詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

拾柴「くちなし」(松浦恒雄訳)ほか

2011-03-30 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
拾柴「くちなし」(松浦恒雄訳)ほか(「現代詩手帖」2011年03月号)

 「現代詩手帖」03月号は東アジアの詩を特集している。中国、韓国、台湾の詩人の作品が紹介されている。
 拾柴「くちなし」(松浦恒雄訳)が特集の最初の作品である。わざわざこんなことを書いたのは、実は、私はこの作品につまずいて、ほかの作品を読む気力がなくなったからである。

路地口。黒い石を畳んだ小径に
襲来する。くらなしの
初々しい
暗香。老婦人の手のひらに
純白のたおやかさが包まれている
陽を浴び
はらりとほつれた白い髪が
くちなしよりも目にまぶしい
この朝
老婦人は誰よりも早く
春の先っぽを摘み取った

 ここに書かれている「くちなし」は私の知っているくちなしと同じ花であるかどうかわからない。私の知っているくちなしは「春」というより、梅雨ごろ(6月か7月ごろかなあ)に咲くからである。
 それは、まあ、別にして、私は「日本語」につまずいたのである。私は中国語が読めないし、この作品の原文を知らないのだが……。
 2行目。「襲来する」。「しゅうらいする」。このことばの「音」が、前に書かれていることばの「音」とつながらない。「意味」はわかるが、「しゅうらいする」という音に私は身構えてしまう。肉体がついていけない。
 4行目。「暗香」。「あんこう」だろうなあ。(ためしに広辞苑をひいてみたら、「あんこう、暗香。どこからともなく漂ってくるかおり。闇のなかに漂う花の香、とある。)これも「意味」はわかる。「意味」だけではなく「ニュアンス」も、それなりにわかる。けれど、音についていけない。「あんこう」なんて、私は口にしたことがないし、聞いたことがない。「文字」で読んだからわかるのであって、聞いても絶対にわからない。こうやって、広辞苑で意味を調べたあとでも「あんこう」と聞いて「暗香」という「文字」は思い浮かばないだろう。

 私は松浦恒雄の訳が嫌いなのかもしれない。苦手を通り越して、きっと嫌いなのだと思う。
 捨柴が中国語の詩で「襲来」「暗香」という文字をつかっているのかもしれない。けれど、中国語で(漢字で)、「襲来」「暗香」と書いたからといって、それがそのまま「日本語」になるとは私には思えない。「文字」は正確につたえているのかもしれないけれど、だいたい同じ漢字であっても中国語と日本語では読み方(音)が違うのだから、同じ文字をもってくれば正確とは言えないだろう。ことばは、文字であるよりも、まず音なのだから。
 それに、「襲来」が中国でどういう「意味」をもっているのか知らないが、花の香(それも、どこからともなく漂ってくる香)が、「襲いかかってくる」というのは、どうにも変である。襲来を襲いかかってくる、という意味だと私は感じている。「どこからともなく」に力点をおけば、そのふいの感じ、防ぎようがない感じは、襲いかかってくるととれないこともないけれど、うーん、襲いかかるとしたら「漂う」香ではなく、強烈な悪臭だろうなあ。
 松浦恒雄の訳は、どうも、このことばの次にはこのことばという、常識(?)の脈絡からかけ離れている。そして、そのかけ離れたものを、原文の「漢字」を根拠に押しつけてくる。「文字」を押しつけてくる。
 どうにも気持ちが悪い。漢字とひらがなのバランスに、私は納得ができない。

 趙●「半球」(佐藤普美子訳)。(●は「日」偏に、「斤」)  
 その1連目。

北半球は、河を何本持てるのか?
それらの河は、魚を何匹持てるのか?
それらの魚は、鱗を何枚持てるのか?
それらの鱗は、北半球を何分煌めかせられるのか?
河よ河、おまえは魚におしえたかい?
魚よ魚、おまえは私が鱗に問うているのを知っているかい?

 ここに書かれている「音」はとても美しい。中国語の原文は知らないが、ここに書かれている日本語の音は美しいし、その音が日本語からはみだして大陸風(と私は中国を勝手に想像しているのだが)に広がっていくのが楽しい。日本語は(日本語の音は)、こういう発想をしない、というところへことばが動いていくのが楽しい。
 「それらの河」「それらの魚」「それらの鱗」--この「複数形」のあり方が日本語の音としてとても自然である。「それらの河々」「それらの魚々」「それらの鱗々」ではない。「それら」のなかに複数があり、それを受ける「名詞」は単数のままである。(中国語も同じ? それとも違う?)この複数と単数の組み合わせから、単数そのものが「普遍」の存在へとつながっていく。そして、その普遍が「河よ河」「魚よ魚」という繰り返しとなって響く。そのとき、その「河よ河」「魚よ魚」のなかに一本の河、一匹の魚ではなく、いままで私がみてきた「すべての河」「すべての魚」が流れ、動く。あ、すごい。中国大陸そのものが見える--という感じ。
 「それらの」という「音」。その滑らかで、広がりをもった音が、たぶんこの詩を美しく、広大なものにしているのだ。少なくとも、私の「肉体」の何かと呼応して、楽しい気持ちにさせるのだ。
 1連目だけにかぎらないのだが、この詩には「繰り返し」が多い。「音」が何度も繰り返される。「意味」が繰り返されるというより「音」が繰り返される。ことばが繰り返されるというより「音」が繰り返される。
 そして、「音」が変化していく。「名詞」が変化していくのではなく、「名詞」はなんでもいいのだ、「意味」はなんでもいいのだ、「音」そのものが変化していって、そこに自然と、音が単独で存在しているときとは違った「意味」が浮かび上がってくる。
 それは「論理」ではなく、音楽の「和音」のようなものである。「音」が繰り返される、少しずつ「音」を変えながら繰り返される--その果てに、単独の「音」ではもちえなかった「和音」が響いてくる。
 あ、これは快感だなあ。
 中国語の詩もいいのだろうけれど、きっと佐藤の訳もいいのだ。佐藤はちゃんと日本語の「音」を知っていて(肉体のなかに音をもっていて)、その音を「訳」として書き留めているのだと思う。





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ワン・チュアンアン監督「再会の食卓」(★★★★★)

2011-03-30 21:22:04 | 映画
監督 ワン・チュアンアン 出演 リン・フォン、リサ・ルー、シュー・ツァイゲン、モニカ・モー

 前半にとてもおもしろいシーンがある。台湾から上海に帰って来た老いた元兵士。その男を歓迎する食卓で、その地区の党の委員が挨拶をする。「家族の再会」というところを「恋人の再会」と言ってしまう。間違えたのだ。「あ、間違えちゃった」という感じで笑ってしまう。出席している人たちも「あ、間違えて言っている」と気が付く。どうするんだろう、という感じでみつめる。委員は、笑いながら、「家族の再会」と言いなおして映画がつづいていく。
 アドリブ? それとも脚本どおり? いや、どうも単純なミスだと思うのだけれど、それをそのまま映画に取り込んでしまう。これがなかなかいい。アドリブでも、脚本どおりでも、こんなにうまい具合にはいかない。出演者全員が「あ、間違えている」と気づくような顔はできない。これを、そのまま映画にするんだ、と判断(決意)する一瞬の力--これは、すごいなあ。
 このシーンを見るだけのために、この映画があるといってもいい。これは、もし神様がいるとしたら、映画の神様がこの映画のためにくれたシーンである。
 なぜなら、どんなときだってひとは間違える。そして間違いを修正して人生はつづいていく。--というのが、この映画のテーマであり、このシーンはテーマそのものを象徴することになるからだ。
 もちろん歓迎の挨拶のように、あ、間違えちゃった、言いなおします--というだけではやりなおせないのが人生なのだが、笑ってやりなおすしかないのが人生でもある。そして、それはこの映画そのものでもある。この監督の「人生観(思想)」でもあるように思える。
 台湾から帰って来た男は、これまで女と連絡をとらなかったのが間違いだと気づく。いわば、恋人を取り戻しに上海に帰って来たのだ。いま、上海で家族をつくっている女と男は離婚し、元兵士といっしょに女が台湾へ行くことにいったんは同意する。しかし、上海の男が病気に倒れたために、女は男を捨てて台湾へゆくことはできないと思う。いっしょに暮らしてきた時間の重さを感じ、それを大切にしようとする。
 「間違い」に気がつき、その「間違い」だと気づいたことが「間違い」だと気づく。そんな具合に、人間のこころは動くのだけれど、人間のこころが動くとき、そこには「間違い」なんて、ない。あるのは、何を大切にしたいかと思うこころだけである。何かを大切にしたいと思うこころに「間違い」などありえない。
 「家族」というべきところを「恋人」と言ってしまうのは、それがほんとうは「家族」ではなく「恋人」の再会でもあるからだ。委員は「家族」の再会とは思っていない。名目は「家族」だが、実際は「恋人」の再会であり、「恋人」の帰還なのだ。そして、そこには「恋人」は「恋人」のもとへ帰るべきだというほんとうの願いが込められている。そういう思いがあるから台本の「家族」を「恋人」と「誤読」し、ことばにしてしまうのだ。「家族」というせりふを「恋人」と読み間違えたとき、委員(委員を演じた役者)は自分自身のこころを読み間違えてはいないのである。
 こころは読み間違えることができない、自分のこころは「誤読」できない。だから、人生は複雑になる。そして豊かになる。
 この映画は、俳優たちが、自分自身のこころの「誤読」を表現する一瞬を待つかのように長回しで撮られている。どのシーンも長い。どのシーンも、先に書いた挨拶の間違いのシーンをのぞけば、間違いはないのだが、長回しのために不思議な余裕がある。上海の風景が自然にスクリーンのなかに入ってくる。他人が入ってくる。他人の暮らしが入ってくる。それがこの映画を、とても自然な感じにしている。
 それは最後のシーンと比較すると明確になる。上海の女と男、そして姪は、古い家から高層マンションに引っ越している。豪華な食卓がある。けれど、そこには「他人」(家族)がいない。3人だけである。窓の外には上海が見えるが、それは暮らしではない。
 このシーンの前の、元兵士が上海に帰る前に挨拶する「路上の食卓」。そこには他人がいる。家族を越える他人の暮らしがある。他人のなかに吸収され、受け止められることで静かに落ち着いていくこころというものがある。長回しの映像はそういうものをやさしく取り込んでいる。
 最後のシーンも、長回しではなのだが、状況が違ってきたために、暮らしではなく「孤独」を取り込んでしまう。

 「孤独」と「誤読」は音にすれば一字違いだが、その隔たりはとてつもなく大きい。「孤独」の夢は他人に共有されない。「誤読」の夢は他人のなかでひろがり、笑いとともに生きる。「誤読」の夢は、ひとに、一種の希望を呼び起こしてくれる。

 *

 あ、映画の感想とは言えないものを書いてしまったかなあ。
 「食卓」について、少し書き加えておく。
 中国(台湾)の映画は食卓が豊かである。いつでも、とてもおいしそうである。いっしょに食べて生きる、それが人生だとだれもが思っているのだ。それが豊かな色と味になる。自分の箸で料理を取るだけでなく、自分の箸で取ったものをだれかの食器に運んでやるという「お節介」もいいなあ。お節介をしながら、生きていく。その料理を食べたいと思うのは、その料理を箸で運んだものの「誤読」である。お節介は「誤読」から成り立っている。--でも、そのお節介のおかげで、こころというものを知ることができるのだ。
 と、いうところから、この映画を語りはじめてみると、また違ったことが言えるかもしれない。
 でも、まあ、省略。
                   (2011年03月27日、福岡・ソラリアシネマ2)


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誰も書かなかった西脇順三郎(203 )

2011-03-30 14:59:09 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。「故園の情」。その1連目。

秋も去ろうとしている
この庭の隕石のさびに枯れ果てた
羊歯の中を失われた
土の記憶が沈んでいく
あのやせこけた裸の音を
牧神は唇のとがりを
船の存在に向けて吹いている

 この7行を「散文化」しようとすると、どうしていいかわからなくなる。1行目はわかる。季節のことを書いている。「秋」が主語。「去る」が述語である。ところが「この庭の」以後が難しい。次に出てくる主語は? 4行目の「土の記憶(が)」が主語? 述語は「沈んでいく」? では、それまでのことばは? 修飾節になるのかもしれない。後ろから逆に読むことになるが「失われた/土(の記憶)」「枯れ果てた/羊歯」という具合につづいているのかもしれない。
 そうだとすると。
 へたくそな文だねえ。「学校教科書」の作文なら、もっと整理して、わかりやすく、と指摘されるかもしれない。
 でも。
 この「へたくそ」な感じが、詩だなあ。
 こんなふうにぎくしゃくとは書けないなあ。私のことばは、こんな複雑な「構文」を動くことができない。
 ということは。
 私は、いま書いたような「複雑な構文」にしたがって読んでいるわけではない。
 この庭には隕石があって、その隕石のさびのせい(?)で羊歯が枯れ果てているのだけれど、その枯れ果てた羊歯のなか(茎のなか? 葉のなか? 羊歯という存在のなか?)を、失われた土(隕石によって「さび」た?土、疎外された?土)が沈んでいく。羊歯は枯れ果てながら、土のことを思っている--というふうに読んでいるわけではない。
 私はただ「音」を読んでいる。「音」はことばであるから、当然「意味」を含んでいるが、その「意味」を優先して読んでいるのではなく、ただ「音」を読んでいる。そうすると、遅れて「意味」がやってくる。
 「音」と「意味」とのあいだに「ずれ」がある。
 その「ずれ」は改行によって増幅される。「枯れ果てた/羊歯」「失われた/土(の記憶)」とひと呼吸置いて(改行を挟んで)音がつながるとき、そのつながりの奥から「意味」が駆け足でやってくる。
 それを振り払うようにして、ことばの「音」はさらに先に進む。
 「あのやせこけた裸の音を」--あ、これは「土の記憶が沈んでいく」音なんだなあ。と、思う間もなく、「牧神は」と主語が変わる。
 西脇のことばは「意味」を拒絶している。
 ことばはどうしても「意味」を持ってしまうものだから(読者は、どうしたってことばに「意味」を読みとろうとするのもだから)、どんなに飛躍したことばを書いても、そこに「意味」が出てきてしまう。そして「重く」なる。
 この「重さ」を拒みながら、西脇はことばをただ「音」に帰そうとしている。
 実際に、西脇のことばは「軽い」。「音」が軽快で気持ちがいい。
 たとえば、

 この庭の隕石のさびに枯れ果てた

 行頭の「この」は、何のことかわからない。つまり「意味」がない。「意味」をもたない。単なる「音」である。でも、とても重要である。「庭の隕石のさびに枯れ果てた」では「庭」の「意味」が重くなる。
 「この庭」と言ってしまうことで、「庭」の「意味」を軽くする。
 「この」というのは、すでにその存在が意識されていることを示している。それは、まあ、西脇にはわかっている「この」庭であるということを意味する。そして、「この」という音を持ってくることによって、読者に「すでにその存在が意識されている」ということを「共有」させる。読者を、西脇のことばの運動の共犯者にしてしまう。そうすることで、ことばを動かすということを、西脇ひとりの仕事ではなく、読者の仕事にもしてしまう。
 なんだか書いていることが矛盾してしまうようだがてんてん。
 「この」は、だから、とても「意味」がある、ということにもなる。「この庭」の「庭」意味があるのではなく「この」に重要なものがある。意識の動きのポイントがある。
 「文章」としては「意味」を持たない。けれども、ことばの運動としては「意味」を持っている--それが、「この」なのである。「この」という「音」なのである。
 書かれているのは「もの」のようであって、「もの」ではなく、「意識の運動」なのである。「意識の運動」というのは、まあ、適当なものである。適当というのは、かならずしも「学校教科書」の文法どおりには動かないということである。思いついたもののなかを、かってに動き回る。そして、「意味」は、それを繋ぎ止めようとして必死になって追いかけてくる。
 西脇は、そういう追いかけっこを「音」を優先させることで動かしている。追いかけっこのエネルギーは「音」のなかにある。その「音」を気持ちよいと感じ、それを選びとる「耳」や「喉」といった「肉体」のなかにある。
 西脇の詩を読むと、私はいつも「耳」がうれしくなる。「喉」がうれしくなる。「肉体」が共振する。


ペイタリアン西脇順三郎
伊藤 勲
小沢書店
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