小池昌代『弦と響』(光文社、2011年02月25日発行)
小池昌代『弦と響』は四重奏団のラストコンサートの一日を中心としたオムニバスである。人間関係よりも、そのなかに出てくるひとりひとりの音楽に対する感じ方、それを書いた部分にひかれた。そして、いま、ひとりひとりの、と書いたのだが、そのひとりひとりの音楽に対する感じ方の違いというのは、この小説ではあまり感じられない。ひとりひとりの区別は、肩書(?)や名前、少しずつあらわれてくる人間関係のなかで描かれているが音楽に対する感じ方のなかにまでは個別化されていないように思える。言い換えると、小池は彼女自身の音楽に対する思いを、幾人かに語らせているのだが、そこにそれぞれの個性が出るというよりも、小池自身が顔を出してしまっているということである。
「演奏がよかったということのほかに、そのときの聴衆に一体感があったのかもしれない」という部分に、私は共感を覚える。私はめったにコンサートに行かないが、コンサートにかぎらず、芝居、映画でも言えることだが、「感動」には「聴衆の一体感」が大きく影響する。コンサートでは、いい演奏のとき、あるいは演奏がよくなるとその瞬間、聴衆の姿勢がすーっとよくなる。そして会場の空気がぴーんとはりつめる。はりつめた空気のなかで音がまっすぐにのびる。それは、こころ(感情)を通り越して、肉体そのものに響いてくる感じがする。
これを小池は「感動」と呼んでいる。この感じ方に、私はとても共感する。
こういう共感から小説が始まると、読んでいて気持ちがいい。小説は小説なのだが、小池の気持ちを読んでいるような感じ、小池の声を聴いているような感じで、誘われるように読んでしまう。
小説とは関係なく、というといいすぎになるのだろうけれど、こういう部分を読むと、小池はここに書いているような「音楽観」を書きたくてこの小説を書いたのだと思えてくる。
音楽を聴いた「時間が堆積して、身の内に積もってくる」。この「時間」は「感情」(思い)と重なるものだろう。音楽を聴いているあいだ(時間)、ひとは何かを思う。そういう「体験」そのものが、「身の内」につもる。この感じは、私にはとても納得がいく。共感を覚える。「身の内」ということばは非常に幅が広い。「身」を私なら「肉体」というけれど、そのときの「身」(肉体)というのは骨や肉や内臓だけではなく、神経、感覚も含むものである。
それが、かつて聴いた曲をもう一度聴くとき、「いま」という「とき」のなかに噴出してくる。そのことを「記憶とともに」に小池は書くのだが、その記憶は「身の内」の「身」と同じである。肉体のすべて、そして感覚のすべて--分離できないものとともに聴く。
これは別なことばで言いなおせば「いま」をこそ、聴く、ということかもしれない。「いま」というのものは「過去/記憶」とともにある。「過去/記憶」とどこか遠いところにあるのではなく「いま」のなかに蓄積(堆積)している。
そう考えると、音楽とは音楽ではなく、「いま」「ここ」そのものなのだ。それはまた「わたし」そのものだ。「その曲は、もうわたし自身だ」。
こうした「時間」のあり方、音楽のあり方を、小池は「セカンドバイオリン」のなかで次のように言い換えている。
「同じところ」とは「いま」(ここ)である。「いま」のなかへ「記憶」が噴き上がっては落下する。「いま」から出ていかない。それは天上へ消えていく。何も残らない--とはいうものの、記憶のなかに時が去ったという感触、切ない感触が残る。この「残る」というのは「堆積する」ということである。「記憶」が「感触」をもつなら、その「記憶」とは「身(肉体)」にほかならない。「身(肉体)」のなかに「触覚」(触った感じ--感触)があるのだから。
引用の関連づけが前後するが、「聴衆の一体感」に重なることばは、「チェロ」の部分に次のように書かれている。
「他者と溶け合って自分が消えてなくなる」。それは「一体感」のことだが、ここからまた別のことばも動きだす。「他者」とは何か。「身」にとっての「他者」とは「記憶」。それはしかし、「溶け合う」のである。「身」のなかで「身」ではありえないのも、「記憶」(たとえばことばで語りうること、あるいはことばそのもの)が溶け合う。区別がつかなくなる。よろこびとは、区別がつかなくなること。何か、いままでの自分ではないものになってしまう瞬間に訪れるエクスタシーの総称かもしれない。自己がなくなるとき、自己が生まれる。他者となって生まれ変わる。
それはまた、「過去/記憶」が「いま」に噴出してきて、「いま」が「過去/記憶」なのか、それとも「過去/記憶」が「いま」なのかわからなくなるのと似ている。
また引用が前後するが「聴いたあとには何も残らない。しかし記憶のなかには時が流れ去ったという、切ない感触の跡が残る」は次のようにも言い換えられている。「マネジャー」の章。
「切ない感触が残る」のは「身/記憶」(肉体)だけではない。それは「身」の外部である「ホール」にも残る。ホールには「残響」が漂う。同じように、音楽を聴いた「身/感覚」(肉体)のなかにも、「残響」が漂い、それが「堆積」するのである。
音楽をとおして、音楽を聴くことで「身」が「記憶」になり、「感情」になる。あるいは「感情」が「記憶」になり、それが堆積して「身」になる。それは、音楽(楽器の音)と「聴衆」、「音楽」と「ホール」の関係にも似ている。
それぞれに名前がある。名前があるということは区別があるということである。けれど、音楽のなかで、その区別がなくなる。あるのは「一体感」と、その「一体感」がもたらすよろこびである。
--と、書きすすめてくれば、この小説の「狙い」と「成果」もおのずと浮かび上がってくる。
この小説は「オムニバス」である。複数の登場人物が語り手となり(筆者自身も、ときどき語り手として姿をみせる)、自分の立場から、いろいろなことを語る。それは、ほんとうは区別があるひとりひとりである。けれど、ストーリーがすすめば、それはひとりひとりでありながら、「一体感」をもった「集団」のようにもなる。意識されない「かたまり」である。「身」と「記憶」と「感覚」と、さらには「ホール」が加わる。そして、それは「四重奏」ならぬ、もっと複数の「重奏」(あるいは交響曲)となり、ひとつひとつ(ひとりひとり)では到達できなかった「音楽」に結晶する。
小池はこの小説で「音楽」を語りながら、小説そのものを「音楽」にしようとしている。
小池昌代『弦と響』は四重奏団のラストコンサートの一日を中心としたオムニバスである。人間関係よりも、そのなかに出てくるひとりひとりの音楽に対する感じ方、それを書いた部分にひかれた。そして、いま、ひとりひとりの、と書いたのだが、そのひとりひとりの音楽に対する感じ方の違いというのは、この小説ではあまり感じられない。ひとりひとりの区別は、肩書(?)や名前、少しずつあらわれてくる人間関係のなかで描かれているが音楽に対する感じ方のなかにまでは個別化されていないように思える。言い換えると、小池は彼女自身の音楽に対する思いを、幾人かに語らせているのだが、そこにそれぞれの個性が出るというよりも、小池自身が顔を出してしまっているということである。
正直を言えば、長く聴いてきて、心底、感動したという記憶は数えるほどだ。しかも、その感動には実体がない。演奏がよかったということのほかに、そのときの聴衆に一体感があったのかもしれないし、たまたま、わたしに何か哀しみや悩みがあって、心が敏感になっていただけのことかもしれない。そうした、様々な要因が重なり合って、感動という、得体の知れないものは作られる。確かなものなど、一つもない。
「演奏がよかったということのほかに、そのときの聴衆に一体感があったのかもしれない」という部分に、私は共感を覚える。私はめったにコンサートに行かないが、コンサートにかぎらず、芝居、映画でも言えることだが、「感動」には「聴衆の一体感」が大きく影響する。コンサートでは、いい演奏のとき、あるいは演奏がよくなるとその瞬間、聴衆の姿勢がすーっとよくなる。そして会場の空気がぴーんとはりつめる。はりつめた空気のなかで音がまっすぐにのびる。それは、こころ(感情)を通り越して、肉体そのものに響いてくる感じがする。
これを小池は「感動」と呼んでいる。この感じ方に、私はとても共感する。
こういう共感から小説が始まると、読んでいて気持ちがいい。小説は小説なのだが、小池の気持ちを読んでいるような感じ、小池の声を聴いているような感じで、誘われるように読んでしまう。
初めて聴いた曲を好きになることは、わたしの場合、まれである。幾度も幾度も聴いているうちに、その時間が堆積して、身の内に積もってくる。それこそ、雪のように。ある重みまで積もったとき、その曲はもう、わたし自身だ。だから聴けば、それを聴いた、かつての時間が総動員され、それが巻き上がって感動をつくる。わたしは音楽を、それを聴いた、かつてのすべての記憶とともに「いま」という時間のなかで聴く。
小説とは関係なく、というといいすぎになるのだろうけれど、こういう部分を読むと、小池はここに書いているような「音楽観」を書きたくてこの小説を書いたのだと思えてくる。
音楽を聴いた「時間が堆積して、身の内に積もってくる」。この「時間」は「感情」(思い)と重なるものだろう。音楽を聴いているあいだ(時間)、ひとは何かを思う。そういう「体験」そのものが、「身の内」につもる。この感じは、私にはとても納得がいく。共感を覚える。「身の内」ということばは非常に幅が広い。「身」を私なら「肉体」というけれど、そのときの「身」(肉体)というのは骨や肉や内臓だけではなく、神経、感覚も含むものである。
それが、かつて聴いた曲をもう一度聴くとき、「いま」という「とき」のなかに噴出してくる。そのことを「記憶とともに」に小池は書くのだが、その記憶は「身の内」の「身」と同じである。肉体のすべて、そして感覚のすべて--分離できないものとともに聴く。
これは別なことばで言いなおせば「いま」をこそ、聴く、ということかもしれない。「いま」というのものは「過去/記憶」とともにある。「過去/記憶」とどこか遠いところにあるのではなく「いま」のなかに蓄積(堆積)している。
そう考えると、音楽とは音楽ではなく、「いま」「ここ」そのものなのだ。それはまた「わたし」そのものだ。「その曲は、もうわたし自身だ」。
こうした「時間」のあり方、音楽のあり方を、小池は「セカンドバイオリン」のなかで次のように言い換えている。
音楽のなかに「時間」が見えた。それは普段の時間のように、一直線上を進んでいくものでなく、同じところにいて、噴水のように繰り返し、噴き上がっては落下する時間だ。メロディーは円を描きながら、回転し上昇し、そして天上に解けて消える。波が海辺を一掃するように、聴いたあとには何も残らない。しかし記憶のなかには時が流れ去ったという、切ない感触の跡が残る。
「同じところ」とは「いま」(ここ)である。「いま」のなかへ「記憶」が噴き上がっては落下する。「いま」から出ていかない。それは天上へ消えていく。何も残らない--とはいうものの、記憶のなかに時が去ったという感触、切ない感触が残る。この「残る」というのは「堆積する」ということである。「記憶」が「感触」をもつなら、その「記憶」とは「身(肉体)」にほかならない。「身(肉体)」のなかに「触覚」(触った感じ--感触)があるのだから。
引用の関連づけが前後するが、「聴衆の一体感」に重なることばは、「チェロ」の部分に次のように書かれている。
ほんとに音楽が好きだったら、すばらしい演奏に、自我なんてものは吹っ飛び、嫉妬なんかは消滅してしまうもんだと思うけどね。音楽のよろこびは、自己の消滅にあり。他者と溶け合って自分が消えてなくなる。
「他者と溶け合って自分が消えてなくなる」。それは「一体感」のことだが、ここからまた別のことばも動きだす。「他者」とは何か。「身」にとっての「他者」とは「記憶」。それはしかし、「溶け合う」のである。「身」のなかで「身」ではありえないのも、「記憶」(たとえばことばで語りうること、あるいはことばそのもの)が溶け合う。区別がつかなくなる。よろこびとは、区別がつかなくなること。何か、いままでの自分ではないものになってしまう瞬間に訪れるエクスタシーの総称かもしれない。自己がなくなるとき、自己が生まれる。他者となって生まれ変わる。
それはまた、「過去/記憶」が「いま」に噴出してきて、「いま」が「過去/記憶」なのか、それとも「過去/記憶」が「いま」なのかわからなくなるのと似ている。
また引用が前後するが「聴いたあとには何も残らない。しかし記憶のなかには時が流れ去ったという、切ない感触の跡が残る」は次のようにも言い換えられている。「マネジャー」の章。
たとえ演奏が聴けなくても、ホールには「残響」というものが漂っていて、演奏会が終わったあとの、興奮の残った会場を掃除することはうれしいことだとも。
「切ない感触が残る」のは「身/記憶」(肉体)だけではない。それは「身」の外部である「ホール」にも残る。ホールには「残響」が漂う。同じように、音楽を聴いた「身/感覚」(肉体)のなかにも、「残響」が漂い、それが「堆積」するのである。
音楽をとおして、音楽を聴くことで「身」が「記憶」になり、「感情」になる。あるいは「感情」が「記憶」になり、それが堆積して「身」になる。それは、音楽(楽器の音)と「聴衆」、「音楽」と「ホール」の関係にも似ている。
それぞれに名前がある。名前があるということは区別があるということである。けれど、音楽のなかで、その区別がなくなる。あるのは「一体感」と、その「一体感」がもたらすよろこびである。
--と、書きすすめてくれば、この小説の「狙い」と「成果」もおのずと浮かび上がってくる。
この小説は「オムニバス」である。複数の登場人物が語り手となり(筆者自身も、ときどき語り手として姿をみせる)、自分の立場から、いろいろなことを語る。それは、ほんとうは区別があるひとりひとりである。けれど、ストーリーがすすめば、それはひとりひとりでありながら、「一体感」をもった「集団」のようにもなる。意識されない「かたまり」である。「身」と「記憶」と「感覚」と、さらには「ホール」が加わる。そして、それは「四重奏」ならぬ、もっと複数の「重奏」(あるいは交響曲)となり、ひとつひとつ(ひとりひとり)では到達できなかった「音楽」に結晶する。
小池はこの小説で「音楽」を語りながら、小説そのものを「音楽」にしようとしている。
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