詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹「座敷童子考」

2011-08-11 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「座敷童子考」(「現代詩手帖」2011年08月号)

 池井昌樹「座敷童子考」は3篇の詩から構成されている。そのうちの「座敷童子三考」は大学時代の池井のことを書いている。その冒頭に書かれている中野区沼袋のアパートには行ったことがある。東京駅で待ち合わせたが、携帯電話のない時代、すれ違って会えなかった。私は住所を手がかりにアパートへたどりつき、池井の部屋で眠っていたらやがて池井が帰って来た--というようなこともあった。夏は、部屋のにおいがものすごいので、フマキラーをしゅーっ、しゅーっと撒き散らしてにおいを消すというものすごい部屋だったが……。
 そこで池井は何をしていたか。詩を書いていた。大学ノートにびっしり書いていた。そして同人誌をあれこれ出していた。『露青窓』という同人誌をはじめとして、いくつかあったようだが、ほかは思い出せない。--そのいくつかの同人誌の紙を工面しに、雪の日に、製紙工場まで行ったときのことが書いてある。
 へぇーっ、そんなことをしたことがあるのか。池井は紙にまでこだわって詩を書いていたのか、と知らない池井に出会って、びっくりした。
 その、ハイライトの部分。

しかし、漸く辿り着いた工場で事情を話し案内を乞う内、更に輝かしい林檎の頬の拘引が私の前に現われ、恰も主を迎える使徒のように親密な敬虔さで私の要請を受け容れ様々な紙を取り出し、更には場長らしい年輩の紳士も奥から現われ、来訪の動機を濃やかに尋ねては感じ入ってくれ、満ち足りた私が礼を言って紙の束を受け取り辞去しようとすると、恰も旅立つ主との別れを惜しむ使徒のように親密な敬虔さで彼らは私を見送り手まで振ってくれたのだ。

 と、ここまで書き写して、私は、びっくりした。あっ、と声を上げた。



 最初、ほかのことを書こうとしていたのだが、予定変更。

 なぜ、ここで私がびっくりしたかというと、思い出したのだ。池井は、たしかこの話をしてくれたことがあった。私は昔から紙だとか活字だとか、そういうものにこだわりがないので、そんなものどうだっていいじゃないかと聞き流していたと思う。だから、忘れてしまっていた。どこで聞いたかもまったく思い出せない。
 だが、思い出してしまったのだ。
 書き写している内に、思い出してしまった。ことばを繰り返している内に、それが甦ってきたのだ。

 実は、8月10日の夜、自転車で帰宅中に池井から電話があった。「座敷瞳子考」を読んだか、と尋ねる。まだだ、というと「あれは傑作なのだ。でも、評判が悪い。評判が悪いが、書かなければならなかったのだ」と説明する。「誰だって書かなければならないから書いた、だから傑作だ、というなら、誰のどの作品も傑作になる」と私は池井の考えを否定した。
 作者がどんな思いで書いたか--それは読者には関係ない。
 で、そういうことを最初は書こうと思っていたのだ。
 でも、気が変わった。

 なぜ、池井がかつて話していたことを思い出したのか。--偶然なのか、必然なのかわからないが、

恰も主を迎える使徒のように親密な敬虔さで

 ということばが繰り返されている。ちょっと「嫌味なことば」だけれど、繰り返された瞬間に私はあれっと思ったのだ。さっきもこのことばがでてきたじゃないか。うるさいじゃないか。こんなことはへたくそがやることだ--と批判しようとする思ったのだが。
 繰り返しのなかに、なのか、繰り返しの奥からなのか、わからないまま、繰り返しに誘われるようにして、池井が現われてきたのである。工場まで紙を工面しに行った池井が現われたのである。
 池井の書いている詩--体験した事実を書くこと、というのは、それはそれで「繰り返し」なのだが、繰り返すことで何かが現われる。繰り返す必然性といえばいいのだろうか、繰り返すことでしか現われない何かが現われる。
 あ、私のことばは堂々巡りをしているね。
 繰り返すというのは、繰り返しのあいだに「間」をつくることである。その「間」にだけ現われる何かがある。その現われたものは、どうなるかというと……。

今にして思えば夢だけ喰(くら)って生きている未だ生活を持たない方言丸出しの学生に、かつての自分たちの若かりし姿を重ね合わせての深切に過ぎなかったのかもしれないが。その後私は一面の雪景色の中をどう帰宅したのか、しなかったのか、杳として知れない。

 「杳として知れない」。
 あらわれながら「杳として知れない」ものがある。
 それは「知れない」--知らない(と言い換えてみようか)ものである。知ることはできない。知ることはできないけれど、「わかる」。
 はっきりわかるのだ。あれが、「池井昌樹」だと。(池井に言わせれば、あれが「私」だと。)
 この「わかる」は誰にもわからないかもしれない。つまり「知る」という形で伝えることができないものかもしれない。「論理的に共有できることばの運動」のなかにはおさまらないものだと、思う。
 「知る」という形で書き表すと「杳として」しまう。
 けれど、その「杳としてしまう」ということ--そのことが「わかる」ときに、その「わかる」の向こうに「池井(池井に言わせると、私)」が存在する。はっきりと。

 それが、なぜか、私には「わかった」のである。「池井」を感じたのである。若い時代の池井を思い出す--とは、若い時代の池井がわかるということでもある。知っているのではない。わかっていたのだ。
 いまは、私は単に池井を知っているひとりに過ぎないが、かつてたしかに、私には池井がわかった時代があったのだと、ふいに思い出したのだ。同人誌の紙なんかどうでもいいじゃないかと否定しながら、否定することで、わかることができていた。
 それは何と言えばいいのか--けっしてそこなわれることのない池井なのだ。
 その池井はどこへ行ったのか、池井も知らない。けれど、それはどこかでしっかりと生きている。そのことは「わかる」のだ。

 その、不思議を、池井は、かなりへたくそに書いている。
 池井によれば、この詩は評判が悪いそうだが、そりゃあ、そうだね。へたくそだもの。でも、そのへたくその中に、池井がいる。永遠に傷つかない、無垢の池井がいるなあ。それが、ことばを書くとき、ふいに(?)、池井を見つめてくるのだ。
 それが、私には「わかる」。
 わからなければ、きっと気が楽(?)なんだろうけれど、「わかる」。だから、ときどき、いやだなあ、と感じる。



母家
池井 昌樹
思潮社
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J ・ブレイクソン監督「アリス・クリードの失踪」(★★)

2011-08-11 09:32:28 | 映画
監督 J ・ブレイクソン 出演 ジェマ・アータートン、エディ・マーサン、マーティン・コムストン

 ふたりの男が何もしゃべらず、車を奪い、大工道具をあれこれ買い込み、部屋を改造し、女を誘拐してくる。--この前半は、とてもおもしろい。特に説明があるわけではないのだが、部屋の内側に防音素材を張り巡らしたりする手順が、なんとういか、はじめてではなく何度も何度もやっているような「熟練」の領域に達している。それが、まあ、嘘っぽいといえば嘘っぽいのだけれど、スピーディーでリズムがいい。映像もすっきりしている。来ていた服を焼いて処分し、「目撃情報」を消してゆくところなど、そうか、こういうことって犯人しか知り得ない「情報」だねえ、と思い感心する。
 そして。
 誘拐--やってみたい。女を監禁し、身代金を要求してみたい、と思ってしまうねえ。私って、悪人?
 特に。
 ベッドに女を縛り付けて(両手に手錠、両足はロープで、女性を「大」の字に縛る)、そのあと服を脱がして全裸にし……それからねえ、監禁用にジャージーを着せるんだけれど、この手際が見事。服を脱がせるときはハサミもつかってだれでもがするようなことをするんだけれど、パンティーをはかせ、ジャージーを着せてゆく手際がほんとうに見事。何回、誘拐した? 何回、こういうことをやっている? プロだねえ。プロの仕事は美しいねえ、と感心してしまうのだ。
 でもねえ。映画は、ここまで。
 3人だけの「密室劇」なのだが、だんだん破綻してくる。「映画」ではなく「芝居」になってくる。誘拐された女は誘拐犯(若い男)の元の恋人。そして、犯人の二人は、実はゲイ。若い男は、男も女ともセックスをする。そこから愛と裏切りがからみあい、ストーリーが、だんだん荒っぽくなる。
 「芝居」の場合、目の前に役者の「肉体」があり、観客の想像力はいつでもその「肉体」に縛られているから(その肉体を通してしか、なにごとも想像しないから)、多少、ストーリーが荒っぽくなっても、引きずり込まれてゆくんだけれど。
 「映画」はだめ。いい加減さが目立ってしまう。
 相手の言っていることがほんとうかどうか知るために、「眼をみろ(眼を見て話せ)」とよく言うけれど、そのときアップになる顔なんか--なんといえばいいのかなあ、もう「常套句」。どんなふうにがんばっても「演技」にしかみえない。「映画」自体が虚構だから(演技だから)、そのなかでもう一度「演技」をしたって、ぜんぜんおもしろくない。「緊迫感」がない。
 (この点では、「スーパー8」の子供たちの「映画」のなかの「芝居」は巧かったなあ。特にリハーサルのシーンなんか、引き込まれてしまう。「芝居」なのに、「芝居」というのは役者の「過去」を暴き出す--「存在感」が勝負になる、ということを「証明」するということを、ちゃんと見せていた。)
 唯一、おもしろいのは薬莢を見つけて、それを隠そうとするシーン。トイレに流そうとするが、流れない。で、若い男は、便器に手を突っ込んで薬莢を拾い上げ、それを飲み込む--このシーンには「台詞」がないので、映像に緊迫感が出る。若い男の「あせり」がそのまま映像になる。若い男が「顔」で演技するのはもちろんだが、このとき「薬莢」は便器の底で、やはり「演技」しているのだ。カメラが「演技」をさせているのだ。
 これはいいなあ。便器。水。薬莢。流しても流しても流れない。紙だけが流れる。こういうことばを語らないものたちが「演技」をすると、映画は格段におもしろくなるのだ。思い返せば、冒頭の部屋を改造するシーンなど、電動ネジ回しや防音シート、ベッドの中板など、それぞれが「演技」しているのだ。役者はそれに手を添えているだけなのだ。すばらしい映画は、いつでもことばのないものたちの「演技」がスクリーンに広がるときに生まれる。

 最初は90点、その後、どんどん点数が下がり、最後は0点で終わる映画です。
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