詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田村隆一試論

2011-08-09 23:59:59 | 現代詩講座
田村隆一試論(2011年08月08日の「現代詩講座」の再録、補筆)
 
 きょうは、前回、取り上げてほしい要望があった田村隆一。まず、読んでみてください。(受講生が朗読)

幻を見る人    田村隆一

空から小鳥が墜ちてくる
誰もいない所で射殺された一羽の小鳥のために
野はある

窓から叫びが聴こえてくる
誰も知らない部屋で射殺されたひとつの叫びのために
世界はある

空は小鳥のためにあり 小鳥は空からした墜ちてこない
窓は叫びのためにあり 叫びは窓からしか聴こえてこない

どうしてそうなのかわたしには分らない
ただどうしてそうなのかをわたしは感じる

小鳥が墜ちてくるからには高さがあるわけだ 閉ざされたものがあるわけだ
叫びが聴こえてくるからには

野のなかに小鳥の屍骸があるように わたしの頭のなかは死でいっぱいだ
わたしの頭のなかに死があるように 世界中の窓という窓には誰もいない

(質問--この詩を読んだ時の印象をなるべく短いことばでいってみてください。)
「拒否された世界」「殺人の場面を描いている」「哲学的。人生、生と死を感じる」「何かに抗議している」「ハードボイルド。かっこいい」

 あ、ちょっとびっくり、というか、ちょっと困りました。いきなり、こういう感想を聞けるとは想像していなかったので、……どうしようかなあ。
 考え直しながら、少しずつ進めます。
 実は、きのう受講生の2人に「あす、この詩をとりあげるよ」と話しました。そのとき、「難しい」「かっこいい」という感想が返ってきて、そこからはじめるつもりでいまし。
 「難しい」を自分のことばで言いなおすとどうなるか。--でも、誰も「難しい」とは言わなかったので、ちょっと困りました。
 で、私が「難しい」を言いなおしてみます。
 私には、この詩は難しい。すぐにはわからない。何かを感じるけれど、その感じをうまく言えない--それが難しい。言いたいことがあるのだけれど、それをどう言っていいかわからない。この詩の場合は、そんな感じです。
 ことばは、全部わかる。知らないことばはない。けれど、そのことばを読んでどう言っていいかわからない。考えをまとめきれない。田村隆一のことばと、自分自身のことばの間に、うまくつながらないものがある。一致しないものがある。それで難しく感じる。
 みなさんの感想を聞くと、あたりまえのことだけれど、「ひとつ」ではない。いろいろ違っている。感想が違うのは、詩を読んだ時の「内容(意味)」の把握の仕方がひとりひとり違っているからだと思う。
 誰もが「内容」に接近しながら、誰もが少し「内容」から離れている――ということが考えられる。
 詩は(文学は)正解を追い求めるものではないけれど、どうしてこんな風な違いが出てくるか。それは「難しい」からだと思う。「難しい」何かがあるからだと思う。

(質問--ところで、この詩のなかに、わからないことばがありますか? 意味のわからないことばはありますか?)
 全員「知らないことば、わからないことばはない」

 意味のわからないことばはない。全部知っている。けれど、読んで感想を言おうとするとうまく言えない。言い切れないものがある。そして、みなさんの「感想」もばらばら。これは、何か、この詩に難しいものがあるからだと私は思います。
 なぜ、難しいんだろう。どこがわからないんだろうということを探すようにして、詩を読んでいきたいと思います。

 次に「かっこいい」。
(質問――この詩をかっこいいと感じる。かっこいいを自分のことばで言い直すとどうなるか。どこがかっこいいか。)
「自分では考えられないことが書いてある。憧れ」
「言いきっている感じ。断定している感じがかっこいい」
「(田村隆一の)姿がかっこいい。憧れ」
「力量を感じる」
「頭で書いている。気どり」
「ことばが素敵」

 「難しい」を自分のことばで言い直してみる。感じていることと、言いたいことが結びつかない。言いたいことが言えない。
 「かっこいい」を自分のことばで言い直すと。刺激される。真似してみたい。自分にないものを感じる。自分のとは違う。びっくりした感じ。
 そういうことがだいたいの考え方ですね。
 では、「かっこいい」と「難しい」に共通することは?
 自分とは違う。自分を超えている。――そこには、「驚き」があると思う。

 ここからは、私の感想。
 私はこの詩を「かっこいい」と思う。ことばのリズムが「かっこいい」。「言い切ってしまう。断定がかっこいい」という意見がありましたが、私もそう思う。そのかっこよいリズムは、「断定」にある。言いきってしまう力強さにある。
 こういうところから、少しずつ田村隆一に近づいていって、田村隆一のことばを味わってみたい。
 「文学」なので、「正解」「正しい答え」はありません。あくまで、私が感じ、私が考えたことを、私のことばで説明する。そういうことをしてみたい。

 この詩は「断定」に満ちている。あらゆることを、田村はことばで「断定」している。1連目。「野」は何のためにあるか。

(質問――野は何のためにある?)
受講生「花が咲くために」

 子供が遊ぶため。花が咲き乱れるため。風がわたってゆくため。--そういう「一般的」な野、だれもが思い浮かべる野原を裏切って、田村はこ「小鳥が空から墜ちてくるため」にある、と断定する。この「一般的ではない」野のためにこの詩が「難しい」。「かっこいい」
 「難しい」「かっこいい」は一般的ではない、普通とは違うということと関係しているのがわかる。

 このとき、何が見える?
 空? 小鳥? 射殺? 野?
 それが分離できないもの、「ひとかたまり」に見える。それまで誰も想像したこともない「ひとかたまり」。不思議な出会い。この「ひとかたまり」のかたまり方――それが「かっこいい」と「難しい」に関係している。
 「難しい」から説明すると……。
 たとえば、糸がからまりあっている。長いはずの糸が「ひとつ」に「固まっている」。これを解きほぐすのは「難しい」。「難しい」ものは、自分の手で解きほぐせない「ひとかたまり」のものに似ている。知恵の輪も同じ。絡まっている。解きほぐせない。
 この詩でも、空、小鳥、射殺、野がからみあっていて、うまく解きほぐせない。
 言い換えると、自分の知っている空、小鳥、射殺、野とつながらない。どんなぐあいにつながっているのか、その糸をきちんとたどれない。つながっているけれど、それを自分なりに(自分のことばで)つなぎなおせない。
 そして、何が、絡み合った糸の原因かなあ、と思うと、「射殺」ということばが気になる。
 私は田村の詩を読むまでは、こんな風に射殺ということばが使われるとは思ったことがなかった。その思いもしなかったことばが他のことばを結び付けている。「難しい」「分からない」は、ここに「射殺」ということばがあるからだと思う。

受講生「小鳥を射殺するとは、普通は言いませんね。銃で撃つくらいが普通」

 そうですね、とてもいい指摘だと思う。
 「射殺」はとっても変。そして変なことなのだれど、そのわからない原因の「射殺」があるから、この詩はかっこいい。言い換えると、私の想像力(常識?)を超えている。あ、そんなふうな言い方があるのか、と驚き、この驚きが「かっこいい」ということなんだと思う。それが別の言い方をすると「頭で書いている。気障」にもつながる。

 そしてまた、少し後戻りすると、驚き、びっくりのために「難しい」も生まれている。びっくりして自分の考えがまとまらない。だから、分からない=難しい。
 かっこいいものは難しい。かっこいいものは、自分ではすぐにはまねできないものがある。自分には難しいものがあるからかっこいい。

 繰り返しになるけれど、この分からない=難しい、かっこいい、びっくり、ということのなかには、自分の知らなかった「ことばの出会い」がある。
 詩は、出会うことのなかったものが出会うときにあらわれる、という定義がある。
ここに書かれている、空、小鳥、射殺、野ということばの出会いは、田村がはじめて書いたものである。田村のことばのなかで、それが出会っている。それがいままで誰も書かなかったもの(想像しなかったもの)だから、それが詩である。
 同じように、2連目は、窓、叫び、射殺、世界が田村のことばによって結びつけられている。

 この結びつきを、さらに新鮮に感じさせているのが「誰もいない所」「誰もいない部屋」の「誰もいない」である。
 この「誰もいない」という何気ないことば――これこそ、ほんとうは田村の思想につながっていく大事なことばなのかもしれない。田村を特徴づけることばかもしれないけれど、この問題はちょっとわきに置いておいて、先に進みます。

 この「誰もいない」は矛盾したことばである。
 「誰もいない」なら、誰が「射殺」するのか。誰もいないなら射殺する人もいないということである。射殺される人もいない。
 なんだか変だね。矛盾している。
 この矛盾によって、しかし、逆に「射殺する」という凶暴なことばがリアルに感じられる。
 なぜか。
 それは「射殺」ということを私がことばでしか知らないからだ。「射殺」がどういうものであるか、私は知らない。「射殺」されたらひとは死ぬということはわかるけれど、それを見たことがない。(映画では見たことがあるけれど、ほんものは知らない。)また、誰かを(何かを)射殺したこともない。
 その知らない「射殺」が、普通につかわれる「射殺」とは違った意味(?)でつかわれている。普通とは違う場面でつかわれている。そのために、なんだか、とても新鮮に、刺激的に響く。

 詩でも、作文でも、学校でならうものは、みんな自分の「体験したこと」を書く。これが「学校」の詩、作文。
 知らないことがあると、どうなるか。知っていることを中心にして、その知らないことを考える。そうして、その考えるということのなかで、知っていることばが強烈に結びつく。
 ことばでしか知らない「射殺」があり、「誰もいない」という矛盾があるために、この1、2連は、わからないけれど、印象に残る。--そういうことが、読むときに、頭の中ふこころのなかで起きている。

 私は、結論を考えず、思いついたことをそのままことばにして、行き詰まったらちょっと引き返してもう一度ことばを動かし直してみる。
 そういうことを、ここでもしてみる。
 「難しい」と「わからない」はちょっと違うけれど、似ている。
 私は、さっき「わからない」ということばをつかったけれど。
 「わからない」というのは、この詩の場合、「死」や「射殺」以外にもある。たとえば小鳥の大きさ。小鳥の名前。すずめか、ヒバリかもわからない。小鳥の羽の色。窓の形。叫び声がギャー、かキャーか。世界の広さ。世界と田村が呼んでいるもの。それが「わからない」。
 そして、それでもそのことばが強烈に印象に残るのは、私たちが(読者が)かってに、小鳥や野原や窓を想像するからである。「わからない」くせに、かってに「わかる」(わかったつもりになる)。
 どうしてだろう。
 ことばに触れると、私たちは、自然に何かを想像する。空と聞けば空を想像する。小鳥と聞けば小鳥を想像する。その想像したものは、あいまいなもの、はっきりと意識しないものである。
 その想像を、田村は「断定」で揺るぎないものにする。きっぱりと言い切ることばの調子で、「完璧」な空、小鳥を出現させる。
 「想像」というものは実体がないのだから、ふわふわと頼りないものである。その頼りないものを「ある」と田村が「断定」するので、すーっとその世界に私たちは引き込まれていく。
 繰り返しになるけれど、このとき「誰もいない」という矛盾と、「射殺」という「未体験」のことばが大きく影響する。。そこに書かれていることは、わからない。わからないから、わかることばへ向かって、私たちの想像力は結晶のように固まっていく。この結晶化していくスピードと田村の「断定」の歯切れのよさがどこかで重なり合う。

 2連目は 1連目と構造がとても似ている。ひとつのことを別のことばで言い直したもののように感じられる。

窓から叫びが聴えてくる
誰も知らない部屋で射殺されたひとつの叫びのために
世界はある

 1連目について触れなかったことを、ここで補足しておく。
 まず「窓から叫びが聴えてくる」という「事実」が描写される。そのあと「誰も知らない部屋で射殺されたひとつの叫びのために/世界はある」。この2行は「断定」のリズムが強いために、「事実」のように見えるけれど(勘違いしてしまいそうになるが)、「事実」とは言えない。田村の考えたこと。
 象徴的なのが「ために」ということば。
 「ために」ということばが出てくる。
 この「ために」は田村が考えた理由。
 そして、このことが「難しい」にも「わからない」にもつながっている。あくまで、それは「事実」ではなく、田村が考えたこと。
 でも、この「ために」が、ほんとうによくわからない。「射殺」以上にわからない。
 わからないのは、普通はこんな使い方をしないから。
 普通はたとえば「○○さんのために花を飾った」というような使い方が多い。
 理由をあらわす「ために」もあるけれど、「射殺されたひとつの叫びのために世界はある」はどうも奇妙。
 さっき「射殺」という自分の体験したことのないものが書かれているために、わからない、と言ったけれど、そうではなくほんとうは、この「ために」が原因でわからない。
 なぜ、「ために」で関係をむすびつけるのかわからない。

 他人の考えは、わかる、わからない、ではなく、信じるか信じないか。
 考えたことを事実のようにきっぱりと言ってしまう。そのことばの調子、リズムが強い。このリズムの強さ、断定の強さに引きずられて、私は田村の「考え」を信じてしまう。無意識に共感してしまう。「ために」で感じたわからなさを、「ために」があまりにも簡単なことばであるために「原因」であるとは意識できずに、田村のことばにのみこまれてゆく。信じてしまう。
 そのために「かっこいい」という印象が強くなる。

 「ために」が重要なことば、わからなさの原因。
 そして、この「ために」がとても重要。
 田村は実は「ために」、理由を探している。小鳥が墜ちる、叫びが聴こえる――その理由を探しているのではないのか。田村が本当に書きたいことと、「ために」は密接な関係にあるのではないのか。
 「ために」に、田村の思想が集約されているのではないのか。
 ――ということを、私はここまで読んで感じる。

 3連目。田村は、さらに「考え」を書いてゆく。「ために」につながってゆく「考え」(世界の見方、見え方)を書いてゆく。

空は小鳥のためにあり 小鳥は空からした墜ちてこない

 これは、ほんとうだろうか。この「考え」は間違いないだろうか。
 たとえば小鳥は木から墜ちてくることもある。巣から墜ちてくることもある。電線から墜ちてくることもある。でも、そういう鳥は止まっている鳥。田村が書いているのは、飛んでいる鳥。
 だから、この1行は、

空は小鳥が「飛ぶ」ためにあり 「飛んでいる」小鳥は空からしか墜ちてこない

 ということになる。
 そして、もし、空の小鳥が墜ちてくる、射殺されたら、そのとき、「空は小鳥が「飛ぶ」ためにあり」の「ために」はどうなるのだろう。小鳥が飛ぶ「ために」は否定される。墜ちてくる鳥の「ために」野はある――は、とても変。鳥は普通は飛ぶのが普通。飛ぶのが普通なら、「飛ぶために空がある」が普通。
 普通ではないことをはっきりさせるために、1連目、2連目の「ために」はあるのかもしれない。

 「空は小鳥のためにあり 小鳥は空からしか墜ちてこない」で「飛ぶ」「飛んでいる」を補ったように、

窓は叫びのためにあり 叫びは窓からしか聴こえてこない

という行にことばを補うとしたら、どうなるだろう。「叫び」を修飾することばは何だろうか。
 たとえば「閉じ込められた」はどうだろうか。
 これは、あとになって出てくる。最初の方で、田村は自分のことばを言い直しているというようなことを言ったが、後から出てくる「閉じ込められた」はまさにそれ。言いそびれたことを付け加えている。
 「わからない」ことで、それが作者にとって重要なことがらは、かならずあとで説明しなおされるので、わからなくても読んでゆけばわかる、というようなことが起きるのは、このため。

窓は「閉じ込められた(閉じ込められている人)の叫びのためにあり 「閉じ込められているひとの」叫びは窓からしか聴こえてこない。

 これは、どういう「窓」を想像するかということとも関係してくる。私は、この詩を読んだとき高い塔の小さな窓を想像した。人を幽閉する塔、その窓。高い塔を想像したのは、たぶん「空」と関係がある。小さな窓を想像したのは「小鳥」と関係がある。
 野原にぽつんとたっている高い塔。そこには誰かが閉じ込められている。彼はときどき窓から、空を飛んでいる小鳥を見ている。--そういう風景を想像する。
 この3連目は1、2連目と違って、簡単には想像できない。何かしら「意味」を考えてしまう。どういうことかな、と考えてしまう。
 この考えは、簡単にはまとまらない。つまり、自分だけの力でまとめることができない。そういうとき、私は、ともかくそこに書いてあることばをそうなんだ、と思って読む。田村の「断定」を、とりあえず信じて先へ進む。

 4連目。ここが、この詩でいちばんおもしろいところ。私はいちばんおもしろいと思った。

どうしてそうなのかわたしには分らない
ただどうしてそうなのかをわたしは感じる

 「ために」で始まる「理由」は田村が考えたこと。自分で考えておいて、「わたしには分からない」って変でしょ。ばかやろう、おまえが考えたことなのに分からないなんて言うな。怒り出したくなりますね。
 だから、おもしろい。
 3連目の2行は、私も、わからない。空は飛ぶ小鳥のためにあり、飛んでいる小鳥は空からしか墜ちてこないというのはほんとうだとしても、どうしてそうなのか、わからない。窓が閉じ込められているひとの叫びを外に伝えるためにあるとてしも、なぜ窓からしか叫びが聴こえてこないのかわからない。
 繰り返しになるけれど、でも、そこに書いていることは田村が書いたこと。田村が理由付けしたこと。
 それなのに「分からない」という。
 ずるい。
 そして、この「わからない」を田村は突然「感じる」にかえてしまう。
 この瞬間、この詩が「考えたこと」「頭で理解していること」を書いているのではなく、「感じていること」を書いたのだとはわかる。
 あるいは、「感じている」ことを書いたのではなく、一歩進んで、「感じたいこと」を書いた。ことばを書くことによって「感じ」をつくっていく。「感じ」というのは「こころ」のなかにもやもやとしていて、はっきりつかめない。それをはっきりつかむために、ことばを動かす。そういうことをしている。そう思って見ると、詩の雰囲気が変わってくる。
 「感じたい」からこそ、「断定する」。
 「感じ」にたどりついたあとの、5連目。
 ここは、とてもかわっている。

小鳥が墜ちてくるからには高さがあるわけだ 閉ざされたものがあるわけだ
叫びが聴こえてくるからには

 ことばのつながり方がかわっている。いままでの書き方を踏襲するなら、どうなるだろう。

(質問――今までと同じスタイルの展開にすると、この2行はどうなりますか?)

受講生「小鳥が墜ちてくるからには高さがあるわけだ 
    叫びが聴こえてくるからには閉ざされたものがあるわけだ」

 そうですね。普通は、そう書いてしまう。特に詩を書きなれていると、スタイルが優先的に前にでてきて、ことばをそう動かしてゆく。けれども、田村はそうは書かない。倒置法を使っている。しかも「閉ざされたものがあるわけだ」を「小鳥」の行に続けている。ここが田村のすごいところなのだけれど、

(質問――ここから何を感じますか。この、変な書き方をに何が隠されているか。どう、読みますか?)

受講生「田村の地が出ている。怒りが出ている。怒ったとき、興奮して、ことばの順序が逆になったりする」

 そうですね。とても的確な指摘だと思います。
 (私は、実はここで、とても興奮しました。--ここが、今回の講座のハイライトだったと思います。)
 私もそう思います。ここは、論理よりも感情の暴走をそのまま書いている。怒った時、人は論理的ではなくなる。ことばが乱れる。倒置法みたいに、あとで論理をつくりあげるようなところがある。そういう感情の動きを、きちんとことばの順序の変化で再現しているところが、田村の素晴らしいところ。
 倒置法で、わかりにくい。一瞬考えないと分からないのだけれど、そのときのことばの動き、スピード、歯切れのよさ、リズムの変化――そういうものが、かっこいい。

受講生「倒置法はわかったんですが、「小鳥が墜ちてくるからには高さがあるわけだ 閉ざされたものがあるわけだ」と1行になっているのがわからない。なぜ、小鳥の行に閉ざされた・・・が続くんですか?」

 あ、これはとてもいい質問。
 (ここでも、私は興奮しました。)
 前回取り上げた川邉由紀恵の詩を読んだ時に言ったことと関係があるのだけれど。
 句読点とか、改行とかには、「ひとつづき」のリズムがある。感情や感覚のリズムがある。論理とは別のものがある。
 怒りのために、ことばの順序、リズムが乱れている。その乱れ――つまり、怒りの強さを強調するために、田村はわざと「小鳥」と「閉ざされた」を1行にくっつけている。
 ここには、感情をどうあらわすかという「工夫」があらわれている。

 そしてそれは、「小鳥」と「閉ざされた」を結びつける、つまり1行にしてしまうことで、「小鳥」と「叫び」が田村にとっては同じもの――ということを証明することになる。
 この2行をいままでのことばで書き直してみると、そのことが分かります。
 どうなるかな?

小鳥が墜ちてくるからには「空」があるわけだ 「窓」があるわけだ
叫びが聴えてくるからには

 「高さ」は「空」。「閉ざされたもの」は「窓」。
 ここから、さらに読み進んでみる。
 1、2連目と比較してみる。1、2連目では「空」も「窓」も最初からあった。けれど、この連では「空」も「窓」もない。「小鳥が墜ちてくる」という現実があり、「叫びが聴こえてくる」という現実があるだけだ。「小鳥が墜ちてくる」「叫びが聴こえてくる」ということから出発して「空」があるはずだ、「窓」があるはずだ、と想像していることになる。
 このとき、「空」「窓」というのは田村の欲望である。希望である。「空」を「高さ」と抽象的にいうことで、「希望のにおいがつよくなる。「閉ざされた」は逆説かな? 「窓」は「閉ざされた」ときではなく、「開かれた」とき、内と外をつなぐ通路になる。
 ここには、あってほしいと願っている「もの」が書かれている。
 空は小鳥が自由に飛び回る場。窓は室内と室外を結ぶ通路、かな?
 そして、

小鳥が墜ちてくるからには「空」があるわけだ 「窓」があるわけだ
叫びが聴えてくるからには

 に戻ってみると、「空があるわけだ」「窓があるわけだ」が1行のなかの「言い直し」になっていることに気がつく。「空がある」と「窓がある」は同じものなのだ。「同じ」が言い過ぎなら、どこかで似通ったもの、通い合うものを持った「もの」なのだ。
 そこから、もう一度、オリジナルの行に戻ってみる。

小鳥が墜ちてくるからには高さがあるわけだ 閉ざされたものがあるわけだ
叫びが聴えてくるからには

 そうする、「高さ」と「閉ざされたもの」の逆説が同じもの、あるいは似通ったものであるということがわかる。
 田村は空、小鳥、野の組み合わせ、窓、叫び、世界の組み合わせを、ふたつの組み合わせではなく、ある「ひとつ」のことを言いなおしていることになる。さらには「小鳥が墜ちてくる」と「叫びが聴こえる」は同じである。
 空と窓は同じ、小鳥と叫びは同じ、野と世界は同じ。そして、その「同じ」をつなぐものとして「誰もいない」と「射殺」があった。共通項が接着剤のようにして、そのことばを結びつけていた。
 どちらがどちらの「比喩」なのかわからないが、それらは交互に比喩になっている。
 そして、「ために」がそれを内側から強烈に結び付ける「理由」を暗示していた。

 「比喩」というのは、「いま/ここ」にないものを借りて、「いま/ここ」にあるものをより強く印象づけることばの運動。
 「○○さん」は五月の薔薇のように美しい--というとき、「○○さん」は「いま/ここ」にいる。けれど「五月の薔薇」はここにない。その「いま/ここ」にないものをいうことで、「いま/ここ」にいるひとに「散る寸前の薔薇」を想像させ、その「想像力の眼鏡」で「○○さん」を見つめなおすように仕向ける。
 「想像力はものを歪めてみる力」といったのはバシュラールだけれど、ようするに、違ったものとしてみる力のこと。
 そういうものが田村の詩の中では動いている。

 空も小鳥も野も、窓も叫びも世界も、「現実」にあるものとは違って、どれも田村が歪めて見ている「もの」。
 田村は、この詩では、1連目が現実で2連目が比喩なのか、それとも1連目が比喩で2連目が現実なのか、はっきりしないように書いている。たぶん、はっきりしないのだ。たがいに現実であり、比喩であるというすばやい動きを繰り返している。互いに現実であり、比喩であるという関係を生きている。
 ただし、そうは言っても「小鳥」ではじめるか、「叫び」ではじめるかでは詩の感じは違ってくる。「叫び」ではじまると抽象的すぎてわかりにくい。「小鳥」の方が想像しやすい。そういう工夫も、詩として、ほどこされている。

 そうして、そういう現実と比喩の関係が明確になったとき、もう一回、いままで書いてきたことの「核心」のようなものがあらためて浮かび上がる。
 それが最終連。

野のなかに小鳥の屍骸があるように わたしの頭のなかは死でいっぱいだ
わたしの頭のなかに死があるように 世界中の窓という窓には誰もいない

(質問――この2行には、いままで使われてこなかったことばがありますね。何ですか?)

受講生「死、屍骸」

 そうですね。
 その「死」は何の言い換えだろう。あるいは、どんな「死」だろうか。自然な死だろうか。
 1連目、2連目に「死」を連想させることばがある。「射殺」。
 詩のことばは、言いたいことを何度もことばを言い換えて書いている。言い換えることでことばの意味(言い表したいこと)に幅や深み(読者が共感できる要素)を広げる。
 飯島は「死」ということばを書いているけれど、これは「射殺された死」。
 「射殺された死」というとき、誰に射殺されたのだろう。普通の人が、たとえば強盗に? あるいは暴力団に?

野のなかに小鳥の屍骸があるように わたしの頭のなかは死でいっぱいだ

 この1行の「数」に注目すると、気がつくことがある。野の小鳥、それは「射殺された一羽の小鳥」、「一羽」だった。でも、「わたしの頭のなかは死でいっぱいだ」と「射殺された死」は「いっぱい」。複数。あるいは「ひとり」かもしれないが、野原の小鳥の屍骸が野の一部しか占めないのに、頭の中の死は「いっぱい」の領域を占めている。とても重要な「死」なのだ。
 2連目の「射殺されたひとつの叫び」ということばを手掛かりにすれば、それは田村にとって大切な「ひとり」のことかもしれない。あるいは「ひとつの叫び」とあるけれど、「死」はそれぞれの個人のものだから、ここでの「ひとつ」は無数につながる「ひとつ」かもしれない。「射殺された人(大切な人)」は無数かもしれない。
 無数の死――そして、射殺。ここから想像してしまうのは、私の場合、戦争。
 戦争で、無意味に「射殺された人」、その「死」のことを田村は書いているのではないかと思う。
 また、この最後の連に、頭が出てくるところも大切なのではないかな、と思う。
 「ために」は「考え」を書いている。頭で考えた「理由」をあらわしているという具合に読んできた。そして、その頭で考えていたことを田村は途中で「感じ」に変えた。怒り、激情に変えた。ところが、また、頭に戻ってきている。
 これは何だろう。
 怒りは、だれでも怒る。感情はだれでも爆発させる。それは爆発させるだけでは力にならない。怒りを論理的に説明する--頭でこれこれの理由で怒っているのだときちんというとき、その怒りは「思想」になる。
 田村のことばは、一篇の詩の中で、そんな具合に動いている。成長している。

受講生「最終行がわからないんですが」

わたしの頭のなかに死があるように 世界中の窓という窓には誰もいない

 「世界中の窓という窓には誰もいない」というのは田村の仲間が「射殺」され、もう「窓の中(部屋)」にはいない、死んでしまったということではないだろうか。そして、そのひと(その人たち)の死のことを「わたし(田村)」はいつも考えている――ということではないでしょうか。
 戦争体験が、この詩には反映されていると思います。
 「思想」ということに結びつけると、田村は、戦争の中で無残に死んでいった人(仲間)のことを忘れないと語ることで、「反戦」(戦争への怒り)をあらわしているのだと思います。

 ちなみに、田村隆一は1923年生まれ。1943年に明治大学を卒業している。1943年12月 9日に横須賀第二海兵団入団と「現代詩文庫」の略歴に書いてあります。戦争を体験している。戦争を体験することで「死」をつよく感じ取ったのかもしれない。それが詩に反映していると思います。

 その後の雑談で、次の意見があった。
受講生「小鳥とか、書かれていることが抽象的なので、戦争を超越しているように思います」
受講生「田村の怒りが普遍性に到達しているということだと思います」

                              (2011年08月08日)



「現代詩講座」は受講生を募集しています。
事前に連絡していただければ単独(1回ずつ)の受講も可能です。ただし、単独受講の場合は受講料がかわります。下記の「文化センター」に問い合わせてください。

【受講日】第2第4月曜日(月2回)
         13:00~14:30
【受講料】3か月前納 <消費税込>    
     受講料 11,300円(1か月あたり3,780円)
     維持費   630円(1か月あたり 210円)
※新規ご入会の方は初回入会金3,150円が必要です。
 (読売新聞購読者には優待制度があります)
【会 場】読売福岡ビル9階会議室
     福岡市中央区赤坂1丁目(地下鉄赤坂駅2番出口徒歩3分)

お申し込み・お問い合わせ
読売新聞とFBS福岡放送の文化事業よみうりFBS文化センター
TEL:092-715-4338(福岡) 093-511-6555(北九州)
FAX:092-715-6079(福岡) 093-541-6556(北九州)
  E-mail●yomiuri-fbs@tempo.ocn.ne.jp
  HomePage●http://yomiuri-cg.jp



田村隆一全集 1 (田村隆一全集【全6巻】)
田村 隆一
河出書房新社
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする