詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小林稔「他者たち」

2011-08-18 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
小林稔「他者たち」(「ヒーメロス」18、2011年06月25日発行)

 小林稔「他者たち」は男色(同性愛)への情念を描いているのか、ことばへの情念を描いているのか区別がつかないが、同じことなのかもしれない。
 このとき、ことば、とは「文学」のことばである。
 「文学」のことばは「男色」というと語弊が生じるが、なにかしら「同性愛」のようなものを含んでいる。ことばが描く「対象」と、ことばはある意味で「同じ」でなければならない。そして、また「同じ」であってはならない。「同じ」なのだけれど、そこに「異質」なものがふくまれていないと、それは「流通言語」になってしまう。「同じ」のなかにある、「同じではないもの」をもとめて、ことばはさまよう。

深紅の片(かけら)がいくつもせめぎあう薔薇の萼(うてな)を口に含んでそのいとおしさに口惜しいまでの執念をもってなでまわしていたこと、私の眼前に友愛を願わずにはいられないひとが現われたのである。そうした想いの根は幼少時まで遡るが、思春期に近づくにつれ、その茎を伸ばし、十二歳を過ぎたころから植物への欲求への固い蕾がゆるみ始めていたのであった。

 「薔薇」、あるいは「植物」を、「文学のことば」と置き換えると、小林の書いていることがわかりやすくなる。片に「かけら」とルビを振り、萼に「うてな」とルビを振るように、「薔薇」「植物」、さらには「ひと」に「文学(のことば)」とルビを振ればいいのである。
 これは強引な方法だが、文学、あるいは同性愛というのは、いくらか強引なものを含んでいるのだ。
 「対象」にはほんらい含まれていないものを、外から強引につけくわえる。ただし「片(かけら)」「萼(うてな)」のように強引といっても、そこには一種の「共有された文化」が介入しており、その「共有された文化」が強引さを薄める。ときには「洗練」や「歴史」を感じさせる。蓄積された「感性」を感じさせる。この「洗練」や「歴史」「感性」というのは、しかし、もっぱら「好み」の問題に集約されるので、いやだなあと感じたりするひともあらわれてくる。(「古くさい」「いまにはそぐわない」という感じが、小林のことばにはついてまわるかもしれない。)
 この強引な接近の仕方は、いろいろあるけれど、小林はいま書いたように「ルビ」に特徴があらわれている。「ルビを振る」という行為にあらわれている。
 完全な言い換え(比喩)ではない。比喩の寸前。「比喩」とは「いま/ここ」にないものを対象に結びつけることだが、小林はそういうことをしない。「いま/ここ」に完全になじんでいるものではない「文化」を併記するのである。
 「比喩」がいわばセックス(性交)をとおして、相手を相手の外へ連れ出す(エクスタシー--自己からの脱出)のに対し、「ルビ」は性交以前である。よりそい、愛撫するだけの行為に似ている。(もちろん、よりそうこと、手をつなぐこと、愛撫することもセックスなのだが、あえて性器の結合とは区別しておく。)
 性交とよりそいながらの愛撫とどこが違うか。
 「距離」が違う。よりそいながらの愛撫は、いわば「迂回」である。長い長い距離をたどる。その指は、クリトリスを刺激するだけではなく、首筋も耳朶も乳房も脇腹も膝の裏も足の指の間もたどる。長い長い距離。--だから、小林の文体は長くなっている。初期の中上健次や志賀直哉の短編の文章のようには、短い距離を、さらに突き破るようには動かない。ただひたすら「中心」をさせるようにして、遠く遠く動くことで、「核心」そのものを目覚めさせるのである。
 めんどうくさい(?)といえば、めんどうくさいが、これが小林の「好み」なら、それはそれで、もう他人が口を挟む筋合いではない。なるほどねえ、こんなふうにして対象に接近するのか、と思って、その「距離」の変化を楽しむしかない。そうやって動くのが、小林の「ことばの肉体」なのだ。

 小林の「ことばの肉体」の特徴は、いま書いたことと重複しながら少しずれるのだが、もうひとつ特徴がある。

私という自我は取り返すべくもなく、他者をつぎつぎに食して私は変成しつづける。とはいえ、それは情念(エロース)の引力のゲームというべきもの、つまり嘗める他者の肉体だけでなく、私を牽引する他者の思惟であり音楽であり絵画であり他者の遺した詩作(ポイエーシス)であった。

 ここではルビが「ひらがな(日本語)」ではなく、「カタカナ(外国語)」である。こういう結合は「異性愛」なのか「同性愛」なのか、ちょっとややこしいが、小林のことばは「日本語」だけを生きていないということである。
 自分の過去(日本語の過去)だけをたどり、そこから「ことば」を探し出す、そんなふうにして「過去」を耕すだけではなく、日本語と「平行」して動いている外国語からも「愛撫」を試みるのである。そのとき、文体はどうしたって「外国語(翻訳語)」になる。「外国語」の「観念」が動いた跡を追いかけるようにして動いてしまう。
 こういうとき、なにかしら、「分離」のようなものが生まれる。
 「愛撫」というのは接近なのだが、どうしても性器同士の結合と比べると「分離」という印象が残る。ことばが、そこに書かれた「表記」と「ルビ」に分離するように、何かが離れる。どんなにていねいに指の動いた距離を描いても「分離」の印象が残る。「一体」になっているという感じではなく「よりそう」という感じが残る。
 これを、どう超えるか--これが、おもしろい。

とはいえ、

 このことばで、併存するものを、それが単なる併存ではなく、併存に見えるのは見かけであって、実質は「同じ」(区別できない)ものであると、ひとつの「段落」(文意の塊)のなかに封印するのである。強引に、内部にわりこむ(あるいは外部にはみだす)。そうして、どっちがどっちかわからなくする。
 指が相手のからだを愛撫するが、それは指の欲望なのか、それとも指は相手のからだの欲望に誘われているだけなのか。小林の「文体」にしたがって言うならば、指が相手のからだを愛撫する。とはいえ、それは相手のからだの欲望に誘われるままに指が動いているのである。つまり、私が相手のからだを愛撫しているだけではなく、私を牽引する相手の欲望があるから私は動くのである。それは相手が生み出した愛の形なのだ。

 この「とはいえ、」は書かれることもあれば、書かれないこともある。
 1連目では「十六歳にもなればその病根は狂おしいほどの邪な願望であるという自覚から隠蔽すべき種子を肉体の秘めた部位に蓄えていたとはいえ、増殖する細胞の逆らいがたい潮は防波堤をのり越えて太腿までも濡らしてしまう刻(とき)がつづいた。」という長い文章のなかに隠れている。これは長い文章という「隠れ蓑」のおかげで目立たない、たいていの場合、目立ってしまうので小林は書かない。
 書かないのは、書かなくても小林の「肉体」のなかで「とはいえ、」ということばが無意識に動いていて、省略しても小林自身気がつかないということもある。こういう肉体化されたことばを私は「キーワード」と呼ぶ。このことばは、小林の文章が、あ、なんだかわかりにくい、ややこしい、と思ったところに、補って読むと、ことば全体がすっきりと動いてくれるものである。
 たとえば、

白や黄色や赤の朝露に濡れた花びらに陽が射し始め、やわらかに縁取る流線の鮮やかさを加えていく薔薇の片(かけら)が外側に向けて夜を開き、やがて萼(うてな)からもがれ地上に落ちふたたび闇に沈む。花々を食み愛でた私の肉体もまた朽ちるが、他者たちの記憶は、書物に編まれた言葉の呼びかけによって、生まれくる他者たちのたましいを凌駕し、<非在>へのさらなる筆記(エクリチュール)を促してくる。

 「白や黄色」から「闇に沈む」までは、薔薇の描写。そのあと「花々を食み」からの文章がとても入り組んでいる。これを「とはいえ、」をつかって書き直すと、次のようになる。

花々を食み愛でた私の肉体もまた朽ちる。「とはいえ、」他者たちの記憶は、書物に編まれた言葉の呼びかけによって、生まれくる他者たちのたましいを凌駕し、<非在>へのさらなる筆記(エクリチュール)を促してくる。

 私の肉体は朽ちる。とはいえ、他者たちの記憶は、「私に」さらなる筆記を促してくる。肉体は死んでも、他者たちがそれを許してくれない。そして、「体験」を「ことば」のかたちで「併存」させるよう誘う。私は死んでも、ことばは、そうやって生き残る。
 体験とことばは表記とルビのように併存する。
 「とはいえ、」は「逆説」のように見えるが(だからこそ、朽ちる「が、」と小林は書いた)、実は逆説ではない。小林にとっては、あくまで「並列」の一種である。あるいは「亜種」というべきか。

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スサンネ・ビア監督「未来を生きる君たちへ」(★★★★★)

2011-08-18 17:33:08 | 映画
監督 スサンネ・ビア 出演 ミカエル・バーシュブラント、トリーネ・ディアホルム、ウルリク・トムセン、ヴィリアム・ユンク・ニールセン、マークス・リーゴード

 アフリカ(どこの国だったかな?)とデンマークで繰り返される暴力。暴力の質も、カメラがとらえる風景もまったく違うのに、違って見えない。アフリカであることを忘れる。デンマークであることを忘れる。ふたつの国の間にある「風土(風景)」の違いを忘れ、暴力の違いを忘れる。
 なぜだろう。
 カメラが、暴力描写に焦点を当てていないからだ。いや、これは正しい言い方ではないなあ。少年が空気入れで学校のボスを殴るシーンはあるし、自動車工場の男が医師を殴るシーンがあるし、何よりも腹部を切り裂かれた妊婦の描写がある。それでも、「暴力描写」という気がしない。映像に誘われて、「暴力の快感」に酔う、ということがない。暴力のアドレナインとは遠い所で、すべてがとらえられている。
 そんなことでは、何の解決にもならない――という声が聞こえてくるのだ。どの暴力描写からも。
 たとえばアフリカの暴力のクライマックス。妊婦の腹裂きの首謀者ビッグマンに対して怒りが爆発してしまう医師。そして、命を助けるのが仕事といって周囲の反対を押し切って治療したはずのビッグマン、そのビッグマンがリンチされるのを許してしまう。そのときカメラはリンチの暴力をとらえると同時に、医師の絶望する表情を映し出す。暴力を暴力で封じても、報復を生むだけ――という「信念」があるはずなのに、どこかで暴力を許してしまっている。自分の「怒り」を許している。抑えきれない「怒り」というものはあり、それはどうしても噴出してしまう。
 そういう絶望の自覚。それが、静かに映像の底に横たわっている。
 ――と、ここまで書いてきて、この映画のテーマが「自覚」だと気づいた。
 象徴的なシーンがある。いじめられっ子の父であり、医師である男。彼はこどもの喧嘩の仲裁に入り、相手の父親に殴られる。しかし殴り返さない。それを見た子供から「相手の男を恐れているからだ」と批判される。医師は、男を恐れていないということを子供たちに証明されるために、わざと殴られる、殴られて見せる。そのあとで、「あの男は暴力では何も解決できない愚かな男だ」と説明する。
 それに対して、いじめられっこの友達の少年は、「でも、あの男はそれを自覚していない」という。
 これはとてもするどい指摘だ。
 誰もが自分の愚かさを自覚していない。自覚できない。そのために暴力が横行している。そして暴力とは、誰かを殴るとか、肉体的な傷をおわせるという形以外でも行われている。そのことに対する自覚はもっと難しい。
 その例として、がんの妻の安楽死を選んだ夫の、子供に与えた「暴力」、浮気を謝罪する医師を許さない妻の「暴力」が描かれる。少年が、安楽死を受け入れた父を許さないのも暴力である。「自覚」の問題を指摘した少年にも、自分のことは「自覚」できない。自覚されない「暴力」は、他者を「許さない」という形で噴出する。そして、この「非寛容」こそが、この映画が追い続けている「暴力」の問題である。
 様々な暴力があふれている。
スウェーデンから移民してきた医師の「発音」の間違いを許さない自動車工場の男の「非寛容」も、手で医師を殴る以上の暴力である。
世界のいたるところに、いつでも「非寛容」という暴力が寄り添っている。そのことは、アフリカもデンマークも変わりがないのだ。世界中、どこも同じなのだ。――この深い哲学が、絶望が、映画の視線を統一している。そのために、映画がアフリカを描こうが、デンマークを描こうが、「同じ次元」として映像に結晶するのである。
このテーマにこたえた出演者の演技がまたすばらしい。怒りを内に抱え込みながら、どうしていいか分からない――その感じが、主要な人物に共有されていて、その「感じ」が映画全体を支えている。
それと。
映画の冒頭に出てくるアフリカの子供たち。医師の乗ったトラックを追いかけて「ハウ・アー・ユー」と叫び続ける。その笑顔の美しさ、明るさ。あ、そこには「絶望」がない。状況は絶望的だが「絶望」がない。他者を完全に許している。「ハウ・アー・ユウ」と相手を気遣っている。彼らに「ハウ・アー・ユー」が相手を気遣うことばという「自覚」はないかもしれない。もしかすると「ギブ・ミー・チョコレート」と同じ気持ちかもしれない。でも、いいなあ。そんなこと、どうだって。「ハウ・アー・ユー」と言っている。そう信じるとき、私にはなんとなく「希望」が湧いてくる。その「希望」とアフリカの明るい光、乾いた空気がとても似合っている。




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