斎藤恵子『海と夜祭』(3)(思潮社、2011年07月31日発行)
「知る(知っている)」「わかる(わかっている)」にこだわりすぎて詩集を読みすぎたかもしれない。きょうは「知る」「わかる」ということばをつかわずに斎藤の詩に近づいて行ってみたい。
「海の見える町」のなかに、とても不思議なことばがある。
3連目の最後の2行が不思議である。
「家家は花のように/だれが見ていなくても懸命にある」。突然、「家」が出てくる。海の見える町だから、当然、家はあっていいのだが、「家」が出てくるのはここだけである。あとはただ「波」の描写をしている。
なぜ、「家」と書いたのだろう。
この詩集には、母を描いたものが何篇かある。
斎藤は「わたし」というものを考えるとき、無意識的に「母-わたし」というつながりを生きているのかもしれない。「母-わたし」という血の繋がりが「家」というものかもしれない。
ふと、「家」を「母」と置き換えて読みたくなるのである。
「母は花のように/だれが見ていなくても懸命にある」。そのとき「花」という「比喩」は「家」よりももっと納得ができる。「母」はきっと「だれが見ていなくても懸命に」生きてきたのだろう。斎藤には、その「母」の「懸命」が見えたのだと思う。
なぜ、「懸命」なのか。
「夜は眠りながら/取り返しのつかないことを沈めていく」。これは「波」の描写であるけれど、また「母」のようにも見えてくる。「取り返しのつかないこと」というのは何か想像がつかないが、想像がつかないくせに「わかってしまう」。(わかる、ということばをつかわないつもりだったが、やはりつかわないと書けないことを斎藤は書いている。)ことばにできないけれど、斎藤は「母」が「取り返しのつかないこと」を静かに自分の「肉体」のなかに「沈めていく」(深く沈殿させてとじこめていく)のを見たのだろう。
書きながら、斎藤は「波」のなかに「母」を見て、それから「家」にも「母」を見たのだろう。そういう気がする。
「海の見える町」で斎藤は「母」に出会うのだ。そして、それは「わたし」が「母」とつながっている、同じ「家」を生きていると思い出すことなのだ。
「懸命にある」の「ある」も不思議なことばである。
「懸命に」はなにかしら「肉体」のなかから「わたし(斎藤なのか、それとも読んでいる私なのか--たぶん、両方。つまり、懸命にということばを読むとき、私には、斎藤と私の区別がつかなくなる)」を突き動かすものがある。私の「肉体」のなかで動くものがある。
その「肉体」の「ある」場所とは違うところ、つまり「私の外」に「家」は「ある」という感じが、その「ある」には含まれている。
「母」と「家」をごっちゃにして(混乱させたまま)書くが、「母(家)」と「わたし」がつながるということは、「ひとつ」になるということであると同時に、別々のものであるということを意識することでもある。別々だからつながる。そして、つながってひとつになる。「ある」という動詞は、そういう「混乱」を教えてくれる。--そして、この「混乱」はなぜか、私にはうれしいものに感じられる。
別々にあること、別々であることによって、つながり、また、はなれる--この「矛盾(混乱)」は「女湯」でも美しい形で書かれている。
3連目の「何人ものわたしにふえてゆく」とは、そのとき「わたし」とそこにいる女たちの区別がなくなるということである。「何人も」に「ふえてゆく」。その結果「ひとり」の「わたし」になる。--それは、「おんな」になる。「母」になる、ということかもしれない。いや、「いのち」に「なる」ということだ。斎藤は2連目で「名づけられぬいのちになる」と正確に書いている。
「いのち」というのは「ひとつ」であるが、「ひとつ」であるがゆえにさまざまな形をとる。どんな形をとっても「いのち」であることを知っているからである。わかっているからである。(あ、また、「わかる」ということばを書いてしまった。--「わかる」をつかわずに、斎藤の詩について書くのはむずかしい。)
この変化を、斎藤は、
と書く。
いいなあ、この、自在なやわらかさ。
これは最終行でも繰り返されている。
おんなの匂い(母の匂い、いのちの匂い)は、おんな(母、ひとりのいのち)の方が「世界」より小さいにもかかわらず、「世界をくるむ」のだ。
つながりながら「ある」という形で。
「ある」ということと「なる」ということは違うことなのだけれど、斎藤の「肉体」のなかでは、瞬間的に入れ替わる。同じ意味になる。
こういうことを、斎藤は「ほどけてゆく はなれてゆく すがたになってゆく」や「ふやしからだはふくらみゆらめく」という「ひらがな」でつつみこむように「まるめ」てしまう。このことばの運動も、とても魅力的である。
(ひらがなの表記のことがらは、ほんとうは別の形できちんと書いた方がいいのだと思う。--と、きょうはメモをしておく。いつか、書けたらなあと思う。)
「知る(知っている)」「わかる(わかっている)」にこだわりすぎて詩集を読みすぎたかもしれない。きょうは「知る」「わかる」ということばをつかわずに斎藤の詩に近づいて行ってみたい。
「海の見える町」のなかに、とても不思議なことばがある。
わたしは旅をする
わたしに出会うように
海が見える
歩いたあとを波が消していく
波はいつのまにか
大きな水の器の中で減っている
波から波のあいだ
一瞬のひろがりが
永遠かもしれない
波にそそがれる夢は
朝はきらきらしている
真昼は勢いよく
夜は眠りながら
取り返しのつかないことを沈めていく
家家は花のように
だれが見ていないくても懸命にある
思い出は
遠い町にあるような気がして
海の見える町を旅する
波のかなたに
わたしを隠しているかもしれない
3連目の最後の2行が不思議である。
「家家は花のように/だれが見ていなくても懸命にある」。突然、「家」が出てくる。海の見える町だから、当然、家はあっていいのだが、「家」が出てくるのはここだけである。あとはただ「波」の描写をしている。
なぜ、「家」と書いたのだろう。
この詩集には、母を描いたものが何篇かある。
斎藤は「わたし」というものを考えるとき、無意識的に「母-わたし」というつながりを生きているのかもしれない。「母-わたし」という血の繋がりが「家」というものかもしれない。
ふと、「家」を「母」と置き換えて読みたくなるのである。
「母は花のように/だれが見ていなくても懸命にある」。そのとき「花」という「比喩」は「家」よりももっと納得ができる。「母」はきっと「だれが見ていなくても懸命に」生きてきたのだろう。斎藤には、その「母」の「懸命」が見えたのだと思う。
なぜ、「懸命」なのか。
「夜は眠りながら/取り返しのつかないことを沈めていく」。これは「波」の描写であるけれど、また「母」のようにも見えてくる。「取り返しのつかないこと」というのは何か想像がつかないが、想像がつかないくせに「わかってしまう」。(わかる、ということばをつかわないつもりだったが、やはりつかわないと書けないことを斎藤は書いている。)ことばにできないけれど、斎藤は「母」が「取り返しのつかないこと」を静かに自分の「肉体」のなかに「沈めていく」(深く沈殿させてとじこめていく)のを見たのだろう。
書きながら、斎藤は「波」のなかに「母」を見て、それから「家」にも「母」を見たのだろう。そういう気がする。
「海の見える町」で斎藤は「母」に出会うのだ。そして、それは「わたし」が「母」とつながっている、同じ「家」を生きていると思い出すことなのだ。
「懸命にある」の「ある」も不思議なことばである。
「懸命に」はなにかしら「肉体」のなかから「わたし(斎藤なのか、それとも読んでいる私なのか--たぶん、両方。つまり、懸命にということばを読むとき、私には、斎藤と私の区別がつかなくなる)」を突き動かすものがある。私の「肉体」のなかで動くものがある。
その「肉体」の「ある」場所とは違うところ、つまり「私の外」に「家」は「ある」という感じが、その「ある」には含まれている。
「母」と「家」をごっちゃにして(混乱させたまま)書くが、「母(家)」と「わたし」がつながるということは、「ひとつ」になるということであると同時に、別々のものであるということを意識することでもある。別々だからつながる。そして、つながってひとつになる。「ある」という動詞は、そういう「混乱」を教えてくれる。--そして、この「混乱」はなぜか、私にはうれしいものに感じられる。
別々にあること、別々であることによって、つながり、また、はなれる--この「矛盾(混乱)」は「女湯」でも美しい形で書かれている。
女たちは湯の中では互いに無言だ
柔らかなまるいからだを湯にしずめ
ため息のように過ぎた日を泡にして吐く
肉をふやしからだはふくらみゆらめく
うでは花のふとい茎 足は魚の尾ひれ
そよぎ薄い血の色の名づけられぬいのちになる
やさしげな生きものたちはだれも責めたり怒ったりしない
ほほを赤らめほほえみあい しなやかな楕円になる
とろけながら広がり温もり何人ものわたしにふえてゆく
湯から樹木のように立ち上がり円のつなぎ目の淡いところから
ほどけてゆく はなれてゆく すがたになってゆく
ぬれたままでは小女子(こうなご)や甘鯛になってしまう
かわいたら大急ぎでそれぞれの衣服をつける
だれも湯の中の顔をおぼえていない
みなつま先までピンク色に染まり髪をかきあげながら
世界をくるむ ただ生温かい匂いをまいている
3連目の「何人ものわたしにふえてゆく」とは、そのとき「わたし」とそこにいる女たちの区別がなくなるということである。「何人も」に「ふえてゆく」。その結果「ひとり」の「わたし」になる。--それは、「おんな」になる。「母」になる、ということかもしれない。いや、「いのち」に「なる」ということだ。斎藤は2連目で「名づけられぬいのちになる」と正確に書いている。
「いのち」というのは「ひとつ」であるが、「ひとつ」であるがゆえにさまざまな形をとる。どんな形をとっても「いのち」であることを知っているからである。わかっているからである。(あ、また、「わかる」ということばを書いてしまった。--「わかる」をつかわずに、斎藤の詩について書くのはむずかしい。)
この変化を、斎藤は、
ほどけてゆく はなれてゆく すがたになってゆく
と書く。
いいなあ、この、自在なやわらかさ。
これは最終行でも繰り返されている。
世界をくるむ ただ生温かい匂いをまいている
おんなの匂い(母の匂い、いのちの匂い)は、おんな(母、ひとりのいのち)の方が「世界」より小さいにもかかわらず、「世界をくるむ」のだ。
つながりながら「ある」という形で。
「ある」ということと「なる」ということは違うことなのだけれど、斎藤の「肉体」のなかでは、瞬間的に入れ替わる。同じ意味になる。
こういうことを、斎藤は「ほどけてゆく はなれてゆく すがたになってゆく」や「ふやしからだはふくらみゆらめく」という「ひらがな」でつつみこむように「まるめ」てしまう。このことばの運動も、とても魅力的である。
(ひらがなの表記のことがらは、ほんとうは別の形できちんと書いた方がいいのだと思う。--と、きょうはメモをしておく。いつか、書けたらなあと思う。)
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