拾柴「くちなし」(松浦恒雄訳)ほか(「現代詩手帖」2011年03月号)
「現代詩手帖」03月号は東アジアの詩を特集している。中国、韓国、台湾の詩人の作品が紹介されている。
拾柴「くちなし」(松浦恒雄訳)が特集の最初の作品である。わざわざこんなことを書いたのは、実は、私はこの作品につまずいて、ほかの作品を読む気力がなくなったからである。
ここに書かれている「くちなし」は私の知っているくちなしと同じ花であるかどうかわからない。私の知っているくちなしは「春」というより、梅雨ごろ(6月か7月ごろかなあ)に咲くからである。
それは、まあ、別にして、私は「日本語」につまずいたのである。私は中国語が読めないし、この作品の原文を知らないのだが……。
2行目。「襲来する」。「しゅうらいする」。このことばの「音」が、前に書かれていることばの「音」とつながらない。「意味」はわかるが、「しゅうらいする」という音に私は身構えてしまう。肉体がついていけない。
4行目。「暗香」。「あんこう」だろうなあ。(ためしに広辞苑をひいてみたら、「あんこう、暗香。どこからともなく漂ってくるかおり。闇のなかに漂う花の香、とある。)これも「意味」はわかる。「意味」だけではなく「ニュアンス」も、それなりにわかる。けれど、音についていけない。「あんこう」なんて、私は口にしたことがないし、聞いたことがない。「文字」で読んだからわかるのであって、聞いても絶対にわからない。こうやって、広辞苑で意味を調べたあとでも「あんこう」と聞いて「暗香」という「文字」は思い浮かばないだろう。
私は松浦恒雄の訳が嫌いなのかもしれない。苦手を通り越して、きっと嫌いなのだと思う。
捨柴が中国語の詩で「襲来」「暗香」という文字をつかっているのかもしれない。けれど、中国語で(漢字で)、「襲来」「暗香」と書いたからといって、それがそのまま「日本語」になるとは私には思えない。「文字」は正確につたえているのかもしれないけれど、だいたい同じ漢字であっても中国語と日本語では読み方(音)が違うのだから、同じ文字をもってくれば正確とは言えないだろう。ことばは、文字であるよりも、まず音なのだから。
それに、「襲来」が中国でどういう「意味」をもっているのか知らないが、花の香(それも、どこからともなく漂ってくる香)が、「襲いかかってくる」というのは、どうにも変である。襲来を襲いかかってくる、という意味だと私は感じている。「どこからともなく」に力点をおけば、そのふいの感じ、防ぎようがない感じは、襲いかかってくるととれないこともないけれど、うーん、襲いかかるとしたら「漂う」香ではなく、強烈な悪臭だろうなあ。
松浦恒雄の訳は、どうも、このことばの次にはこのことばという、常識(?)の脈絡からかけ離れている。そして、そのかけ離れたものを、原文の「漢字」を根拠に押しつけてくる。「文字」を押しつけてくる。
どうにも気持ちが悪い。漢字とひらがなのバランスに、私は納得ができない。
趙●「半球」(佐藤普美子訳)。(●は「日」偏に、「斤」)
その1連目。
ここに書かれている「音」はとても美しい。中国語の原文は知らないが、ここに書かれている日本語の音は美しいし、その音が日本語からはみだして大陸風(と私は中国を勝手に想像しているのだが)に広がっていくのが楽しい。日本語は(日本語の音は)、こういう発想をしない、というところへことばが動いていくのが楽しい。
「それらの河」「それらの魚」「それらの鱗」--この「複数形」のあり方が日本語の音としてとても自然である。「それらの河々」「それらの魚々」「それらの鱗々」ではない。「それら」のなかに複数があり、それを受ける「名詞」は単数のままである。(中国語も同じ? それとも違う?)この複数と単数の組み合わせから、単数そのものが「普遍」の存在へとつながっていく。そして、その普遍が「河よ河」「魚よ魚」という繰り返しとなって響く。そのとき、その「河よ河」「魚よ魚」のなかに一本の河、一匹の魚ではなく、いままで私がみてきた「すべての河」「すべての魚」が流れ、動く。あ、すごい。中国大陸そのものが見える--という感じ。
「それらの」という「音」。その滑らかで、広がりをもった音が、たぶんこの詩を美しく、広大なものにしているのだ。少なくとも、私の「肉体」の何かと呼応して、楽しい気持ちにさせるのだ。
1連目だけにかぎらないのだが、この詩には「繰り返し」が多い。「音」が何度も繰り返される。「意味」が繰り返されるというより「音」が繰り返される。ことばが繰り返されるというより「音」が繰り返される。
そして、「音」が変化していく。「名詞」が変化していくのではなく、「名詞」はなんでもいいのだ、「意味」はなんでもいいのだ、「音」そのものが変化していって、そこに自然と、音が単独で存在しているときとは違った「意味」が浮かび上がってくる。
それは「論理」ではなく、音楽の「和音」のようなものである。「音」が繰り返される、少しずつ「音」を変えながら繰り返される--その果てに、単独の「音」ではもちえなかった「和音」が響いてくる。
あ、これは快感だなあ。
中国語の詩もいいのだろうけれど、きっと佐藤の訳もいいのだ。佐藤はちゃんと日本語の「音」を知っていて(肉体のなかに音をもっていて)、その音を「訳」として書き留めているのだと思う。
「現代詩手帖」03月号は東アジアの詩を特集している。中国、韓国、台湾の詩人の作品が紹介されている。
拾柴「くちなし」(松浦恒雄訳)が特集の最初の作品である。わざわざこんなことを書いたのは、実は、私はこの作品につまずいて、ほかの作品を読む気力がなくなったからである。
路地口。黒い石を畳んだ小径に
襲来する。くらなしの
初々しい
暗香。老婦人の手のひらに
純白のたおやかさが包まれている
陽を浴び
はらりとほつれた白い髪が
くちなしよりも目にまぶしい
この朝
老婦人は誰よりも早く
春の先っぽを摘み取った
ここに書かれている「くちなし」は私の知っているくちなしと同じ花であるかどうかわからない。私の知っているくちなしは「春」というより、梅雨ごろ(6月か7月ごろかなあ)に咲くからである。
それは、まあ、別にして、私は「日本語」につまずいたのである。私は中国語が読めないし、この作品の原文を知らないのだが……。
2行目。「襲来する」。「しゅうらいする」。このことばの「音」が、前に書かれていることばの「音」とつながらない。「意味」はわかるが、「しゅうらいする」という音に私は身構えてしまう。肉体がついていけない。
4行目。「暗香」。「あんこう」だろうなあ。(ためしに広辞苑をひいてみたら、「あんこう、暗香。どこからともなく漂ってくるかおり。闇のなかに漂う花の香、とある。)これも「意味」はわかる。「意味」だけではなく「ニュアンス」も、それなりにわかる。けれど、音についていけない。「あんこう」なんて、私は口にしたことがないし、聞いたことがない。「文字」で読んだからわかるのであって、聞いても絶対にわからない。こうやって、広辞苑で意味を調べたあとでも「あんこう」と聞いて「暗香」という「文字」は思い浮かばないだろう。
私は松浦恒雄の訳が嫌いなのかもしれない。苦手を通り越して、きっと嫌いなのだと思う。
捨柴が中国語の詩で「襲来」「暗香」という文字をつかっているのかもしれない。けれど、中国語で(漢字で)、「襲来」「暗香」と書いたからといって、それがそのまま「日本語」になるとは私には思えない。「文字」は正確につたえているのかもしれないけれど、だいたい同じ漢字であっても中国語と日本語では読み方(音)が違うのだから、同じ文字をもってくれば正確とは言えないだろう。ことばは、文字であるよりも、まず音なのだから。
それに、「襲来」が中国でどういう「意味」をもっているのか知らないが、花の香(それも、どこからともなく漂ってくる香)が、「襲いかかってくる」というのは、どうにも変である。襲来を襲いかかってくる、という意味だと私は感じている。「どこからともなく」に力点をおけば、そのふいの感じ、防ぎようがない感じは、襲いかかってくるととれないこともないけれど、うーん、襲いかかるとしたら「漂う」香ではなく、強烈な悪臭だろうなあ。
松浦恒雄の訳は、どうも、このことばの次にはこのことばという、常識(?)の脈絡からかけ離れている。そして、そのかけ離れたものを、原文の「漢字」を根拠に押しつけてくる。「文字」を押しつけてくる。
どうにも気持ちが悪い。漢字とひらがなのバランスに、私は納得ができない。
趙●「半球」(佐藤普美子訳)。(●は「日」偏に、「斤」)
その1連目。
北半球は、河を何本持てるのか?
それらの河は、魚を何匹持てるのか?
それらの魚は、鱗を何枚持てるのか?
それらの鱗は、北半球を何分煌めかせられるのか?
河よ河、おまえは魚におしえたかい?
魚よ魚、おまえは私が鱗に問うているのを知っているかい?
ここに書かれている「音」はとても美しい。中国語の原文は知らないが、ここに書かれている日本語の音は美しいし、その音が日本語からはみだして大陸風(と私は中国を勝手に想像しているのだが)に広がっていくのが楽しい。日本語は(日本語の音は)、こういう発想をしない、というところへことばが動いていくのが楽しい。
「それらの河」「それらの魚」「それらの鱗」--この「複数形」のあり方が日本語の音としてとても自然である。「それらの河々」「それらの魚々」「それらの鱗々」ではない。「それら」のなかに複数があり、それを受ける「名詞」は単数のままである。(中国語も同じ? それとも違う?)この複数と単数の組み合わせから、単数そのものが「普遍」の存在へとつながっていく。そして、その普遍が「河よ河」「魚よ魚」という繰り返しとなって響く。そのとき、その「河よ河」「魚よ魚」のなかに一本の河、一匹の魚ではなく、いままで私がみてきた「すべての河」「すべての魚」が流れ、動く。あ、すごい。中国大陸そのものが見える--という感じ。
「それらの」という「音」。その滑らかで、広がりをもった音が、たぶんこの詩を美しく、広大なものにしているのだ。少なくとも、私の「肉体」の何かと呼応して、楽しい気持ちにさせるのだ。
1連目だけにかぎらないのだが、この詩には「繰り返し」が多い。「音」が何度も繰り返される。「意味」が繰り返されるというより「音」が繰り返される。ことばが繰り返されるというより「音」が繰り返される。
そして、「音」が変化していく。「名詞」が変化していくのではなく、「名詞」はなんでもいいのだ、「意味」はなんでもいいのだ、「音」そのものが変化していって、そこに自然と、音が単独で存在しているときとは違った「意味」が浮かび上がってくる。
それは「論理」ではなく、音楽の「和音」のようなものである。「音」が繰り返される、少しずつ「音」を変えながら繰り返される--その果てに、単独の「音」ではもちえなかった「和音」が響いてくる。
あ、これは快感だなあ。
中国語の詩もいいのだろうけれど、きっと佐藤の訳もいいのだ。佐藤はちゃんと日本語の「音」を知っていて(肉体のなかに音をもっていて)、その音を「訳」として書き留めているのだと思う。
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