詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

季村敏夫『ノミトビヒヨシマルの独言』(7)

2011-03-19 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
季村敏夫『ノミトビヒヨシマルの独言』(7)(書肆山田、2011年01月17日発行)

 季村敏夫『ノミトビヒヨシマルの独言』には書かれていることと書かれていないことがある。ことばなのだから、それはだれの詩、だれの文学作品でもそうなのだが、そのことを感じさせることばは意外と少ない。つまり、あ、ここには書かれていないことがある、それを感じよ、という声がはっきりと聞こえる作品は少ない。季村の詩からは、その「書かれていないことを感じよ」という強い声がする。
 「骨片の月」の書き出し。

二度目の没落へ。かつて喝破された茶番の始まりとして。弛緩し、
ふやけてしまった皮膚が、これほどまでにあらわになったことは、
かつて一度たりともなかった。

 二度目の没落--と書いてあるが、一度目は何か。それは書いていない。二度目と「茶番の始まり」はたぶん重複する。同じ「意味」であると想像できる。けれども、それはどういうことなのか、この書き出しだけではわからない。わからないように、書いているのである。季村は。
 なぜか。
 書き出しの「二度」がキーワードである。あらゆることは、二度起きる。最低、二度起きる。一度目は、実際の「事件」(できごと)として。二度目は、それを語ること--ことばによって。
 季村は『日々の、すみか』(書肆山田)で「ことばはおくれてやってくる」と書いた。阪神大震災のことを書いた詩集だが、たしかにことばは遅れてやってくる。今度の東日本巨大地震でも、被災者の女性が「ことばにならない。初めてのことだもの」というようなことを言っていたが、ことばはたしかにすぐにはことばにならない。どう言っていいのかわからないことがある。わかるまで、ひとは、それを自分の肉体の中にしまいこんでおくしかない。
 二度目。それは、ことばによって始まるのだ。
 そういうことを、季村は書こうとしている。

一(イー)、二(アル)、三(サン)、四(スウ)、
ひい、ふう、みい、よう、

今しがた臀部を受け入れていた便器のなかにも、銀河は潜んでいる
のだろうか。起床。整頓。朝食。清掃。やがて屈伸運動を繰り返す
頭上、寝ぼけた明烏(あけがらす)。

 「一、二、三、四/ひい、ふう、みい、よう、」がなんの数なのかわからない。あとで季村はわかるように書いているが、最初は、わからないように書いている。これは、それがなんの掛け声なのか、なぜ中国語と日本語(それも、あえて、ひい、ふう、みい、よう、)なのか。
 それは、季村にはわかっている。わかっているけれど、わかりたくないことばでもあるのだ。わかりたくない声でもあるのだ。わからない、知らない、ということで、ことばを遠ざけたい。「二度目」であることばを遠ざけることで、「一度目」の「事件(できごと)」を拒みたいのだ。
 そして季村が、聞き取ってもらいたいのは、「一度目」の「できごと」でもなければ、「二度目」のことば、声でもない--「二度目」を拒絶したい、「二度目」を拒絶することで「一度目」を遠ざけない、ないものにしたい、という強い願いである。
 それはかなわぬ願いである。起きたことは必ずことばになる。一度目は必ず二度目になる。かなむぬ願いであっても、それを願わずにはいられない。
 そういうとき、ことばは、大きく変化する。

今しがた臀部を受け入れていた便器のなかにも、銀河は潜んでいる
のだろうか。

 「臀部」「便器」という人間の「肉体」に深く関係していることがら、それも「汚いもの」と、「銀河」が突然対比させられる。「銀河」は「臀部」「便器」とは対極にあるものである。汚れていない。あくまでも純粋に、そして非情に輝いている。
 人間は、どんなことでもする。してしまう。そのとき、その人間の行為、行動の奥にも「銀河」の法則、宇宙の真理は動いているのか。
 そう自分自身に問いかけてみるとき(季村は、ことばを書きながら、まず自分に問いかけている。その問いが、同時に読者への問いにもなる)、季村の見ているのは「銀河」のことばである。「一度」起き、「二度目」に繰り返され、さらには何度でも繰り返されて動いていくことばではなく、「一度」起きたら、それが「永遠」であるような、つまり何度ことばをかえて言いなおしてみても、「一度」自体は絶対にかわならい輝きとしてのことばである。そのことばで「一度目」を洗い流すと、次のようなことばが、断片として残される。

     起床。整頓。朝食。清掃。やがて屈伸運動を繰り返す
頭上、寝ぼけた明烏。

 動詞(述語)を取り払った「名詞」。
 ことばが、そんなふうに洗い流されるとき、たしかに「銀河」は存在するのだと思う。向き合うべきことばがあるのだと思う。ことばに向き合い、自分をととのえ、鍛え直していくための何かがあるのだと思う。
 「銀河」は非情である。人間に何もしてくれない。けれど、何もしてくれないものも、それ自体は何もしないわけではなく、ちゃんと動いている。自分の「法則」にしたがって動いている。その「法則」に向き合えることばを探さなければならないのだ。
 「一度目」は「事件(できごと)」として生まれる。「二度目」は、その「事件」を目撃したものの「ことば」として起きる。そして、その「目撃証言」が「他人」のことばであるとき、当事者はそれを拒絶することができる。自分のことばで、他人の「二度目」のことばを拒絶し、自分自身で「二度目」のことばで「事件」をととのえることができるし、そうしなければならないのだ。
 この「事件」をととのえるというのは、しかし、過酷なことである。自分の都合のいいようにことばを組み立てれば、それは「自己弁護」になってしまって、「事実」から遠ざかる。「銀河」から遠ざかる。事件を洗い流し、「もの」そのものにしなければならない。

イー、アル、サン、スウ、
ひい、ふう、みい、よう、

 と、中国語と日本語で、違っていてはいけないのだ。違う表現が成り立つとき、それは「事件」を「誤記」していることになる。
 「誤記」には、いくつもの種類がある。そして、そのうちの「濁った誤記」という「二度目」によって、何かが「没落」させられる。--その没落から、立ち上がるために、真の「二度目」のことばが必要になる。
 季村は、それを探しながら書いている。

 季村の詩には、書かれていることと書かれていないことがある。そして、その書かれていないことは、探しながら書く、書きながら探すしかないものなのである。季村は、書かれないもの(まだ書くことのできないもの)を探しながら書く--そのときの、声にならない声に耳を澄ませよ、そんなふうにしてことばと向き合え、と私たちを静かに叱責している。書かれていないこと、こそが、詩、なのである。「声」をもとめる「声」にこそ、「銀河」なのである。私たちを、宇宙へ導いてくれる力なのである。

日々の、すみか
季村 敏夫
書肆山田
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ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン監督「トゥルー・グリッド」(★★★★★

2011-03-19 23:44:39 | 映画
監督 ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン 出演 ヘイリー・スタインフェルド、ジェフ・ブリッジス、マット・デイモン

 ジョエル・コーエン、イーサン・コーエンは映像の魔術師である。父親を殺された少女が保安官を雇って殺人者を追いかける--という、いわば荒唐無稽のストーリーを、リアルではなく、お話の枠をもったメルヘンにしてしまう。これから始まるのは、(メルヘンだから)ほんとうのお話です、という前置きまでつけて、その枠のなかに映像をはめ込んでいく。
 (メルヘンだから)活躍するのは少女、というのはあたりまえ。その少女が、賢くて、強くて、少年みたいというのもあたりまえなのだけれど、
 あ、目がいいなあ。
 ヘイリー・スタインフェルドの、何もかもまっすぐに見る目がいい。この目のなかでは、世界はこんなふうにすっきりとした構図をもっているんだなあ。凝っていない。基本はあくまでもまっすぐ。水平か、垂直か。
 少女の三つ編みのお下げさえ、まっすぐな垂直線に見えてしまう。
 と、書いて気がつくんだけれど、この三つ編みがまた実にいい感じだねえ。まっすぐなだけではなく、束ねることで「芯」が生まれ、乱れがなくなる。まっすぐであることが、強調される。コーエン兄弟の今回の映画の映像を象徴しているのが、きっとこの少女の三つ編みである。
 髪を編んで束ね、まっすぐにするように、少女は自分の意思を束ね、まっすぐにして、そのまっすぐな視線で世界を見つめる。父を殺した男は許せない。父を殺した罪で罰せられなければならない。そのことだけを見つめる。
 その視点からだけ、世界を見つめる。
 最初の方に出てくる絞首刑のシーン。3人いっしょに絞首刑になるが、その処刑の瞬間、水平の板がぱかっと開いて、ロープがぴーんと張ってまっすぐになる。それを直視する映像。何か、美しいよなあ。目を逸らさないから、どんな残酷なものでも、美の瞬間をもって、そこに存在する。
 悪を罰する--それ以外のことは、まあ、見つめない。見つめない、というより、見えないのだ。真実しか、見えない--そういう目である。
 葬儀屋で何人もの死体といっしょに寝ることなど、ちっとも怖くないのだ。
 さらに、このまっすぐな映像に、少女のまっすぐなことばが重なるからおもしろい。14歳の少女がこんなふうに弁舌に巧みであるということは、現実にはないだろうけれど、(メルヘンなのだから、まあ、いいのだ)、その弁舌の特徴は、むだがないということ。余分なことは言わない。言いよどまない。頭の中ですっきりとした「文章」になって、それから声になって出てくる。そのまっすぐにととのえられたことばが、ほかの大人たちのことばを洗い流す。
 街をでて、犯人を追いかけはじめてからのシーンも、とてもいい。西部劇だから、景色が広大なのはあたりまえかもしれないが、その空間の広さに透明感がある。それも、なんといえばいいのだろう、無垢の自然の透明感というよりは、一種都会的な透明感がある。自然そのままの視線がとらえた透明感ではなく、まっすぐに移動するときに見えてくる透明感がある。止まっている透明感ではなく、動いていくことで透明になる空気がある。
 その象徴的な映像といえばいいのだろうか。
 最後のシーンが、とても美しい。大好きだなあ。(最後の直前、だけれど。)
 少女がへびにかまれる。少女をのせて、ジェフ・ブリッジスが馬を走らせる。そのとき、少女が幻を見る。ゲーテの「魔王」だねえ。空には星が燦然と輝いている。二人を乗せた馬は走りつづけて苦しく、息絶えてしまう。馬の肌の汗で光る色。まるで星空が馬の肌におりてきたみたい。壮絶だ。悲しいシーンなのだけれど、非常に美しい。これが現実だったらやりきれないけれど、メルヘンですから。
 ほんとうのラストも美しいなあ。
 ジェフ・ブリッジスの遺体を引き取り、家族の墓と一緒にする。その墓から歩いて帰るシーン。丘の少しだけ丸みをおびた線が、それまでの厳しい直線を強調した映像とは少し違う。けれど、その水平線の向こうへ歩いていく女の足どりは、やっぱりまっすぐ。いいなあ。
                           (03月19日、天神東宝)

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