季村敏夫『ノミトビヒヨシマルの独言』(5)(書肆山田、2011年01月17日発行)
季村敏夫『ノミトビヒヨシマルの独言』については、1月に4回感想を書いたが、書き足りない。何度も何度も、できるなら全作品を引用しながら感想を書きたいくらいである。どのことばも、ことば自身の内部をとおり、ことばの向こう側へ行こうとしている。
ことばの向こう側--そんなものはない、とひとは言うかもしれないが、だからこそ、そこへ行こうとしている。「ない」ところへ。まだ存在しない場へ。その「場」は、いまは「ない」けれど、ことばがそこへ行けば、その瞬間にそこに生まれてくる--そういう場である。
「室内楽」。
季村のことばを借りて言えば、ことばを目覚めさせるために、ことばは書かれる。「意味」のなかで死んでしまったことば、「意味」に固定されて動けなくなったことばを目覚めさせるために、季村のことばは書かれる。
コップ。これは誰もが知っていることばである。コップは、たとえば水を入れるもの、水を入れて、その水を飲むためのもの。「意味」は「定義」でもあるのだが、そのコップが、コップでなくなる瞬間がある。たしかにそこに水ははいっている。だからコップなのだが、それだけではない--そう感じるときがある。その感じによって、コップそのものを、コップではないものにする。
死んだことばと、目覚めることば。それが同じ「コップ」ということばで書かれるために、このことを説明するのはとても面倒くさい(むずかしい)のだが……。
「コップがゆれる。コップのなかの水が、かすかに、ふるえる。」たしかに、コップがゆれれば、そのなかの水はゆれる。だが、季村がこのことばを書いているとき、そのコップがほんとうにゆれているわけではない。ゆれていなけれど季村は「ゆれる」と書く。そうすると、それに反応して「コップのなかの水が、かすかに、ふるえる。」ということが起きるのである。コップの揺れが、水のふるえに変わる。そして、その変化は「かすか」である。「かすか」なものは、それに注目しないかぎり、そこには存在しない。存在するけれど、見すごされてしまう。その見すごされてしまうものを、ことばの力で、くっきりと存在させる。
この瞬間。
ことばは、越境しているのである。いままで存在しなかった「場」が、ことばによって「場」としてそこに出現している。
だから、そこからことばはさらに変わっていく。つまり、それまで存在しなかったものを、そこに出現させることで、さらに先へ進む力を獲得する。
コップがゆれる。水がふるえる。そして、そのとき「音楽」が生まれる。それも「音」の音楽ではない。「光」をあつめてできる音楽である。光のゆれ。光のふるえ。--もう、コップを見ているのか、水を見ているか、わからない。そこにあるのは、コップ? 水? それとも、それをみつめる「私」? いや、そこから始まる音楽を聞く「私」? ことばの運動は、私を、見ているのか、聞いているのかわからないというところまで連れ去ってしまう。
コップと水と光と音楽が区別がつかなくなるように、あらゆるものが区別がつかなくなる。「コップ、カップ、モップ。」その音の変化(ことばの変化)のなかに、そのことばを向き合いつづける「私」も当然含まれる。
この「身体」は「私」である。「私」ということばは書かれていないが、そのことばを書いている季村のことであり、同時に、コップ、水、光、ことばにすることで生まれてきた音楽である。
季村は「つつまれる」と受け身でことばを書いている。そのとき、では、「つつむ」能動は? 「つつむ」の「主語」は? 音楽? --「学校教科書」の文法ではそうなるかもしれない。けれども、そうなのかな? コップがゆれ、水がふるえ、そのなかにあつまめられた光が音楽になり、それが「すべて」をつつんでいるのかな? どうも、おかしい。「コップがゆれる。」の「ゆれる」は自動詞。主語はコップ。「水が(略)ふるえる。」の「ふるえる」は自動詞。主語は水。では「光を集め」の主語は? 「集める」は他動詞である。主語と目的語が必要である。目的語は「光」に間違いないだろうが、主語は? わからない。「音楽に変換している」の「変換している」の主語もわからない。 コップ? 水?
主語はないのだ。
あえていえば、ことばの運動が主語なのだ。ことばが自律して動いている。そして主語になっている。季村がことばを動かしている--と外形的には言えるかもしれないが、そうではなく、ことばが「目覚め」、かってに動いているのである。
だからこそ、「つつまれる」という表現が出てくる。
「つつむ」のは目覚め、自律的に動きはじめたことばであり、その運動のなかでは「身体(私=季村)」までもが「目的語」になる。受け身の立場になる。
こうした変化を、季村は、まるで何も起きなかったかのような静かな文体で書いてしまう。死んでしまったことばを目覚めさせる。そのために、ことばは書かれる--というようなことなど、意識されないようにして、静かに書かれる。
ことばは動く。だが、そのときコップも水も動かない。--これはほんとうである。そして、これが、詩の大きな問題である。
コップは動かない。水は動かない。したがって、そこにある光が音楽に変換する(変換される)ということも現実にはありえない。けれど、そのありえないことをことばは書くことができる。ただ書くことができるだけではなく、書いてしまうと(読んでしまうと)、それが「わかってしまう」。
「ない」。そこに「ない」ものが、「わかってしまう」。
このとき、ことばが目覚めたのか、それとも、私たちの「意識」が目覚めたのか。あるいは逆に意識は果てしない「夢」(眠り)のなかに落ち込んでしまったのか。わからない。わからないのに、そのわからないということが「わかってしまう」。
季村のことば(手紙)は、届くのか。だれの手によって、その封が切られるか--私は、その封を切ってみたいと思う。切って、そのことばを読んでいる、と思って、感想を書く。私は、いつでも「誤読」しかしないから、季村のことばが届いているとは言えないかもしれない。けれど、私は夢をみるのだ。「誤読」することで、ことばをさらに遠くへ動かしていきたい。季村のことばが季村から自立し、自律的に動き、こうやって「伝達」のまねごとをしている私からも遠く遠く去って行って、どこかでとんでもない運動を引き起こすことを。
*
もう、いくらなんでも「アマゾン」で購入できるだろうと思い、感想を書いたのだが、アマゾンの「アフリエイト」のリストには登録されていないようである。とてもおもしろい詩集なので、ぜひ、書肆山田に問い合わせて、購入し、読んでみてください。
書肆山田は
東京都豊島区南池袋2-8-5-301
電話 03-3988-7467
季村敏夫『ノミトビヒヨシマルの独言』については、1月に4回感想を書いたが、書き足りない。何度も何度も、できるなら全作品を引用しながら感想を書きたいくらいである。どのことばも、ことば自身の内部をとおり、ことばの向こう側へ行こうとしている。
ことばの向こう側--そんなものはない、とひとは言うかもしれないが、だからこそ、そこへ行こうとしている。「ない」ところへ。まだ存在しない場へ。その「場」は、いまは「ない」けれど、ことばがそこへ行けば、その瞬間にそこに生まれてくる--そういう場である。
「室内楽」。
コップがゆれる。コップのなかの水が、かすかに、ふるえる。いっ
しんに光を集め、小さな音楽に変換しているのか。コップ、カップ、
モップ。部屋にあるすべてのもの、身体まで、小さな爆発に、つつ
まれる。
(死者を目覚めさせる。そのために、手紙は書かれる。)
季村のことばを借りて言えば、ことばを目覚めさせるために、ことばは書かれる。「意味」のなかで死んでしまったことば、「意味」に固定されて動けなくなったことばを目覚めさせるために、季村のことばは書かれる。
コップ。これは誰もが知っていることばである。コップは、たとえば水を入れるもの、水を入れて、その水を飲むためのもの。「意味」は「定義」でもあるのだが、そのコップが、コップでなくなる瞬間がある。たしかにそこに水ははいっている。だからコップなのだが、それだけではない--そう感じるときがある。その感じによって、コップそのものを、コップではないものにする。
死んだことばと、目覚めることば。それが同じ「コップ」ということばで書かれるために、このことを説明するのはとても面倒くさい(むずかしい)のだが……。
「コップがゆれる。コップのなかの水が、かすかに、ふるえる。」たしかに、コップがゆれれば、そのなかの水はゆれる。だが、季村がこのことばを書いているとき、そのコップがほんとうにゆれているわけではない。ゆれていなけれど季村は「ゆれる」と書く。そうすると、それに反応して「コップのなかの水が、かすかに、ふるえる。」ということが起きるのである。コップの揺れが、水のふるえに変わる。そして、その変化は「かすか」である。「かすか」なものは、それに注目しないかぎり、そこには存在しない。存在するけれど、見すごされてしまう。その見すごされてしまうものを、ことばの力で、くっきりと存在させる。
この瞬間。
ことばは、越境しているのである。いままで存在しなかった「場」が、ことばによって「場」としてそこに出現している。
だから、そこからことばはさらに変わっていく。つまり、それまで存在しなかったものを、そこに出現させることで、さらに先へ進む力を獲得する。
いっしんに、光を集め、小さな音楽に変換しているのか。
コップがゆれる。水がふるえる。そして、そのとき「音楽」が生まれる。それも「音」の音楽ではない。「光」をあつめてできる音楽である。光のゆれ。光のふるえ。--もう、コップを見ているのか、水を見ているか、わからない。そこにあるのは、コップ? 水? それとも、それをみつめる「私」? いや、そこから始まる音楽を聞く「私」? ことばの運動は、私を、見ているのか、聞いているのかわからないというところまで連れ去ってしまう。
コップと水と光と音楽が区別がつかなくなるように、あらゆるものが区別がつかなくなる。「コップ、カップ、モップ。」その音の変化(ことばの変化)のなかに、そのことばを向き合いつづける「私」も当然含まれる。
部屋にあるすべてのもの、身体まで、小さな爆発に、つつまれる。
この「身体」は「私」である。「私」ということばは書かれていないが、そのことばを書いている季村のことであり、同時に、コップ、水、光、ことばにすることで生まれてきた音楽である。
季村は「つつまれる」と受け身でことばを書いている。そのとき、では、「つつむ」能動は? 「つつむ」の「主語」は? 音楽? --「学校教科書」の文法ではそうなるかもしれない。けれども、そうなのかな? コップがゆれ、水がふるえ、そのなかにあつまめられた光が音楽になり、それが「すべて」をつつんでいるのかな? どうも、おかしい。「コップがゆれる。」の「ゆれる」は自動詞。主語はコップ。「水が(略)ふるえる。」の「ふるえる」は自動詞。主語は水。では「光を集め」の主語は? 「集める」は他動詞である。主語と目的語が必要である。目的語は「光」に間違いないだろうが、主語は? わからない。「音楽に変換している」の「変換している」の主語もわからない。 コップ? 水?
主語はないのだ。
あえていえば、ことばの運動が主語なのだ。ことばが自律して動いている。そして主語になっている。季村がことばを動かしている--と外形的には言えるかもしれないが、そうではなく、ことばが「目覚め」、かってに動いているのである。
だからこそ、「つつまれる」という表現が出てくる。
「つつむ」のは目覚め、自律的に動きはじめたことばであり、その運動のなかでは「身体(私=季村)」までもが「目的語」になる。受け身の立場になる。
こうした変化を、季村は、まるで何も起きなかったかのような静かな文体で書いてしまう。死んでしまったことばを目覚めさせる。そのために、ことばは書かれる--というようなことなど、意識されないようにして、静かに書かれる。
なにも動いていない。コップも、コップのなかの水も。今いる部屋
も、微塵も動かない。だが遠方から、爆発音が送られたような気が
し、ふるえるおもいがとまらない。
(届くのだろうか、手紙は。封は、だれの手によって切られるのだ
ろう。)
ことばは動く。だが、そのときコップも水も動かない。--これはほんとうである。そして、これが、詩の大きな問題である。
コップは動かない。水は動かない。したがって、そこにある光が音楽に変換する(変換される)ということも現実にはありえない。けれど、そのありえないことをことばは書くことができる。ただ書くことができるだけではなく、書いてしまうと(読んでしまうと)、それが「わかってしまう」。
「ない」。そこに「ない」ものが、「わかってしまう」。
このとき、ことばが目覚めたのか、それとも、私たちの「意識」が目覚めたのか。あるいは逆に意識は果てしない「夢」(眠り)のなかに落ち込んでしまったのか。わからない。わからないのに、そのわからないということが「わかってしまう」。
季村のことば(手紙)は、届くのか。だれの手によって、その封が切られるか--私は、その封を切ってみたいと思う。切って、そのことばを読んでいる、と思って、感想を書く。私は、いつでも「誤読」しかしないから、季村のことばが届いているとは言えないかもしれない。けれど、私は夢をみるのだ。「誤読」することで、ことばをさらに遠くへ動かしていきたい。季村のことばが季村から自立し、自律的に動き、こうやって「伝達」のまねごとをしている私からも遠く遠く去って行って、どこかでとんでもない運動を引き起こすことを。
*
もう、いくらなんでも「アマゾン」で購入できるだろうと思い、感想を書いたのだが、アマゾンの「アフリエイト」のリストには登録されていないようである。とてもおもしろい詩集なので、ぜひ、書肆山田に問い合わせて、購入し、読んでみてください。
書肆山田は
東京都豊島区南池袋2-8-5-301
電話 03-3988-7467
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