秋山基夫『秋山基夫詩集』(2)(思潮社、現代詩文庫193 、2011年06月20日発行)
秋山基夫はいろんな「声」を持っている。きのう読んだ「ニホン語はみだれているのが……」の印象が強烈すぎて(最初に秋山の名前を知ったのが、この作品である)、どうしても「いう/ゆう」ということにこだわってしまうが、「坂道で」の「声」もいつまでも印象に残る。
「考えたことがない」ということばが2回出てくる。「わたしは赤ん坊がどうなったか考えたことがない」「そのとき彼女に/どんなわけがあったのか/わたしは考えたことがない」。この2回の「考えたことはない」は同じものだろうか。
赤ん坊がどうなったか--これは考えなくても「わかる」。もちろん「わかる」こと、「わかったと思い込んでいること」が「正しい」とは限らないが、「わかる」。わかってしまう。だから、「考えない」。
しかし、その次の「考えない」はどうだろうか。「わからない」。まったく「わからない」。「わからない」から「考えない」。
それはまた、「考えても」、とりかえしがつかない。だから「考えない」ともいえる。とりかえしのつかないことは考えても仕方がない。
だから「考えない」。
秋山は「考えた」ことがない、と過去形(考えた、に注目)で書いているが、そうではなく、けっして「考えない」という「未来形」なのである。「考えたことがない」ではなく「考えることはしない」という「意思」が、ここでは働いている。
ことばは、意思によって動かしていくものなのだ。
秋山は「赤ん坊がどうなったか」を考えない。母親の「わけ」を「考えない」。
考えるのは、--そして、その「考える」の結果(過去形)となっているものは……「考えたのは母親のことばかりだ」。
この1行のなかの「こと」、母親の「こと」ばかりの、「こと」とは何か。
「乳母車がころがりだしたとき/母親は追った」には「母親」が登場する。「母親」のことを考えている。考えのなかで「母親」が主語である。
でも「神戸のきつい坂道を」は「母親」のこと? 「坂道」のことではないか。「坂道」の傾斜のことではないか。
「乳母車はどんどん加速し」は「乳母車」のことであり、「加速」のことである。
「母親はかなきり声をあげ」は「母親」のこと、「かなきり声」のことである。
「そして彼女の目いっぱいに電車が見え」は「母親」のことであり、「母親の目」のことであり、また「電車」のことである。
「もう乳母車はなかった」と「乳母車」のことである。
「母親」だけが「主語」(目的語)ではない。
「こと」とは「母親」と「もの」とのつながりなのだ。
「こと」があるからこそ、「母親」は「母親」なのである。「こと」がなければ「母親」ではない。「こと」によって「母親」は「母親」そのものになる。
そして「こと」を考えるとき、秋山は秋山ではなくなる。「こと」になる。「こと」になることをとおして「母親」になる。
それを端的にあらわしているのが、
である。
「母親」が「電車」をみたのか「乳母車」をみたのか、知っているひとは誰もいない。けれど、「母親」である秋山には「電車」が「目いっぱい」に見えたのだ。「目」からあふれだすくらいに見えたのだ。
「こと」をとおして、秋山は「母親」の「意識」ではなく「肉体」そのものになっている。「母親」の「肉体」として、「いま/ここ」で起きていることを見ているのだ。
そんなふうに「母親」になってみて、「わかる」こと。
どんな「わけ」があって乳母車を離したか--その「わけ」など考えているひまはない。そんな「わけ」など、目の前をころがりだしてゆく乳母車の前で消し飛んでしまう。「わけ」という「過去」よりも、いまおきている「こと」、これから起きる「こと」が「母親」の「肉体」を占領している。「わけ」など入り込む余地がないのだ。
この切実さが、とてもいい。
この繰り返される「いま(も)」ということば。「坂道で」ということばを動かしはじめると、「いまも」秋山は、母親に「なる」。なってしまうのだ。自分のことはほうりだして、その「母親」になりきる「声」が美しい。
「母親」になりきるから「赤ん坊がどうなったか」語ることができない。「わけ」も、坂道で起きた事件によって消えてしまって、語ることができない。
他者と同一化する、この「声」の美しさが、秋山のもうひとつの魅力だ。
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秋山基夫はいろんな「声」を持っている。きのう読んだ「ニホン語はみだれているのが……」の印象が強烈すぎて(最初に秋山の名前を知ったのが、この作品である)、どうしても「いう/ゆう」ということにこだわってしまうが、「坂道で」の「声」もいつまでも印象に残る。
坂道で
母親は手をはなし
(そのとき彼女にどんなわけがあったのか)
乳母車はころがりだした
踏み切りにとびこみ
そのとき電車がやってきた
わたしが聞いたはなしはこれっきり
赤ん坊がどうなったか
とたずねないでほしい
わたしは赤ん坊がどうなったか考えたことがない
考えたのは母親のことばかりだ
乳母車がころがりだしたとき
母親は追った
神戸のきつい坂道を
乳母車はどんどん加速し
母親はかなりき声をあげ
そして彼女の目いっぱいに電車が見え
もう乳母車はなかった
そのとき彼女に
どんなわけがあったのか
わたしは考えたことがない
考えたのは彼女の手が乳母車のとってを離れたことだけだ
彼女を責めても
彼女をあわれんでも
彼女の手と乳母車までの距離が残る
いまも乳母車はころがりつづけ
いまも母親は叫びつづけ
いまも電車は近づきつづけ
わたしの話はこれでおしまい
「考えたことがない」ということばが2回出てくる。「わたしは赤ん坊がどうなったか考えたことがない」「そのとき彼女に/どんなわけがあったのか/わたしは考えたことがない」。この2回の「考えたことはない」は同じものだろうか。
赤ん坊がどうなったか--これは考えなくても「わかる」。もちろん「わかる」こと、「わかったと思い込んでいること」が「正しい」とは限らないが、「わかる」。わかってしまう。だから、「考えない」。
しかし、その次の「考えない」はどうだろうか。「わからない」。まったく「わからない」。「わからない」から「考えない」。
それはまた、「考えても」、とりかえしがつかない。だから「考えない」ともいえる。とりかえしのつかないことは考えても仕方がない。
だから「考えない」。
秋山は「考えた」ことがない、と過去形(考えた、に注目)で書いているが、そうではなく、けっして「考えない」という「未来形」なのである。「考えたことがない」ではなく「考えることはしない」という「意思」が、ここでは働いている。
ことばは、意思によって動かしていくものなのだ。
秋山は「赤ん坊がどうなったか」を考えない。母親の「わけ」を「考えない」。
考えるのは、--そして、その「考える」の結果(過去形)となっているものは……「考えたのは母親のことばかりだ」。
この1行のなかの「こと」、母親の「こと」ばかりの、「こと」とは何か。
「乳母車がころがりだしたとき/母親は追った」には「母親」が登場する。「母親」のことを考えている。考えのなかで「母親」が主語である。
でも「神戸のきつい坂道を」は「母親」のこと? 「坂道」のことではないか。「坂道」の傾斜のことではないか。
「乳母車はどんどん加速し」は「乳母車」のことであり、「加速」のことである。
「母親はかなきり声をあげ」は「母親」のこと、「かなきり声」のことである。
「そして彼女の目いっぱいに電車が見え」は「母親」のことであり、「母親の目」のことであり、また「電車」のことである。
「もう乳母車はなかった」と「乳母車」のことである。
「母親」だけが「主語」(目的語)ではない。
「こと」とは「母親」と「もの」とのつながりなのだ。
「こと」があるからこそ、「母親」は「母親」なのである。「こと」がなければ「母親」ではない。「こと」によって「母親」は「母親」そのものになる。
そして「こと」を考えるとき、秋山は秋山ではなくなる。「こと」になる。「こと」になることをとおして「母親」になる。
それを端的にあらわしているのが、
そして彼女の目いっぱいに電車が見え
である。
「母親」が「電車」をみたのか「乳母車」をみたのか、知っているひとは誰もいない。けれど、「母親」である秋山には「電車」が「目いっぱい」に見えたのだ。「目」からあふれだすくらいに見えたのだ。
「こと」をとおして、秋山は「母親」の「意識」ではなく「肉体」そのものになっている。「母親」の「肉体」として、「いま/ここ」で起きていることを見ているのだ。
そんなふうに「母親」になってみて、「わかる」こと。
どんな「わけ」があって乳母車を離したか--その「わけ」など考えているひまはない。そんな「わけ」など、目の前をころがりだしてゆく乳母車の前で消し飛んでしまう。「わけ」という「過去」よりも、いまおきている「こと」、これから起きる「こと」が「母親」の「肉体」を占領している。「わけ」など入り込む余地がないのだ。
この切実さが、とてもいい。
いまも乳母車はころがりつづけ
いまも母親は叫びつづけ
いまも電車は近づきつづけ
この繰り返される「いま(も)」ということば。「坂道で」ということばを動かしはじめると、「いまも」秋山は、母親に「なる」。なってしまうのだ。自分のことはほうりだして、その「母親」になりきる「声」が美しい。
「母親」になりきるから「赤ん坊がどうなったか」語ることができない。「わけ」も、坂道で起きた事件によって消えてしまって、語ることができない。
他者と同一化する、この「声」の美しさが、秋山のもうひとつの魅力だ。
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