進一男『かつて光があった』(本多企画、2011年02月01日発行)
進一男『かつて光があった』はタイトルは旧約聖書からとられている。詩集の最初に「神は、光を、よしと思い、光を闇と分けられた。」が掲げられている。私は宗教のことはわからない。だから、宗教については書かない。そして、宗教のことを除外して考えるとき(除外しなくても同じになるかもしれないが)、気づくことがある。進の詩は、「ことば」からはじまる、ということである。そこに「ことば」がある。そこから出発する。
だれかが(神、かもしれない)、ことばを、よしと思い、ことばをことば以外のものと分けられた--ということばが、誘われるようにして思い浮かんだ。
「ことば以外のもの」と、あいまいに書いたのは、それが進の場合、「もの(実在)」を指してはいないように感じられるからである。
先に書いた文章の「主語」を「進」にすると、それは次のようにして動いていく。
進は、ことばを、よしと思い、そのことばをそれ以外のことばと分けられた。進は詩のことば(文学のことば)を、よしと思い、詩のことば(文学のことば)をそれ以外のことばと分けた。そして、詩のことば(文学のことば)を動かして、詩をつくる(文学をつくる)。それは世界を、詩(文学)の世界と詩(文学)以外の世界に分けることである。そして、このときの詩(文学)以外の世界というのは「もの」のことではなく、あくまでことばの領域のことである。
なんだか面倒くさいことを書きはじめた感じがするが、簡単に言いなおすと、進は、詩(あるいは文学)のことばを踏まえながら詩をつくる、文学をつくる。詩、あるいは文学として「認定」された作品がある。たとえば旧約聖書。それは詩、文学ではなく「宗教」かもしれないが、いずれにしろ、そのことばは特別なことばである。正しい(?)ことばであると認められていることばである。単語だけではなく、そこに書かれている「文体」も正しいものである。日常のあやふやなことば、文体ではなく、人間を導き育てることばである。進は、そういうことばを、ことばそのもののなからか学び、吸収し、そのことばを組み立て直すことで、自分のことばを確立する。そういうことをしていると思う。
進が向き合っている「現実」は、私には、なにやら「ことばの現実」でしかないように思えるのだ。「もの」と向き合って、「もの」と闘いながらことばを動かしているのではなく、いろいろなことばと向き合って、そのことばを動かしているだけのように見えるのだ。
この詩集では旧約聖書のことばと向き合い、そのことばと結びつけることができることばを探しながら、ことばを組み立てているように思えるのだ。「もの」が入り込み、ことばをひっかきまわすことはない。「もの」の抵抗にあい、ことばが行き詰まるということもない。
巻頭の「初めの時」とは誕生の瞬間のことだろうか。
ここからは、どんな「もの」も引き出すことができない。ただ「光」ということばだけしか存在しない。それも進が見た「現実の光」というよりは、「光の意味」だけがここにしるように思われる。
進は、「意味の確立したことば」をよしと思い、「意味の確立したことば」を「意味の確立していないことば」と分けられた(分けた)。「意味の確立したことば」は「光」とはなってひとを導く。「意味の確立していないことば」は「やみ」となってひとをわけのわからない世界にひきずりこむ。
まあ、それはそれでいいのかもしれないが、私は、わけのわからない世界に迷うのも楽しいと思うのだ。正しく導かれると、正しい人間になれるのかもしれない。正しい世界を生きることができるのかもしれない。でも、ときには正しくないことのしてみたくない?思いっきり罵倒されるようなことをしながら「へん、お前、これができずに悔しいんだろう」なんて、言ってみたくない?
進は、「お前の中の何ものか」を「美」と考えているのかもしれない。絶対的な美につながる思想と考えているのかもしれない。たとえば、旧約聖書に書かれているような確立されたことば、意味と考えているのかもしれない。それを見つけ出した時(思い出す、というより見つけ出す時だと思う)、ことばは進の内から現れて薔薇のように開く--そういうことを夢見ているのかもしれない。
それは「理想」かもしれない。
けれど、私は逆に、何か間違ったもの、正しくないものが、ことばとなってあふれだす時、そこに薔薇が開くのではないかな、とも思うのだ。薔薇。比喩としての薔薇。比喩--というのは、別なことばで言えば、それ自体ではないもの、間違ったもの、間違いの形でしかあらわれることのできない真実である。言い換えると、薔薇は人間でも思想でもない。間違ったものである。だから、思想よりも美しい。そして、人間を迷わせる。--そういうことが起きるのが人間の世界だと思う。
そういうふうにことばが動いていけば楽しいと思うのだが、進のことばは、それとは正反対の方向へ、間違いを切り捨てながら正しいものへと進んでいく。そういう歩みを確立することが進の詩なのだ、と感じる。
しかし、それではあまりにも抽象的過ぎる。何か、とてもつらい気持ちになる。
詩集のなかでは「果てない隧道」が印象に残った。この詩では「光」ではなく「闇」が書かれている。そして、その「闇」には抽象的な意味ももちろんあるが、とても具体的である。そのために、不思議に安心して読むことができたのだ。進に叱られて(?)いる気がしなかったのだ。ほかの詩では、なんだか人生を改めなさい、と叱られているような気がしてくるのだ。
これは、進には申し訳ないが、いいなあ、と思う。この恐怖。いやだけれど、味わってみたい。トンネルに入って、前から車が来なくなったと思ったら、前から来なくなっただけではなく、後ろが闇に消えている。だからこそ、車は来ないのだ、と気づく。そして、後ろが闇に消えているなら、前だって闇に閉ざされているはずである。
「前方の微かな明かり」「永劫」というようなことばがなければもっといいなあ、と思う。闇のなかでは「前方」なんて、ない。「明かり」があるとき、それが「前方」なってしまう。そうすると、その瞬間から「この世」ではなくなる。それが残念だけれど1行目から7行目までは、とても好きだなあ。
進一男『かつて光があった』はタイトルは旧約聖書からとられている。詩集の最初に「神は、光を、よしと思い、光を闇と分けられた。」が掲げられている。私は宗教のことはわからない。だから、宗教については書かない。そして、宗教のことを除外して考えるとき(除外しなくても同じになるかもしれないが)、気づくことがある。進の詩は、「ことば」からはじまる、ということである。そこに「ことば」がある。そこから出発する。
だれかが(神、かもしれない)、ことばを、よしと思い、ことばをことば以外のものと分けられた--ということばが、誘われるようにして思い浮かんだ。
「ことば以外のもの」と、あいまいに書いたのは、それが進の場合、「もの(実在)」を指してはいないように感じられるからである。
先に書いた文章の「主語」を「進」にすると、それは次のようにして動いていく。
進は、ことばを、よしと思い、そのことばをそれ以外のことばと分けられた。進は詩のことば(文学のことば)を、よしと思い、詩のことば(文学のことば)をそれ以外のことばと分けた。そして、詩のことば(文学のことば)を動かして、詩をつくる(文学をつくる)。それは世界を、詩(文学)の世界と詩(文学)以外の世界に分けることである。そして、このときの詩(文学)以外の世界というのは「もの」のことではなく、あくまでことばの領域のことである。
なんだか面倒くさいことを書きはじめた感じがするが、簡単に言いなおすと、進は、詩(あるいは文学)のことばを踏まえながら詩をつくる、文学をつくる。詩、あるいは文学として「認定」された作品がある。たとえば旧約聖書。それは詩、文学ではなく「宗教」かもしれないが、いずれにしろ、そのことばは特別なことばである。正しい(?)ことばであると認められていることばである。単語だけではなく、そこに書かれている「文体」も正しいものである。日常のあやふやなことば、文体ではなく、人間を導き育てることばである。進は、そういうことばを、ことばそのもののなからか学び、吸収し、そのことばを組み立て直すことで、自分のことばを確立する。そういうことをしていると思う。
進が向き合っている「現実」は、私には、なにやら「ことばの現実」でしかないように思えるのだ。「もの」と向き合って、「もの」と闘いながらことばを動かしているのではなく、いろいろなことばと向き合って、そのことばを動かしているだけのように見えるのだ。
この詩集では旧約聖書のことばと向き合い、そのことばと結びつけることができることばを探しながら、ことばを組み立てているように思えるのだ。「もの」が入り込み、ことばをひっかきまわすことはない。「もの」の抵抗にあい、ことばが行き詰まるということもない。
巻頭の「初めの時」とは誕生の瞬間のことだろうか。
初めて大きく目を開いて
最初に私が見たのは 光
それは確かに光であったと私には思われる
何と輝かしい光の中に私は在ることか
私がそこに在るこの世界が
このようにまで美しいものだとは
私は思い切り手足を伸ばし動かして
どれほどまでに私の生を喜んだことか
そのように私には思われた
ここからは、どんな「もの」も引き出すことができない。ただ「光」ということばだけしか存在しない。それも進が見た「現実の光」というよりは、「光の意味」だけがここにしるように思われる。
進は、「意味の確立したことば」をよしと思い、「意味の確立したことば」を「意味の確立していないことば」と分けられた(分けた)。「意味の確立したことば」は「光」とはなってひとを導く。「意味の確立していないことば」は「やみ」となってひとをわけのわからない世界にひきずりこむ。
まあ、それはそれでいいのかもしれないが、私は、わけのわからない世界に迷うのも楽しいと思うのだ。正しく導かれると、正しい人間になれるのかもしれない。正しい世界を生きることができるのかもしれない。でも、ときには正しくないことのしてみたくない?思いっきり罵倒されるようなことをしながら「へん、お前、これができずに悔しいんだろう」なんて、言ってみたくない?
薔薇よ
私は何時も思っていた
私の薔薇を美しく咲かせたい
しかし薔薇よ
私の内に籠もって現れないことばのように
私の薔薇は一向に
咲く気配さえもないのだ
薔薇よ
私はお前の中の何ものかを
おそらく忘れているのに違いない
(「薔薇」)
進は、「お前の中の何ものか」を「美」と考えているのかもしれない。絶対的な美につながる思想と考えているのかもしれない。たとえば、旧約聖書に書かれているような確立されたことば、意味と考えているのかもしれない。それを見つけ出した時(思い出す、というより見つけ出す時だと思う)、ことばは進の内から現れて薔薇のように開く--そういうことを夢見ているのかもしれない。
それは「理想」かもしれない。
けれど、私は逆に、何か間違ったもの、正しくないものが、ことばとなってあふれだす時、そこに薔薇が開くのではないかな、とも思うのだ。薔薇。比喩としての薔薇。比喩--というのは、別なことばで言えば、それ自体ではないもの、間違ったもの、間違いの形でしかあらわれることのできない真実である。言い換えると、薔薇は人間でも思想でもない。間違ったものである。だから、思想よりも美しい。そして、人間を迷わせる。--そういうことが起きるのが人間の世界だと思う。
そういうふうにことばが動いていけば楽しいと思うのだが、進のことばは、それとは正反対の方向へ、間違いを切り捨てながら正しいものへと進んでいく。そういう歩みを確立することが進の詩なのだ、と感じる。
しかし、それではあまりにも抽象的過ぎる。何か、とてもつらい気持ちになる。
詩集のなかでは「果てない隧道」が印象に残った。この詩では「光」ではなく「闇」が書かれている。そして、その「闇」には抽象的な意味ももちろんあるが、とても具体的である。そのために、不思議に安心して読むことができたのだ。進に叱られて(?)いる気がしなかったのだ。ほかの詩では、なんだか人生を改めなさい、と叱られているような気がしてくるのだ。
突然の異変に 私は気づいたのだ
瞬時にして 対向車が完全に姿を消し
同時に 対向車線もなくなってしまって
自分の居る一方通行車線のみになっていた
と思う間に 先行車も消えてしまっていて
引き返した方がいいしも知れぬと思うと
忽ち 後方が閉ざされたように闇になった
これは、進には申し訳ないが、いいなあ、と思う。この恐怖。いやだけれど、味わってみたい。トンネルに入って、前から車が来なくなったと思ったら、前から来なくなっただけではなく、後ろが闇に消えている。だからこそ、車は来ないのだ、と気づく。そして、後ろが闇に消えているなら、前だって闇に閉ざされているはずである。
私は前方の微かな明かりを頼りに 車を進める
しかし 行けども行けども 出口は現われない
私は永劫無限隧道の中に 閉じ込められたのかも知れぬ
何れにせよ 前へ前へ進むより方法はない 私は覚悟を決める
私は何時しか これがこの世のことなのだと 思い知らされる
「前方の微かな明かり」「永劫」というようなことばがなければもっといいなあ、と思う。闇のなかでは「前方」なんて、ない。「明かり」があるとき、それが「前方」なってしまう。そうすると、その瞬間から「この世」ではなくなる。それが残念だけれど1行目から7行目までは、とても好きだなあ。
香しい島々―進一男詩集 | |
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