新井啓子「問い」「邂逅」(「かねこと」創刊号、2011年07月30日発行)
詩を読むとき、どんな詩でも「わかる」部分と「わからない」部分がある。そして、この「わかる」部分というのが、ちょっとややこしい。「わかる」のだけれど、どう「わかる」のか、自分のことばで語りなおすのがむずかしい。「わかる」のに、というより「わかる」からこそ、そういうことが起きるのだと思う。
(これは、ちょっと前に書いた「田村隆一私論--現代詩講座」と重なる部分がある。「知っている」ことと、「わかる」ことは別。知っていても、わからないことがあるし、わかっていても知らないことがある。)
「問い」という作品。
この詩に「知らない」ことばはない。全部知っている。けれど、その全部が「わかる」かと言えば、そうではない。--そのことは後回しにして。
私が、この詩でいちばん「わかる」部分は、
この行の、「あおい香り」であり、またそれが「下りてくる」である。
そして、このとき私が「わかる」と言ったのは、実は、新井の「肉体」が感じているそのままではない。私は私の「肉体」が体験した「あおい香り」と「下りてくる」が「わかる」のだ。「青い」ではなく「あおい」と書くとき、その「肉眼」が見ている「色」がわかる。もちろん、それは私の錯覚であり、私が「わかる」のは、田舎の家の庭になっていた梅の実であり、そのにおいである。それが「あおい香り」ということばとともに、ぱっと私の「肉体」をとらえる。そして、あ、あれは「あおい香り」だと確信する。「下りてくるも同じだ。私は「脚立の上」にのぼったりはしない。直に木に登るが、それでも、そのときの「香り」の動き--「下りてくる」が、そのまま私の「肉体」の覚えていることにつながる。
「わかる」というとき、私は私の「肉体」が、新井のことばによって、刺激され、何かをはっきりと思い出しているのである。けれど、それは、私の「知っている」ことではない。知らなかったことだ。そんなふうにことばになるとは知らなかった。特に「下りてくる」が、まったく「知らなかった」ことである。香りが体を包むでもなく、そこに香りが広がっているでもない。たしかに、梅の香りは「下りてくる」。
--私の書いていることは、たぶん、とても変である。
「肉体」が体験している。けれど「知らない」とは、どういうことか。「肉体」がわかるのに、「知らない」とはどういうことか。
「知らない」とは、私自身のことばで「言い換えることができない」ということである。私なら、どう言う? 言えない。言おうとすると、新井のことばをただ繰り返すだけなのだ。
それなのに「わかる」?
そこが、不思議。だから、私は、こういうことを「誤読」と自分に言い聞かせている。「誤読」して、その気になって、そのことばを好きになる。
これは、もっと別な言い方をした方が正確かもしれない。
私は、「わかる」のではない。ただ、そのことばが「好き」なのだ。あ、このことばいいじゃないか、と思う。「好き」だから、奪い取ってしまいたくなる。新井がよそ見をしているあいだに、盗み取って「谷内」と署名して、自分の作品、と言いたくなる。
でも、そんなことをしたら「盗作」。だから、私は、ぐっとがまんして「わかる」というのである。
これは異性を好きになるのと同じ。好きになったら、全部「わかる」でしょ? 全部、そのまま受け入れるでしょ? 何も知らないのに。--そして、行き違い、けんか、別れ……というような面倒なことが起きる。
それは、おいておいて。
次の、
これが、私にはやっかいである。
「反り返った若葉」も「さわぐ」も「わかる」。でも、そのあとの「ので」が「わからない」。
「ので」が「理由」をあらわすことばであることは「知っている」。「知っている」けれど、というか、知っているからこそ、わからなくない。
「ので」ということばとともに新井の「肉体」のなかで動いているものがわからない。なぜ、それが「理由」になる?
ここに、私には「わからない」新井がいる。
それが、この詩をむずかしくする。
「ので」は「さわぐ」にだけかかるのかな? それとも、その前の行の「下りてくる」にもかかるのかな?
きっと、両方にかかる。
伸びた梅の枝、その高みから下りてくるあおい香り、若葉のさわぎ--それは新井の「肉体」に直に「ふれる」のである。「首筋に」と「肉体」の部位まで新井は特定しているが、それらは新井の「肉体」に緊密に結びついている。
そして、それゆえに--つまり「……ので」、枝を鋸で切る、ということになる。
でも、この「理由」というか、「ので」は実は、新井にもよくわからないことなのかもしれない。
というのは、学校教科書のような読み方をするかぎりは、最初の1、2行目の「なぜ」「どうして」という「問い」の「答え」になるかかもしれないが、そうではなくて、ここでは同時に新井の「……ので」という「理由」に対する書かれない「答え」のようにも見えてくる。
そして、「ので」が新井の「肉体」と深くかかわるとき、最初の行の「なぜ」「どうして」というの梅の「問い」は新井の問いと区別がなくなるように見えてしまう。このとき、新井は枝を切る人間であると同時に、枝を切られる梅なのだ。新井の肉体が梅の枝になっている。だから、「答え」はでない。
だって、というのは、今度は私の「肉体」からの声である。
「脚立に立って」木の枝の中に「肉体」を放り込んだとき、その「肉体」に梅のあおい香りがふれてきた。首筋まで下りてきた。そして、若葉が騒ぐのを新井の耳は聞き、目は見たのだ。そのとき、新井は梅と同化している。梅の木になっている。
梅の木になってしまえば、その枝を切られなるというのは、どんな「理由(ので)」があろうと理不尽である。「理由(ので)」に、答えなどない。
答えは出しようがない。
だから、「残しておく」。
そんなふうに読んでくると「ので」が突然、「わかる」。「理不尽さ」が突然、「わかる」のである。
あ、でも、こんな読み方でいいのかな?
「誤読」だね。「誤読」するとき、ここから私はまた強引に書いてしまうのだが、梅の木の枝のなかで新井が梅の木になったように、私は「誤読」のなかで新井の「肉体」になっていると感じる。なろうとしている、と感じる。
--こういう感じになれる詩、それが、私は好きだ。
新井は、「知っている」と「わかる」をはっきり区別して、そのあいだをつないで詩を書く、ことばを書くのかもしれない。
「邂逅」の2連目が、とてもおもしろい。
星の名前は「知らない」。しかし、それが光っている--それは「わかる」。知っているではなく、「わかる」(わかっている)。この「わかる」があって、「さみしい声」がある。「さみしい声」の「さみしい」は「知っている」ではない。「わかる」のである。その獣がどこで啼いているか、「知らない」。けれど、それが「さみしい」と「わかる」。
「啼く」。息が喉をおとり、外に出る。そのときの肉体の中を動く感情--それが「わかる」。そのとき、新井は、どこかで啼く獣である。
最終連。
「獣の言葉」を新井は知らない。けれど「わかる」のである。
これに先だつ部分にある、
この「肉体」に正直なことばが美しい。こういう肉体の力(ことばを動かす肉体)が、あらゆる「わかる」の基底にあると、私は思う。
詩を読むとき、どんな詩でも「わかる」部分と「わからない」部分がある。そして、この「わかる」部分というのが、ちょっとややこしい。「わかる」のだけれど、どう「わかる」のか、自分のことばで語りなおすのがむずかしい。「わかる」のに、というより「わかる」からこそ、そういうことが起きるのだと思う。
(これは、ちょっと前に書いた「田村隆一私論--現代詩講座」と重なる部分がある。「知っている」ことと、「わかる」ことは別。知っていても、わからないことがあるし、わかっていても知らないことがある。)
「問い」という作品。
なぜ といって枝は伸び
どうして といって枝は曲がる
固い古枝の皮を破り
毛虫の抜け殻をつけたまま
高みを目指す梅ヶ枝
傷ついた果実は捨てられるのに
はてしなく背伸びするのを恐れない
脚立の上 首筋にあおい香りが下りてくる
反り返った若葉がさわぐので
葉暗がりに鋸をひき
答えは闇に残しておく
この詩に「知らない」ことばはない。全部知っている。けれど、その全部が「わかる」かと言えば、そうではない。--そのことは後回しにして。
私が、この詩でいちばん「わかる」部分は、
首筋にあおい香りが下りてくる
この行の、「あおい香り」であり、またそれが「下りてくる」である。
そして、このとき私が「わかる」と言ったのは、実は、新井の「肉体」が感じているそのままではない。私は私の「肉体」が体験した「あおい香り」と「下りてくる」が「わかる」のだ。「青い」ではなく「あおい」と書くとき、その「肉眼」が見ている「色」がわかる。もちろん、それは私の錯覚であり、私が「わかる」のは、田舎の家の庭になっていた梅の実であり、そのにおいである。それが「あおい香り」ということばとともに、ぱっと私の「肉体」をとらえる。そして、あ、あれは「あおい香り」だと確信する。「下りてくるも同じだ。私は「脚立の上」にのぼったりはしない。直に木に登るが、それでも、そのときの「香り」の動き--「下りてくる」が、そのまま私の「肉体」の覚えていることにつながる。
「わかる」というとき、私は私の「肉体」が、新井のことばによって、刺激され、何かをはっきりと思い出しているのである。けれど、それは、私の「知っている」ことではない。知らなかったことだ。そんなふうにことばになるとは知らなかった。特に「下りてくる」が、まったく「知らなかった」ことである。香りが体を包むでもなく、そこに香りが広がっているでもない。たしかに、梅の香りは「下りてくる」。
--私の書いていることは、たぶん、とても変である。
「肉体」が体験している。けれど「知らない」とは、どういうことか。「肉体」がわかるのに、「知らない」とはどういうことか。
「知らない」とは、私自身のことばで「言い換えることができない」ということである。私なら、どう言う? 言えない。言おうとすると、新井のことばをただ繰り返すだけなのだ。
それなのに「わかる」?
そこが、不思議。だから、私は、こういうことを「誤読」と自分に言い聞かせている。「誤読」して、その気になって、そのことばを好きになる。
これは、もっと別な言い方をした方が正確かもしれない。
私は、「わかる」のではない。ただ、そのことばが「好き」なのだ。あ、このことばいいじゃないか、と思う。「好き」だから、奪い取ってしまいたくなる。新井がよそ見をしているあいだに、盗み取って「谷内」と署名して、自分の作品、と言いたくなる。
でも、そんなことをしたら「盗作」。だから、私は、ぐっとがまんして「わかる」というのである。
これは異性を好きになるのと同じ。好きになったら、全部「わかる」でしょ? 全部、そのまま受け入れるでしょ? 何も知らないのに。--そして、行き違い、けんか、別れ……というような面倒なことが起きる。
それは、おいておいて。
次の、
反り返った若葉がさわぐので
これが、私にはやっかいである。
「反り返った若葉」も「さわぐ」も「わかる」。でも、そのあとの「ので」が「わからない」。
「ので」が「理由」をあらわすことばであることは「知っている」。「知っている」けれど、というか、知っているからこそ、わからなくない。
「ので」ということばとともに新井の「肉体」のなかで動いているものがわからない。なぜ、それが「理由」になる?
ここに、私には「わからない」新井がいる。
それが、この詩をむずかしくする。
「ので」は「さわぐ」にだけかかるのかな? それとも、その前の行の「下りてくる」にもかかるのかな?
きっと、両方にかかる。
伸びた梅の枝、その高みから下りてくるあおい香り、若葉のさわぎ--それは新井の「肉体」に直に「ふれる」のである。「首筋に」と「肉体」の部位まで新井は特定しているが、それらは新井の「肉体」に緊密に結びついている。
そして、それゆえに--つまり「……ので」、枝を鋸で切る、ということになる。
でも、この「理由」というか、「ので」は実は、新井にもよくわからないことなのかもしれない。
答えは闇に残しておく
というのは、学校教科書のような読み方をするかぎりは、最初の1、2行目の「なぜ」「どうして」という「問い」の「答え」になるかかもしれないが、そうではなくて、ここでは同時に新井の「……ので」という「理由」に対する書かれない「答え」のようにも見えてくる。
そして、「ので」が新井の「肉体」と深くかかわるとき、最初の行の「なぜ」「どうして」というの梅の「問い」は新井の問いと区別がなくなるように見えてしまう。このとき、新井は枝を切る人間であると同時に、枝を切られる梅なのだ。新井の肉体が梅の枝になっている。だから、「答え」はでない。
だって、というのは、今度は私の「肉体」からの声である。
「脚立に立って」木の枝の中に「肉体」を放り込んだとき、その「肉体」に梅のあおい香りがふれてきた。首筋まで下りてきた。そして、若葉が騒ぐのを新井の耳は聞き、目は見たのだ。そのとき、新井は梅と同化している。梅の木になっている。
梅の木になってしまえば、その枝を切られなるというのは、どんな「理由(ので)」があろうと理不尽である。「理由(ので)」に、答えなどない。
答えは出しようがない。
だから、「残しておく」。
そんなふうに読んでくると「ので」が突然、「わかる」。「理不尽さ」が突然、「わかる」のである。
あ、でも、こんな読み方でいいのかな?
「誤読」だね。「誤読」するとき、ここから私はまた強引に書いてしまうのだが、梅の木の枝のなかで新井が梅の木になったように、私は「誤読」のなかで新井の「肉体」になっていると感じる。なろうとしている、と感じる。
--こういう感じになれる詩、それが、私は好きだ。
新井は、「知っている」と「わかる」をはっきり区別して、そのあいだをつないで詩を書く、ことばを書くのかもしれない。
「邂逅」の2連目が、とてもおもしろい。
茂った葉の間から時々星が見えました
何という名前か知りませんが
知られずにそこに光っていました
さみしい声 どこかで獣が啼いていました
星の名前は「知らない」。しかし、それが光っている--それは「わかる」。知っているではなく、「わかる」(わかっている)。この「わかる」があって、「さみしい声」がある。「さみしい声」の「さみしい」は「知っている」ではない。「わかる」のである。その獣がどこで啼いているか、「知らない」。けれど、それが「さみしい」と「わかる」。
「啼く」。息が喉をおとり、外に出る。そのときの肉体の中を動く感情--それが「わかる」。そのとき、新井は、どこかで啼く獣である。
最終連。
沼にいきました 獣がまた啼いています
暗くて深い甕の底にいるようです
甕を誰かが倒したのでしょうか
水音が響きました
そのまま転がっています
言葉は通じます
「獣の言葉」を新井は知らない。けれど「わかる」のである。
これに先だつ部分にある、
火を焚くにおいが漂ってきて 喉にからみます
この「肉体」に正直なことばが美しい。こういう肉体の力(ことばを動かす肉体)が、あらゆる「わかる」の基底にあると、私は思う。
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