谷川俊太郎「まどろみ」(「朝日新聞」2011年03月07日夕刊)
谷川俊太郎「まどろみ」は短い詩である。「誤読」しようもない、とてもわかりやすい詩である。老人がまどろんでいて、それから目覚める。目覚めるといっても、まどろみからの目覚めなので、何かが大きく変わるというものではないはずなのだが……。
時系列に言えば「老いはまどろむ」「老いは夢見る」「老いは目覚める」とごく自然な流れである。老人がまどろんでいて、その夢の中でほのかな光をみる。それを世界の和解のように感じる。そして、その一瞬の和解ののちに目覚める。そのとき自分が自分であることを忘れていた。いまがいつなのか、一瞬わからなくなった--というようなことが書かれている。
と、わかるのだが、私はそれだけでは満足できないのだ。
3連目が、単なる「目覚め」とは思えないのだ。目覚めた瞬間、はっとして、自分を見失う--夢との落差に落ち込んで自分がわからなくなる、いまがいつなのかわからなくなる。夢の世界の場所、事件、時間が目覚めた世界へはみ出してきて、現実が一瞬わからなくなる--そういうことは、私も経験している。この詩は、そして、意味的にはそういうことを書いているはずなのだが……。
あ、同じことを繰り返してしまった。
3連目を読んだとき、私は、あ、これは単なるまどろみからの目覚めではない、と直感的に感じた。夢から現実への目覚めではなく、現実から真実への目覚め、覚醒、悟りのように感じたのである。
3連目の「自らを忘れ」は自己への固執から解き放たれ、である。それは「忘れる」というより、無くす、に近い。「無我」である。
「時を忘れ」は時の束縛を忘れ、である。つまり、「永遠」である。
まどろみから目覚めた瞬間、谷川の描いている老人は「無我」「永遠」のなかに、悟りとして存在している。それは此岸であって此岸ではない。
彼岸である。
1連目の「星辰を友として」という超越的な時空、2連目の「一寸先の闇にひそむ/ほのかな光」というあくまでも抽象的な存在、「世界と和解」という、これも抽象的な認識--それが「現実」への目覚めではなく、悟りへの目覚めへと誘う。
そこから、私は「まどろみ」へひきかえす。
まどろむとき、ひとは「自らを忘れる」、そして「時を忘れる」。そして、そうやって引き返したとき、「まどろみ」と「悟り」がまったく同じものになる。
悟り、あるいは永遠の真理は、彼岸にあるのではない。いま、ここに、ある。
--この認識が、この作品を緊張感のあるものにしている。
老人が縁側でうつらうつらしている。それから、はっと気がついて目覚めた--というスケッチを超えることばの運動にしている。
谷川俊太郎「まどろみ」は短い詩である。「誤読」しようもない、とてもわかりやすい詩である。老人がまどろんでいて、それから目覚める。目覚めるといっても、まどろみからの目覚めなので、何かが大きく変わるというものではないはずなのだが……。
老いはまどろむ
記憶とともに
草木とともに
家猫のかたわらで
星辰(せいしん)を友として
老いは夢見る
一寸先の闇にひそむ
ほのかな光を
まどろみのうちに
世界の和解として
老いは目覚める
自らを忘れて
時を忘れて
時系列に言えば「老いはまどろむ」「老いは夢見る」「老いは目覚める」とごく自然な流れである。老人がまどろんでいて、その夢の中でほのかな光をみる。それを世界の和解のように感じる。そして、その一瞬の和解ののちに目覚める。そのとき自分が自分であることを忘れていた。いまがいつなのか、一瞬わからなくなった--というようなことが書かれている。
と、わかるのだが、私はそれだけでは満足できないのだ。
3連目が、単なる「目覚め」とは思えないのだ。目覚めた瞬間、はっとして、自分を見失う--夢との落差に落ち込んで自分がわからなくなる、いまがいつなのかわからなくなる。夢の世界の場所、事件、時間が目覚めた世界へはみ出してきて、現実が一瞬わからなくなる--そういうことは、私も経験している。この詩は、そして、意味的にはそういうことを書いているはずなのだが……。
あ、同じことを繰り返してしまった。
3連目を読んだとき、私は、あ、これは単なるまどろみからの目覚めではない、と直感的に感じた。夢から現実への目覚めではなく、現実から真実への目覚め、覚醒、悟りのように感じたのである。
3連目の「自らを忘れ」は自己への固執から解き放たれ、である。それは「忘れる」というより、無くす、に近い。「無我」である。
「時を忘れ」は時の束縛を忘れ、である。つまり、「永遠」である。
まどろみから目覚めた瞬間、谷川の描いている老人は「無我」「永遠」のなかに、悟りとして存在している。それは此岸であって此岸ではない。
彼岸である。
1連目の「星辰を友として」という超越的な時空、2連目の「一寸先の闇にひそむ/ほのかな光」というあくまでも抽象的な存在、「世界と和解」という、これも抽象的な認識--それが「現実」への目覚めではなく、悟りへの目覚めへと誘う。
そこから、私は「まどろみ」へひきかえす。
まどろむとき、ひとは「自らを忘れる」、そして「時を忘れる」。そして、そうやって引き返したとき、「まどろみ」と「悟り」がまったく同じものになる。
悟り、あるいは永遠の真理は、彼岸にあるのではない。いま、ここに、ある。
--この認識が、この作品を緊張感のあるものにしている。
老人が縁側でうつらうつらしている。それから、はっと気がついて目覚めた--というスケッチを超えることばの運動にしている。
二十億光年の孤独 (集英社文庫 た 18-9) | |
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