季村敏夫『ノミトビヒヨシマルの独言』(7)(書肆山田、2011年01月17日発行)
谷川俊太郎の短い詩を読んだあとなので、季村の短い詩を。「黄禍」。
カヴァフィス(中井久夫訳)のローマ史を題材にした作品を思い出した。歴史の瞬間、ひとの精神がどう動いたか。それは、過去をひきずったままだと、神話(?)にならない。過去を吹っ切り、「覚醒」して(悟って)、新しい時間へと踏み出すとき、強烈な存在となって、その一瞬を神話にする。
このときの「敗れる」が過去を断ち切る精神である。過去を断ち切るからこそ、目覚めるのである。
こうした精神の凝縮した世界には、「漢文体」が似合う。漢文のなかには、精神の凝縮と解放が--つまり矛盾したものが結合している。
季村のこの詩では、その漢文体のかわりに、肩書と固有名詞がつかわれている。
「陸軍卿山縣有朋」「軍馬局の季村平治」「陸軍主計少尉季村淳」。肩書は個人をはぎとり、個人を何ものかに従属させる。(アンデンティファイさせる。)一方、ひとりひとりの名前は、そのアイデンティティを「所属」から切り離す。名前は所属する「団体」ではなく、彼自身の「血」に結びつける。「肩書」と「名前」はいわば「矛盾」した運動をする。
そして、この矛盾が、この詩に緊張感をもたらす。この詩を「神話」にする。つまり、無名のだれもが自分自身の精神をそのことばのなかに投げ込み、自己を超越した一回かぎりの精神を生きる--そういうことができる構造を作り上げる。
「打電する暁」「霊峰キナバルを仰ぎ見る」。動詞は、それぞれ人間を超越した自然(宇宙)--超越したというより、人間にはなんの配慮もしない「非情」の存在と結びつくことで、そこに噴出した「悟り」をさらに屹立させる。
「悟り」は人間のものである。けれど、「悟り」に人間はふれてはならない--というのは変な言い方だが、「悟り」とはそれに接近して触ってみて、自分にあうかどうか調べてみるようなことができないものである。たとえばマルクスの思想、ゲーテの思想--なんでもいいが、だれそれの思想にはさまざまなアプローチの仕方があり、この考え方は自分の考えを支えてくれるかなあ、と動かしてみることができるが、「悟り」に対しては人間はそんなことはできない。
ただ、それと「一体」になるかどうかだけである。
「悟り」と一体になったとき、そこには過去はない。「暁」や「霊峰」のような絶対的な超越としての世界があるだけである。
谷川俊太郎の短い詩を読んだあとなので、季村の短い詩を。「黄禍」。
「国都での会談は丸腰で臨む所存」
「国も民も、敗れて目覚めねばならぬ。わが骸(むくろ)を踏み越え、」
陸軍卿山縣有朋、軍馬局の季村平治に打電する暁
「二発のね熱球でイエローモンキーにとどめを」
「ならば国境線突破を早めましょう」
元帥の指令がウスリー河を越える八月、陸軍主計少尉季村淳一、霊
峰キナバルを仰ぎ見る
カヴァフィス(中井久夫訳)のローマ史を題材にした作品を思い出した。歴史の瞬間、ひとの精神がどう動いたか。それは、過去をひきずったままだと、神話(?)にならない。過去を吹っ切り、「覚醒」して(悟って)、新しい時間へと踏み出すとき、強烈な存在となって、その一瞬を神話にする。
「国も民も、敗れて目覚めねばならぬ。
このときの「敗れる」が過去を断ち切る精神である。過去を断ち切るからこそ、目覚めるのである。
こうした精神の凝縮した世界には、「漢文体」が似合う。漢文のなかには、精神の凝縮と解放が--つまり矛盾したものが結合している。
季村のこの詩では、その漢文体のかわりに、肩書と固有名詞がつかわれている。
「陸軍卿山縣有朋」「軍馬局の季村平治」「陸軍主計少尉季村淳」。肩書は個人をはぎとり、個人を何ものかに従属させる。(アンデンティファイさせる。)一方、ひとりひとりの名前は、そのアイデンティティを「所属」から切り離す。名前は所属する「団体」ではなく、彼自身の「血」に結びつける。「肩書」と「名前」はいわば「矛盾」した運動をする。
そして、この矛盾が、この詩に緊張感をもたらす。この詩を「神話」にする。つまり、無名のだれもが自分自身の精神をそのことばのなかに投げ込み、自己を超越した一回かぎりの精神を生きる--そういうことができる構造を作り上げる。
「打電する暁」「霊峰キナバルを仰ぎ見る」。動詞は、それぞれ人間を超越した自然(宇宙)--超越したというより、人間にはなんの配慮もしない「非情」の存在と結びつくことで、そこに噴出した「悟り」をさらに屹立させる。
「悟り」は人間のものである。けれど、「悟り」に人間はふれてはならない--というのは変な言い方だが、「悟り」とはそれに接近して触ってみて、自分にあうかどうか調べてみるようなことができないものである。たとえばマルクスの思想、ゲーテの思想--なんでもいいが、だれそれの思想にはさまざまなアプローチの仕方があり、この考え方は自分の考えを支えてくれるかなあ、と動かしてみることができるが、「悟り」に対しては人間はそんなことはできない。
ただ、それと「一体」になるかどうかだけである。
「悟り」と一体になったとき、そこには過去はない。「暁」や「霊峰」のような絶対的な超越としての世界があるだけである。
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