詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

藤井五月「さかな」

2011-03-29 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
藤井五月「さかな」(「ムーンドロップ」14、2011年02月04日発行)

 藤井五月「さかな」は、「主語」が揺れ動く。「文法」的には一貫しているのだが、読んでいると、私の方が揺れ動く--そういう揺れ動きを誘う「主・客」の変化がある。

古い洋食屋に入り席に着く
テーブルの上に錆びた魚が置いてある
おおい、キッチンの方へ大きな声をかける
さかなが、はい、と返事をした

大丈夫か、私はさかなに声をかける
はい、いささか錆びておりますが、食べられないこともないでしょう、もう何
年も動きそうにない体ですが、と答え、さかなはフォークを見た
付け合わせのラディッシュは溶けて色素が皿に染みていた
誰も食べてくれないんですよ、檸檬でもあればいいのかなあ、とさかなはフォ
ークを見た

 「私」と「さかな」という登場人物(?)がいる。そして、この「さかな」がかわっている。錆びている。さかなって、錆びる? さらに、しゃべる。さかなって、しゃべる? さかなは錆びないし、しゃべれない。でも、この詩では、錆びていて、しゃべっている。詩(文学)なのだから、こういう「嘘」は平気である。嘘のなかでも、ことばは動いていく。
 おもしろいのは、こういう嘘に出会ったとき、読者は(私だけではないと思うので、私は「読者は」と書いてしまう)、嘘の方に引きずられてしまう。簡単に言うと、もうひとりの登場人物である「わたし」のことは忘れてしまう。嘘をついている(?)さかなの方に引っ張られてしまう。
 「誰も食べてくれないんですよ、檸檬でもあればいいのかなあ」という発言はさかなにふさわしいことかどうかはわからないが、そうだよなあ、古くなったさかな(錆びた、というのは古くなって傷んだという印象を呼び起こす)は檸檬で消毒(?)しないとなあ、そうすれば少しくらいなら食べられるかもしれない。檸檬には殺菌作用があるからなあ、となんとなく思ってしまう。
 ここに書かれていることは、さかなが錆びる、しゃべるという嘘そのものなのだが、その嘘のなかに、私たちが信じている「真実」のようなものが、するりと入り込んでいて、その「真実」に気を取られ、嘘であることを瞬間的に忘れる。
 「付け合わせのラディッシュは溶けて色素が皿に染みていた」というのも、古くなった料理の描写そのものなので、ここに書かれていることが「嘘」であるということを忘れてしまう。
 嘘と本当が、どこかですれ違い、そのすれ違いの瞬間に、入れ代わってしまう。そして、それにあわせて「主・客」も入れ代わってしまう。ごく基本的に考えて、1行目の「古い洋食屋に入り席に着く」というときの「主語」は「私」であり、その「私」が体験したことが書かれている詩だと思い、私たちはこの作品を読みはじめるのだが、いつのまにか「主語」が「私」ではなく、「私」はわきに退いて、「さかな」が「主語」になっている。「さかな」がしゃべる、というのは「私」の錯覚の類かもしれないが、しゃべりはじめると「さかな」が主体になり、物語というか、ことばの運動そのものを支配していく。そしてそこには「嘘」だけではなく、「ほんとう」と思われることも書いてあるので、その語られることを信じてしまう。そうして、自然に、さかながしゃべるという嘘もほんとうになってしまう。
 で、このあと。3連目が絶妙である。

銀色のフォークには美しい細工が施されており、さかなはそれを見ていた
気に入ってね、昔、給料二月分の値段でしたが買ってしまって、なかなかきれ
いでしょう
その細工は葡萄の房とツル、葉がバランスよく配置されていた

 「銀色のフォークには美しい細工が施されており」は「事実」の描写。客観的な描写。でも、次の「さかなはそれを見てい」は? 主語は「さかな」だけれど、「見ていた」という「事実」を語るのは? さかな? それとも私(作者、藤井)? わからないねえ。フォークの細工の描写を「事実」とすれば、この「見ていた」も「事実」を書いた「客観的描写」になるのかもしれないけれど……。うーん、「主観的描写」と「客観的描写」って、どこが違う? 何を根拠に「主観的」「客観的」という? 特に、この詩のように「嘘」が平気で語られているときは、「主観」「客観」って、区別はどこでする?
 主語がすれ違い、入れ替わり、事実と嘘がすれ違い、入れ代わるなら、主観・客観もすれ違ったときに、入れ代わってしまう。
 そうすると、ほら。

気に入ってね、昔、給料二月分の値段でしたが買ってしまって、なかなかきれ
いでしょう

 これはフォークを買ったひとのことばなるだが、フォークを買ったひとって誰? ことばの動いている状況からいうと、どうしたって「さかな」になる。2連目の「はい、いささか錆びておりますが」以後、藤井のことばを主体的に動かしているのは「さかな」だし、「私」は「古い洋食屋」の「客」なのだから、客がフォークを買うはずがない。でも、そうなると、変ですねえ。「さかな」って月給もらったいるの? 「さかな」ってフォークをどこで買うの? なぜ、そんなものを買う必要がある?
 こういう疑問を振り払うように、「その細工は葡萄の房とツル、葉がバランスよく配置されていた」という「客観描写」が書かれる。「客観」というのは、「疑問」を拒絶するものだからねえ。
 そうして、ことばはさらに動いていく。

セットのナイフは買うのやめたんです、きれいすぎて、俺、どうかなっちゃう
んじゃないかと思って、フォークを見て下さい、まだ錆びてないんですよ、俺
の体はとうに錆ついてしまっているのに、ナイフまできらきら輝いていると思
ったら、お客さんを殺しかねないからね
俺の鱗なかなかきれいだったんですよ、錆びる前は食べようとしたお客さんも
食べるのをやめちゃうぐらいもったいない体だったんだ、でも食べられなけれ
ば意味がないんだけどね
そこまでいうとさかなは目を閉じ、少し体を硬直させ、フォークが体を突き刺
す瞬間を想像した

 ここから始まることばは「さかな」のことばである。「さかな」が「俺」になって、語っている。
 この瞬間、もう一度、「主・客」というものがくずれる。「私」が「主」、「さかな」が「客」で始まり、「私」が「わき」(客、とは言えないようなものに、ずれていっている)、「さかな」が「主」という状態を経て、新しい「主語」として「俺」が誕生している。
 「俺=さかな」というのが見せ掛けの論理(嘘の論理)。学校文法の論理。それにこだわると、ここに書かれていることは、説明(?)がややこしい。
 こういうときは、もう、文法や論理構造というような面倒くさいものはほっぽりだしてしまう。詩、なんだから、そんなものはどうでもいい。「嘘」が嘘として動いていく--そのことばのおもしろさ、あ、こういうとき、ことばはこんなふうにして動いていけるということだけを楽しめばいいのである。
 大事なのは、1連、2連、3連とことばが動いてきて、4連目で「俺」が誕生したこと。生まれたこと。藤井はことばを動かしはじめたとき「私」だった。それが「さかな」に引っ張られる。「さかな」がことばを動かしはじめる。そのことばを追っているうちに、「私」と「さかな」がへんに入り交じり、そのはてに「俺」が生まれる。「私」は「俺」にかわってしまう。
 ことばを動かすということ(詩を書く)ということは、「私」が「私ではなくなる」ということなのだ。

 「私」はどこへいったの? これ、いったい何が書いてあるの?という疑問は、「私」という存在がかわらないことを前提にしたときに生まれる疑問である。ひとは、「私」という存在はかわらないものと考えがちだが、詩はひとはかわるもの、「私」という存在はかわるものということを前提としている。
 何かに感動したとき、ひとの考え方は変わる。
 それと同じように、ことばを書く、ことばを動かすということは、「私」が「私以外のもの」になるという危険(楽しみ)をおかすことである。「私」が「私以外のもの」になってしまてこそ、そのことばの運動は詩である。文学である。

 4連目は、「さかな」のことばでも、「私」のことばでもありません。それは、あくまで「俺」のことば。「俺」なんて、それまでいなかった。それまでいなかったのだから、もう何を言ってもいいのです。それまでの決まりから自由に語るために生まれてきた存在が「俺」なのです。
 きれいなナイフ。食べること、食べられること。その意味。殺意。--「寓意(寓話)」をここから作り上げこと、ここに書かれていることを「現実」を「比喩」(虚構)として書かれたものと、とらえることができるかもしれない。けれど、そんな面倒なことはしなくていいい。その嘘のなかで、ことばが突っ走る、そのときの気持ちよさ、藤井のことばに触れるときに私が(読者が)感じる、ことばにならないものが肉体のなかで動きはじめるときの快感--それと「俺」が触れ合っているということ、それを楽しめばいいのである。
 「俺」が語ることは、まったくの「自由」。だとしたら、私たちが感じることもまったくの「自由」。
 藤井と私たち読者は、そのとき、ナイフが登場するから言うのではないが、ことばで刺し違えるのだ。殺し合うのだ。これはセックスだね。「死ぬ!」と叫んで果てたものが負けたのか、勝ったのか、勝ち負けを言える人間はいない。

そこまでいうとさかなは目を閉じ、少し体を硬直させ、フォークが体を突き刺
す瞬間を想像した

 これは、誰のことば? 誰のでもいいね。ややこしいことは考えずに、ことばで刺し違えあうよろこび、殺し、殺されあう快感を想像しよう。


人気ブログランキングへ


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松浦寿輝「afterward」、和合亮一「詩の礫(つぶて)」

2011-03-29 18:17:29 | 詩(雑誌・同人誌)
松浦寿輝「afterward」、和合亮一「詩の礫(つぶて)」(「朝日新聞」2011年03月29日夕刊)

 東北巨大地震。松浦寿輝は「afterward」という作品を書いている。松浦もまた、ことばを待っている。

悲嘆も恐怖も心の底に深く沈んで
今はそこで 固くこごっている
それが柔かくほとびて 心の表面まで
浮かび上がってくるのにどれほどの
時間がかかるか 今は誰にも判らない

 「悲嘆」「恐怖」ということばは使い古されたことばである。詩人独自の「意味」が含まれていない。それは「こごる」「ほとびる」という松浦のにおいのこもったことばと比較すれば、どれほど「安直」なものであるかわかる。しかし、私はいま「安直」と書いたのだが、それは仕方がないことなのである。そこで起きている「悲嘆」「恐怖」を松浦独自の肉体を通したことばにするには「時間」が必要なのである。そして、その「時間」がどれだけかかるか、「今は誰にも判らない」。
 書けないなら、書かずに待てばいい――という考え方もあるかもしれないが、それではことばが動かなくなる。書けなくても書かなくてはならないのだ。書きながらことばをはげまさなければならない。
 でも、何を書くか。書けることば、安直と言われようと「悲嘆」「恐怖」というような、誰もがとりあえず使うことば、すでにそこにあることばを書く。その「安直」を、あ、さすが松浦だね、私のようにそれこそ安直に、粗雑にいわずに、丁寧にことばを動かしている。それが次の部分。

それまで 私はただ背筋を伸ばし
友達にはいつも通り普通に挨拶し
職場ではいつも通り普通に働いて
この場所にとどまり 耐えていよう

 「いつも通り普通に」。まず自分の肉体を「いつも通り普通に」戻すことをしなければならないのだ。それは、ことばを「いつも通り普通に」することである。私たちのことばは、いま、いつもとは違う。いつもとは違う形で動いている。松浦は「悲嘆」「恐怖」と書き、私はそれこそそういうことばを何も考えずに「安直」と批判したりする。その「批判」が的外れであることを知りながら・・・。「いつも通り普通に」松浦のことばを読んでいるのではない――そういうことが、わかる。わかりながら書き、書きながら、私は私のことばを「いつも通り普通に」動かせないかと思い、ああでもない、こうでもないと書くのである。
 こういうとき、「私はただ背筋を伸ばし」ということばが出てくる――とは、私は実は松浦のことばから予想していなかった。そういう意味では、松浦は、巨大地震以後、たしかに変わってきている。影響を受けている。「背筋を伸ばし」と「肉体」を立て直すところから、ことばを立て直そうとしている。そのことがわかって、実は、私はとてもうれしい。「この場所にとどまり 耐えていよう」というのも、「肉体」ができることを正直にみつめたことばだと感じる。うれしく感じる。

心の水面を波立たせず 静かに保つ
少なくとも保っているふりをする
その慎みこそ「その後」を生きる者の
最小限の倫理だと思うから

 松浦が、とても正直に動いている。「少なくとも保っているふりをする」と書くときの、その「ふり」に松浦の悲しみがある。「悲嘆」と書いてきたものを超える悲しみがある。それを「倫理」と言い聞かせなければならない「悲しみ」。
 ここから、松浦のことばは「柔かくほとびて」動きはじめる――はずである。



 和合亮一の「詩の礫(つぶて)」(ツイッターでの発言)が同じ朝日新聞に紹介されている。

 5日ぶりの買い出しをする。トマトを買おうと思った。余震。店外退避。戻る。トマトを買う。家に持ち帰り、塩を振ってかじりつこうか。熟れたトマトを持ってみて、分かった。野菜が涙を流していること。(23日)

 短いことば。削り込んだことば。そのなかに「家に持ち帰り」ということばがさしはさまれる。これはきっと、いま、しか書かれないことばである。トマトを買う、それは家に持ち帰り食べるのが当たり前だから、普通は書かない。けれど、いまはその「いつも通り普通に」が成り立たない。だから「特別なことば」になる。いまの和合を刻印したことばになる。そういうことばを通って、ことばは正確に動く。

野菜が涙を流している

 あ、それは「野菜」であって野菜ではない。それは和合であり、ことばをまだ「声」に出していない多くのひとたちなのである。「トマト」のなかで和合は、多くのひとと出会い、手をつないでいる。
 こんなふうに、いま、ことばは動き始めている。
 「熟れたトマトを持ってみて、分かった。」というのも感動的である。「持つ」という動詞、肉体とものとのつながり――すべてのことは「つながる」ことで「わかる」へと動いていくことができる。
 いま、多くのひとが「つながる」ことを求めている。「つながる」ために動いている。



吃水都市
松浦 寿輝
思潮社


入道雲入道雲入道雲
和合 亮一
思潮社
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誰も書かなかった西脇順三郎(202 )

2011-03-29 11:47:55 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。「野原の夢」のつづき。

この寂しいわさびの秋の夜に
ランプの夜明けがある
このコップに夕陽のあの
野ばらの実の影が残る
人間が残ることがあるだろうか
人間の声が残るだけだ
ああ きぬたの音がする
おお ポポイ ポポイ

 「人間の音」ではなく「人間の声」。どこが違うのだろうか。
 これから書くことは私の印象である。
 「音」と「声」を比べると、音の方が原始的(根源的)である。音をととのえ、そこに「意味」をもたせたものが声である。声は「ことば」でもある。実際、ここに書かれた「声」を「ことば」と置き換えると、「意味」が生まれてくる。
 時間が流れ、すべてが移りゆく。けれど自然や宇宙の生成は変化をしながら時間を越えて「残る」。人間は死んでゆく。残らない。ひとりひとりは残らないが、そのかわりに「ことば」が残り、ことばが「永遠」になる。
 でも、そんな「ことば」というのは、何か味気ない。「真理」というのは、味気ない。人間がいなくても存在するのでは、どうにもつまらない。
 何か、真理とは切り離されて、永遠とは切り離されて、「いま」「ここ」と深く切り結ぶ何かがないとつまらない。そういうときの「切りむすび」のきっかけは、私の考えでは「間違い」である。「ずれ」である。人間は真理そのものとは一体になれない。何かしら「自己」がにじみでてしまう。そのにじみでたものが「間違い」「ずれ」。それがあるから、「真理」も見える。
 そして、その「間違い」や「ずれ」を含んだものが「声」なのだと思う。「肉体」の刻印が「声」なのだ。それは「意味」から逸脱した何かである。だから西脇は「ことば」とは書かなかったのだ。

村の花嫁の酒盛りに行つた
ムサシノの婦人は帰つて来る
この夕暮れ近く
あの疲れた人も帰つて来る
「夏ならまだ日が照つているのだが」
と鼻の高い青ざめた男が言つている
カシの木の皮も青ざめている

 これ連に出てくる「夏ならまだ日が照つているのだが」が、「声」である。そのことばに「意味」はあるが、そんな「意味」はあってもなくてもいい。男が帰って来たひとに声をかける。その行為、そのなかにこそ、ことばにならない「意味」がある。
 そして、このことばにならなかった「声」が「音」なのだ。
 西脇は、男の「ことば」を記憶していて、それを書いたのではない。また、男の「声」を記憶していて、それを書いたのではない。西脇は、男の「ことば←声」を聞いて、そこに「←音」を感じたから、ここに書き留めているのである。
 「音」は「→声」になり「→ことば」になることで、見えにくくなる。聞こえにくくなる。だから、この行に「音」が書かれていると言っても、それは私の妄言(私の「誤読」)にすぎなくなるのだが、私が感じるのは「意味」ではなく、「音」なのである。
 「音」が聞こえるから、おもしろい。





西脇順三郎絵画的旅
新倉 俊一
慶應義塾大学出版会



人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現代詩講座のお知らせ

2011-03-29 11:44:47 | その他(音楽、小説etc)
4月からよみうりFBS文化センターで「現代詩講座」を開きます。受講生を募集中です。
テーマは、

詩は気取った嘘つきです。いつもとは違うことばを使い、だれも知らない「新しい私」になって、友達をだましてみましょう。

現代詩の実作と鑑賞をとおして講座を進めて行きます。
このブログで紹介した作品も取り上げる予定です。

受講日 第2、4月曜日(月2回)
    13時-14時30分(1時間30分)
受講料 3か月全納・消費税込み
    1万1340円(1か月あたり3780円)
    維持費630円(1か月あたり 210円)
開 場 読売福岡ビル9階会議室
    (福岡市中央区赤坂1、地下鉄赤坂駅2番出口から徒歩3分)

申し込み・問い合わせ
    よみうりFBS文化センター
    (福 岡)TEL092-715-4338
         FAX092-715-6079
    (北九州)TEL093-511-6555
         FAX093-541-6556
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする