詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

斎藤恵子『海と夜祭』(3)

2011-08-28 23:59:59 | 詩集
斎藤恵子『海と夜祭』(3)(思潮社、2011年07月31日発行)

 「知る(知っている)」「わかる(わかっている)」にこだわりすぎて詩集を読みすぎたかもしれない。きょうは「知る」「わかる」ということばをつかわずに斎藤の詩に近づいて行ってみたい。
 「海の見える町」のなかに、とても不思議なことばがある。

わたしは旅をする
わたしに出会うように

海が見える
歩いたあとを波が消していく
波はいつのまにか
大きな水の器の中で減っている
波から波のあいだ
一瞬のひろがりが
永遠かもしれない

波にそそがれる夢は
朝はきらきらしている
真昼は勢いよく
夜は眠りながら
取り返しのつかないことを沈めていく
家家は花のように
だれが見ていないくても懸命にある

思い出は
遠い町にあるような気がして
海の見える町を旅する
波のかなたに
わたしを隠しているかもしれない

 3連目の最後の2行が不思議である。
 「家家は花のように/だれが見ていなくても懸命にある」。突然、「家」が出てくる。海の見える町だから、当然、家はあっていいのだが、「家」が出てくるのはここだけである。あとはただ「波」の描写をしている。
 なぜ、「家」と書いたのだろう。
 この詩集には、母を描いたものが何篇かある。
 斎藤は「わたし」というものを考えるとき、無意識的に「母-わたし」というつながりを生きているのかもしれない。「母-わたし」という血の繋がりが「家」というものかもしれない。
 ふと、「家」を「母」と置き換えて読みたくなるのである。
 「母は花のように/だれが見ていなくても懸命にある」。そのとき「花」という「比喩」は「家」よりももっと納得ができる。「母」はきっと「だれが見ていなくても懸命に」生きてきたのだろう。斎藤には、その「母」の「懸命」が見えたのだと思う。
 なぜ、「懸命」なのか。
 「夜は眠りながら/取り返しのつかないことを沈めていく」。これは「波」の描写であるけれど、また「母」のようにも見えてくる。「取り返しのつかないこと」というのは何か想像がつかないが、想像がつかないくせに「わかってしまう」。(わかる、ということばをつかわないつもりだったが、やはりつかわないと書けないことを斎藤は書いている。)ことばにできないけれど、斎藤は「母」が「取り返しのつかないこと」を静かに自分の「肉体」のなかに「沈めていく」(深く沈殿させてとじこめていく)のを見たのだろう。
 書きながら、斎藤は「波」のなかに「母」を見て、それから「家」にも「母」を見たのだろう。そういう気がする。
 「海の見える町」で斎藤は「母」に出会うのだ。そして、それは「わたし」が「母」とつながっている、同じ「家」を生きていると思い出すことなのだ。

 「懸命にある」の「ある」も不思議なことばである。
 「懸命に」はなにかしら「肉体」のなかから「わたし(斎藤なのか、それとも読んでいる私なのか--たぶん、両方。つまり、懸命にということばを読むとき、私には、斎藤と私の区別がつかなくなる)」を突き動かすものがある。私の「肉体」のなかで動くものがある。
 その「肉体」の「ある」場所とは違うところ、つまり「私の外」に「家」は「ある」という感じが、その「ある」には含まれている。
 「母」と「家」をごっちゃにして(混乱させたまま)書くが、「母(家)」と「わたし」がつながるということは、「ひとつ」になるということであると同時に、別々のものであるということを意識することでもある。別々だからつながる。そして、つながってひとつになる。「ある」という動詞は、そういう「混乱」を教えてくれる。--そして、この「混乱」はなぜか、私にはうれしいものに感じられる。

 別々にあること、別々であることによって、つながり、また、はなれる--この「矛盾(混乱)」は「女湯」でも美しい形で書かれている。

女たちは湯の中では互いに無言だ
柔らかなまるいからだを湯にしずめ
ため息のように過ぎた日を泡にして吐く

肉をふやしからだはふくらみゆらめく
うでは花のふとい茎 足は魚の尾ひれ
そよぎ薄い血の色の名づけられぬいのちになる

やさしげな生きものたちはだれも責めたり怒ったりしない
ほほを赤らめほほえみあい しなやかな楕円になる
とろけながら広がり温もり何人ものわたしにふえてゆく
湯から樹木のように立ち上がり円のつなぎ目の淡いところから
ほどけてゆく はなれてゆく すがたになってゆく

ぬれたままでは小女子(こうなご)や甘鯛になってしまう
かわいたら大急ぎでそれぞれの衣服をつける
だれも湯の中の顔をおぼえていない
みなつま先までピンク色に染まり髪をかきあげながら
世界をくるむ ただ生温かい匂いをまいている

 3連目の「何人ものわたしにふえてゆく」とは、そのとき「わたし」とそこにいる女たちの区別がなくなるということである。「何人も」に「ふえてゆく」。その結果「ひとり」の「わたし」になる。--それは、「おんな」になる。「母」になる、ということかもしれない。いや、「いのち」に「なる」ということだ。斎藤は2連目で「名づけられぬいのちになる」と正確に書いている。
 「いのち」というのは「ひとつ」であるが、「ひとつ」であるがゆえにさまざまな形をとる。どんな形をとっても「いのち」であることを知っているからである。わかっているからである。(あ、また、「わかる」ということばを書いてしまった。--「わかる」をつかわずに、斎藤の詩について書くのはむずかしい。)
 この変化を、斎藤は、

ほどけてゆく はなれてゆく すがたになってゆく

 と書く。
 いいなあ、この、自在なやわらかさ。
 これは最終行でも繰り返されている。

世界をくるむ ただ生温かい匂いをまいている

 おんなの匂い(母の匂い、いのちの匂い)は、おんな(母、ひとりのいのち)の方が「世界」より小さいにもかかわらず、「世界をくるむ」のだ。
 つながりながら「ある」という形で。
 「ある」ということと「なる」ということは違うことなのだけれど、斎藤の「肉体」のなかでは、瞬間的に入れ替わる。同じ意味になる。
 こういうことを、斎藤は「ほどけてゆく はなれてゆく すがたになってゆく」や「ふやしからだはふくらみゆらめく」という「ひらがな」でつつみこむように「まるめ」てしまう。このことばの運動も、とても魅力的である。
 (ひらがなの表記のことがらは、ほんとうは別の形できちんと書いた方がいいのだと思う。--と、きょうはメモをしておく。いつか、書けたらなあと思う。)







夕区
斎藤 恵子
思潮社
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ロバート・アルトマン監督「M★A★S★H(マッシュ)」(★★★★★-★)

2011-08-28 21:48:53 | 午前十時の映画祭
監督 ロバート・アルトマン 出演 ドナルド・サザーランド、エリオット・グールド、トム・スケリット、サリー・ケラーマン、ロバート・デュヴァル

 戦争を描きながら戦闘シーンがない。けれど、負傷者はちゃんと描く。死も描く。一方で、無意味な「自殺願望」も描く。そこから「生きる」ことを見つめ直す――というしかつめらしいことは、どうでもいいね。
 私は、ロバート・デュヴァルが看護婦長とセックスするシーンと、看護婦長のアンダーヘアの「色あて」のシーンが大好き。別に理由はない。わけでも、ないか。人には、人に知られずにしたいこと(秘密の欲望?)があり、また人の隠していることを知りたいと思う気持ちがある。それは、「してはいけないことをしたい」という欲望かもしれない。
 「してはいけないことをする」とき、人は喜びを感じる。
 アメリカンフットボールのシーンも、同じだね。「試合」を真剣にするだけじゃなくて、「してはいけないことをして」勝つ。勝つために「してはいけないこと」をする。なんあろうねえ、この不思議な欲望。
 まあ、どんなことにも「一線」はあるんだろうけれど。
 その「一線」の周辺で、「いのち」の側に身を置くというところが、この映画を支えている「哲学」なのかもしれない。「いのち」を守ることだけは真剣にやる。「いのち」の前では、階級を無視する、規律を無視する――ここに、反軍隊、しいては反戦ということになる。
 当時は、この視点はとても新鮮だった。
 ここからどんな「哲学」を「言語化」できるか――そういうことをずいぶん考えた。どこまで考えたか、いまは思い出せないが、考えたということだけは忘れられない。
 だから、私には、忘れられない映画である。

 ただ「小倉」のシーンは、あまりにもひどい。「日本」は、当時のアメリカから見れば「中国」の一部ということだろうねえ。(減点★1個)
 「最後の晩餐」のパロディーも、好きではない。「名作」に頼らなくてもいいのでは、と思うのだ。

 この映画では「悪役(嫌われ者)」だけれど、私はなぜかロバート・デュヴァルという役者が好きだなあ。たいてい「冷静」な役どころ(「ゴッドファザー」の弁護士?とか)なんだけれど。こういう役者がいると、さわがしい映画が、どこか落ち着く。

(2011年08月27日天神東宝3、「午前十時の映画祭」青シリーズ30本目)




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