詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

季村敏夫『ノミトビヒヨシマルの独言』(7)

2011-03-11 23:59:59 | 詩集
季村敏夫『ノミトビヒヨシマルの独言』(7)(書肆山田、2011年01月17日発行)

 谷川俊太郎の短い詩を読んだあとなので、季村の短い詩を。「黄禍」。

「国都での会談は丸腰で臨む所存」
「国も民も、敗れて目覚めねばならぬ。わが骸(むくろ)を踏み越え、」
陸軍卿山縣有朋、軍馬局の季村平治に打電する暁

「二発のね熱球でイエローモンキーにとどめを」
「ならば国境線突破を早めましょう」
元帥の指令がウスリー河を越える八月、陸軍主計少尉季村淳一、霊
峰キナバルを仰ぎ見る

 カヴァフィス(中井久夫訳)のローマ史を題材にした作品を思い出した。歴史の瞬間、ひとの精神がどう動いたか。それは、過去をひきずったままだと、神話(?)にならない。過去を吹っ切り、「覚醒」して(悟って)、新しい時間へと踏み出すとき、強烈な存在となって、その一瞬を神話にする。

「国も民も、敗れて目覚めねばならぬ。

 このときの「敗れる」が過去を断ち切る精神である。過去を断ち切るからこそ、目覚めるのである。
 こうした精神の凝縮した世界には、「漢文体」が似合う。漢文のなかには、精神の凝縮と解放が--つまり矛盾したものが結合している。
 季村のこの詩では、その漢文体のかわりに、肩書と固有名詞がつかわれている。
 「陸軍卿山縣有朋」「軍馬局の季村平治」「陸軍主計少尉季村淳」。肩書は個人をはぎとり、個人を何ものかに従属させる。(アンデンティファイさせる。)一方、ひとりひとりの名前は、そのアイデンティティを「所属」から切り離す。名前は所属する「団体」ではなく、彼自身の「血」に結びつける。「肩書」と「名前」はいわば「矛盾」した運動をする。
 そして、この矛盾が、この詩に緊張感をもたらす。この詩を「神話」にする。つまり、無名のだれもが自分自身の精神をそのことばのなかに投げ込み、自己を超越した一回かぎりの精神を生きる--そういうことができる構造を作り上げる。
 「打電する暁」「霊峰キナバルを仰ぎ見る」。動詞は、それぞれ人間を超越した自然(宇宙)--超越したというより、人間にはなんの配慮もしない「非情」の存在と結びつくことで、そこに噴出した「悟り」をさらに屹立させる。
 「悟り」は人間のものである。けれど、「悟り」に人間はふれてはならない--というのは変な言い方だが、「悟り」とはそれに接近して触ってみて、自分にあうかどうか調べてみるようなことができないものである。たとえばマルクスの思想、ゲーテの思想--なんでもいいが、だれそれの思想にはさまざまなアプローチの仕方があり、この考え方は自分の考えを支えてくれるかなあ、と動かしてみることができるが、「悟り」に対しては人間はそんなことはできない。
 ただ、それと「一体」になるかどうかだけである。
 「悟り」と一体になったとき、そこには過去はない。「暁」や「霊峰」のような絶対的な超越としての世界があるだけである。





たまや―詩歌、俳句、写真、批評…etc. (04)
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誰も書かなかった西脇順三郎(194 )

2011-03-11 11:25:19 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。
 だれにでも起きることなのか、それともカタカナ難読症の私にだけ起きるのかわからないが、私にはときどき変なことが起きる。そこに書かれていることばが、そのことばの「意味=辞書の定義」とはまったく違ったものとして感じられることがある。
 「カミングズ」。

魚が
とけるときは
麦の中を行く
人間のへその
ひらめきの
海のきらめきを
弾く
コバルトの指は

 この最後の「コバルト」というのは「色」、日本語でいうと青という「意味」であるはずなのだが、私の意識は「コバルト」が「青」(色)にはすぐにたどりつけない。それだけではなく、「青」とわかったあとでも、「青」が目に浮かんで来ないのである。
 では、この詩から、その最後の行、「コバルト」から何を感じるかといえば、音なのである。ふいに湧き出てくる音楽の音符の錯乱のようなものを感じるのである。
 この詩が、具体的に何を書いているか、正確には言いなおせない。私は私の感じたままに、何を感じたかを書くと、西脇は麦畑を歩いている。麦秋。さわやかな五月だ。金色の麦の向こうには青い海がある。その海は若い女性の裸のようにつややかだ。海が和解女ならば、ちょっといたずら(?)をしてへそを弾いてみたい。からだの中心は、へそか性器か、難しい問題だが、へそを弾く方が性器にふれるよりも(クリトリスを弾くよりも)、婉曲的なだけエロチックである。
 そうすると、どうなるだろう。
 私のかってな解釈(誤読、--夢としてのあり方)では、女は笑う。男の幼稚さ(女に比べればいつでも男は幼稚である)を、明るく、五月の光そのもののような、軽やかな声で笑う。その笑い声の響きが「コバルト」というメロディーであり、リズムなのだ。(モーツァルトならきっと「ドレミ」で「コバルト」を軽やかな音階にしてみせるだろうと思う。)
 その音楽に色をつければ「コバルト」かというと--うーん。私は、やはりそうは思えないのである。「コバルト」に色はない。あるのは、「ひらめき」「きらめき」である。つまり、色を拒絶して反射する「純粋な光」である。

ひらめきの
海のきらめきを

 この2行で繰り返される「らめき」という音のなかにある光。それが、さらに純化されて、「コバルト」という音になる。
 「弾く」という動詞が出てくるが、「ひらめき」と「きらめき」を「弾く」と、そのふたつのことばのなかの違い「ひ」「き」という音がぶつかりあって、それまでそこに存在しなかった音、「○+らめき」ではなく、「コバルト」という音に変わる。
 なんでもいいけれど、弾くと、そのものから音が飛び出してくる。それと同じように「ひらめき」「きらめき」を弾くと「コバルト」という音が飛び出る。

 でも……。
 きっと、反論(?)が読者のなかに残ると思う。「ひらめき」「きらめき」を弾いて飛び出してくる音楽が「コバルト」というのは勝手だが、その「コバルト」は「コバルトの指は」と「指」を修飾している。「弾く」の主語が「コバルトの指」なのであって、弾かれて出てきたものが「コバルトの指」ではない。私の読み方では「主語」が無視されている、という指摘があると思う。
 そうなんだよなあ、そこが問題なんだよなあ。
 でもねえ。「弾く」という動作、そこから生まれる「音」というのは、では、弾かれた「もの」のもの? たしかにある「もの」が弾かれ、そこから音が出てくるとき、音は「もの」に帰属するようにみえるかもしれない。「もの」がないかぎり音は誕生しなかったのだから。けれど、音の誕生そのものについて言えば、「もの」だけでは音は誕生しない。弾かれることによって音が誕生する。そうすると、その音は、音を誕生させた「指」に帰属するとも言える。いま、この詩では「指」が弾いているが、何によって弾くかによって生まれる音が違うことを考えると、音は単純に弾かれた「もの」に帰属するとは言えない。弾かれる「もの」、弾く「もの」の両方に帰属する。
 で、私は、この詩の「コバルト」は、「指」そのものの「音」のように感じてしまうのだ。「コバルト」という音をもった指が弾くから、「へその/ひらめきの/海のきらめき」から「コバルト」という音が弾き出されるのだ。
 「指」は指であって指ではない。それは西脇(この詩の「麦畑を歩く人」)の指であって、指ではない。それは、世界を、この8行に結晶させる「中心」であり、同時にそれがたどりつくことのできるはるかな「永遠(遠心)」でもあるのだ。


西脇順三郎コレクション〈第6巻〉随筆集
クリエーター情報なし
慶應義塾大学出版会



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