詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

季村敏夫『ノミトビヒヨシマルの独言』(5)

2011-03-05 23:59:59 | 詩集
季村敏夫『ノミトビヒヨシマルの独言』(5)(書肆山田、2011年01月17日発行)

 季村敏夫『ノミトビヒヨシマルの独言』については、1月に4回感想を書いたが、書き足りない。何度も何度も、できるなら全作品を引用しながら感想を書きたいくらいである。どのことばも、ことば自身の内部をとおり、ことばの向こう側へ行こうとしている。
 ことばの向こう側--そんなものはない、とひとは言うかもしれないが、だからこそ、そこへ行こうとしている。「ない」ところへ。まだ存在しない場へ。その「場」は、いまは「ない」けれど、ことばがそこへ行けば、その瞬間にそこに生まれてくる--そういう場である。
 「室内楽」。

コップがゆれる。コップのなかの水が、かすかに、ふるえる。いっ
しんに光を集め、小さな音楽に変換しているのか。コップ、カップ、
モップ。部屋にあるすべてのもの、身体まで、小さな爆発に、つつ
まれる。

(死者を目覚めさせる。そのために、手紙は書かれる。)

 季村のことばを借りて言えば、ことばを目覚めさせるために、ことばは書かれる。「意味」のなかで死んでしまったことば、「意味」に固定されて動けなくなったことばを目覚めさせるために、季村のことばは書かれる。
 コップ。これは誰もが知っていることばである。コップは、たとえば水を入れるもの、水を入れて、その水を飲むためのもの。「意味」は「定義」でもあるのだが、そのコップが、コップでなくなる瞬間がある。たしかにそこに水ははいっている。だからコップなのだが、それだけではない--そう感じるときがある。その感じによって、コップそのものを、コップではないものにする。
 死んだことばと、目覚めることば。それが同じ「コップ」ということばで書かれるために、このことを説明するのはとても面倒くさい(むずかしい)のだが……。

 「コップがゆれる。コップのなかの水が、かすかに、ふるえる。」たしかに、コップがゆれれば、そのなかの水はゆれる。だが、季村がこのことばを書いているとき、そのコップがほんとうにゆれているわけではない。ゆれていなけれど季村は「ゆれる」と書く。そうすると、それに反応して「コップのなかの水が、かすかに、ふるえる。」ということが起きるのである。コップの揺れが、水のふるえに変わる。そして、その変化は「かすか」である。「かすか」なものは、それに注目しないかぎり、そこには存在しない。存在するけれど、見すごされてしまう。その見すごされてしまうものを、ことばの力で、くっきりと存在させる。
 この瞬間。
 ことばは、越境しているのである。いままで存在しなかった「場」が、ことばによって「場」としてそこに出現している。
 だから、そこからことばはさらに変わっていく。つまり、それまで存在しなかったものを、そこに出現させることで、さらに先へ進む力を獲得する。

いっしんに、光を集め、小さな音楽に変換しているのか。

 コップがゆれる。水がふるえる。そして、そのとき「音楽」が生まれる。それも「音」の音楽ではない。「光」をあつめてできる音楽である。光のゆれ。光のふるえ。--もう、コップを見ているのか、水を見ているか、わからない。そこにあるのは、コップ? 水? それとも、それをみつめる「私」? いや、そこから始まる音楽を聞く「私」? ことばの運動は、私を、見ているのか、聞いているのかわからないというところまで連れ去ってしまう。
 コップと水と光と音楽が区別がつかなくなるように、あらゆるものが区別がつかなくなる。「コップ、カップ、モップ。」その音の変化(ことばの変化)のなかに、そのことばを向き合いつづける「私」も当然含まれる。

部屋にあるすべてのもの、身体まで、小さな爆発に、つつまれる。

 この「身体」は「私」である。「私」ということばは書かれていないが、そのことばを書いている季村のことであり、同時に、コップ、水、光、ことばにすることで生まれてきた音楽である。
 季村は「つつまれる」と受け身でことばを書いている。そのとき、では、「つつむ」能動は? 「つつむ」の「主語」は? 音楽? --「学校教科書」の文法ではそうなるかもしれない。けれども、そうなのかな? コップがゆれ、水がふるえ、そのなかにあつまめられた光が音楽になり、それが「すべて」をつつんでいるのかな? どうも、おかしい。「コップがゆれる。」の「ゆれる」は自動詞。主語はコップ。「水が(略)ふるえる。」の「ふるえる」は自動詞。主語は水。では「光を集め」の主語は? 「集める」は他動詞である。主語と目的語が必要である。目的語は「光」に間違いないだろうが、主語は? わからない。「音楽に変換している」の「変換している」の主語もわからない。 コップ? 水?
 主語はないのだ。
 あえていえば、ことばの運動が主語なのだ。ことばが自律して動いている。そして主語になっている。季村がことばを動かしている--と外形的には言えるかもしれないが、そうではなく、ことばが「目覚め」、かってに動いているのである。
 だからこそ、「つつまれる」という表現が出てくる。
 「つつむ」のは目覚め、自律的に動きはじめたことばであり、その運動のなかでは「身体(私=季村)」までもが「目的語」になる。受け身の立場になる。
 こうした変化を、季村は、まるで何も起きなかったかのような静かな文体で書いてしまう。死んでしまったことばを目覚めさせる。そのために、ことばは書かれる--というようなことなど、意識されないようにして、静かに書かれる。

なにも動いていない。コップも、コップのなかの水も。今いる部屋
も、微塵も動かない。だが遠方から、爆発音が送られたような気が
し、ふるえるおもいがとまらない。

(届くのだろうか、手紙は。封は、だれの手によって切られるのだ
ろう。)

 ことばは動く。だが、そのときコップも水も動かない。--これはほんとうである。そして、これが、詩の大きな問題である。
 コップは動かない。水は動かない。したがって、そこにある光が音楽に変換する(変換される)ということも現実にはありえない。けれど、そのありえないことをことばは書くことができる。ただ書くことができるだけではなく、書いてしまうと(読んでしまうと)、それが「わかってしまう」。
 「ない」。そこに「ない」ものが、「わかってしまう」。
 このとき、ことばが目覚めたのか、それとも、私たちの「意識」が目覚めたのか。あるいは逆に意識は果てしない「夢」(眠り)のなかに落ち込んでしまったのか。わからない。わからないのに、そのわからないということが「わかってしまう」。

 季村のことば(手紙)は、届くのか。だれの手によって、その封が切られるか--私は、その封を切ってみたいと思う。切って、そのことばを読んでいる、と思って、感想を書く。私は、いつでも「誤読」しかしないから、季村のことばが届いているとは言えないかもしれない。けれど、私は夢をみるのだ。「誤読」することで、ことばをさらに遠くへ動かしていきたい。季村のことばが季村から自立し、自律的に動き、こうやって「伝達」のまねごとをしている私からも遠く遠く去って行って、どこかでとんでもない運動を引き起こすことを。


*

 もう、いくらなんでも「アマゾン」で購入できるだろうと思い、感想を書いたのだが、アマゾンの「アフリエイト」のリストには登録されていないようである。とてもおもしろい詩集なので、ぜひ、書肆山田に問い合わせて、購入し、読んでみてください。
書肆山田は
東京都豊島区南池袋2-8-5-301
電話 03-3988-7467


 


木端微塵
季村 敏夫
書肆山田
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ジョージ・スティーヴンス監督「シェーン」(★★)

2011-03-05 23:53:37 | 午前十時の映画祭
監督 ジョージ・スティーヴンス 出演 アラン・ラッド、ジーン・アーサー、ヴァン・ヘフリン、ブランドン・デ・ワイルド、ジャック・パランス

 私はひねくれものなのだろうか。この映画を一度もおもしろいと思ったことがない。クライマックスといっていいのかどうかわからないが、最後の酒場のシーン。シェーンを2階からライフルが狙う。そのとき、少年ジョーイが「危ない」と叫ぶ。気がついて、シェーンが振り向きざまに銃を放つ。このシーンは、まあ、許せないことはないのだが。
 その前。
 シェーンが、ジョーイの父親の代わりに酒場へ乗り込む。それをジョーイが追い掛ける。シェーンは馬に乗っている。少年は走っている。追いつける? 走り続けられる? どうみても小学校低学年、10歳以下。変だよねえ。一緒に犬もついてくるんだけれど、犬ってそんなに走る?
 映画がリアリズムである必要はないけれど、これは、あんまりだよねえ。

 途中に出てくる、暴力と自由の対立、その議論――というのも、図式的。土と生きる人間のずぶとさがなく、まるでストーリーのためのセリフ。実感がこもっていない。
 そのくせ、シェーンとジョーイの母の「恋愛」だけは、セリフではなく、肉体(顔、目の動き、体の動き)で表現するという映画の王道をつきすすむ。あらあら。これって、恋愛映画? アラン・ラッドではなく、ジーン・アーサーの演技力によるものだけれど。

 唯一の救いは、透明な空気かなあ。どこだろう、遠い山には雪が残っている。青い連山、青い山脈だ。その山の方へ向って去っていく男を、ジョーイの声が追い掛ける。「シェーィン」(シェーンじゃないね)。こだまが「シェーィン、シェーィン」と響く。これは、いいね。帰ってくるのは、こだまだけ。それも、少年の透明な声。せつない、というより、さびしい悲しさだね。
             (「午前10時の映画祭」青シリーズ5本目、福岡天神東宝)




シェーン [DVD] FRT-094
クリエーター情報なし
ファーストトレーディング
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誰も書かなかった西脇順三郎(191 )

2011-03-05 09:12:02 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。「半分」ということばは、「たそがれのまなこ」にも出てくる。知人を訪ねての帰り道。その「途中生垣をめぐらす/大きな庭を/向う側にみて」いる。その詩の後半。

ザクロの実が
重そうに枝から下がつている
なぜこの半分の風景が
心をさびしがらせるのか

 ここで「半分」と書かれているのは、ザクロに則して言えば、ザクロの全体が見えない。生け垣で半分は隠されている、ということだろう。「世界」は半分が見え、半分は見えない--そこに「さびしさ」があり、美しさがある。
 それは「意味」が完結しない、ということかもしれない。完結しないことで、「意味」の「断面」のようなものが見えるのかもしれない。その「見える」という感覚は錯覚かもしれないけれど……。きっと、半分であることで、もう半分を求めようとして何かが動くのである。その動くことのなかに、たぶん「さびしさ」と美しさがある。「動く」という運動そのもののなかに、美しさのすべてがある。

何人がこの乱れた野原のような
曲つた笛のような庭で
秋の来るのを
待つていたのだろう
この辺は昔ガスタンクを見ながら
苺に牛乳をかけてたべたところだ

 最後の2行は、この詩を「半分」にしてしまう。「現在」のなかに、突然、時間を突き破ってあらわれる「過去」である。そして、その「過去」は「この辺」というだけの理由で「現在」を突き破るのだ。
 「ガスタンク」も「苺に牛乳をかけてたべ」ることも、生け垣の向こうにある庭とは無関係である。
 無関係なものの闖入は、「乱調」である。そして、この「乱調」を促すのが「半分」という不思議な「断面」、あるいは「すきま」(間)の構造である。ここにかかれていることが、何かに完全に属していない、「半分」自由であるから、そこに乱調を誘い込むのである。




西脇順三郎と小千谷―折口信夫への序章
太田 昌孝
風媒社
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