詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

大西美千代「内省する」

2011-03-27 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
大西美千代「内省する」(「橄欖」90、2011年03月20日発行)

 大西美千代「内省する」のことばは、私のわきをすっと過ぎていく。その素早い感じに視線が誘われ、ついていってしまう。

私の中の悪いものがペロリと出て
ちょっと出かけてくるよ
というふうに首をかしげて
目の前の路地に入っていった

すうすうする
私の中の悪いものの赤い尻尾を見送って
うなじのあたりから風邪をひきこみそうだ
いつの間にか世界の音が消えている
内省する。
内省すると
風邪をひくのだろうか

 「私の中の悪いもの」。それが何かわからない。わからないけれど、何かがわかる。「ペロリと出」る感じ、「ちょっと出かけてくるよ」という声、「首をかしげ」る姿が見える。見えるから、「目の前の路地」が、そのまま納得できる。
 「主語」がわからないのに(私の中の悪いもの--を「主語」と私は思って読んでいるのだが)、それ以外のものがわかる。聞こえる。見える。私の行ったことのない「路地」さえも、見える。見えるだけではなく、そこに書いていない匂いまで感じるような気がする。「主語」以外のものが全部、リアルに感じられる。
 これが1連目。
 そして、その1連目が過ぎると、「主語」がふいに変わってしまう。

すうすうする

 すうすうするのは「私の中の悪いもの」ではないなあ。「私」そのものだなあ。それがすぐに納得できる。
 読み返すと、1連目は、「私の中の悪いもの」の動きを描きながら、それを見ている(聞いている)「私」を描いている。「私」の「肉体」をこそ描いているのだ。
 「私の中の悪いもの」の動きを見ている視線としての肉体、「ちょっ出かけてくるよ」という聞こえない声を聞いてしまう耳、首をかしげるときの、その肉体の動きがもってしまう「意味」をつかみ取る肉体--それを描いている。
 そこに肉体が描かれているからこそ、「すうすうする」が「私」の「肉体」の感じてあるとわかるのだ。
 この「私の中の悪いもの」という抽象的な「主語」から、「肉体」そのものへの変化の素早さ、そして、その肉体を「うなじのあたりから風邪をひきこみそう」と書くことで、肉付けしていくその素早さ--あ、いいなあ。
 この「肉体」があるから、「内省」がリアルになる。「内省」と「私の中の悪いもの」が一致するのか、それともまったく反対のものなのか--これは、とても難しいが、そういう難しいことはどうでもいいのだ。「肉体」があって、「すうすうする」感じがあって、「風邪をひく」という感じがあって--それは、どうやら「内省する」というこころの動き(?)が「肉体」に残す刻印のようなものなのだ。
 この「刻印」を克明に追っていけば、まあ、「哲学」の本が書けるかもしれない。これも、面倒なので、省略。
 私がいまいちばん関心を持っていることについて書いておく。

いつの間にか世界の音が消えている

 この1行。これはなんだろうなあ。なぜ、この1行を書いたのかなあ。この1行にはふたつの問題が隠されている。「いつの間にか」の「間」と、「世界の音が消えている」の「音」。で、いまの私には「音」の方か関心があるので、そのことを書く。
 なぜ、ここで「音」?
 わからないね。
 わからないから、そこに「思想」がある。「音」と書かなければいられない何かがある。「いつの間にか世界から色が消えている」「線が消えている」「高さが消えている」「においが消えいている」ではなく、「音が消えている」。
 「音」は、大西にとって、世界と肉体をつなぐ何かなのだ。そして、それはもしかすると「私の中の悪いもの」と関係があるかもしれない。私のなかから何かが出て行ったとき、世界から「音」が消える。そして、その「音」が消えたとき、何かを奪われたような寒い感じ--すうすうするがあり、それが肉体に影響して「風邪」になる。
 「音」は「私の中の悪いもの」といっしょに「私の中」から出ていってしまった。路地に入っていってしまった。

 それから、どうなる?

やがて
しんと沈んだ路地の向こうから
じょじょに子どもの笑い声が聞こえてくる
男や女の声が響いてくる
この場所でひとり
からっぽの私はふいに歳を取り
とてもいい人になり
誰も愛さなければ自由に生きていけるということに気が付いて
愕然とする 

 「音」は「音」が消えたむこうからやってくる。「音」が「肉体」にではなく、まわりに満ちてくる。そのとき「私」は「からっぽ」であることを、強く実感する。「からっぽ」は「すうすうする」でもある。
 このとき「私」と「音」は分離している。この「分離」の意識が「愛」とつながるんだろうなあ。--でも、これはちょっと「倫理的」でおもしろくないなあ。「とてもいい人になり」からの3行は、詩としてはおもしろくない。(大西は、それを書きたいのかどうか、よくわからない。ことばが動かなくなって、ついつい書いてしまったのかもしれない。--そう思いたい。)

 「音」が私から出ていって、別の音が遠くからやってくる。どうなるんだろう。

近所をぐるりと回って
人生のきれぎれを尻尾にくっつけて
それは帰ってくる
最良のものと最悪のものをコレクションしてきて
少しやさしくなっている

私は飲みこんだのだろうかあるいは
飲みこまれたのだろうか
いずれにせよ音は戻ってきた
何ほどのこともない浅春の午後
ふと雲が動いて日が陰る

 うーん。大西に異義をとなえてもしようがないけれど、「音は戻ってきた」というのはほんとうかなあ。
 最初の2連のことばのスピード、動き方(変化の大きさ)と後半ではずいぶん違っている。「とてもいい人になり」からあとは「意味」がことばを支配していて風邪を引きこんだ「肉体」もどこかへ消えてしまっている。
 「音」がいつのまにか「意味」の中心になっていて、「論理」がことばを動かしている。それが、後半がつまらない原因だと思う。

 「音」はきっと「論理」(意味構造)からもっとも遠いところにあるのだと思う。あるいは深いところにあるのだと思う。そして、矛盾した言い方になるがもっとも遠いからもっとも近い、もっとも深いからもっとも浅いところにある。言い換えると、「肉体」のどの部分にもからみつくようにして生きている。ペロリと出る舌にも、かしげた首の傾きにも、目にも、うなじにも--というのも「音」とは「ことば」が「ことば」になる前のもの、「未生のことば」だからである。
 それは、大西が書いているように、「しんと沈んだ露地の向こうから」あらわれるとき、それに呼応するようにして大西の「肉体」の感覚がからみあった「場」からもわき上がったくるものだと思うけれど--思いたいのだけれど、音の消えてしまった「肉体」から沈黙を破って「音」が噴出してくる感じを、大西は書きそびれている。

 そんなことを大西は書こうとしていない。私の読み方は「誤読」である--という指摘があるだろう。それは承知している。でも、もしそれを大西が書いてくれたら、私はうれしいなあ。そういうものを書いてもらいたい、と思うから、その思いを「誤読」に込めるのである。
 前半はとてもおもしろい。その前半の勢いをずーっと持続して、「音」を大西の肉体からあふれさせ、露地の向こうからやってくる「子ども」や「男や女の声」を押し返したときが、ほんとうに「音は戻ってきた」と言えるときなのではないのだろうか。




詩集 てのひらをあてる (21世紀詩人叢書)
大西 美千代
土曜美術社出版販売



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アッバス・キアロスタミ監督「友だちのうちはどこ?」(★★★★)

2011-03-27 21:37:23 | 午前十時の映画祭
監督 アッバス・キアロスタミ 出演 ババク・アハマッドプール、アハマッド・アハマッドプール、ホダバフシュ・デファイ

 冒頭のシーンがとても美しい。小学校の教室。ドア。風(?)のためにゆれている。ゆれるたびに、柱にコツンコツンとぶつかる。その小さな動き。その映像が美しい。スクリーンを分割するドアと柱の左右のバランスが美しいのだ。そして、その分割された画面の中の、古びたドアのペンキの色。ノブ(取っ手、ということばの方がぴったりくるかなあ)の手触り。そこにある「時間」そのものが美しい。--そして、この美しいというのはリアリティーがあるということと同じ意味である。
 アッバス・キアロスタミというのはリアリティーがあるということであり、リアリティーがあるということは、そこに「蓄積された時間」がある、つまり「暮らし」があるということでもある。
 庭に洗濯物を干す。そのときのたとえばシャツの掛け方、そしてその空間にシャツが占めることによって起きる空間のバランスの変化--そういうことは繰り返されることによってある「安定」を形作る。それがそのままスクリーンに定着する。それが美しい。
 一階と二階のバランス、階段の角度、その板の古びた感じ、何もかもが絵になる。何もかもが「時間」をもって、そこで生きている。少年が友だちの家を探しに行くその村(?)の石の階段、露地、古びた石造りの感じの肌触り。そこに漂う空気や、家の仕事を手伝う子どもの動き、ぶらぶら歩いている犬さえ、「蓄積された時間」をかかえていて、とても美しい。主人公の少年の祖父をはじめ、何人も登場する老人たちも、「蓄積された時間」そのものである。「哲学」をもっている。その「哲学」に共鳴するかどうかは別の問題だが、きちんと「哲学」にいたるまで「ことば」のなかに「蓄積された時間」をもっているのが美しい。「蓄積された時間」が表情となって、自然ににじみでるのである。

 この映画はノートを友だちのうちにとどけに行く少年を追いかけるようにして動いているが、それとは別に語られる「ドア」の変化もおもしろい。最初に教室のドアの美しさを書いたが、少年をひっかきまわすのは「ドア職人」である。ドア職人はロバに乗った中年と、老人と二人出てくる。二人が出てくることで「ドア」そのものにも「時間」が生まれる。いまの職人(中年の職人)のつくるドア、老人がつくるドアの違い。中年の方は「鉄」の方に力を入れている。老人はあいかわらず木の手作りのドア(窓、といった方がいいかもしれない)にこだわっている。鉄の方は堅く閉ざされ内部が見えない。木の方は飾りの透かしから明かりが洩れる。何も見えないものと、何かが見えるもの--見えるものの方が、美しい、という「時間」がそこにある。
 主人公の少年は、見えるものと見えないもののあいだを行ったり来たりする。ノートの持ち主の少年のうちはどこ? わかるっていることがある(見えているものがある)一方、わからないこと(みえないこと)がある。そのために、あっちへ行ったりこっちへ行ったりするのだ。そうすることで、少年は自分のなかにある「時間」を発見する。自分がその「時間」をつかって何ができるか--それを発見する。
 とてもおもしろいねえ。
 そして、その「発見」の瞬間--というか、その「発見」を導くように、窓が開く(ドアが開く)。これもいいなあ。
 さらに、さらに。
 最後の最後。宿題のノート。それを開くと、そこには、老人のドアつくり職人がくれた路傍の花が「押し花」のしおりになって挟まっている。その美しさ。「時間」を抱え込んで、その「時間」がそのまま色と形になっている。
 アッバス・キアロスタミは、どんなものでは「映像」に変えてしまう。美しい映像にしてしまう監督である。
         (「午前10時の映画祭」青シリーズ08本目、天神東宝、03月25日)




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