詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

廿楽順治「叢日叢行抄」

2011-03-17 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
廿楽順治「叢日叢行抄」(「ガーネット」63、2011年03月01日)


 廿楽順治「叢日叢行抄」は何が書いてあるんだろうなあ。詩、だから、「内容(意味)」は、私はあまり気にならない。「【長谷川●二郎展】で/りんじろうのおかずについて沈思していると」(●はサンズイに、隣のツクリをくっつけたもの)は、書き出しがおもしろい。
 廿楽の詩は、行末がページの下でそろうようになっているのだが、引用では行頭をそろえて転写した。

さんまは死んで
くりかえし
遠くのみぎにしずんでゆく
そのくりかえしは
わたしたちの会話の構図にそっくりおさまるだろうか

 食卓のサンマ。右下の方に書かれている。その構図を見ながら、会話の構図を考えている。で、その会話の構図って何? 組み立て方かな? はっきり定義はできないのだが、絵に構図があるなら、ことばで成り立っているものにも構図はあるだろう。「小説」なんかは、仕組み(仕掛け?)がしっかりしているから「構図」を思い浮かべやすい。詩は、ぐにゃぐにゃしているから、ちょっと構図を思い浮かべるのはつらいかな? まあ、どうでもいいのだが、この「構図」ということばがとてもおもしろい。

さんまは死んで
くりかえし
遠くのみぎにしずんでゆく

 というのは、食卓のサンマは、もちろん死んでいる、という意味であり、そのサンマは絵では右下の方に描かれている。下だから「しずんでゆく」、上だったら「うかんでゆく」になるのかな?
 そういう絵の「構図」を私は、長谷川の絵を見たことがないのだけれど、ちょっと想像した。その絵の構造のように、絵の感想を語り合うとき、何かがサンマのように中心からずれて、どこかへ沈んで行く--そういう「構図」がありうるかな?
 きっとある。
 実際、廿楽は、その「構図」にあわせるようにして、会話を抜き出してみる。会話のことばを配置し直している。

しかられて
長谷川家の
りんじろうは泣いただろうか、りんじろうのおかずは

 とか、

思い出し方によって水深はかわる
死に際をしらないうちにくらべているのである

 とか、

設問の酔いが
まだぐずぐずとおかずの周辺に沈んだまま
みそ汁のなかに親しくもぐっている
ああ
切られた身がへんにあたたかい
たしかそこから表へあるいてきたのだ
さんまの
みぎにすこしかたむくあるきかただ

 とか、部分部分をリアルにことばにして、へんにすきまを大きくする。ことばとことばのすきま--脈絡のなさ、は、まあ、空間になるのかな? 絵で言いなおせば、ものとものとの隔たり、空間。空間があって、もの(凝縮した何か)がある。そのバランスが絵の「構図」であるなら、ことばもまた、あるところではことばが凝縮して「もの」になり、あるところではことばがまばらになって脈絡をなくし、ただ「空間」だけがある。そういう感じが、廿楽の詩にはあるなあ。
 これは小説とはちがう「構図」だねえ。
 小説にもいろいろあるから一概には言えないのだけれど、小説のことばは、いわば「結末」へ向かって動いていくという「構図」をもっているが、廿楽の詩には「結論」がない。もし、「結論」(書きたいことがら)があるとすれば、それはきっと、そこに書いてある「ことば」ではなく、そうやって「ことば」を並べるときにできる、へんてこりなん「間」だね。「構図」をつくりだしている「間、空間」。(へんてこりんな--と書いたが、廿楽には「変」ではないだろうなあ。私はそれの「間」を正確につかみきれないから、へんてこりんと呼んでいるだけである。)

 ことばとことばの関係--というよりも、ことばとことばの「間」。脈絡のなさ。そういうもののなかに、詩がある--と廿楽は考えているのかもしれない
 だから、詩を書くときも、行の頭をそろえて書くのではなく、最初から「間」を書く。でこぼこの、ふぞろいの「間」。それをことばを並べ直すことで、その最後の方(行末)をそろえて、「はい、ことばはこんな具合に立っています」と言うのである。
 そして、その立地点は、ことばの脈絡を、そんなもの関係ないと吹き払って、ただ延々とつづいていく「暮らし」というものかもしれない。「ことば」は「ことば」の配置の「構図」はなかなかみつからないのだが、その「ことば」を立たせている力(廿楽のことばはページの下を大地のようにして立っている。--絵画的に言いなおせば)が「暮らし」であることがなんとなく感じられる。
 ことばには脈絡がない。ただ「間」がある。しかし、その「間」には、何か「暮らし」のにおいがはみだしている。


とは要するに手元をひらくことであった
干したものは身がすくない
結婚したばかりのころ
かれらは数えるまでもなく
ふたり
であった
苦悩するできごとは他にあるはずもない
生きながら
焼かれてしまうひとのことをかんがえてしまった
たいやき、みたいだ
ふきんしんだが
それはだれにでも想像できてしまう他人事であった
そのまま
食卓も
わたしたちのきぶんもしずかに沈みきった

 「暮らし」とは「だれにでも想像できてしまう他人事」である。「他人事」なのに、きょうつうしてしまう何かである。「肉体」のようなものだ。
 だれかが道端で倒れ、呻いている。自分の「肉体」ではないもの、他人の肉体なのに、その痛みがわかってしまう。「他人事」なのにわかってしまう。
 そういうものが「間」のなかにある。--というのが、廿楽の、ことばの「構図」かもしれない。

こんなたあいない構図だって
なん十年かすれば
きっとひとつの器になるのがおぞましい
りんじろうの眼はおかずを前にして
どうしようもなくひらかれていったのだ
そこには結婚したばかりの多くの他人がたっていた
みんな
ふしぎなことに
絵となってわらっている
だが
しっぽから少ないあんこがはみでていることにも気づかない

 長谷川の絵を見て、若い夫婦のつましい暮らしを思う。他人事だけれど、自分のことのように思う。感じる。そのとき、その感じのなかに、そのひとの「暮らし」がはみ出ている。もちろん、はみ出ていることに、だれも気がつかない。

 と、ここまで書いて……。
 では、そんなふうにして書いてる廿楽の「暮らし」は? はみ出ていないの? この詩に廿楽の暮らしははみ出ていないの?
 はみ出ていません。
 はみ出ているのではなく、はみ出させている。ことばのすべてに「暮らし」をはみ出させている。はみ出しっぱなしなので、何がはみ出ているかわからないくらいになっている。わけがわからないけれど、その「間」に暮らしがにおっている--そういうふうに廿楽はことばを動かしていきたいのだ。





すみだがわ
クリエーター情報なし
思潮社



人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする