような
妖しい きらめき
ぼくもまた新しい光を
見つけ出さなければならない

 1連目から2連目にかけて、飛躍がある。2連目1行目の「主語」である「炎」とは何か。「炎の魚」の「炎」である。「水の炎」は「ぼく」になり、「ぼく」は「炎の/魚」になり、それからその「魚」の「炎」になる。ことばは循環して、すべてが融合する。「水」と「炎」と「ぼく」と「魚」の区別はなくなる。
 「主語」はかわりながら、「主語」を超越して、「場」になる。次々に「主語」を生み出す「混沌」になる。そこにあるのは「矛盾」ではなく「混沌」である。そして、その「混沌」は、この詩では「暗く」はない。きらきら輝いている。まるで「矛盾」を眩しさで隠してしまうようだ。
 そして、その眩しさなのかで、「ぼく」は(水は、炎は、魚は)、その「きらめき」を超越する「光」にならなければならない。

体の芯を研ぎ澄まし
ぼくは透明な魚になって
空を翔めぐる
炸烈する白い光が
ぼくを貫いていくとき
ぼくはまた 新たな
太陽の魚となって
銀河を渡るのだ

 さて、「主語」は何?
 どうでもいいのだ。--と書くと、いいかんげんなようだが、「主語」はなんだっていいのだ。「ぼく」であろうが「魚」であろうが、それはそのときどきの「運動」を明確にするための仮の「主語」。ほんとうの「主語」というか、「主役」は軽やかなことばの運動そのものなのである。
 わからなくていい。
 ことばが猛烈なスピードで動いていった。それだけで、いい。

 そして。
 そのことばが、気持ちよければ、それが詩である。
 稲垣のことばは、私には気持ちがいい。私の「肉体」を軽くする。「肉体」の奥の、ことばにならない「音」と響きあって動いている。


月と蜉蝣
稲垣 瑞雄
思潮社



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