豊原清明「たんぽぽの婦人」(「白黒目」28、2011年03月発行)
03月11日、東日本を巨大地震が襲った。だれも体験したことのないことなので、ことばはなかなか動かない。阪神大震災のあと、季村敏夫は「ことばは遅れてやってくる」と書いたが、ことばはいつでも遅れてしか動けない。
豊原清明「たんぽぽの婦人」は、その動けないことばを何とか動かしている。
そうだねえ。自然はある意味で非情である。人間の哀しみを無視して動いている。季節がくれば、たんぽぽが咲く。そして、そのたんぽぽに、ひとは何らかの思いを託す。そこに何かの意味を見出そうとする。たんぽぽは、亡くなった子どのかわりに咲くのか、哀しみの叫びとなって咲くのか……。
でも、なかなかそんなふうには思えない。そういう「意味」に、ことばは動いてくれない。大地震の衝撃、そこで奪われたいのちや暮らしがあまりに大きすぎて、ことばとそれを受け止めることはできない。
「たんぽぽ」の抒情(?)では、絶望はすくいきれない。
ことばは、どう動くことができるか。
ここに書かれていることは、私にははっきりとはわからない。わからないというのは「意味」として私自身のことばに置き換えて自分の中に取り込むことができないという意味である。豊原の書いていることばと、私の肉体は、ここでは手を結ばない。「和解」しない。
では、反発するのか。豊原のことばを拒絶するために、私自身のことばが動きだすのか、といえば、そうでもない。
立ち止まってしまう。
どうしていいか、わからない。
わからないけれど、私の肉体は豊原のことばに接近していく。「たんぽぽ」を頼りに、なんとかことばを動かしたい。ことばを動かさないことには、自分自身が押しつぶされてしまう。その苦しみと豊原が向き合っている--そう感じてしまう。「意味」ではなく、豊原の「肉体」が見える。(私は豊原に会ったことはないから「肉体」が見えるといっても、これは比喩なのだが……。)
「たんぽ~ぽ~」「ぽうねん」「ほうぽう」「てんと」「おてんとさま」「ぽぽう」「ぽんぽん」--この「音」だけのことば、「意味」になっていないことば、それを「肉体」で動かしている豊原が見える。
「意味」に追いつけないことばが、それでも「音」を出して、何かを守ろうとしている。そういうことを感じる。
大地震の絶望に、「たんぽ~ぽ~」「ぽうねん」「ほうぽう」「てんと」「おてんとさま」「ぽぽう」「ぽんぽん」という「音」はふさわしくないかもしれない。けれど、その「ふさわしくない」という感じの奥底に、どういえばいいのだろう、絶望しても絶望しても生きてしまうというか、死を乗り越えてしまう力と共鳴するものがあると思う。感じるのだ。ひとは死ぬが、一方でひとは死なない。ひとは悲しむが、一方で喜ぶ。大勢のひとが亡くなることは悲しむべきことだが、いま私が生きているということはうれしいことである。そして、いま私が生きているといううれしさがあるから、またひとのいのちが奪われたことが悲しいのである。--肉体はいつでも矛盾の中にある。
その矛盾のなかで「意味」にならないものが、ことばの輪郭をなくしたまま「音」として動く。「音」をたよりに、どこかへ動こうとしている。
「ぽんぽん たんたん」は「たんぽぽ」という「音」から生まれたものだろう。その前に出てきた「ぽうねん」「ほうぽう」「ぽぽう」も「たんぽぽ」が「ぽんぽん たんたん」になるために必要な「径路」だったのかもしれない。「兎」は「たんぽぽ」の綿毛の印象から生まれたきたものかもしれない。それも「ぽんぽん たんたん」という「音」が生まれるための「径路」だったのかもしれない。
「ぽんぽん たんたん」という「音」が生まれるのか、それともそういう「音」になるのか、あるいは、そういう「音」の源へ還るのか--よくわからない。
私がわかる(感じる)のは、あ、ことばがことばになるまでは、ことばは「音」そのものとして生きるしかない、ということだ。そして、こういう「音」そのものとして生きているときのことば、肉体を、たいていのひとは書かない。多くの詩人は書かない。けれど、豊原は書いてしまうのだ。
書かなければ、たぶん、豊原の肉体は暴走する。その暴走する力を受け止めるために豊原のことばは動いている。そう感じる。
これは、たんぽぽから生まれた兎くんの「声」なのか。私には、豊原自身の「声」のようにも思える。「音」にしかならない「声」、ことば以前の、ことばにならろうとする哀しみ--それに対して、豊原は「おやすみ~」と呼び掛ける。
それは豊原自身への呼びかけであるし、また多くの被災者への、豊原のせいいっぱいの「ことば」でもある。「おやすみ~」と言われても、被災者の絶望、哀しみは眠ることはできないだろう。そうわかっていても、「おやすみ~」というしかない。
ほかに、どんなことばがある? 眠って、もう一度目覚めて、生きること。それ以外に、何ができるのか--それを「ことば」にすること、「意味」にすることは簡単ではない。
その簡単ではないことに向き合う--そのことから豊原ははじめている。
03月11日、東日本を巨大地震が襲った。だれも体験したことのないことなので、ことばはなかなか動かない。阪神大震災のあと、季村敏夫は「ことばは遅れてやってくる」と書いたが、ことばはいつでも遅れてしか動けない。
豊原清明「たんぽぽの婦人」は、その動けないことばを何とか動かしている。
おーい、たんぽぽ
日本列島、大地震の知らせばかりだぞお
そろそろ お前さんが
やってきて、
陽気に俳句を、と
思うとった
我が子の死に
泣くひとと
世界の地面の叫びとなって
お前は どこで咲くのかね
そうだねえ。自然はある意味で非情である。人間の哀しみを無視して動いている。季節がくれば、たんぽぽが咲く。そして、そのたんぽぽに、ひとは何らかの思いを託す。そこに何かの意味を見出そうとする。たんぽぽは、亡くなった子どのかわりに咲くのか、哀しみの叫びとなって咲くのか……。
でも、なかなかそんなふうには思えない。そういう「意味」に、ことばは動いてくれない。大地震の衝撃、そこで奪われたいのちや暮らしがあまりに大きすぎて、ことばとそれを受け止めることはできない。
「たんぽぽ」の抒情(?)では、絶望はすくいきれない。
ことばは、どう動くことができるか。
今頃、親戚のひとは、
たんぽ~ぽ~
ぽうねんと
ほうぽう
てんと おてんとさまは
お腹を空かしてイルノダヨ
オモチも食えずに
兎くんに お願いしましたら
ぽぽう ぽんぽん
砧を打って 月で本を読んでいる
ここに書かれていることは、私にははっきりとはわからない。わからないというのは「意味」として私自身のことばに置き換えて自分の中に取り込むことができないという意味である。豊原の書いていることばと、私の肉体は、ここでは手を結ばない。「和解」しない。
では、反発するのか。豊原のことばを拒絶するために、私自身のことばが動きだすのか、といえば、そうでもない。
立ち止まってしまう。
どうしていいか、わからない。
わからないけれど、私の肉体は豊原のことばに接近していく。「たんぽぽ」を頼りに、なんとかことばを動かしたい。ことばを動かさないことには、自分自身が押しつぶされてしまう。その苦しみと豊原が向き合っている--そう感じてしまう。「意味」ではなく、豊原の「肉体」が見える。(私は豊原に会ったことはないから「肉体」が見えるといっても、これは比喩なのだが……。)
「たんぽ~ぽ~」「ぽうねん」「ほうぽう」「てんと」「おてんとさま」「ぽぽう」「ぽんぽん」--この「音」だけのことば、「意味」になっていないことば、それを「肉体」で動かしている豊原が見える。
「意味」に追いつけないことばが、それでも「音」を出して、何かを守ろうとしている。そういうことを感じる。
大地震の絶望に、「たんぽ~ぽ~」「ぽうねん」「ほうぽう」「てんと」「おてんとさま」「ぽぽう」「ぽんぽん」という「音」はふさわしくないかもしれない。けれど、その「ふさわしくない」という感じの奥底に、どういえばいいのだろう、絶望しても絶望しても生きてしまうというか、死を乗り越えてしまう力と共鳴するものがあると思う。感じるのだ。ひとは死ぬが、一方でひとは死なない。ひとは悲しむが、一方で喜ぶ。大勢のひとが亡くなることは悲しむべきことだが、いま私が生きているということはうれしいことである。そして、いま私が生きているといううれしさがあるから、またひとのいのちが奪われたことが悲しいのである。--肉体はいつでも矛盾の中にある。
その矛盾のなかで「意味」にならないものが、ことばの輪郭をなくしたまま「音」として動く。「音」をたよりに、どこかへ動こうとしている。
ぽんぽん たんたん
とんとん
おはよう おはよう
ふふふと笑って
ぽんたん ぽんちゃん
ランドセル抱えて
花を見ている
ふぃーん ふぃーんと
いななきながら
おやすみ~
「ぽんぽん たんたん」は「たんぽぽ」という「音」から生まれたものだろう。その前に出てきた「ぽうねん」「ほうぽう」「ぽぽう」も「たんぽぽ」が「ぽんぽん たんたん」になるために必要な「径路」だったのかもしれない。「兎」は「たんぽぽ」の綿毛の印象から生まれたきたものかもしれない。それも「ぽんぽん たんたん」という「音」が生まれるための「径路」だったのかもしれない。
「ぽんぽん たんたん」という「音」が生まれるのか、それともそういう「音」になるのか、あるいは、そういう「音」の源へ還るのか--よくわからない。
私がわかる(感じる)のは、あ、ことばがことばになるまでは、ことばは「音」そのものとして生きるしかない、ということだ。そして、こういう「音」そのものとして生きているときのことば、肉体を、たいていのひとは書かない。多くの詩人は書かない。けれど、豊原は書いてしまうのだ。
書かなければ、たぶん、豊原の肉体は暴走する。その暴走する力を受け止めるために豊原のことばは動いている。そう感じる。
ふぃーん ふぃーんと
いななきながら
これは、たんぽぽから生まれた兎くんの「声」なのか。私には、豊原自身の「声」のようにも思える。「音」にしかならない「声」、ことば以前の、ことばにならろうとする哀しみ--それに対して、豊原は「おやすみ~」と呼び掛ける。
それは豊原自身への呼びかけであるし、また多くの被災者への、豊原のせいいっぱいの「ことば」でもある。「おやすみ~」と言われても、被災者の絶望、哀しみは眠ることはできないだろう。そうわかっていても、「おやすみ~」というしかない。
ほかに、どんなことばがある? 眠って、もう一度目覚めて、生きること。それ以外に、何ができるのか--それを「ことば」にすること、「意味」にすることは簡単ではない。
その簡単ではないことに向き合う--そのことから豊原ははじめている。
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