瀬尾育生「暮鳥」(2)(「現代詩手帖」2011年08月号)
「分離」と「反復」について、さらに考える。
「その」は指示代名詞であり、そのことば自体の中に「反復」がある。話者の意識が、指し示されたものを反復している。--のであるけれど、瀬尾が書いているこの部分の「その」は実は何を差しているか他者(読者)にはわからない。
私が引用した部分は「1」の3連目の書き出しだが、どんなふうに読んでも「その」を特定できない。「その」は先行する何かを指し示すというよりも、それからつづくことばを誘っている。
私の書くことは、ちょっと論理が前後するが、「その車」の「その」と「その鉄パイプ」の「その」を比較すると、ふたつの「その」の違いがわかる。後者「その鉄パイプ」は「破れたフロントグラスに三メートルくらいの鉄パイプが突き立ててある。」という文の中にある「鉄パイプ」を引き継ぐための「その」である。「その」ということばで「反復」が始まる。けれど、「その車」の「その」は先行する「車」を持たない。
の、(の残骸)という部分は、とても巧妙で、車(走るもの)を一瞬のうちに否定し、ことばを別次元へ運ぶ。車を「走るもの」という概念から「分離」し、そこにある「残骸」(役に立たないもの)とし反復する契機になっている。(の残骸)という形での「分離」が、それ以後のことばの疾走を誘発する仕組みになっている。
「その車(の残骸)」は、一種の「倒置法」である。だから、ことばは、つづいていくようにみせかけながら、「その」へと逆流し、車を描写する。
反復することで、「分離」が生まれ、そこにことばの逆流が生まれる。ことばが無意識のうちに(あるいは過剰に覚醒した意識の中で)衝突する。「ほとんど黒くなった白」という「色」の「分離」と「反復」はほとんどギャグに近いが、この無意味な笑いは、ことばを「車」から「鉄パイプ」、さらには「日の丸」へと「分離」(遊離? 乖離?)を促す。「車」はどうでもいい。「鉄パイプ」もどうでもいい。問題は「日の丸」なのである。その、ことばの「分離」の加速度。そのスピードに乗ったまま、ことばは「日の丸」を「反復」しはじめる。「反復」することで「車」を意識から「分離」する。切り離す。
「半旗」は切り捨てたはずの「車(の残骸)」が抱える「死」を反復しているのだが、反復することで旗そのものへと明確に焦点を絞る。もとへ戻る、という働きもしている。「泥と焼け焦げた粉塵」も「車(の残骸)」を「反復」している。
瀬尾のことばは、こういう「粘着力」から成り立っている。常に「反復」を生きることばの運動から成り立っているのだが、「反復」を生きると同時に「分離」へと突き進むのが瀬尾の文体である。
この「ことによると」が瀬尾の瀬尾らしさである。「けれど」という逆説の接続詞のように、意識に強烈に働きかけてくる。ことばが一瞬「もの(対象)」から「分離」するのである。かってに別次元へ動くのである。
「ことよると」はそれからつづくことばが「想像」であることを明確にする。それまで瀬尾のことばは「事実」を描写してきた。「百足」を千切ると「光る」というのは、想像力だけが見ることのできるものかもしれないが、瀬尾は「事実」として書いている。けれども「血で、汚れている」は事実ではない。あくまで「想像」である。「ことによると血で、」の読点「、」も意識の動きを正確に反映させている。「汚れている」は「事実」。しかし、その汚れが「血」であるかどうかということについては、すこし「中断」をはさんでいる。ことばは、一瞬、「事実」と「想像」のなのかで「分離」を生きるのだ。
ここに書かれているのは「逆流」の形で「反復」された風景である。「その車」の「その」そのものが「倒置法」であると最初に指摘したが、この連(段落)自体が「倒置法」の構造を生きるのである。
おもしろいのは(非常に特徴的なのは)、「その日の丸が言う。」という一文である。「主語」が突然、かわってしまう。それまでの「話者」は誰だったのか、難しい問題だが、とりあえず瀬尾ということにしておくと、「その日の丸が言う。」から「話者」は「日の丸」になる。
「話者」の「分離」がある。
もちろんこの「分離」はそれまでの話者(瀬尾)が新たな話者(日の丸)の話を聞くという形で連続しているのだが、こうしたことばの連続性とは別次元の「分離」がある。
「日の丸」は「もの(物質)」である。それが日本語を話すということ、それ自体が「分離」である。「日常」から「分離」した世界がそこにあることになる。しかし、どんなにそれが「分離」しようが、その「分離した状態」をことばで「反復する(描写する)」と、それはもう「分離」ではなくなる。
あらゆる「分離」を瀬尾はことばで「反復」する。
いや、そうではなくて、あらゆる現実をことばで「反復」することで、そこに「分離」を挿入するのか。
どちらともとれる。--のではなく、その両方なのだ。「話者」はどんなに交代しようが「ひとり」なのだ。
「話者」は「ことば」そのものなのだ。「ことば」が「話者」なのだ。
ことばで現実を「反復」することで「現実」から「何か(詩と呼んでおこうか)」を「分離」し、その「分離」した「詩」をさらに反復することで「現実」へ引き返す。このとき、ことばが分離し引き返すという往復運動についやした「エネルギー/領域」が、増殖する形で「現実」とぶつかる。衝突する。そして、「ことば」が「光る」。「話者」が「光る」。「詩人」が鮮やかに浮かび上がる。
--なんだか、同じことの繰り返し。ごちゃごちゃとことばがぶつかるだけの、いいかんげな「解説」風の感想になってしまったが、詩、への感想なのだから、こんなものでいいんじゃないかなあ。わかったようで、わからない、わからないようで、わかった感じ--でいいのだ。
「分離」と「反復」について、さらに考える。
その車(の残骸)は焼けて潰れ、泥の中に横倒しになっていた。
「その」は指示代名詞であり、そのことば自体の中に「反復」がある。話者の意識が、指し示されたものを反復している。--のであるけれど、瀬尾が書いているこの部分の「その」は実は何を差しているか他者(読者)にはわからない。
私が引用した部分は「1」の3連目の書き出しだが、どんなふうに読んでも「その」を特定できない。「その」は先行する何かを指し示すというよりも、それからつづくことばを誘っている。
その車(の残骸)は焼けて潰れ、泥の中に横倒しになっていた。ほとんど黒くなった白のセダンだ。破れたフロントグラスに三メートルくらいの鉄パイプが突き立ててある。その鉄パイプに日の丸がぶら下げてある。
私の書くことは、ちょっと論理が前後するが、「その車」の「その」と「その鉄パイプ」の「その」を比較すると、ふたつの「その」の違いがわかる。後者「その鉄パイプ」は「破れたフロントグラスに三メートルくらいの鉄パイプが突き立ててある。」という文の中にある「鉄パイプ」を引き継ぐための「その」である。「その」ということばで「反復」が始まる。けれど、「その車」の「その」は先行する「車」を持たない。
その車(の残骸)は焼けて潰れ、
の、(の残骸)という部分は、とても巧妙で、車(走るもの)を一瞬のうちに否定し、ことばを別次元へ運ぶ。車を「走るもの」という概念から「分離」し、そこにある「残骸」(役に立たないもの)とし反復する契機になっている。(の残骸)という形での「分離」が、それ以後のことばの疾走を誘発する仕組みになっている。
「その車(の残骸)」は、一種の「倒置法」である。だから、ことばは、つづいていくようにみせかけながら、「その」へと逆流し、車を描写する。
焼けて潰れ、泥の中に横倒しになっていた(車がある、それは車というより車の残骸だが……)。その車は……ほとんど黒くなった白のセダンだ。
反復することで、「分離」が生まれ、そこにことばの逆流が生まれる。ことばが無意識のうちに(あるいは過剰に覚醒した意識の中で)衝突する。「ほとんど黒くなった白」という「色」の「分離」と「反復」はほとんどギャグに近いが、この無意味な笑いは、ことばを「車」から「鉄パイプ」、さらには「日の丸」へと「分離」(遊離? 乖離?)を促す。「車」はどうでもいい。「鉄パイプ」もどうでもいい。問題は「日の丸」なのである。その、ことばの「分離」の加速度。そのスピードに乗ったまま、ことばは「日の丸」を「反復」しはじめる。「反復」することで「車」を意識から「分離」する。切り離す。
先端から五十センチくらい下げて「半旗」になっている。日の丸は泥と焼け焦げた粉塵と、ことによると血で、汚れている。
「半旗」は切り捨てたはずの「車(の残骸)」が抱える「死」を反復しているのだが、反復することで旗そのものへと明確に焦点を絞る。もとへ戻る、という働きもしている。「泥と焼け焦げた粉塵」も「車(の残骸)」を「反復」している。
瀬尾のことばは、こういう「粘着力」から成り立っている。常に「反復」を生きることばの運動から成り立っているのだが、「反復」を生きると同時に「分離」へと突き進むのが瀬尾の文体である。
ことによると血で、汚れている。
この「ことによると」が瀬尾の瀬尾らしさである。「けれど」という逆説の接続詞のように、意識に強烈に働きかけてくる。ことばが一瞬「もの(対象)」から「分離」するのである。かってに別次元へ動くのである。
「ことよると」はそれからつづくことばが「想像」であることを明確にする。それまで瀬尾のことばは「事実」を描写してきた。「百足」を千切ると「光る」というのは、想像力だけが見ることのできるものかもしれないが、瀬尾は「事実」として書いている。けれども「血で、汚れている」は事実ではない。あくまで「想像」である。「ことによると血で、」の読点「、」も意識の動きを正確に反映させている。「汚れている」は「事実」。しかし、その汚れが「血」であるかどうかということについては、すこし「中断」をはさんでいる。ことばは、一瞬、「事実」と「想像」のなのかで「分離」を生きるのだ。
ほとんど迷彩にちかく汚れていた日の丸は風が弱いからはためくでもなくぶらさがっている。その日の丸が言う。私は汚れ、焼け爛れた日の丸である。私は潰れた車のフロントガラスに突き立てられた鉄パイプに結ばれて半旗になっている。私をここに立たせるために、この車の残骸はここに放置されている。私はかつてこれほど物質として日の丸であったことはない。
ここに書かれているのは「逆流」の形で「反復」された風景である。「その車」の「その」そのものが「倒置法」であると最初に指摘したが、この連(段落)自体が「倒置法」の構造を生きるのである。
おもしろいのは(非常に特徴的なのは)、「その日の丸が言う。」という一文である。「主語」が突然、かわってしまう。それまでの「話者」は誰だったのか、難しい問題だが、とりあえず瀬尾ということにしておくと、「その日の丸が言う。」から「話者」は「日の丸」になる。
「話者」の「分離」がある。
もちろんこの「分離」はそれまでの話者(瀬尾)が新たな話者(日の丸)の話を聞くという形で連続しているのだが、こうしたことばの連続性とは別次元の「分離」がある。
「日の丸」は「もの(物質)」である。それが日本語を話すということ、それ自体が「分離」である。「日常」から「分離」した世界がそこにあることになる。しかし、どんなにそれが「分離」しようが、その「分離した状態」をことばで「反復する(描写する)」と、それはもう「分離」ではなくなる。
あらゆる「分離」を瀬尾はことばで「反復」する。
いや、そうではなくて、あらゆる現実をことばで「反復」することで、そこに「分離」を挿入するのか。
どちらともとれる。--のではなく、その両方なのだ。「話者」はどんなに交代しようが「ひとり」なのだ。
「話者」は「ことば」そのものなのだ。「ことば」が「話者」なのだ。
ことばで現実を「反復」することで「現実」から「何か(詩と呼んでおこうか)」を「分離」し、その「分離」した「詩」をさらに反復することで「現実」へ引き返す。このとき、ことばが分離し引き返すという往復運動についやした「エネルギー/領域」が、増殖する形で「現実」とぶつかる。衝突する。そして、「ことば」が「光る」。「話者」が「光る」。「詩人」が鮮やかに浮かび上がる。
--なんだか、同じことの繰り返し。ごちゃごちゃとことばがぶつかるだけの、いいかんげな「解説」風の感想になってしまったが、詩、への感想なのだから、こんなものでいいんじゃないかなあ。わかったようで、わからない、わからないようで、わかった感じ--でいいのだ。
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