詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

豊原清明「たんぽぽの婦人」

2011-03-28 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
豊原清明「たんぽぽの婦人」(「白黒目」28、2011年03月発行)

 03月11日、東日本を巨大地震が襲った。だれも体験したことのないことなので、ことばはなかなか動かない。阪神大震災のあと、季村敏夫は「ことばは遅れてやってくる」と書いたが、ことばはいつでも遅れてしか動けない。
 豊原清明「たんぽぽの婦人」は、その動けないことばを何とか動かしている。

おーい、たんぽぽ
日本列島、大地震の知らせばかりだぞお
そろそろ お前さんが
やってきて、
陽気に俳句を、と
思うとった
我が子の死に
泣くひとと
世界の地面の叫びとなって
お前は どこで咲くのかね

 そうだねえ。自然はある意味で非情である。人間の哀しみを無視して動いている。季節がくれば、たんぽぽが咲く。そして、そのたんぽぽに、ひとは何らかの思いを託す。そこに何かの意味を見出そうとする。たんぽぽは、亡くなった子どのかわりに咲くのか、哀しみの叫びとなって咲くのか……。
 でも、なかなかそんなふうには思えない。そういう「意味」に、ことばは動いてくれない。大地震の衝撃、そこで奪われたいのちや暮らしがあまりに大きすぎて、ことばとそれを受け止めることはできない。
 「たんぽぽ」の抒情(?)では、絶望はすくいきれない。

 ことばは、どう動くことができるか。

今頃、親戚のひとは、
たんぽ~ぽ~
ぽうねんと
ほうぽう
てんと おてんとさまは
お腹を空かしてイルノダヨ
オモチも食えずに
兎くんに お願いしましたら
ぽぽう ぽんぽん
砧を打って 月で本を読んでいる

 ここに書かれていることは、私にははっきりとはわからない。わからないというのは「意味」として私自身のことばに置き換えて自分の中に取り込むことができないという意味である。豊原の書いていることばと、私の肉体は、ここでは手を結ばない。「和解」しない。
 では、反発するのか。豊原のことばを拒絶するために、私自身のことばが動きだすのか、といえば、そうでもない。
 立ち止まってしまう。
 どうしていいか、わからない。
 わからないけれど、私の肉体は豊原のことばに接近していく。「たんぽぽ」を頼りに、なんとかことばを動かしたい。ことばを動かさないことには、自分自身が押しつぶされてしまう。その苦しみと豊原が向き合っている--そう感じてしまう。「意味」ではなく、豊原の「肉体」が見える。(私は豊原に会ったことはないから「肉体」が見えるといっても、これは比喩なのだが……。)
 「たんぽ~ぽ~」「ぽうねん」「ほうぽう」「てんと」「おてんとさま」「ぽぽう」「ぽんぽん」--この「音」だけのことば、「意味」になっていないことば、それを「肉体」で動かしている豊原が見える。
 「意味」に追いつけないことばが、それでも「音」を出して、何かを守ろうとしている。そういうことを感じる。
 大地震の絶望に、「たんぽ~ぽ~」「ぽうねん」「ほうぽう」「てんと」「おてんとさま」「ぽぽう」「ぽんぽん」という「音」はふさわしくないかもしれない。けれど、その「ふさわしくない」という感じの奥底に、どういえばいいのだろう、絶望しても絶望しても生きてしまうというか、死を乗り越えてしまう力と共鳴するものがあると思う。感じるのだ。ひとは死ぬが、一方でひとは死なない。ひとは悲しむが、一方で喜ぶ。大勢のひとが亡くなることは悲しむべきことだが、いま私が生きているということはうれしいことである。そして、いま私が生きているといううれしさがあるから、またひとのいのちが奪われたことが悲しいのである。--肉体はいつでも矛盾の中にある。
 その矛盾のなかで「意味」にならないものが、ことばの輪郭をなくしたまま「音」として動く。「音」をたよりに、どこかへ動こうとしている。

ぽんぽん たんたん
とんとん
おはよう おはよう
ふふふと笑って
ぽんたん ぽんちゃん
ランドセル抱えて
花を見ている
ふぃーん ふぃーんと
いななきながら
おやすみ~

 「ぽんぽん たんたん」は「たんぽぽ」という「音」から生まれたものだろう。その前に出てきた「ぽうねん」「ほうぽう」「ぽぽう」も「たんぽぽ」が「ぽんぽん たんたん」になるために必要な「径路」だったのかもしれない。「兎」は「たんぽぽ」の綿毛の印象から生まれたきたものかもしれない。それも「ぽんぽん たんたん」という「音」が生まれるための「径路」だったのかもしれない。
 「ぽんぽん たんたん」という「音」が生まれるのか、それともそういう「音」になるのか、あるいは、そういう「音」の源へ還るのか--よくわからない。
 私がわかる(感じる)のは、あ、ことばがことばになるまでは、ことばは「音」そのものとして生きるしかない、ということだ。そして、こういう「音」そのものとして生きているときのことば、肉体を、たいていのひとは書かない。多くの詩人は書かない。けれど、豊原は書いてしまうのだ。
 書かなければ、たぶん、豊原の肉体は暴走する。その暴走する力を受け止めるために豊原のことばは動いている。そう感じる。

ふぃーん ふぃーんと
いななきながら

 これは、たんぽぽから生まれた兎くんの「声」なのか。私には、豊原自身の「声」のようにも思える。「音」にしかならない「声」、ことば以前の、ことばにならろうとする哀しみ--それに対して、豊原は「おやすみ~」と呼び掛ける。
 それは豊原自身への呼びかけであるし、また多くの被災者への、豊原のせいいっぱいの「ことば」でもある。「おやすみ~」と言われても、被災者の絶望、哀しみは眠ることはできないだろう。そうわかっていても、「おやすみ~」というしかない。

 ほかに、どんなことばがある? 眠って、もう一度目覚めて、生きること。それ以外に、何ができるのか--それを「ことば」にすること、「意味」にすることは簡単ではない。
 その簡単ではないことに向き合う--そのことから豊原ははじめている。


 


夜の人工の木
豊原 清明
青土社



人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平田俊子「ゆれるな」

2011-03-28 19:21:06 | 詩(雑誌・同人誌)
平田俊子「ゆれるな」(「読売新聞」2011年03月28日朝刊)

 東北巨大地震について詩人は何を語れるか。
 平田俊子が「ゆれる」という詩を書いている。

ゆれるね
きょうもゆれてるね
地球が荒ぶるゆりかこだったとは
知らなかった代
おとなも子どもも眠らせない
意地悪なゆりかごだったとは

三月なんだよ 春なんだよ
春眠あかつきを覚えない
優しい季節のはずなのに
今年の春は
ひとをゆさぶり
眠らせまいとする

地球よ お前は
いつの日も
愉快にまわるだけでいい
ゆれるのは
風に吹かれる花や
庭の洗濯物にまかせて
お前はいつも
無邪気にまわれ

地球をゆらすものは
泡となって消えろ
ゆれるな
れるな
るな


な!

 誰も経験をしたことがないものに出合ったとき、ことばは動かない。ひとは自在にことばを動かして思いを語っているようで、自在ではない。自分の知っていることばしか使えない。わからないことが起きた時は、ことばが動き回って、どんなことばになることができるか探しまわっている。
 2連目の「春眠あかつきを覚えない」はもちろん「春眠あかつきを覚えず」という詩から来ているのだが、「意味」はまったく違う。まったく違う「意味」を語るにも、知っていることばを使うしかない――いまは、それしかできない。いや、この詩の中では、漢詩にあるとおりの「春眠あかつきを覚えない/優しい季節」という「意味」につかわれているのだが、そこには「あかつきを覚えない」、つらい地震後の思いが流れ込み、「意味」をゆさぶる。知っていることばと、知らないことがぶつかりあって、平田をゆさぶる。それこそ、平田のことば自身が「大地震」を起こすのだが、悲しいねえ、意識は大揺れ、肉体も大揺れ、感情の大揺れなのに、ことばがその大揺れの通りには大揺れにならない。揺らせるものなら揺らして、大地震と向き合いたい、大地震をはねのけたい。けれど、できない。
 それが、再終連。

ゆれるな

 そう言いたい。でも、それではことばが不十分。向き合えない。で、ことばが壊れる。平田のことばが壊れる。それでも、言いたい。言わずにいられない。「ゆれるな」を超える、もっと、もっと、もっと、強いことばを。東北の地震は「ゆれる」を超えている――平田の知っている「ゆれる」を超えている。だから「ゆれるな」ではダメなんだ。
 でも、それはどんなことば?
 わからない。わからないまま、ことばは壊れ「な」だけになってしまう。「○○するな」の「○○」にあてはまることばを探したい、探して届けたい――その思いが残される。
 ここに「現代」よりももっと厳しい「現実・現在」がある。
 平田のこの詩は「現在詩」なのである。



 松浦寿輝は「毎日新聞」2011年3月28日夕刊の「詩の波 詩の岸辺」という時評のなかで、巨大地震にふれて書いている。

 亡くなられた方々のことを考えると心が痛む。収束の見通しも立たない原発事故の行く末は恐ろしい。しかし、悲嘆も恐怖も、実はまだ心の底に固くこごったままで、どんな言葉を口にしても嘘(うそ)臭(くさ)くしか響かない。血なまぐさい修羅場と化した波打ち際の光景からどんな詩が生まれるのか、生まれうるのか、わたしにはまだ見当もつかない。
 しかし、それでも詩は持続する。

 そして「田村隆一全集」に触れている。その指摘は、松浦らしい詩的だが、その指摘の前に置かれた「それでも詩は持続する」に、松浦の「願い」がある。それは「持続したい」と言い直せば、松浦の決意になる。
 そうなのだ、どんなときでも、詩人は書かなければならない。
 平田の作品のように、ことばがみつからず「な/な/な!」であっても。





詩七日
平田 俊子
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする