大西美千代「内省する」(「橄欖」90、2011年03月20日発行)
大西美千代「内省する」のことばは、私のわきをすっと過ぎていく。その素早い感じに視線が誘われ、ついていってしまう。
「私の中の悪いもの」。それが何かわからない。わからないけれど、何かがわかる。「ペロリと出」る感じ、「ちょっと出かけてくるよ」という声、「首をかしげ」る姿が見える。見えるから、「目の前の路地」が、そのまま納得できる。
「主語」がわからないのに(私の中の悪いもの--を「主語」と私は思って読んでいるのだが)、それ以外のものがわかる。聞こえる。見える。私の行ったことのない「路地」さえも、見える。見えるだけではなく、そこに書いていない匂いまで感じるような気がする。「主語」以外のものが全部、リアルに感じられる。
これが1連目。
そして、その1連目が過ぎると、「主語」がふいに変わってしまう。
すうすうするのは「私の中の悪いもの」ではないなあ。「私」そのものだなあ。それがすぐに納得できる。
読み返すと、1連目は、「私の中の悪いもの」の動きを描きながら、それを見ている(聞いている)「私」を描いている。「私」の「肉体」をこそ描いているのだ。
「私の中の悪いもの」の動きを見ている視線としての肉体、「ちょっ出かけてくるよ」という聞こえない声を聞いてしまう耳、首をかしげるときの、その肉体の動きがもってしまう「意味」をつかみ取る肉体--それを描いている。
そこに肉体が描かれているからこそ、「すうすうする」が「私」の「肉体」の感じてあるとわかるのだ。
この「私の中の悪いもの」という抽象的な「主語」から、「肉体」そのものへの変化の素早さ、そして、その肉体を「うなじのあたりから風邪をひきこみそう」と書くことで、肉付けしていくその素早さ--あ、いいなあ。
この「肉体」があるから、「内省」がリアルになる。「内省」と「私の中の悪いもの」が一致するのか、それともまったく反対のものなのか--これは、とても難しいが、そういう難しいことはどうでもいいのだ。「肉体」があって、「すうすうする」感じがあって、「風邪をひく」という感じがあって--それは、どうやら「内省する」というこころの動き(?)が「肉体」に残す刻印のようなものなのだ。
この「刻印」を克明に追っていけば、まあ、「哲学」の本が書けるかもしれない。これも、面倒なので、省略。
私がいまいちばん関心を持っていることについて書いておく。
この1行。これはなんだろうなあ。なぜ、この1行を書いたのかなあ。この1行にはふたつの問題が隠されている。「いつの間にか」の「間」と、「世界の音が消えている」の「音」。で、いまの私には「音」の方か関心があるので、そのことを書く。
なぜ、ここで「音」?
わからないね。
わからないから、そこに「思想」がある。「音」と書かなければいられない何かがある。「いつの間にか世界から色が消えている」「線が消えている」「高さが消えている」「においが消えいている」ではなく、「音が消えている」。
「音」は、大西にとって、世界と肉体をつなぐ何かなのだ。そして、それはもしかすると「私の中の悪いもの」と関係があるかもしれない。私のなかから何かが出て行ったとき、世界から「音」が消える。そして、その「音」が消えたとき、何かを奪われたような寒い感じ--すうすうするがあり、それが肉体に影響して「風邪」になる。
「音」は「私の中の悪いもの」といっしょに「私の中」から出ていってしまった。路地に入っていってしまった。
それから、どうなる?
「音」は「音」が消えたむこうからやってくる。「音」が「肉体」にではなく、まわりに満ちてくる。そのとき「私」は「からっぽ」であることを、強く実感する。「からっぽ」は「すうすうする」でもある。
このとき「私」と「音」は分離している。この「分離」の意識が「愛」とつながるんだろうなあ。--でも、これはちょっと「倫理的」でおもしろくないなあ。「とてもいい人になり」からの3行は、詩としてはおもしろくない。(大西は、それを書きたいのかどうか、よくわからない。ことばが動かなくなって、ついつい書いてしまったのかもしれない。--そう思いたい。)
「音」が私から出ていって、別の音が遠くからやってくる。どうなるんだろう。
うーん。大西に異義をとなえてもしようがないけれど、「音は戻ってきた」というのはほんとうかなあ。
最初の2連のことばのスピード、動き方(変化の大きさ)と後半ではずいぶん違っている。「とてもいい人になり」からあとは「意味」がことばを支配していて風邪を引きこんだ「肉体」もどこかへ消えてしまっている。
「音」がいつのまにか「意味」の中心になっていて、「論理」がことばを動かしている。それが、後半がつまらない原因だと思う。
「音」はきっと「論理」(意味構造)からもっとも遠いところにあるのだと思う。あるいは深いところにあるのだと思う。そして、矛盾した言い方になるがもっとも遠いからもっとも近い、もっとも深いからもっとも浅いところにある。言い換えると、「肉体」のどの部分にもからみつくようにして生きている。ペロリと出る舌にも、かしげた首の傾きにも、目にも、うなじにも--というのも「音」とは「ことば」が「ことば」になる前のもの、「未生のことば」だからである。
それは、大西が書いているように、「しんと沈んだ露地の向こうから」あらわれるとき、それに呼応するようにして大西の「肉体」の感覚がからみあった「場」からもわき上がったくるものだと思うけれど--思いたいのだけれど、音の消えてしまった「肉体」から沈黙を破って「音」が噴出してくる感じを、大西は書きそびれている。
そんなことを大西は書こうとしていない。私の読み方は「誤読」である--という指摘があるだろう。それは承知している。でも、もしそれを大西が書いてくれたら、私はうれしいなあ。そういうものを書いてもらいたい、と思うから、その思いを「誤読」に込めるのである。
前半はとてもおもしろい。その前半の勢いをずーっと持続して、「音」を大西の肉体からあふれさせ、露地の向こうからやってくる「子ども」や「男や女の声」を押し返したときが、ほんとうに「音は戻ってきた」と言えるときなのではないのだろうか。
大西美千代「内省する」のことばは、私のわきをすっと過ぎていく。その素早い感じに視線が誘われ、ついていってしまう。
私の中の悪いものがペロリと出て
ちょっと出かけてくるよ
というふうに首をかしげて
目の前の路地に入っていった
すうすうする
私の中の悪いものの赤い尻尾を見送って
うなじのあたりから風邪をひきこみそうだ
いつの間にか世界の音が消えている
内省する。
内省すると
風邪をひくのだろうか
「私の中の悪いもの」。それが何かわからない。わからないけれど、何かがわかる。「ペロリと出」る感じ、「ちょっと出かけてくるよ」という声、「首をかしげ」る姿が見える。見えるから、「目の前の路地」が、そのまま納得できる。
「主語」がわからないのに(私の中の悪いもの--を「主語」と私は思って読んでいるのだが)、それ以外のものがわかる。聞こえる。見える。私の行ったことのない「路地」さえも、見える。見えるだけではなく、そこに書いていない匂いまで感じるような気がする。「主語」以外のものが全部、リアルに感じられる。
これが1連目。
そして、その1連目が過ぎると、「主語」がふいに変わってしまう。
すうすうする
すうすうするのは「私の中の悪いもの」ではないなあ。「私」そのものだなあ。それがすぐに納得できる。
読み返すと、1連目は、「私の中の悪いもの」の動きを描きながら、それを見ている(聞いている)「私」を描いている。「私」の「肉体」をこそ描いているのだ。
「私の中の悪いもの」の動きを見ている視線としての肉体、「ちょっ出かけてくるよ」という聞こえない声を聞いてしまう耳、首をかしげるときの、その肉体の動きがもってしまう「意味」をつかみ取る肉体--それを描いている。
そこに肉体が描かれているからこそ、「すうすうする」が「私」の「肉体」の感じてあるとわかるのだ。
この「私の中の悪いもの」という抽象的な「主語」から、「肉体」そのものへの変化の素早さ、そして、その肉体を「うなじのあたりから風邪をひきこみそう」と書くことで、肉付けしていくその素早さ--あ、いいなあ。
この「肉体」があるから、「内省」がリアルになる。「内省」と「私の中の悪いもの」が一致するのか、それともまったく反対のものなのか--これは、とても難しいが、そういう難しいことはどうでもいいのだ。「肉体」があって、「すうすうする」感じがあって、「風邪をひく」という感じがあって--それは、どうやら「内省する」というこころの動き(?)が「肉体」に残す刻印のようなものなのだ。
この「刻印」を克明に追っていけば、まあ、「哲学」の本が書けるかもしれない。これも、面倒なので、省略。
私がいまいちばん関心を持っていることについて書いておく。
いつの間にか世界の音が消えている
この1行。これはなんだろうなあ。なぜ、この1行を書いたのかなあ。この1行にはふたつの問題が隠されている。「いつの間にか」の「間」と、「世界の音が消えている」の「音」。で、いまの私には「音」の方か関心があるので、そのことを書く。
なぜ、ここで「音」?
わからないね。
わからないから、そこに「思想」がある。「音」と書かなければいられない何かがある。「いつの間にか世界から色が消えている」「線が消えている」「高さが消えている」「においが消えいている」ではなく、「音が消えている」。
「音」は、大西にとって、世界と肉体をつなぐ何かなのだ。そして、それはもしかすると「私の中の悪いもの」と関係があるかもしれない。私のなかから何かが出て行ったとき、世界から「音」が消える。そして、その「音」が消えたとき、何かを奪われたような寒い感じ--すうすうするがあり、それが肉体に影響して「風邪」になる。
「音」は「私の中の悪いもの」といっしょに「私の中」から出ていってしまった。路地に入っていってしまった。
それから、どうなる?
やがて
しんと沈んだ路地の向こうから
じょじょに子どもの笑い声が聞こえてくる
男や女の声が響いてくる
この場所でひとり
からっぽの私はふいに歳を取り
とてもいい人になり
誰も愛さなければ自由に生きていけるということに気が付いて
愕然とする
「音」は「音」が消えたむこうからやってくる。「音」が「肉体」にではなく、まわりに満ちてくる。そのとき「私」は「からっぽ」であることを、強く実感する。「からっぽ」は「すうすうする」でもある。
このとき「私」と「音」は分離している。この「分離」の意識が「愛」とつながるんだろうなあ。--でも、これはちょっと「倫理的」でおもしろくないなあ。「とてもいい人になり」からの3行は、詩としてはおもしろくない。(大西は、それを書きたいのかどうか、よくわからない。ことばが動かなくなって、ついつい書いてしまったのかもしれない。--そう思いたい。)
「音」が私から出ていって、別の音が遠くからやってくる。どうなるんだろう。
近所をぐるりと回って
人生のきれぎれを尻尾にくっつけて
それは帰ってくる
最良のものと最悪のものをコレクションしてきて
少しやさしくなっている
私は飲みこんだのだろうかあるいは
飲みこまれたのだろうか
いずれにせよ音は戻ってきた
何ほどのこともない浅春の午後
ふと雲が動いて日が陰る
うーん。大西に異義をとなえてもしようがないけれど、「音は戻ってきた」というのはほんとうかなあ。
最初の2連のことばのスピード、動き方(変化の大きさ)と後半ではずいぶん違っている。「とてもいい人になり」からあとは「意味」がことばを支配していて風邪を引きこんだ「肉体」もどこかへ消えてしまっている。
「音」がいつのまにか「意味」の中心になっていて、「論理」がことばを動かしている。それが、後半がつまらない原因だと思う。
「音」はきっと「論理」(意味構造)からもっとも遠いところにあるのだと思う。あるいは深いところにあるのだと思う。そして、矛盾した言い方になるがもっとも遠いからもっとも近い、もっとも深いからもっとも浅いところにある。言い換えると、「肉体」のどの部分にもからみつくようにして生きている。ペロリと出る舌にも、かしげた首の傾きにも、目にも、うなじにも--というのも「音」とは「ことば」が「ことば」になる前のもの、「未生のことば」だからである。
それは、大西が書いているように、「しんと沈んだ露地の向こうから」あらわれるとき、それに呼応するようにして大西の「肉体」の感覚がからみあった「場」からもわき上がったくるものだと思うけれど--思いたいのだけれど、音の消えてしまった「肉体」から沈黙を破って「音」が噴出してくる感じを、大西は書きそびれている。
そんなことを大西は書こうとしていない。私の読み方は「誤読」である--という指摘があるだろう。それは承知している。でも、もしそれを大西が書いてくれたら、私はうれしいなあ。そういうものを書いてもらいたい、と思うから、その思いを「誤読」に込めるのである。
前半はとてもおもしろい。その前半の勢いをずーっと持続して、「音」を大西の肉体からあふれさせ、露地の向こうからやってくる「子ども」や「男や女の声」を押し返したときが、ほんとうに「音は戻ってきた」と言えるときなのではないのだろうか。
詩集 てのひらをあてる (21世紀詩人叢書) | |
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