高木敏次「朝」「帰り道」(「ガーネット」63、2011年03月01日)
高木敏次「朝」は、ことばをていねいに動かしている。そして、ことばが動くことで何かをみつけだすまで、根気よくあとをおいかけている。その感じがおもしろい。
3行目と4行目のあいだには、高木の、あることばが省略されている。その省略されたことばが、高木の思想である。
書き出しの3行は、少し変である。何が変化といえば、「動いていない」ということばが変である。「立像」だから動くはずがない。その動くはずがないものを「動いていない」とことばにすること--それが変である。
こういう変なところには、思想が隠れている。高木にはわかりすぎているために書くことのできなかったことばが隠れている。
それは「思う」である。
そして、もし、そこで「思う」ということばを書いてしまうと、実は、高木のことばは動いてかない。わかりすぎていることというのは、実はわからないことでもあるのだ。わかっているか、わかっていないか、区別できないことでもあるのだ。
立像は動かない。それを、動いていない、と思う。ことばにしてみる。そうすると、そのなぜ、そんなわかりきったことを書いてしまったのか、それを書かせる「こころ」(意識)は、いったい何を知りたくて、そのことばになったのか、ということが気になる。
書かなかったこと、隠していること(書かなかったとも、隠しているとも意識できないくらい高木の肉体にぴったり重なってしまっているもの)の、その奥で動いている力を知りたくて、ことばは動くのである。高木を裏切りながら、ことばのなかの力が動くのである。
立像は動いていない--と思うだけでは、ことばは満足できずに、もっとほかのことばになろうとする。
バスの中でいっしょに居合わせた人、市場の人、生徒と、ことばはむだに(?)つかわれる。いや、それは、たぶん、そういうむだなことばを捨てるために必要な「径路」なのである。余分なことを思うのは、その余分を捨てるためである。
ことばを捨てて、捨てて、捨てて、捨て去ったとき、
と、人とは無関係なことばが、ことばの奥から浮いてくる。こころの奥から、肉体の奥から浮いてくる。
図書館の立像は動いていない。けれど、それは外見的なこと。その立像の内部で「時計を正しく刻む音」が動いている。そして、その「正しい」は高木のすべてである。
「時計が正しく刻む音」ということばにまで、高木のことばが動いて行ったとき、高木は高木ではない。図書館の前の立像そのものになっている。
思うことは、私を超越することだ。ことばを動かすことは私を超越することだ。
私を超越するということは、「私ではない」存在になることである。
「思う」こと。「思う」ことを、ことばにすること。そして、そのことばが「正しい」何かにふれた時、「私は私ではない」。
そして、「私ではない」からこそ、「私」なのである。
「帰り道」は「朝」とは反対の方向から(?)書かれている作品である。
ここに書かれている「脇道」は、「朝」では、たとえばバスに乗り合わせた人、市場の人、生徒である。それらは「立像」ではない。「立像」ではないからこそ、高木のことばは、そういう人たちを通ることで、「私」を置き去りにせず、ゆっくり動くのである。
ゆっくり動きながら、「私」を脱いでいく。私を「置き去り」にするのではなく、「私」を脱ぎ、そして捨てる。そんなふうに、私を脱ぎ捨てることこそが「正しい」ことなのだ。
「思う」、「思うこと」(思い)をことばにして、自分を脱ぎ捨てることが、自分を超越することなのだ。「私」は「外部」にあるのではなく、「内部」にある。そして、その「内部」は「私」を脱ぎ捨てることき、おのずと「外部」にかわる。
「ひとりの私をしさえすればよい」というのは、変なことばだねえ。変だからこそ、しかし、そこに「思想」がある。高木によってしかことばにできない何かがある。
「私をする」というのは「私である」ということではない。「私である」から「私になる」ことである。同じ「私」ということばが繰り返されるので、どれが、どんな「私」であるか、区別するのは面倒くさくなる。わかっているのだけれど、わからないのと同じような状態になる。
最後の3行。
どこに? 鏡の中に?
そうではなく、「私を置き去りにしてまで/近道はつかわない」という行為の中に。「廊下のような」「正しい」「脇道」を歩いている行為の中に。余分なことをしながら、余分を捨てるという行為の中に。
行為の中に「いる」ということは、「行為」をすることで、私に「なる」ということと同じである。
高木敏次「朝」は、ことばをていねいに動かしている。そして、ことばが動くことで何かをみつけだすまで、根気よくあとをおいかけている。その感じがおもしろい。
図書館で見た立像は
昨日から
動いていない
この前バスで
どこへ行くのか
私の隣にすわっている人のように
人前で
何も話さないと
もっと見ていたいと思った
いつも
私をうながすようにうなずきながら
朝の市場にいる人
とはちがい
机で寝ている生徒の前でする
話ともちがう
時計が正しく刻む音
が聞こえるように思う
3行目と4行目のあいだには、高木の、あることばが省略されている。その省略されたことばが、高木の思想である。
書き出しの3行は、少し変である。何が変化といえば、「動いていない」ということばが変である。「立像」だから動くはずがない。その動くはずがないものを「動いていない」とことばにすること--それが変である。
こういう変なところには、思想が隠れている。高木にはわかりすぎているために書くことのできなかったことばが隠れている。
それは「思う」である。
そして、もし、そこで「思う」ということばを書いてしまうと、実は、高木のことばは動いてかない。わかりすぎていることというのは、実はわからないことでもあるのだ。わかっているか、わかっていないか、区別できないことでもあるのだ。
立像は動かない。それを、動いていない、と思う。ことばにしてみる。そうすると、そのなぜ、そんなわかりきったことを書いてしまったのか、それを書かせる「こころ」(意識)は、いったい何を知りたくて、そのことばになったのか、ということが気になる。
書かなかったこと、隠していること(書かなかったとも、隠しているとも意識できないくらい高木の肉体にぴったり重なってしまっているもの)の、その奥で動いている力を知りたくて、ことばは動くのである。高木を裏切りながら、ことばのなかの力が動くのである。
立像は動いていない--と思うだけでは、ことばは満足できずに、もっとほかのことばになろうとする。
バスの中でいっしょに居合わせた人、市場の人、生徒と、ことばはむだに(?)つかわれる。いや、それは、たぶん、そういうむだなことばを捨てるために必要な「径路」なのである。余分なことを思うのは、その余分を捨てるためである。
ことばを捨てて、捨てて、捨てて、捨て去ったとき、
時計が正しく刻む音
と、人とは無関係なことばが、ことばの奥から浮いてくる。こころの奥から、肉体の奥から浮いてくる。
図書館の立像は動いていない。けれど、それは外見的なこと。その立像の内部で「時計を正しく刻む音」が動いている。そして、その「正しい」は高木のすべてである。
「時計が正しく刻む音」ということばにまで、高木のことばが動いて行ったとき、高木は高木ではない。図書館の前の立像そのものになっている。
思うことは、私を超越することだ。ことばを動かすことは私を超越することだ。
朝から
私ではない
私を超越するということは、「私ではない」存在になることである。
「思う」こと。「思う」ことを、ことばにすること。そして、そのことばが「正しい」何かにふれた時、「私は私ではない」。
そして、「私ではない」からこそ、「私」なのである。
「帰り道」は「朝」とは反対の方向から(?)書かれている作品である。
予定表に書き込んだ
一日がそれを忘れさせてくれる
執着はしない
鏡に映っているものははがせない
風景は重ねられる
だから帰り続ける
私を置き去りにしてまで
近道は使わない
廊下のような
脇道こそが正しい
ここに書かれている「脇道」は、「朝」では、たとえばバスに乗り合わせた人、市場の人、生徒である。それらは「立像」ではない。「立像」ではないからこそ、高木のことばは、そういう人たちを通ることで、「私」を置き去りにせず、ゆっくり動くのである。
ゆっくり動きながら、「私」を脱いでいく。私を「置き去り」にするのではなく、「私」を脱ぎ、そして捨てる。そんなふうに、私を脱ぎ捨てることこそが「正しい」ことなのだ。
「思う」、「思うこと」(思い)をことばにして、自分を脱ぎ捨てることが、自分を超越することなのだ。「私」は「外部」にあるのではなく、「内部」にある。そして、その「内部」は「私」を脱ぎ捨てることき、おのずと「外部」にかわる。
記憶されねばならないのは
朝、目を覚ましたこと
今日も
ひとりの私をしさえすればよい
「ひとりの私をしさえすればよい」というのは、変なことばだねえ。変だからこそ、しかし、そこに「思想」がある。高木によってしかことばにできない何かがある。
「私をする」というのは「私である」ということではない。「私である」から「私になる」ことである。同じ「私」ということばが繰り返されるので、どれが、どんな「私」であるか、区別するのは面倒くさくなる。わかっているのだけれど、わからないのと同じような状態になる。
最後の3行。
鏡を見れば
帰り道をさがしている
私がいる
どこに? 鏡の中に?
そうではなく、「私を置き去りにしてまで/近道はつかわない」という行為の中に。「廊下のような」「正しい」「脇道」を歩いている行為の中に。余分なことをしながら、余分を捨てるという行為の中に。
行為の中に「いる」ということは、「行為」をすることで、私に「なる」ということと同じである。