藤井五月「さかな」(「ムーンドロップ」14、2011年02月04日発行)
藤井五月「さかな」は、「主語」が揺れ動く。「文法」的には一貫しているのだが、読んでいると、私の方が揺れ動く--そういう揺れ動きを誘う「主・客」の変化がある。
「私」と「さかな」という登場人物(?)がいる。そして、この「さかな」がかわっている。錆びている。さかなって、錆びる? さらに、しゃべる。さかなって、しゃべる? さかなは錆びないし、しゃべれない。でも、この詩では、錆びていて、しゃべっている。詩(文学)なのだから、こういう「嘘」は平気である。嘘のなかでも、ことばは動いていく。
おもしろいのは、こういう嘘に出会ったとき、読者は(私だけではないと思うので、私は「読者は」と書いてしまう)、嘘の方に引きずられてしまう。簡単に言うと、もうひとりの登場人物である「わたし」のことは忘れてしまう。嘘をついている(?)さかなの方に引っ張られてしまう。
「誰も食べてくれないんですよ、檸檬でもあればいいのかなあ」という発言はさかなにふさわしいことかどうかはわからないが、そうだよなあ、古くなったさかな(錆びた、というのは古くなって傷んだという印象を呼び起こす)は檸檬で消毒(?)しないとなあ、そうすれば少しくらいなら食べられるかもしれない。檸檬には殺菌作用があるからなあ、となんとなく思ってしまう。
ここに書かれていることは、さかなが錆びる、しゃべるという嘘そのものなのだが、その嘘のなかに、私たちが信じている「真実」のようなものが、するりと入り込んでいて、その「真実」に気を取られ、嘘であることを瞬間的に忘れる。
「付け合わせのラディッシュは溶けて色素が皿に染みていた」というのも、古くなった料理の描写そのものなので、ここに書かれていることが「嘘」であるということを忘れてしまう。
嘘と本当が、どこかですれ違い、そのすれ違いの瞬間に、入れ代わってしまう。そして、それにあわせて「主・客」も入れ代わってしまう。ごく基本的に考えて、1行目の「古い洋食屋に入り席に着く」というときの「主語」は「私」であり、その「私」が体験したことが書かれている詩だと思い、私たちはこの作品を読みはじめるのだが、いつのまにか「主語」が「私」ではなく、「私」はわきに退いて、「さかな」が「主語」になっている。「さかな」がしゃべる、というのは「私」の錯覚の類かもしれないが、しゃべりはじめると「さかな」が主体になり、物語というか、ことばの運動そのものを支配していく。そしてそこには「嘘」だけではなく、「ほんとう」と思われることも書いてあるので、その語られることを信じてしまう。そうして、自然に、さかながしゃべるという嘘もほんとうになってしまう。
で、このあと。3連目が絶妙である。
「銀色のフォークには美しい細工が施されており」は「事実」の描写。客観的な描写。でも、次の「さかなはそれを見てい」は? 主語は「さかな」だけれど、「見ていた」という「事実」を語るのは? さかな? それとも私(作者、藤井)? わからないねえ。フォークの細工の描写を「事実」とすれば、この「見ていた」も「事実」を書いた「客観的描写」になるのかもしれないけれど……。うーん、「主観的描写」と「客観的描写」って、どこが違う? 何を根拠に「主観的」「客観的」という? 特に、この詩のように「嘘」が平気で語られているときは、「主観」「客観」って、区別はどこでする?
主語がすれ違い、入れ替わり、事実と嘘がすれ違い、入れ代わるなら、主観・客観もすれ違ったときに、入れ代わってしまう。
そうすると、ほら。
これはフォークを買ったひとのことばなるだが、フォークを買ったひとって誰? ことばの動いている状況からいうと、どうしたって「さかな」になる。2連目の「はい、いささか錆びておりますが」以後、藤井のことばを主体的に動かしているのは「さかな」だし、「私」は「古い洋食屋」の「客」なのだから、客がフォークを買うはずがない。でも、そうなると、変ですねえ。「さかな」って月給もらったいるの? 「さかな」ってフォークをどこで買うの? なぜ、そんなものを買う必要がある?
こういう疑問を振り払うように、「その細工は葡萄の房とツル、葉がバランスよく配置されていた」という「客観描写」が書かれる。「客観」というのは、「疑問」を拒絶するものだからねえ。
そうして、ことばはさらに動いていく。
ここから始まることばは「さかな」のことばである。「さかな」が「俺」になって、語っている。
この瞬間、もう一度、「主・客」というものがくずれる。「私」が「主」、「さかな」が「客」で始まり、「私」が「わき」(客、とは言えないようなものに、ずれていっている)、「さかな」が「主」という状態を経て、新しい「主語」として「俺」が誕生している。
「俺=さかな」というのが見せ掛けの論理(嘘の論理)。学校文法の論理。それにこだわると、ここに書かれていることは、説明(?)がややこしい。
こういうときは、もう、文法や論理構造というような面倒くさいものはほっぽりだしてしまう。詩、なんだから、そんなものはどうでもいい。「嘘」が嘘として動いていく--そのことばのおもしろさ、あ、こういうとき、ことばはこんなふうにして動いていけるということだけを楽しめばいいのである。
大事なのは、1連、2連、3連とことばが動いてきて、4連目で「俺」が誕生したこと。生まれたこと。藤井はことばを動かしはじめたとき「私」だった。それが「さかな」に引っ張られる。「さかな」がことばを動かしはじめる。そのことばを追っているうちに、「私」と「さかな」がへんに入り交じり、そのはてに「俺」が生まれる。「私」は「俺」にかわってしまう。
ことばを動かすということ(詩を書く)ということは、「私」が「私ではなくなる」ということなのだ。
「私」はどこへいったの? これ、いったい何が書いてあるの?という疑問は、「私」という存在がかわらないことを前提にしたときに生まれる疑問である。ひとは、「私」という存在はかわらないものと考えがちだが、詩はひとはかわるもの、「私」という存在はかわるものということを前提としている。
何かに感動したとき、ひとの考え方は変わる。
それと同じように、ことばを書く、ことばを動かすということは、「私」が「私以外のもの」になるという危険(楽しみ)をおかすことである。「私」が「私以外のもの」になってしまてこそ、そのことばの運動は詩である。文学である。
4連目は、「さかな」のことばでも、「私」のことばでもありません。それは、あくまで「俺」のことば。「俺」なんて、それまでいなかった。それまでいなかったのだから、もう何を言ってもいいのです。それまでの決まりから自由に語るために生まれてきた存在が「俺」なのです。
きれいなナイフ。食べること、食べられること。その意味。殺意。--「寓意(寓話)」をここから作り上げこと、ここに書かれていることを「現実」を「比喩」(虚構)として書かれたものと、とらえることができるかもしれない。けれど、そんな面倒なことはしなくていいい。その嘘のなかで、ことばが突っ走る、そのときの気持ちよさ、藤井のことばに触れるときに私が(読者が)感じる、ことばにならないものが肉体のなかで動きはじめるときの快感--それと「俺」が触れ合っているということ、それを楽しめばいいのである。
「俺」が語ることは、まったくの「自由」。だとしたら、私たちが感じることもまったくの「自由」。
藤井と私たち読者は、そのとき、ナイフが登場するから言うのではないが、ことばで刺し違えるのだ。殺し合うのだ。これはセックスだね。「死ぬ!」と叫んで果てたものが負けたのか、勝ったのか、勝ち負けを言える人間はいない。
これは、誰のことば? 誰のでもいいね。ややこしいことは考えずに、ことばで刺し違えあうよろこび、殺し、殺されあう快感を想像しよう。
藤井五月「さかな」は、「主語」が揺れ動く。「文法」的には一貫しているのだが、読んでいると、私の方が揺れ動く--そういう揺れ動きを誘う「主・客」の変化がある。
古い洋食屋に入り席に着く
テーブルの上に錆びた魚が置いてある
おおい、キッチンの方へ大きな声をかける
さかなが、はい、と返事をした
大丈夫か、私はさかなに声をかける
はい、いささか錆びておりますが、食べられないこともないでしょう、もう何
年も動きそうにない体ですが、と答え、さかなはフォークを見た
付け合わせのラディッシュは溶けて色素が皿に染みていた
誰も食べてくれないんですよ、檸檬でもあればいいのかなあ、とさかなはフォ
ークを見た
「私」と「さかな」という登場人物(?)がいる。そして、この「さかな」がかわっている。錆びている。さかなって、錆びる? さらに、しゃべる。さかなって、しゃべる? さかなは錆びないし、しゃべれない。でも、この詩では、錆びていて、しゃべっている。詩(文学)なのだから、こういう「嘘」は平気である。嘘のなかでも、ことばは動いていく。
おもしろいのは、こういう嘘に出会ったとき、読者は(私だけではないと思うので、私は「読者は」と書いてしまう)、嘘の方に引きずられてしまう。簡単に言うと、もうひとりの登場人物である「わたし」のことは忘れてしまう。嘘をついている(?)さかなの方に引っ張られてしまう。
「誰も食べてくれないんですよ、檸檬でもあればいいのかなあ」という発言はさかなにふさわしいことかどうかはわからないが、そうだよなあ、古くなったさかな(錆びた、というのは古くなって傷んだという印象を呼び起こす)は檸檬で消毒(?)しないとなあ、そうすれば少しくらいなら食べられるかもしれない。檸檬には殺菌作用があるからなあ、となんとなく思ってしまう。
ここに書かれていることは、さかなが錆びる、しゃべるという嘘そのものなのだが、その嘘のなかに、私たちが信じている「真実」のようなものが、するりと入り込んでいて、その「真実」に気を取られ、嘘であることを瞬間的に忘れる。
「付け合わせのラディッシュは溶けて色素が皿に染みていた」というのも、古くなった料理の描写そのものなので、ここに書かれていることが「嘘」であるということを忘れてしまう。
嘘と本当が、どこかですれ違い、そのすれ違いの瞬間に、入れ代わってしまう。そして、それにあわせて「主・客」も入れ代わってしまう。ごく基本的に考えて、1行目の「古い洋食屋に入り席に着く」というときの「主語」は「私」であり、その「私」が体験したことが書かれている詩だと思い、私たちはこの作品を読みはじめるのだが、いつのまにか「主語」が「私」ではなく、「私」はわきに退いて、「さかな」が「主語」になっている。「さかな」がしゃべる、というのは「私」の錯覚の類かもしれないが、しゃべりはじめると「さかな」が主体になり、物語というか、ことばの運動そのものを支配していく。そしてそこには「嘘」だけではなく、「ほんとう」と思われることも書いてあるので、その語られることを信じてしまう。そうして、自然に、さかながしゃべるという嘘もほんとうになってしまう。
で、このあと。3連目が絶妙である。
銀色のフォークには美しい細工が施されており、さかなはそれを見ていた
気に入ってね、昔、給料二月分の値段でしたが買ってしまって、なかなかきれ
いでしょう
その細工は葡萄の房とツル、葉がバランスよく配置されていた
「銀色のフォークには美しい細工が施されており」は「事実」の描写。客観的な描写。でも、次の「さかなはそれを見てい」は? 主語は「さかな」だけれど、「見ていた」という「事実」を語るのは? さかな? それとも私(作者、藤井)? わからないねえ。フォークの細工の描写を「事実」とすれば、この「見ていた」も「事実」を書いた「客観的描写」になるのかもしれないけれど……。うーん、「主観的描写」と「客観的描写」って、どこが違う? 何を根拠に「主観的」「客観的」という? 特に、この詩のように「嘘」が平気で語られているときは、「主観」「客観」って、区別はどこでする?
主語がすれ違い、入れ替わり、事実と嘘がすれ違い、入れ代わるなら、主観・客観もすれ違ったときに、入れ代わってしまう。
そうすると、ほら。
気に入ってね、昔、給料二月分の値段でしたが買ってしまって、なかなかきれ
いでしょう
これはフォークを買ったひとのことばなるだが、フォークを買ったひとって誰? ことばの動いている状況からいうと、どうしたって「さかな」になる。2連目の「はい、いささか錆びておりますが」以後、藤井のことばを主体的に動かしているのは「さかな」だし、「私」は「古い洋食屋」の「客」なのだから、客がフォークを買うはずがない。でも、そうなると、変ですねえ。「さかな」って月給もらったいるの? 「さかな」ってフォークをどこで買うの? なぜ、そんなものを買う必要がある?
こういう疑問を振り払うように、「その細工は葡萄の房とツル、葉がバランスよく配置されていた」という「客観描写」が書かれる。「客観」というのは、「疑問」を拒絶するものだからねえ。
そうして、ことばはさらに動いていく。
セットのナイフは買うのやめたんです、きれいすぎて、俺、どうかなっちゃう
んじゃないかと思って、フォークを見て下さい、まだ錆びてないんですよ、俺
の体はとうに錆ついてしまっているのに、ナイフまできらきら輝いていると思
ったら、お客さんを殺しかねないからね
俺の鱗なかなかきれいだったんですよ、錆びる前は食べようとしたお客さんも
食べるのをやめちゃうぐらいもったいない体だったんだ、でも食べられなけれ
ば意味がないんだけどね
そこまでいうとさかなは目を閉じ、少し体を硬直させ、フォークが体を突き刺
す瞬間を想像した
ここから始まることばは「さかな」のことばである。「さかな」が「俺」になって、語っている。
この瞬間、もう一度、「主・客」というものがくずれる。「私」が「主」、「さかな」が「客」で始まり、「私」が「わき」(客、とは言えないようなものに、ずれていっている)、「さかな」が「主」という状態を経て、新しい「主語」として「俺」が誕生している。
「俺=さかな」というのが見せ掛けの論理(嘘の論理)。学校文法の論理。それにこだわると、ここに書かれていることは、説明(?)がややこしい。
こういうときは、もう、文法や論理構造というような面倒くさいものはほっぽりだしてしまう。詩、なんだから、そんなものはどうでもいい。「嘘」が嘘として動いていく--そのことばのおもしろさ、あ、こういうとき、ことばはこんなふうにして動いていけるということだけを楽しめばいいのである。
大事なのは、1連、2連、3連とことばが動いてきて、4連目で「俺」が誕生したこと。生まれたこと。藤井はことばを動かしはじめたとき「私」だった。それが「さかな」に引っ張られる。「さかな」がことばを動かしはじめる。そのことばを追っているうちに、「私」と「さかな」がへんに入り交じり、そのはてに「俺」が生まれる。「私」は「俺」にかわってしまう。
ことばを動かすということ(詩を書く)ということは、「私」が「私ではなくなる」ということなのだ。
「私」はどこへいったの? これ、いったい何が書いてあるの?という疑問は、「私」という存在がかわらないことを前提にしたときに生まれる疑問である。ひとは、「私」という存在はかわらないものと考えがちだが、詩はひとはかわるもの、「私」という存在はかわるものということを前提としている。
何かに感動したとき、ひとの考え方は変わる。
それと同じように、ことばを書く、ことばを動かすということは、「私」が「私以外のもの」になるという危険(楽しみ)をおかすことである。「私」が「私以外のもの」になってしまてこそ、そのことばの運動は詩である。文学である。
4連目は、「さかな」のことばでも、「私」のことばでもありません。それは、あくまで「俺」のことば。「俺」なんて、それまでいなかった。それまでいなかったのだから、もう何を言ってもいいのです。それまでの決まりから自由に語るために生まれてきた存在が「俺」なのです。
きれいなナイフ。食べること、食べられること。その意味。殺意。--「寓意(寓話)」をここから作り上げこと、ここに書かれていることを「現実」を「比喩」(虚構)として書かれたものと、とらえることができるかもしれない。けれど、そんな面倒なことはしなくていいい。その嘘のなかで、ことばが突っ走る、そのときの気持ちよさ、藤井のことばに触れるときに私が(読者が)感じる、ことばにならないものが肉体のなかで動きはじめるときの快感--それと「俺」が触れ合っているということ、それを楽しめばいいのである。
「俺」が語ることは、まったくの「自由」。だとしたら、私たちが感じることもまったくの「自由」。
藤井と私たち読者は、そのとき、ナイフが登場するから言うのではないが、ことばで刺し違えるのだ。殺し合うのだ。これはセックスだね。「死ぬ!」と叫んで果てたものが負けたのか、勝ったのか、勝ち負けを言える人間はいない。
そこまでいうとさかなは目を閉じ、少し体を硬直させ、フォークが体を突き刺
す瞬間を想像した
これは、誰のことば? 誰のでもいいね。ややこしいことは考えずに、ことばで刺し違えあうよろこび、殺し、殺されあう快感を想像しよう。