詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

瀬尾育生「暮鳥」(2)

2011-08-06 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
瀬尾育生「暮鳥」(2)(「現代詩手帖」2011年08月号)

 「分離」と「反復」について、さらに考える。

その車(の残骸)は焼けて潰れ、泥の中に横倒しになっていた。

 「その」は指示代名詞であり、そのことば自体の中に「反復」がある。話者の意識が、指し示されたものを反復している。--のであるけれど、瀬尾が書いているこの部分の「その」は実は何を差しているか他者(読者)にはわからない。
 私が引用した部分は「1」の3連目の書き出しだが、どんなふうに読んでも「その」を特定できない。「その」は先行する何かを指し示すというよりも、それからつづくことばを誘っている。

その車(の残骸)は焼けて潰れ、泥の中に横倒しになっていた。ほとんど黒くなった白のセダンだ。破れたフロントグラスに三メートルくらいの鉄パイプが突き立ててある。その鉄パイプに日の丸がぶら下げてある。

 私の書くことは、ちょっと論理が前後するが、「その車」の「その」と「その鉄パイプ」の「その」を比較すると、ふたつの「その」の違いがわかる。後者「その鉄パイプ」は「破れたフロントグラスに三メートルくらいの鉄パイプが突き立ててある。」という文の中にある「鉄パイプ」を引き継ぐための「その」である。「その」ということばで「反復」が始まる。けれど、「その車」の「その」は先行する「車」を持たない。

その車(の残骸)は焼けて潰れ、

 の、(の残骸)という部分は、とても巧妙で、車(走るもの)を一瞬のうちに否定し、ことばを別次元へ運ぶ。車を「走るもの」という概念から「分離」し、そこにある「残骸」(役に立たないもの)とし反復する契機になっている。(の残骸)という形での「分離」が、それ以後のことばの疾走を誘発する仕組みになっている。
 「その車(の残骸)」は、一種の「倒置法」である。だから、ことばは、つづいていくようにみせかけながら、「その」へと逆流し、車を描写する。

焼けて潰れ、泥の中に横倒しになっていた(車がある、それは車というより車の残骸だが……)。その車は……ほとんど黒くなった白のセダンだ。

 反復することで、「分離」が生まれ、そこにことばの逆流が生まれる。ことばが無意識のうちに(あるいは過剰に覚醒した意識の中で)衝突する。「ほとんど黒くなった白」という「色」の「分離」と「反復」はほとんどギャグに近いが、この無意味な笑いは、ことばを「車」から「鉄パイプ」、さらには「日の丸」へと「分離」(遊離? 乖離?)を促す。「車」はどうでもいい。「鉄パイプ」もどうでもいい。問題は「日の丸」なのである。その、ことばの「分離」の加速度。そのスピードに乗ったまま、ことばは「日の丸」を「反復」しはじめる。「反復」することで「車」を意識から「分離」する。切り離す。

先端から五十センチくらい下げて「半旗」になっている。日の丸は泥と焼け焦げた粉塵と、ことによると血で、汚れている。

 「半旗」は切り捨てたはずの「車(の残骸)」が抱える「死」を反復しているのだが、反復することで旗そのものへと明確に焦点を絞る。もとへ戻る、という働きもしている。「泥と焼け焦げた粉塵」も「車(の残骸)」を「反復」している。
 瀬尾のことばは、こういう「粘着力」から成り立っている。常に「反復」を生きることばの運動から成り立っているのだが、「反復」を生きると同時に「分離」へと突き進むのが瀬尾の文体である。

ことによると血で、汚れている。

 この「ことによると」が瀬尾の瀬尾らしさである。「けれど」という逆説の接続詞のように、意識に強烈に働きかけてくる。ことばが一瞬「もの(対象)」から「分離」するのである。かってに別次元へ動くのである。
 「ことよると」はそれからつづくことばが「想像」であることを明確にする。それまで瀬尾のことばは「事実」を描写してきた。「百足」を千切ると「光る」というのは、想像力だけが見ることのできるものかもしれないが、瀬尾は「事実」として書いている。けれども「血で、汚れている」は事実ではない。あくまで「想像」である。「ことによると血で、」の読点「、」も意識の動きを正確に反映させている。「汚れている」は「事実」。しかし、その汚れが「血」であるかどうかということについては、すこし「中断」をはさんでいる。ことばは、一瞬、「事実」と「想像」のなのかで「分離」を生きるのだ。

ほとんど迷彩にちかく汚れていた日の丸は風が弱いからはためくでもなくぶらさがっている。その日の丸が言う。私は汚れ、焼け爛れた日の丸である。私は潰れた車のフロントガラスに突き立てられた鉄パイプに結ばれて半旗になっている。私をここに立たせるために、この車の残骸はここに放置されている。私はかつてこれほど物質として日の丸であったことはない。

 ここに書かれているのは「逆流」の形で「反復」された風景である。「その車」の「その」そのものが「倒置法」であると最初に指摘したが、この連(段落)自体が「倒置法」の構造を生きるのである。
 おもしろいのは(非常に特徴的なのは)、「その日の丸が言う。」という一文である。「主語」が突然、かわってしまう。それまでの「話者」は誰だったのか、難しい問題だが、とりあえず瀬尾ということにしておくと、「その日の丸が言う。」から「話者」は「日の丸」になる。
 「話者」の「分離」がある。
 もちろんこの「分離」はそれまでの話者(瀬尾)が新たな話者(日の丸)の話を聞くという形で連続しているのだが、こうしたことばの連続性とは別次元の「分離」がある。
 「日の丸」は「もの(物質)」である。それが日本語を話すということ、それ自体が「分離」である。「日常」から「分離」した世界がそこにあることになる。しかし、どんなにそれが「分離」しようが、その「分離した状態」をことばで「反復する(描写する)」と、それはもう「分離」ではなくなる。
 あらゆる「分離」を瀬尾はことばで「反復」する。
 いや、そうではなくて、あらゆる現実をことばで「反復」することで、そこに「分離」を挿入するのか。
 どちらともとれる。--のではなく、その両方なのだ。「話者」はどんなに交代しようが「ひとり」なのだ。
 「話者」は「ことば」そのものなのだ。「ことば」が「話者」なのだ。
 ことばで現実を「反復」することで「現実」から「何か(詩と呼んでおこうか)」を「分離」し、その「分離」した「詩」をさらに反復することで「現実」へ引き返す。このとき、ことばが分離し引き返すという往復運動についやした「エネルギー/領域」が、増殖する形で「現実」とぶつかる。衝突する。そして、「ことば」が「光る」。「話者」が「光る」。「詩人」が鮮やかに浮かび上がる。

 --なんだか、同じことの繰り返し。ごちゃごちゃとことばがぶつかるだけの、いいかんげな「解説」風の感想になってしまったが、詩、への感想なのだから、こんなものでいいんじゃないかなあ。わかったようで、わからない、わからないようで、わかった感じ--でいいのだ。



アンユナイテッド・ネイションズ
瀬尾 育生
思潮社
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モハメド・アルダラジー監督「バビロンの陽光」(★★★★)

2011-08-06 09:10:52 | 映画
監督 モハメド・アルダラジー 出演 ヤッセル・タリーブ、シャーザード・フセイン、バシール・アルマジド

 サダム・フセイン以後のイラクを描いている。「以後」といっても、「直後」である。クルド人の老婆と少年が父の消息を尋ねて旅に出る。歩いて、ヒッチハイクして、バスで……。
 忘れられないシーンがある。
 老婆が「集団墓地」(惨殺した「敵」を埋めた場所)で、息子(少年の父)を探していることを語る。隣では別な女が夫を探していると語る。あとからやってきた男(老婆と少年に付き添っている)は、女に「何を話していたのか」と聞く。女は「「ことばはわからない。けれど悲しみはわかる」と答える。あ、老婆はクルド語を話し、女はアラブ語を話していたのだ。--私はクルド語とアラブ語を区別できないから、二人が違ったことばを話していたとは思いもしなかった。「字幕」を読みながら「意味」を理解していたが、そのとき二人が違うことばを話していたとは知らなかった。
 何度も何度も、老婆がクルド語しか話せないということが描かれているのに、私はそのことを「実感」として感じていなかった。
 この映画には、そういう「実感」として知らないことが、非常にたくさん描かれている。イラクの荒れた大地。その大地の中を走る道路。ひとは、どんなときでも「ここ」と「どこか」を行き来しているという証。山羊やバス。トラック。そういう自然や目に見える何かだけではなく。
 たとえば老婆が決められた時間に礼拝する。その宗教観。実直な信仰を生きる人がいる一方、神など信じないという人。祈ったって何の役にも立たなという人。クルド人を惨殺したサダムの兵士--そのなかには惨殺を苦しんでいる人がいるということ。この映画の老婆と少年のように、「内戦」によって死んでしまった父や夫を探し回っている人がいるということ。
 あるいは、老婆と少年をバグダッドまでトラックでのせていってくれる男が、高い乗り賃をとっていたけれど、やがて親切な男にかわるということ。老婆と少年がはぐれそうになったとき、煙草売りの少年がバスを必死で止めてくれたこと。ここには、もちろんもうひとりの大事な登場人物もいる。クルド人を惨殺した兵士。彼は、老婆と少年に出会い、自分の過去を真摯に反省し、語る。そして、二人のためにあれこれと親切に行動する。クルド人を殺した男なんか近づくなと怒られても親切にする。彼を憎んでいた老婆も、彼を許すようになる。しかも、少年に「許し」の大切さを教えられて……。
 ひとはかわるということ。
 そして、そのとき、ひとは「ことば」を理解してかわるのではない。「意味」を理解してかわるのではない。「悲しみ」を実感して、変わるのだ。集団墓地で、老婆と女が、ことばを超えて悲しみを互いに実感したように、ひとはあらゆる感情を「実感」して、その瞬間、そこにいる人に対して「親切」になる。心を開いて、心でつながる。
 ここから、もうひとつのすばらしいシーンが生まれる。
 老婆は息子が見つからない(遺体すらない)という状況の中で、悲しみのあまり狂ってしまう。集団墓地の、息子ではない遺体(白骨)に向かって息子の名前を呼び、泣き暮れる。少年は「名札」を指し示し、「息子(少年の父)」ではないということを証明するが、通じない。ことばが通じない。そして、そのことばが通じないと知ったとき、少年は老婆と心を「ひとつ」にする。一体になる。だから、その後、少年は付き添ってくれている男に対して、「これからは老婆と二人で父を探す、もう手助けはいらない」と告げる。それまでは、少年は、その男を頼りにしていた。男を頼りにしていたとき、少年の心は老婆の心と完全に「ひとつ」ではなかった。でも、いまは「ひとつ」につながっている。
 だから、といってしまっていいのかどうか、わからないのだけれど。
 老婆は、最後、少年を残したまま、車の荷台で揺られながら死んでゆく。少年の心のなかに、サダム・フセインが引き起こした悲劇がしっかり引き継がれたことを知って、安心したかのように。(安心したかのように、というのは、まあ、語弊があるかもしれないけれど。)
 その強いつながり、その「ひとつ」の心に、この映画を見た私もつながる。
 この映画はフセインの暴力を声高に避難してはいない。「論理的」に告発してはいない。けれども、老婆と少年の感じた「実感」をていねいに描くことで、その「実感」のなかに、私たちを引き込む。
 この「実感」は、最初に書いたことに戻るのだけれど、「ことば」を超えて伝わる。女が老婆のことばを理解できないけれど、悲しみを実感したように。そして、老婆がやはり女のことばを理解していないけれど、悲しみを実感したように。そして、私は、この映画で語られた多くのことばをクルド語、アラブ語だけでなく、日本語(字幕)としてもほとんど覚えていないけれど、老婆の悲しい顔、少年の顔を忘れない。それは悲しみを忘れないということでもある。
 また、それを忘れないと同時に、たとえばいよいよ父に会えるかもしれないというとき、冷たい川の水で顔を洗う少年と老婆の、輝かしい美しさ。「許す」ことの大切さを訴える少年の純粋さを思い出す。人間は美しくなれるだ。そのことも忘れない。



 原題は「バビロンの陽光(太陽SUN)」ではなく「バビロンの息子(SON)」である。同じような「誤訳(名訳?)」をした映画が過去にもあったと思うけれど、今回のタイトルは「息子」の方がいいのでは、と思う。「息子」は引き継いだ感情を、さらに引き継いでゆくのである。「太陽」では、その継承への強い決意がわからない。
                              (KBCシネマ2)
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