詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

村嶋正浩『晴れたらいいね』

2011-08-15 23:59:59 | 詩集
村嶋正浩『晴れたらいいね』(ふらんす堂、2011年05月22日発行)

 ことばを人はどうやって覚えるか。私は「声」で覚える。「音」で覚える。そして、詩を読むとき、小説を読むとき、私はとても「音」(声)が気になる。「音」(声)が聞こえないと読んでいる気持ちになれない。--わからない、という気持ちが邪魔して、先に進めない。
 村嶋正浩『晴れたらいいね』には、いくつもの「音」がまじっている。いくつもの「音」を村嶋自身の「声」で言いなおしている。そのとき、「村嶋の声」になるものと、ならないものがある。歌手の「ものまね」でいうと、「ものまね」になっている部分、つまり完全に消化している部分は「村嶋の声」と感じる。こういう「声」は、私は好きである。「ものまね」だけれど、それを村嶋が動かしているからだ。
 そうではなくて、「村嶋の地声」がまじるものがある。そういう部分が、私は嫌いだ。「地声」はオリジナルとは違うのだ。「声」を制御できていない。「ものまね」されたものが、村嶋の声を突き破ってしまう、--というか、「ものまねされるもの」が、逆に、村嶋をまねてしまっている、という感じがする。別なことばで言いなおすと、村山の「声」が、「ものまね」の対象の「声」に負けてしまっている。
 --というようなことを、くだくだ書いても、まあ、わからないね。私の言いたいことは。別な言い方をしよう。もっと具体的に言いなおそう。

 詩集のなかでは、私は「なんてたって」がいちばんおもしろかった。「声」をはっきり聞き取ることができた。

この世の名残夜も名残なんてたってあいどるの蛭子様と書き進めても死にゆく言葉の端々から紙魚が食い散らし愛を契った文字は忽ち零れ落ちて仇しが原の道筋の、伊能忠敬の最初の一歩とある石碑まで韋駄天走りで辿り着き目の前に止まる巡回バスへ上る朝の足もとに、同時多発と咲く花は乱れ乱れて返り花か、嗚呼遥かなマチュピチュを思いつつ有楽町交番を左折するが、なんてたって花をめしませらんらんと歌うのではなく口ずさみ人生は全て鑑賞旅行よ

 わざと「誤読」した引用が絡み合っている。近松からきょんきょん(あ、これは歌手だから、阿久悠?というべきなのか)までが入り乱れる。入り乱れるけれど、そこに「音」の連続性がある。そして、きのう読んだ森川雅美のことばと比べると余分なものがない。音がスムーズに動いていく。つまり、村嶋の「地声」が近松やきょんきょんを潜り抜け(ものまねに成功し--引用を消化して)、きちんと「肉体」のすみずみを通っていると感じる。
 書き出しの「この世の名残夜も名残」が「なんてたってあいどる」とつづくとき、そこには「な行」の響きあいがある。これが気持ちがいい。「肉体」にとてもよくなじむ。なじんでいると感じる。そのとき、ことばは「肉体」そのものとして見えてくる。
 そして「肉体」になってしまったことばは、「意味」を捨て去って、「肉体」そのものとして動こうとする。「無意味」の軽さ、「肉体」そのもののしろやかさで飛翔する。
 いいなあ。
 「意味」は、私は考えない。「死にに行く身を」のかわりに、「死にゆく言葉」があらわれるが、村嶋はここで、ここにあるのは「言葉」にすぎないと言い切ってしまっている。この軽さがいい。「音」口にしている内に、「意味」が消え去り、ただ「音」を発する悦びだけがあふれてくる。「肉体」の悦びである。音痴の私がいうのも変だが、歌を歌うと「肉体」が歓ぶでしょ? 「肉体」が「音」を出しているという悦び。
 私は、それに共鳴してしまう。
そのとき、「意味」はどうでもいい。あ、この「意味」はどうでもいいというのは、あくまで私の考えですから、あまり真剣に考えないでくださいね。

 最後の部分も好きである。

行春を近江の人とをしみけると即身仏の日向ぼっこによい近江路は天国への一里塚で、霾る季節の唯中を赤目の鑑真和上御一行に追い越され独り立ち寄る園芸店、花を召しませランララン、郁子、撫子、買いました。

 「近江の人」と「近江路」がめんどうくさいというか、うるさいのだけれど、「立ち寄る園芸店」以下が、楽しい。「園芸店」のあとに助詞を省略したのが効果的だ。直前の「一里塚で」は、「で」が「音」を邪魔するので、「霾る」などというめんどうくさいことばをはさまないとことばが動けなくなっているのと比較すると、その効果がよくわかると思う。助詞の省略が、ことばを「無意味」にする。「音」が「意味」につなぎとめられる、からめとられることから解放する。文体の「粘着力」を断ち切ってしまう。一気に「音」が加速する。
 「郁子、撫子、」って何なのさ。どうとも読める。郁子(女)と撫子(花)を買いました。郁子(ひと)が撫子(花)を買いました。郁子に撫子を買いました。--全部、間違い。これは単に、「ランララン」を言い換えただけ、という具合にも読める。
 私は、こういうときは、「意味」を捨ててしまう。考えない。ただ「郁子、撫子、買いました」という「音」を「肉体」のなかに取り込む。そうすると、3音、4音、5音と、音が自然に増えて、それがリズムをつくりだしているのがわかる。
 このときの「わかる」が気持ちがいいのだ。
 「肉体」が「わかる」ものは、「頭」で「わかる」具合にはなかなか書けない。ことばにならない。「頭」は「わかる」前に「知る」に近づきたがる。わからなくても知りたい--というのが「頭」である。「肉体」は「知らない」けれど「わかる」、「知りたくない」のに「わかってしまう」。
 こういうとき、「肉体」のなかを動いているのは「音」である--ということを、私は言いたい。村嶋の詩を読んで、「なんてたって」がおもしろいと感じる「理由」をそこに結びつけたいと思うのだけれど、うまく書けない。

 最後に、少し不満を書いておくと……。
 「死にゆく言葉の端々から紙魚が食い散らし愛を契った文字は忽ち零れ落ちて仇しが原の道筋の、」の「零れ落ちて」の「て」がつくりだすリズムが「いやだなあ」と感じる。ここで「て」を削除すると、全体のリズムが狂う。--ということは、承知している。それでもなおかつ書いてしまうのは、「音」は私にはなじみやすいが、リズムにはところどころなじめないところがある、ということである。「同時多発と咲く花は乱れ乱れて返り花か」の「か」も、いやだなあ。

 詩は「意味」ではないから、どうしても、そういうことを感じてしまうのだ。






晴れたらいいね―村嶋正浩詩集
村嶋 正浩
ふらんす堂
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サイモン・ウェスト監督「メカニック」(★★★)

2011-08-15 15:05:52 | 映画
監督 サイモン・ウェスト 出演 ジェイソン・ステイサム、ベン・フォスター、ドナルド・サザーランド

 完璧な殺し屋ジェイソン・ステイサム。でも、騙されてしまって、大切な雇い主であり、かつ友人を殺してしまう。その彼に、友人の息子が殺しや稼業を教えてくれと近づく。
 あ、これはくさーい文学的な映画になるのかなあ。
 というのは、ほんの一瞬の不安。--的中しません。裏切られます。後悔しつづける、というようなことはありません。それがつまらないひとにはつまらないだろうけれど。
 見どころは殺しのテクニックと手際のよさ。殺しではなく、いかに事故にみせかけるか。そのためには、どんな準備をすべきか。とても丹念に描いている。
 いろいろおもしろいところはあるんだけれど、そのなかでも傑作なのが、友人の息子の「初仕事」。きちんとした生活をすることが大事--と言って、チワワを飼わせ(毎日決まった時間に散歩しなければならない)、カフェでコーヒーを飲み、クロスワードパズルを解かせる。これが毎日1時間。なるほどねえ、決まったとおりに決まったことをすることで「強い意志」もつくられていくのか……。と、思っていると、な、なんと、これが殺しの標的を引き寄せるための手段だったんですねえ。その標的はやはり殺し屋なのだが、チワワが大好きで、「ボーイ」も大好き。その男が、毎日決まった時間にそのカフェにくる。それにあわせて、そこに行かせ、接近させる。安心させる--のが狙い。
 この用意周到さ、というか準備のていねいさ。
 それに反して、息子の方は、そのていねいさについていけない。自分の力を過信する。ジェイソン・ステイサムと同じことができると勘違いする。そうして、準備してきた「殺し」の方法とは違う方法で殺そうとする。結果的には殺せるけれど、無駄が多いねえ。そうなんだなあ、なんでも予定を立ててそのとおりにやらないとつまずつくんだなあ、なんて、殺し屋に「教訓」をいただくのでした。
 この殺し屋が、音楽が趣味、しかもアナログにこだわっていて、レコードを、なんと、真空管のアンプをつかって再生させる。ぷっつんというノイズから音楽が始まる。これ、いいねえ。車にも凝っていて、自分で整備している。あくまで自分の手作業、手仕事だけを信じている。--というのが、まあ、単なる性格描写(?)に終わらず、最後の最後にまた生かされているんだけれど。
 つまり、そのレコードプレイヤーにも車にも、ジェイソン・ステイサムにしらかわらない「仕掛け」があって、知らずにつかうとつかった人が「自滅」する。
 と、ここでも、あらゆることを想定し、準備することの「大切さ」を強調している。
 もしかすると、「文部省推薦映画」?

 この殺し屋、次は刑事になります。ハゲを隠さず、鍛え上げた肉体で、あくまでクールに自分を貫く男が、また、やっとスクリーンに復活する時代になったのかも。そのトップランナーだね。あとにつづく俳優がちょっと思い浮かばないけれど。




トランスポーター [DVD]
クリエーター情報なし
角川映画
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする