詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎「まどろみ」

2011-03-10 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「まどろみ」(「朝日新聞」2011年03月07日夕刊)

 谷川俊太郎「まどろみ」は短い詩である。「誤読」しようもない、とてもわかりやすい詩である。老人がまどろんでいて、それから目覚める。目覚めるといっても、まどろみからの目覚めなので、何かが大きく変わるというものではないはずなのだが……。

老いはまどろむ
記憶とともに
草木とともに
家猫のかたわらで
星辰(せいしん)を友として

老いは夢見る
一寸先の闇にひそむ
ほのかな光を
まどろみのうちに
世界の和解として

老いは目覚める
自らを忘れて
時を忘れて

 時系列に言えば「老いはまどろむ」「老いは夢見る」「老いは目覚める」とごく自然な流れである。老人がまどろんでいて、その夢の中でほのかな光をみる。それを世界の和解のように感じる。そして、その一瞬の和解ののちに目覚める。そのとき自分が自分であることを忘れていた。いまがいつなのか、一瞬わからなくなった--というようなことが書かれている。
 と、わかるのだが、私はそれだけでは満足できないのだ。
 3連目が、単なる「目覚め」とは思えないのだ。目覚めた瞬間、はっとして、自分を見失う--夢との落差に落ち込んで自分がわからなくなる、いまがいつなのかわからなくなる。夢の世界の場所、事件、時間が目覚めた世界へはみ出してきて、現実が一瞬わからなくなる--そういうことは、私も経験している。この詩は、そして、意味的にはそういうことを書いているはずなのだが……。
 あ、同じことを繰り返してしまった。

 3連目を読んだとき、私は、あ、これは単なるまどろみからの目覚めではない、と直感的に感じた。夢から現実への目覚めではなく、現実から真実への目覚め、覚醒、悟りのように感じたのである。
 3連目の「自らを忘れ」は自己への固執から解き放たれ、である。それは「忘れる」というより、無くす、に近い。「無我」である。
 「時を忘れ」は時の束縛を忘れ、である。つまり、「永遠」である。
 まどろみから目覚めた瞬間、谷川の描いている老人は「無我」「永遠」のなかに、悟りとして存在している。それは此岸であって此岸ではない。
 彼岸である。
 1連目の「星辰を友として」という超越的な時空、2連目の「一寸先の闇にひそむ/ほのかな光」というあくまでも抽象的な存在、「世界と和解」という、これも抽象的な認識--それが「現実」への目覚めではなく、悟りへの目覚めへと誘う。

 そこから、私は「まどろみ」へひきかえす。
 まどろむとき、ひとは「自らを忘れる」、そして「時を忘れる」。そして、そうやって引き返したとき、「まどろみ」と「悟り」がまったく同じものになる。
 悟り、あるいは永遠の真理は、彼岸にあるのではない。いま、ここに、ある。
 --この認識が、この作品を緊張感のあるものにしている。
 老人が縁側でうつらうつらしている。それから、はっと気がついて目覚めた--というスケッチを超えることばの運動にしている。





二十億光年の孤独 (集英社文庫 た 18-9)
谷川 俊太郎
集英社
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アレハンドロ・アメナーバル監督「アレクサンドリア」(★★★★★)

2011-03-10 21:35:26 | 映画
監督 アレハンドロ・アメナーバル 出演 レイチェル・ワイズ、マックス・ミンゲラ、オスカー・アイザック

 いわゆるコスチューム・プレイなのだが……。忘れてしまいます。4 世紀末のエジプトのアレクサンドリアであることを。宗教が対立し、図書館が破壊される。この図書館を「文明・文化」と置き換えるならば、これはそのまま「現代」。そこに繰り広げられる、宗教と哲学の対立。差別。さまざまな駆け引き。--いやあ、おもしろいですねえ。
 「現代」の問題を、アレハンドロ・アメナーバル4世紀のアレクサンドリアを舞台に借りたのは、「虚構(?)」の方が問題点をすっきりと浮き彫りにできるからなんですねえ。「アザーズ」では「死後の世界」を描くことで「見えないけれど、ある、存在するもの」として描いていたが、この映画では4世紀から「現代」を描くことで、「いまあるもの、現在」を描いていることになる。
 そして、そういう「うるさい」ことを「うるさい」感じをもたせないために、実にリアルに4世紀を再現する。これは「アザーズ」でリアルに「死後の世界」を描いたのと同じ。リアルさで、ほんとうは「現代(現実)」を描いているということを忘れさせる。簡単に言うと、「映画」の「見せ物」の世界へ、ぐいっと観客を引っ張って行ってしまう。いろいろな「現実」の問題を描きながら、あくまで「見せ物」として見せてしまう。
 立派だなあ。この職人芸。
 で、その「見せ物」として見せてしまう力として古代都市の再現があるのはもちろんなのだが、それ以上に、これはやっぱり主人公ヒュパティアにレイチェル・ワイズを起用したこと。男よりも(恋愛よりも)哲学と宇宙の真理(法則)を愛した女性。しかし、彼女はただの「学者」ではなく、魅力的。知的だが、冷たくはない。クールではあるかもしれないけれど、人間の柔らかさを感じさせる。どこかに「甘さ」を感じさせる。ヒュパティアが美貌であったか、やさしい人間であったか--それは問題ではない。アレハンドロ・アメナーバルはヒュパティアに、レイチェル・ワイズの肉体を重ねることで、ヒュパティアをとても魅力的にした。「真理(知)」により近づいている人間なら、それが「奴隷」であろうと、「学者」として対等に向き合う。学問を離れてしまうと、「奴隷」に戻されてしまうのだが、学問と接しているあいだは、ひととひととの区別をしない。宗教ももちろん、人間を区別するものとはならない。彼女にとっては、ただ「知」だけが、ある人と別のひとを区別する「基準」なのだ。
 でもね、その「基準」。とんでもないブスだったら、それが通る。けれど、その「基準」を主張する女性が、美貌で、やさしくて、どこか甘い感じがするなら……あ、男はばかだから、彼女が大切にしている「基準」をわきにおいて、男の欲望をも生きてしまう。「知」に向き合いながら、同時に自分の欲望をうまくわけることができない。この映画では「知」と「肉体」を区別できないのは、女性ではなく、男なのである。だからねえ、そこに嫉妬も入ってくる。
 とても聡明で、ヒュパティアからも一定の評価を与えられている「奴隷」も、彼女は自分を「奴隷」と呼んだ、自分のことなど結局は省みてくれない、自分の愛は彼女には届かない--と知ったときから、彼女を愛する、彼女を守るのではなく、彼女を憎んでしまう。
 ヒュパティアの教え子のひとりは、同じ生徒の男がヒュパティアに愛を打ち明けたというだけで、ヒュパティアも相手の男も憎んでしまう。尊敬することを忘れてしまう。こういうなまなましい愛憎が、宗教と入り交じりながら、時代そのものを動かしていく。
 いやあ、ほんとうにおもしろい。

 そして、この複雑な人間関係が、そのまま地球の軌道が「楕円」であることの発見と重なる。太陽が夏に近づき、冬に遠ざかるように見える。円は宇宙の完全な真理の象徴だが、地球の動きは円の軌道に乗らない。なぜ? 中心がふたつあるからだ。ふたつの中心からの距離を一定にして円を描くと楕円になる--という発見につながる。地球は楕円軌道を描いているという発見になる。
 ふたつの中心。たとえば映画では「エジプトの神」と「キリスト教」というふたつの中心が、楕円を描けずにひとつの円の主張によって、他を排斥する。「キリスト教」と「ユダヤ教」におんても同じ。うまく楕円を描くことができれば「和解」があるはずなのに、キリスト教の「中心」がユダヤ教の「中心」を消し去り、キリスト教の「円」に世界を閉じ込めてしまう。
 その最大の悲劇が「宗教」と「哲学」というふたつの中心の問題である。「宗教(キリスト教)」が「哲学」という中心を排斥する。そこに「男性」と「女性」という問題がくわわり、男の「中心」が選ばれ、女性の「中心」が抹殺される。
 ふたつある「中心」のひとつを排斥し、ひとつの「中心」だけ残し、「円」を描く。そうすることで世界を完結するという暴力。この映画は、他者を排斥することで、自己の世界を完結させることの危険性を描いているのだ。
 最後に、図書館の円の吹き抜け天井が映し出されるが、その円は円としてではなく楕円として映像化される。少し視点をずらせば、円は楕円になるからね。この映像に、アレハンドロ・アメナーバルの思想が集約されている。
 アレハンドロ・アメナーバルは世界の調和は楕円を想定することで成り立つと主張しているのである。

 ちょっと面倒なことばかり書いてしまったけれど、これはほんとうにおもしろい映画である。古代都市はどうやって撮影したのか知らないが、ほこりっぽい感じ、空気の手触りまで「古代」になっているのがすごい。多用される俯瞰のカメラ、動き回る人間の、逃げるものと襲い掛かるものの動きのリズムの違い、暴動の質感など、どの映像も「手抜き」がない。図書館が襲われ、本が焼かれるシーンなど、私は思わず中国の文化大革命を思い出してしまったが--知というものはいつでも為政者にとっては邪魔者なんだねえ。知こそが何にも変えられない「自由」そのものなんだねえ。あ、また、面倒なことを書いてしまったなあ。
 面倒なことは読まなかったことにして、古代都市と群集劇と、レイチェル・ワイズを見るだけでいいから、ぜひ、見てね。
               (福岡・中州大洋--この映画館はスクリーンが暗い)


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誰も書かなかった西脇順三郎(193 )

2011-03-10 20:24:23 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。
 私は「意味」のわからないことばに出会うのが好きだ。「意味」がわからないと、肉体と精神はどう動くか。
 たとえば「元」。

あけぼのに開く土に
みみ傾けるとき
失われた郷愁の夢を
追う心はもどつてくる

 2行目の「みみ傾けるとき」。「意味」がわからない。いや、「みみ傾けるとき」そのものの意味はわかる。聞く、という意味だ。けれど「あけぼのに開く土に/みみ傾けるとき」とは、どういうこと?
 「あけぼのに開く土」も、ほんとうは「意味」がわからない。なんとなく、あけぼのになって、つまり夜が明るんできたとき、土がぼんやり見えてくるくらいの「意味」だと思う。そして、そう思うからこそ「みみ傾ける」がわからない。夜明け、夜の底がぼんやり明るくなり、土が見えてくる--なら、その「見えてくる」の「主体」は「みみ」ではなく「目」であるべきだ。と、私は思う。「あけぼのに開く土に/目を向けるとき」なら「意味」はすっきりする。
 けれど、西脇は「みみ傾けるとき」と書いている。
 このとき、私の肉体はどう動くか。
 目は一瞬見えなくなる。いま、目の前にあるもの、たとえば本のページ--それは見えているのだが、それを私は見ていない。見えているものと、「あけぼのに開く土」ということばが一致しない。さらに「あけぼのに開く土に/みみ傾けるとき」となると、見えているものとことばがさらにかけ離れてしまう。何も見えない。
 そして、見えないことがわかると、次に私は目をつむってしまう。目が開いていてもことばと重なるものが何も見えないなら、目をつむって、いま見えているものを消してしまった方が「見る」という行為に近づくと感じるからだ。(あ、変な論理だねえ。)そして、目をつむると--不思議。耳の奥に、暗がりから浮かび上がる大地がぼんやり見えてくる。目をつむっているのだから目が見ているのではない。では、何が見ている? 「みみ」が見ている、私は瞬間的に思う。
 というより、思わされる、という方がいいか。「思わされる」というのは変な言い方だ。言いなおすと、西脇の「みみ傾けるとき」という行の「みみ」ということばが影響して、その「みみ」で聞くのではなく、見てしまうのだ。「みみ」で見てしまったと感じてしまうのだ。
 私の肉体は、「誤読」するのだ。肉体、その器官が、自分の役割を越えて、他の領域に入っていく。「みみ」が「聞く」という領域を越えて、「見る」のなかで世界をつかみ取っている。あ、「みみ」でも「もの」を見ることができるんだ、と私の肉体は錯覚する。「みみ」が「みみ」であることをやめて、「みみ」自身を「目」と誤読してしまう。
 「みみ」と「目」の区別がなくなってしまう。
 したがって、(したがって、というのはきっと変なつかい方になっていると思うのだが……)、「みみ」は「みみ」以外の領域へ突き進んでゆく。

失われた郷愁の夢を
追う心はもどつてくる

 「郷愁の夢」。抽象的に書かれている。なんのことかよくわからない。けれど「夢」ということばに誘われて、肉体の主役は「みみ」から「目」へ戻って生きている。「目」が、失われた郷愁の夢を見るのだ。
 目、みみ、目が、気がつけば、次々に自己主張している。「わけがわからなくなる」。わけがわからないのだけれど、この目、みみ、というものをいちいち区別せずに、「目」で聞いてもいいし、「みみ」で見てもかまわないというのが、「肉体」なんだなあ、と思うのである。
 暗がりなら、手さぐりで場を見る、爆音で鼓膜が敗れたときは(私はそんな体験はないのだが)目でものの動きから音を聞くということもできる。それが「肉体」の力である。そういう力とどこかで触れ合っていることば--そのことばのなかには、きっと「こころ」というものがあるのだ。「肉体のこころ」である。

失われた郷愁の夢を
追う心はもどつてくる

 このときの「追う心」--それは、私には、人間の手足をもったものとして見える。だから、そのことばのあとに、「足音」という表現が出てくるが、ごく自然なことに感じられる。

ああまた人間のそこ知れない
流浪の足音に
さそわれてあわれにも
ふるさとの壁にうつる
あたらしい露を桜の酒杯にのむ

 わからないものは、みんな「肉体」が消化する。もちろん「肉体」では消化できないものもある。それは、ほんとうにわからない。「頭」で考え直さないと、絶対にわからない。私は、まあ、そういうものに近づくだけの「頭」がないので、敬遠して、「肉体」でつかみとれるものにだけ接近して、それを楽しむ。


西脇順三郎コレクション〈第4巻〉評論集1―超現実主義詩論 シュルレアリスム文学論 輪のある世界 純粋な鴬
クリエーター情報なし
慶應義塾大学出版会



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