片岡修『高岡修句集』(ジャプラン、2010年11月25日発行)
俳句について私が知っていることはとても少ない。五七五という韻律。季語。切れ字。この三つである。五七五--計17音、というのは、実に短い。
はずである。
けれど、高岡修にかかると、これがとても長い。17音という音の数自体は変わらないはずなのだが、ことばをとてもたくさん読んだ気持ちになる。ことばが多い、ことばがうるさい、という気持ちになる。
「拐わかされ」「血」「黄泉」。そのことばが、まがまがしい。自己主張しすぎる。そこに書かれている「こと」と向き合う前に、その「ことば」が前面に出てきて、「こと」を隠してしまう。「こと」と「ことば」の一体感がない、というといいすぎになるが、そこに書かれている「拐わかされ」「血」「黄泉」ということばと他のことばのバランスが均一ではない。「拐わかされ」「血」「黄泉」の重さが重すぎる。占める領域が広過ぎる。
この句には「意味」というなまなましいことばが出でくるが、高岡の句のうるさい感じ、ことばが多い感じは、そのことばが「意味」をもち過ぎるからである。
「拐わかされ」「血」「黄泉」ということばの「意味」をくぐらないと、その句の世界と向き合えない。「蝶の」の句の場合は、「意味」ということばの「意味」をくぐらないと、その句と向き合えない。
そのときの「意味」をくぐる--という意識の動きを、私はどうも、納得できない。「意味」をくぐるから、そこに「意味」の軌跡(?)ができ、その「意味の軌跡」(ことばの論理構造)が目について、あ、うるさいなあ、と感じるのである。
「意味」をくぐることを高岡は詩と感じているのかもしれないが(高岡「現代詩」の場合も同じであるが)、私は詩は「意味」をくぐったところ、「意味」をくぐって「意味」の向こうへいくことに詩があるのではなく、「意味」を拒絶する、「意味」を排除したところに詩があるのだと思う。
「意味」ではないもの、「意味」にならないものが詩なのだと思う。
「呼ばれて/睡い」ことに気がつく。--それは「世界」と「私」の一体感というよりは、「世界」と「私」の分離、断絶の発見である。そして、その「断絶」の象徴が「斧」であり、発見(意識の動き)の強調が「ひとつ」である。
ここにあるのは「意味」だらけである。
なぜ、こんなにも「意味」だらけなのか。
「意味」とは、ある存在をどのように「読む」(把握する)か、そのときの「こころ」のあり方だからである。「意味」は高岡には「こころ」なのである。
「こころ」をつたえるために、高岡は「意味」をつかうのである。「こころ」をつたえることは「意味」をつたえること--それが高岡の詩学である。
比喩、象徴--その「意味」は、高岡にとっては「こころ」なのである。
それはそれでいいのかもしれないけれど、こんなに「こころ」(意味)があふれていては、ちょっと閉口してしまう。
「こころ」というものがもしあるとすれば、隠しても隠してもあらわれてしまうものが「こころ」ではないだろうか。「意味」もおなじように、拒絶しても拒絶しても、「もの」や「こと」の奥から自然とあらわれてくるもの、自然とあらわれるのだけれど、けっしてことばにならないものが「意味」ではないだろうか。ひとが、自分の力ではもちきれない「もの」が「こころ」であり、「意味」ではないだろうか。
そして、その隠しても隠してもあらわれる「こころ」、拒んでも拒んでも形作られる「意味」が、詩、なのではないだろうか。
こういう句は、句集の中ではなく、単独で読んだならば、そのことばの運動の精密な軌跡に感動するかもしれない。けれど「意味」を強調する句にしばられて句集におさまると、高岡詩学の構造だけが露骨に浮き彫りになり、句を読んでいる感じがしなくなる。
繊細な感性、精密な比喩の論理--それもたしかに詩なのだろうけれど、それが「目的」になってはつまらない。それが「手段」になってもつまらない。適当な表現がみつからないけれど、そう思うのだ。
*
批判ばかり書いたので、気に入った句を少しあげておく。
「しののめの」は「鳥類図鑑」と「羽音」のつながりに、それこそ「意味」があるのだが、「しののめの」という古いことばがその「意味」をおしつぶし、「無意味」を自己主張している。「しののめ」にもちろん「意味」はあるが、いまはそんなことばはだれもつかわないという視点からみると、「しののめ」は「無意味」なのだ。
「鳥を飼う」は「飼う/雲のかたちの」の音の響きが美しい。「桃」「犀」は「宇宙」「犀」ということばの非日常性がいい。

俳句について私が知っていることはとても少ない。五七五という韻律。季語。切れ字。この三つである。五七五--計17音、というのは、実に短い。
はずである。
けれど、高岡修にかかると、これがとても長い。17音という音の数自体は変わらないはずなのだが、ことばをとてもたくさん読んだ気持ちになる。ことばが多い、ことばがうるさい、という気持ちになる。
拐わかされきたるや春の雲ひとつ
きさらぎという鳥の血をまぶしめり
山ざくら風は黄泉より吹き起こる
「拐わかされ」「血」「黄泉」。そのことばが、まがまがしい。自己主張しすぎる。そこに書かれている「こと」と向き合う前に、その「ことば」が前面に出てきて、「こと」を隠してしまう。「こと」と「ことば」の一体感がない、というといいすぎになるが、そこに書かれている「拐わかされ」「血」「黄泉」ということばと他のことばのバランスが均一ではない。「拐わかされ」「血」「黄泉」の重さが重すぎる。占める領域が広過ぎる。
蝶の羽化意味がことばを脱ぐように
この句には「意味」というなまなましいことばが出でくるが、高岡の句のうるさい感じ、ことばが多い感じは、そのことばが「意味」をもち過ぎるからである。
「拐わかされ」「血」「黄泉」ということばの「意味」をくぐらないと、その句の世界と向き合えない。「蝶の」の句の場合は、「意味」ということばの「意味」をくぐらないと、その句と向き合えない。
そのときの「意味」をくぐる--という意識の動きを、私はどうも、納得できない。「意味」をくぐるから、そこに「意味」の軌跡(?)ができ、その「意味の軌跡」(ことばの論理構造)が目について、あ、うるさいなあ、と感じるのである。
「意味」をくぐることを高岡は詩と感じているのかもしれないが(高岡「現代詩」の場合も同じであるが)、私は詩は「意味」をくぐったところ、「意味」をくぐって「意味」の向こうへいくことに詩があるのではなく、「意味」を拒絶する、「意味」を排除したところに詩があるのだと思う。
「意味」ではないもの、「意味」にならないものが詩なのだと思う。
春愁に呼ばれて睡い斧ひとつ
「呼ばれて/睡い」ことに気がつく。--それは「世界」と「私」の一体感というよりは、「世界」と「私」の分離、断絶の発見である。そして、その「断絶」の象徴が「斧」であり、発見(意識の動き)の強調が「ひとつ」である。
ここにあるのは「意味」だらけである。
なぜ、こんなにも「意味」だらけなのか。
山ざくら光を<かげ>と読むこころ
「意味」とは、ある存在をどのように「読む」(把握する)か、そのときの「こころ」のあり方だからである。「意味」は高岡には「こころ」なのである。
「こころ」をつたえるために、高岡は「意味」をつかうのである。「こころ」をつたえることは「意味」をつたえること--それが高岡の詩学である。
比喩、象徴--その「意味」は、高岡にとっては「こころ」なのである。
それはそれでいいのかもしれないけれど、こんなに「こころ」(意味)があふれていては、ちょっと閉口してしまう。
「こころ」というものがもしあるとすれば、隠しても隠してもあらわれてしまうものが「こころ」ではないだろうか。「意味」もおなじように、拒絶しても拒絶しても、「もの」や「こと」の奥から自然とあらわれてくるもの、自然とあらわれるのだけれど、けっしてことばにならないものが「意味」ではないだろうか。ひとが、自分の力ではもちきれない「もの」が「こころ」であり、「意味」ではないだろうか。
そして、その隠しても隠してもあらわれる「こころ」、拒んでも拒んでも形作られる「意味」が、詩、なのではないだろうか。
折り鶴をほどき一羽の死をほどく
白木蓮の息をあつめて暗くなる
こういう句は、句集の中ではなく、単独で読んだならば、そのことばの運動の精密な軌跡に感動するかもしれない。けれど「意味」を強調する句にしばられて句集におさまると、高岡詩学の構造だけが露骨に浮き彫りになり、句を読んでいる感じがしなくなる。
繊細な感性、精密な比喩の論理--それもたしかに詩なのだろうけれど、それが「目的」になってはつまらない。それが「手段」になってもつまらない。適当な表現がみつからないけれど、そう思うのだ。
*
批判ばかり書いたので、気に入った句を少しあげておく。
しののめの鳥類図鑑にある羽音
鳥を飼う雲のかたちの美容室
桃むけば宇宙を零れ落ちる水
犀と会う流砂激しい部屋にいて
「しののめの」は「鳥類図鑑」と「羽音」のつながりに、それこそ「意味」があるのだが、「しののめの」という古いことばがその「意味」をおしつぶし、「無意味」を自己主張している。「しののめ」にもちろん「意味」はあるが、いまはそんなことばはだれもつかわないという視点からみると、「しののめ」は「無意味」なのだ。
「鳥を飼う」は「飼う/雲のかたちの」の音の響きが美しい。「桃」「犀」は「宇宙」「犀」ということばの非日常性がいい。
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