詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

進一男『かつて光があった』

2011-03-03 23:59:59 | 詩集
進一男『かつて光があった』(本多企画、2011年02月01日発行)

 進一男『かつて光があった』はタイトルは旧約聖書からとられている。詩集の最初に「神は、光を、よしと思い、光を闇と分けられた。」が掲げられている。私は宗教のことはわからない。だから、宗教については書かない。そして、宗教のことを除外して考えるとき(除外しなくても同じになるかもしれないが)、気づくことがある。進の詩は、「ことば」からはじまる、ということである。そこに「ことば」がある。そこから出発する。
 だれかが(神、かもしれない)、ことばを、よしと思い、ことばをことば以外のものと分けられた--ということばが、誘われるようにして思い浮かんだ。
 「ことば以外のもの」と、あいまいに書いたのは、それが進の場合、「もの(実在)」を指してはいないように感じられるからである。
 先に書いた文章の「主語」を「進」にすると、それは次のようにして動いていく。
 進は、ことばを、よしと思い、そのことばをそれ以外のことばと分けられた。進は詩のことば(文学のことば)を、よしと思い、詩のことば(文学のことば)をそれ以外のことばと分けた。そして、詩のことば(文学のことば)を動かして、詩をつくる(文学をつくる)。それは世界を、詩(文学)の世界と詩(文学)以外の世界に分けることである。そして、このときの詩(文学)以外の世界というのは「もの」のことではなく、あくまでことばの領域のことである。

 なんだか面倒くさいことを書きはじめた感じがするが、簡単に言いなおすと、進は、詩(あるいは文学)のことばを踏まえながら詩をつくる、文学をつくる。詩、あるいは文学として「認定」された作品がある。たとえば旧約聖書。それは詩、文学ではなく「宗教」かもしれないが、いずれにしろ、そのことばは特別なことばである。正しい(?)ことばであると認められていることばである。単語だけではなく、そこに書かれている「文体」も正しいものである。日常のあやふやなことば、文体ではなく、人間を導き育てることばである。進は、そういうことばを、ことばそのもののなからか学び、吸収し、そのことばを組み立て直すことで、自分のことばを確立する。そういうことをしていると思う。
 進が向き合っている「現実」は、私には、なにやら「ことばの現実」でしかないように思えるのだ。「もの」と向き合って、「もの」と闘いながらことばを動かしているのではなく、いろいろなことばと向き合って、そのことばを動かしているだけのように見えるのだ。
 この詩集では旧約聖書のことばと向き合い、そのことばと結びつけることができることばを探しながら、ことばを組み立てているように思えるのだ。「もの」が入り込み、ことばをひっかきまわすことはない。「もの」の抵抗にあい、ことばが行き詰まるということもない。
 巻頭の「初めの時」とは誕生の瞬間のことだろうか。

初めて大きく目を開いて
最初に私が見たのは 光
それは確かに光であったと私には思われる
何と輝かしい光の中に私は在ることか
私がそこに在るこの世界が
このようにまで美しいものだとは
私は思い切り手足を伸ばし動かして
どれほどまでに私の生を喜んだことか
そのように私には思われた

 ここからは、どんな「もの」も引き出すことができない。ただ「光」ということばだけしか存在しない。それも進が見た「現実の光」というよりは、「光の意味」だけがここにしるように思われる。
 進は、「意味の確立したことば」をよしと思い、「意味の確立したことば」を「意味の確立していないことば」と分けられた(分けた)。「意味の確立したことば」は「光」とはなってひとを導く。「意味の確立していないことば」は「やみ」となってひとをわけのわからない世界にひきずりこむ。
 まあ、それはそれでいいのかもしれないが、私は、わけのわからない世界に迷うのも楽しいと思うのだ。正しく導かれると、正しい人間になれるのかもしれない。正しい世界を生きることができるのかもしれない。でも、ときには正しくないことのしてみたくない?思いっきり罵倒されるようなことをしながら「へん、お前、これができずに悔しいんだろう」なんて、言ってみたくない?

薔薇よ
私は何時も思っていた
私の薔薇を美しく咲かせたい
しかし薔薇よ
私の内に籠もって現れないことばのように
私の薔薇は一向に
咲く気配さえもないのだ
薔薇よ
私はお前の中の何ものかを
おそらく忘れているのに違いない
                                 (「薔薇」)

 進は、「お前の中の何ものか」を「美」と考えているのかもしれない。絶対的な美につながる思想と考えているのかもしれない。たとえば、旧約聖書に書かれているような確立されたことば、意味と考えているのかもしれない。それを見つけ出した時(思い出す、というより見つけ出す時だと思う)、ことばは進の内から現れて薔薇のように開く--そういうことを夢見ているのかもしれない。
 それは「理想」かもしれない。
 けれど、私は逆に、何か間違ったもの、正しくないものが、ことばとなってあふれだす時、そこに薔薇が開くのではないかな、とも思うのだ。薔薇。比喩としての薔薇。比喩--というのは、別なことばで言えば、それ自体ではないもの、間違ったもの、間違いの形でしかあらわれることのできない真実である。言い換えると、薔薇は人間でも思想でもない。間違ったものである。だから、思想よりも美しい。そして、人間を迷わせる。--そういうことが起きるのが人間の世界だと思う。
 そういうふうにことばが動いていけば楽しいと思うのだが、進のことばは、それとは正反対の方向へ、間違いを切り捨てながら正しいものへと進んでいく。そういう歩みを確立することが進の詩なのだ、と感じる。
 しかし、それではあまりにも抽象的過ぎる。何か、とてもつらい気持ちになる。

 詩集のなかでは「果てない隧道」が印象に残った。この詩では「光」ではなく「闇」が書かれている。そして、その「闇」には抽象的な意味ももちろんあるが、とても具体的である。そのために、不思議に安心して読むことができたのだ。進に叱られて(?)いる気がしなかったのだ。ほかの詩では、なんだか人生を改めなさい、と叱られているような気がしてくるのだ。

突然の異変に 私は気づいたのだ
瞬時にして 対向車が完全に姿を消し
同時に 対向車線もなくなってしまって
自分の居る一方通行車線のみになっていた
と思う間に 先行車も消えてしまっていて
引き返した方がいいしも知れぬと思うと
忽ち 後方が閉ざされたように闇になった

 これは、進には申し訳ないが、いいなあ、と思う。この恐怖。いやだけれど、味わってみたい。トンネルに入って、前から車が来なくなったと思ったら、前から来なくなっただけではなく、後ろが闇に消えている。だからこそ、車は来ないのだ、と気づく。そして、後ろが闇に消えているなら、前だって闇に閉ざされているはずである。

私は前方の微かな明かりを頼りに 車を進める
しかし 行けども行けども 出口は現われない
私は永劫無限隧道の中に 閉じ込められたのかも知れぬ
何れにせよ 前へ前へ進むより方法はない 私は覚悟を決める
私は何時しか これがこの世のことなのだと 思い知らされる

 「前方の微かな明かり」「永劫」というようなことばがなければもっといいなあ、と思う。闇のなかでは「前方」なんて、ない。「明かり」があるとき、それが「前方」なってしまう。そうすると、その瞬間から「この世」ではなくなる。それが残念だけれど1行目から7行目までは、とても好きだなあ。


香しい島々―進一男詩集
進 一男
沖積舎
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ミヒャエル・ハネケ監督「白いリボン」(★★★★★×5)

2011-03-03 23:57:29 | 映画
監督ミヒャエル・ハネケ出演クリスティアン・フリーデル、レオニー・ベネシュ、ウルトリッヒ・トゥクール

 とても怖い映画である。怖い、と書いてしまうのが怖いくらい怖い。映像はあくまでも端正で構図が揺るぎがない。光はあくまで透明に輝き、闇はあくまで暗い。嘘がないのである。
 いろいろ怖いシーンがあるが、象徴的なのは牧師の少年が牧師(父)に問い詰められるシーンである。牧師は少年が元気がないのを問い詰める。「何か反省することはないか」。牧師は少年がオナニーにふけっているため、元気がないことと知っている。そして、そのことを直接言わずに、ある少年の話をする。その話を聞いて少年は顔を赤らめ(牧師が指摘する)、涙も流すが、「何もしていない」と反論する。もちろん嘘である。それも見抜かれていることを知っていて言う嘘である。牧師は牧師で、少年が嘘をついていることがわかっているが、それ以上の答えは求めない。そのかわり、寝るときに少年の手をベッド脇にしばりつける。オナニーができないように、である。
 ここに端的にあらわれた人間の関係。それが全編にあふれている。みんな他人のやっていることを知っている。秘密を知っている。しかもその秘密は「本能」なのである。誰もがやっていることなのである。
 誰かをねたむこと、恨むこと、憎むこと、傷つけること――そういう、オナニーとおなじように「してはいけない」ことは、オナニーとおなじように「しないではいられない」ことなのである。誰もが「してはいけない」、けれど「してしまう(しないではいられない)」ことをして、それを隠している。「していない」という。嘘をつく。そういう嘘に気づかない人間はいない。そして、そういうことに気づいても、人はその嘘を徹底的にあばこうとはしない。そんなことをすれば、自分自身の嘘があばかれる。面倒なことになる。
 そして、この嘘、嫉妬、憎悪、暴力は、「こども」を突き動かす。牧師は少年に「純真(純心)」の象徴である「白いリボン」をつけさせるが、逆説的な言い方になるが、こどもたちは純真ゆえに、嘘、嫉妬、憎悪、暴力、そしてセックスに染まる。防ぐ方法、それらから自分を守る方法を知らない。自分に襲いかかってくる性の暴力から自分を守る方法など、もちろん知らない。
 それらから自分を守る方法はただひとつ。そういう「悪」に染まることである。「悪」に染まって見せないと「仲間外れ」にされる。おとなはこどもに純真をもとめる。けれど純真を守れば、こどもはこどもから除外される。また、おとなの暴力もこどもはただ受け入れる。拒んだとき、次に何が起きるかわからないから、ただ受け入れ、そうすることで嘘、嫉妬、憎悪、暴力を自分の肉体のなかにためこむ。嘘、嫉妬、憎悪、暴力は肉体の思想になる。
 「悪」に耐えられないこどもは、「悪」を「夢」(悪夢)として語る。それはこどもの悲鳴である。不思議なことに、おとなはこどもの嘘を見抜いても、「悪夢」のなかの「悪」にはなかなか気がつかない。「夢をみたんだね、夢だから気にしなくていいよ」と言ってしまったりする。

 それにしても美しい映画である。完璧に美しい。それは、誰もが見たことのあるものである。見てきたものが純化、純粋化された形でスクリーンに定着している。美しすぎて、信じられないくらいだが、きっとそれは、嘘、嫉妬、憎悪、暴力さえも、完璧に純粋化されているからである。
 映画の時代は第一次大戦前、舞台はヨーロッパの敬虔な村だが、そこで起きていることは、どこでも起きている。都会でも、会社でも、家庭でも。白いリボン(純真、無実)を求めるこころがあるところなら、いつでも起きるおとなのだ。矛盾した言い方になるが、白いリボンを要求するものがあるとき、黒い悪が野獣のように動くのである。悪に対抗するものが白ではなく、白に対抗して動くのが黒、悪なのである。その不思議な拮抗が、この映画の「モノクロ」の輝きそのものになっている。
 この映画を批評して「古典になっている」ということばがあったが、「古典」というようり、私の感覚では「神話」である。あらゆるシーンが絶対的に美しく、超越的である。
                        (3 月2 日、KBCシネマで)




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誰も書かなかった西脇順三郎(189 )

2011-03-03 12:47:55 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『宝石の眠り』のつづき。「坂」は前半と後半で、ことばの調子が変わってしまう。

崖のくぼみに
群がるとげのある
タラノ木に白い花が
つき出る頃
没落した酒屋の前の
細い坂を下つて行く
ジュピテルにみはなされて
植物にさせられた神々の
藪の腐つた臭いは
強烈に脳髄を刺激する
神経組織に秘む
永遠は透明な
せんりつを起す

 4行目の「つき出る」に驚く。花が咲く--それを花が枝から「つき出る」。それは突き破って出てくるということだろう。「咲く」も動詞なのだが、「つき出る」は「咲く」より激しい。過激だ。
 興味深いのは「ジュピテルにみはなされて/植物にさせられた神々の」という2行である。西脇の詩には「植物」がとてもたくさん出てくる。それも、この詩に出てくる「タラノ木」のように、どちらかといえば素朴な、観賞向きのものではないものが多い。それぞれの土地で深津根付いているものが多い。そういう「植物」に対して「ジュピテルにみはなされた」という修飾節を西脇はつけている。植物はジュピターに見放されている? それが事実かどうか(神話でそう書かれているのか?)、私は知らないが、まあ、それはどっちでもいいんだろうなあ。私がおもしろいと思うのは、その「ははなされている」という否定的なことばからはじまる不思議な運動(ことばの変化)である。
 みはなされて→腐る→強烈な臭い。それが脳髄を刺激する。そして、永遠が「せんりつ(戦慄?)」を起こす。その運動のなかで「腐る(臭い)」と「永遠」が出会う。「腐る(臭い)」には否定的なニュアンスがある。「見放されて」と通い合うものがある。それが「永遠」を浮かび上がらせる。「永遠」を「戦慄」として浮かび上がらせる。
 そのことばの出会い、「矛盾」したことばが出会い、輝く--その瞬間がとても美しい。私が見たものは、「腐る(臭い)」なのか「永遠」なのか、わからなくなる。この「わからない」という瞬間が、私は好きなのである。
 また、「ジュピテル」ということばからはじまる不思議な音の響きあいも、とても気持ちよく感じられる。「ジュピテル」「植物」「強烈」。「ジュピテル」という日本語ではない音が、前半のことばの「和ことば」を破って、「漢語」を引き出すのだ。「漢語」が連鎖して「脳髄」「刺激」「神経」ということばを引き出す。そこにも音の響きあいがある。のう「ず」い、し「げ」き、の濁音の呼び掛け合い。「し」げき、「し」んけい、の頭韻。その影響を受けながら「永遠」と「透明」が別の音楽を響かせる。「えーえん」「とーめー」。「漢語」のなかにある、その「音引き」の共鳴。「せんりつ(戦慄)」は「「旋律(音楽)」のなかで、忘れられないものになる。
 あ、これは「誤読」だね。強引な、ことばの分解だね。
 でも、「意味」とは無関係に、そういうことを私は感じてしまうのだ。





西脇順三郎コレクション〈第3巻〉翻訳詩集―ヂオイス詩集 荒地/四つの四重奏曲(エリオット)・詩集(マラルメ)
クリエーター情報なし
慶應義塾大学出版会



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ジョナサン・モストウ監督「サロゲート」(★)

2011-03-03 00:00:00 | 映画

監督 ジョナサン・モストウ 出演 ブルース・ウィリス

 ああ、なんでこの映画を見てしまったんだろう。いや、理由は簡単なんですねえ。ほんとうは「アバター」を見たい。けれど、目への負担を考えると3D映画、しかも早い動きのあるものは無理。でも、アンチ・リアルな世界を見たい。動きはもったりしていた方がいい--と思っていたら1本だけ、それらしき映画があった。「サロゲート」。
 まあ、予想はついていたんだけれど。
 だって、映画がはじまる前、予告編がはじまる前から、私は寝てしまっていた。(笑い)
 ああ、そのまま眠っていたかった。でも、隣のひとに「はじまるよ」と起こされてしまった。
 
 強いて見どころをあげると。
 ブルース・ウィリスの「サロゲート」は皺を消して、のっぺらぼう。とても気持ちが悪い。禿げ頭にも何やらのっぺりした金髪がのっかっていて、それもまたまた気持ちが悪い。
 ブルース・ウィリスって、禿げてて、皺があって、ようするに「疲れがたまった男」の表情をしていて、そのくせ「子守」をしてしまうというのが味だったんだなあ、とそういうことを思い出してしまう。
 「子守が似合う」というのはもしかしたら、世界共通の認識なのか。この映画でも「子供」に対する意識、愛情というのがとても重要な要素になっている。それがなかったら、たぶん、この映画自体成り立たない。
 変な感想だけれど、まあ、それがブルース・ウィリス何だろうなあ。

 見に行ってはいけません。お金の無駄遣いです。ほんとうに。



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