詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

新井啓子「問い」「邂逅」

2011-08-13 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
新井啓子「問い」「邂逅」(「かねこと」創刊号、2011年07月30日発行)

 詩を読むとき、どんな詩でも「わかる」部分と「わからない」部分がある。そして、この「わかる」部分というのが、ちょっとややこしい。「わかる」のだけれど、どう「わかる」のか、自分のことばで語りなおすのがむずかしい。「わかる」のに、というより「わかる」からこそ、そういうことが起きるのだと思う。
 (これは、ちょっと前に書いた「田村隆一私論--現代詩講座」と重なる部分がある。「知っている」ことと、「わかる」ことは別。知っていても、わからないことがあるし、わかっていても知らないことがある。)
 「問い」という作品。

なぜ といって枝は伸び
どうして といって枝は曲がる

固い古枝の皮を破り
毛虫の抜け殻をつけたまま
高みを目指す梅ヶ枝
傷ついた果実は捨てられるのに
はてしなく背伸びするのを恐れない

脚立の上 首筋にあおい香りが下りてくる
反り返った若葉がさわぐので
葉暗がりに鋸をひき
答えは闇に残しておく

 この詩に「知らない」ことばはない。全部知っている。けれど、その全部が「わかる」かと言えば、そうではない。--そのことは後回しにして。
 私が、この詩でいちばん「わかる」部分は、

首筋にあおい香りが下りてくる

 この行の、「あおい香り」であり、またそれが「下りてくる」である。
 そして、このとき私が「わかる」と言ったのは、実は、新井の「肉体」が感じているそのままではない。私は私の「肉体」が体験した「あおい香り」と「下りてくる」が「わかる」のだ。「青い」ではなく「あおい」と書くとき、その「肉眼」が見ている「色」がわかる。もちろん、それは私の錯覚であり、私が「わかる」のは、田舎の家の庭になっていた梅の実であり、そのにおいである。それが「あおい香り」ということばとともに、ぱっと私の「肉体」をとらえる。そして、あ、あれは「あおい香り」だと確信する。「下りてくるも同じだ。私は「脚立の上」にのぼったりはしない。直に木に登るが、それでも、そのときの「香り」の動き--「下りてくる」が、そのまま私の「肉体」の覚えていることにつながる。
 「わかる」というとき、私は私の「肉体」が、新井のことばによって、刺激され、何かをはっきりと思い出しているのである。けれど、それは、私の「知っている」ことではない。知らなかったことだ。そんなふうにことばになるとは知らなかった。特に「下りてくる」が、まったく「知らなかった」ことである。香りが体を包むでもなく、そこに香りが広がっているでもない。たしかに、梅の香りは「下りてくる」。
 --私の書いていることは、たぶん、とても変である。
 「肉体」が体験している。けれど「知らない」とは、どういうことか。「肉体」がわかるのに、「知らない」とはどういうことか。
 「知らない」とは、私自身のことばで「言い換えることができない」ということである。私なら、どう言う? 言えない。言おうとすると、新井のことばをただ繰り返すだけなのだ。
 それなのに「わかる」?
 そこが、不思議。だから、私は、こういうことを「誤読」と自分に言い聞かせている。「誤読」して、その気になって、そのことばを好きになる。

 これは、もっと別な言い方をした方が正確かもしれない。
 私は、「わかる」のではない。ただ、そのことばが「好き」なのだ。あ、このことばいいじゃないか、と思う。「好き」だから、奪い取ってしまいたくなる。新井がよそ見をしているあいだに、盗み取って「谷内」と署名して、自分の作品、と言いたくなる。
 でも、そんなことをしたら「盗作」。だから、私は、ぐっとがまんして「わかる」というのである。
 これは異性を好きになるのと同じ。好きになったら、全部「わかる」でしょ? 全部、そのまま受け入れるでしょ? 何も知らないのに。--そして、行き違い、けんか、別れ……というような面倒なことが起きる。
 それは、おいておいて。

 次の、

反り返った若葉がさわぐので

 これが、私にはやっかいである。
 「反り返った若葉」も「さわぐ」も「わかる」。でも、そのあとの「ので」が「わからない」。
 「ので」が「理由」をあらわすことばであることは「知っている」。「知っている」けれど、というか、知っているからこそ、わからなくない。
 「ので」ということばとともに新井の「肉体」のなかで動いているものがわからない。なぜ、それが「理由」になる?
 ここに、私には「わからない」新井がいる。
 それが、この詩をむずかしくする。
 「ので」は「さわぐ」にだけかかるのかな? それとも、その前の行の「下りてくる」にもかかるのかな?
 きっと、両方にかかる。
 伸びた梅の枝、その高みから下りてくるあおい香り、若葉のさわぎ--それは新井の「肉体」に直に「ふれる」のである。「首筋に」と「肉体」の部位まで新井は特定しているが、それらは新井の「肉体」に緊密に結びついている。
 そして、それゆえに--つまり「……ので」、枝を鋸で切る、ということになる。
 でも、この「理由」というか、「ので」は実は、新井にもよくわからないことなのかもしれない。

答えは闇に残しておく

 というのは、学校教科書のような読み方をするかぎりは、最初の1、2行目の「なぜ」「どうして」という「問い」の「答え」になるかかもしれないが、そうではなくて、ここでは同時に新井の「……ので」という「理由」に対する書かれない「答え」のようにも見えてくる。
 そして、「ので」が新井の「肉体」と深くかかわるとき、最初の行の「なぜ」「どうして」というの梅の「問い」は新井の問いと区別がなくなるように見えてしまう。このとき、新井は枝を切る人間であると同時に、枝を切られる梅なのだ。新井の肉体が梅の枝になっている。だから、「答え」はでない。
 だって、というのは、今度は私の「肉体」からの声である。
 「脚立に立って」木の枝の中に「肉体」を放り込んだとき、その「肉体」に梅のあおい香りがふれてきた。首筋まで下りてきた。そして、若葉が騒ぐのを新井の耳は聞き、目は見たのだ。そのとき、新井は梅と同化している。梅の木になっている。
 梅の木になってしまえば、その枝を切られなるというのは、どんな「理由(ので)」があろうと理不尽である。「理由(ので)」に、答えなどない。
 答えは出しようがない。
 だから、「残しておく」。
 そんなふうに読んでくると「ので」が突然、「わかる」。「理不尽さ」が突然、「わかる」のである。

 あ、でも、こんな読み方でいいのかな?
 「誤読」だね。「誤読」するとき、ここから私はまた強引に書いてしまうのだが、梅の木の枝のなかで新井が梅の木になったように、私は「誤読」のなかで新井の「肉体」になっていると感じる。なろうとしている、と感じる。
 --こういう感じになれる詩、それが、私は好きだ。

 新井は、「知っている」と「わかる」をはっきり区別して、そのあいだをつないで詩を書く、ことばを書くのかもしれない。
 「邂逅」の2連目が、とてもおもしろい。

茂った葉の間から時々星が見えました
何という名前か知りませんが
知られずにそこに光っていました
さみしい声 どこかで獣が啼いていました

 星の名前は「知らない」。しかし、それが光っている--それは「わかる」。知っているではなく、「わかる」(わかっている)。この「わかる」があって、「さみしい声」がある。「さみしい声」の「さみしい」は「知っている」ではない。「わかる」のである。その獣がどこで啼いているか、「知らない」。けれど、それが「さみしい」と「わかる」。
 「啼く」。息が喉をおとり、外に出る。そのときの肉体の中を動く感情--それが「わかる」。そのとき、新井は、どこかで啼く獣である。
 最終連。  

沼にいきました 獣がまた啼いています
暗くて深い甕の底にいるようです
甕を誰かが倒したのでしょうか
水音が響きました
そのまま転がっています
言葉は通じます

 「獣の言葉」を新井は知らない。けれど「わかる」のである。

 これに先だつ部分にある、

火を焚くにおいが漂ってきて 喉にからみます

 この「肉体」に正直なことばが美しい。こういう肉体の力(ことばを動かす肉体)が、あらゆる「わかる」の基底にあると、私は思う。



遡上
新井 啓子
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

テレンス・マリック監督「ツリー・オブ・ライフ」(★)

2011-08-13 08:40:29 | 映画
監督 テレンス・マリック 出演 ブラッド・ピット、ショーン・ペン、ジェシカ・チャスティン、フィオナ・ショウ

 私はこういう映画が大嫌いである。「美しい」映像を断片的に見せる。そして、その美しさに「神」を代弁させ、人間の弱さを対比させるという作品が大嫌いである。この映画は、映像に「神」を代弁させるだけでは満足できずに、登場人物に「神」について語らせてもいる。
 というより、そこにある「もの」をカメラで写し取るだけでは「神」を描けなかったのだね。何を写し取っても「神」を感じさせることができないのだとしたら、それは「神」の不在そのものを証明していることになる。何か特別な「美しいもの」だけが「神」の存在の証明というのでは、ばかばかしくて、欠伸が出るばかりである。
 「悪趣味」に輪をかけているのが、宇宙や生命の誕生、地球の歴史(?)を連想させる映像をつらねることである。そうすることで映画に壮大さが出るとでも思ったのだろうか。だれがつくったか知らないが、水辺で恐竜が歩くシーンは、恐竜が歩くにもかかわらず、水面に波紋も立たないという「ご立派」なCGだった。このCGが特徴的だが、あまりにも安直なのである。こうすれば、こう想像するだろう--という「既成概念」を映像でなぞっているだけである。
 手持ちカメラで映像のフレームを揺らしたり、わざと映像の「枠」から「世界」をはみださせるのも無意味である。人間はいつでも「枠」をはみだすものだが、それは「枠」が固定されているからである。動く「枠」からはみだすのでは、人間がはみだしたことにならない。
 カメラが勝手に演技している。
 カメラが演技する映画も好きだが、この映画のようにほとんど全編、ただカメラだけが演技する映画では映画にならない。役者がいる意味がない。

 この映画のすくいは、ショーン・ペンの子供時代を演じる少年である。ショーン・ペンそっくりなのでびっくりするが、彼がブラッド・ピットの「暴力」に耐えながら反抗心を強めていくときの演技がとてもいい。
 役者にしっかり演技をさせ、人間の感情をていねいに描き、その上で、人間の感情を無視してそこに存在する自然の美しさ、木の美しさ、水の美しさ、風の美しさ、さらには人間が作り上げた建築物などの絶対的な美しさを対比させればいいのに、と思わずにはいられない。
 それにしてもなあ。
 ブラッド・ピットが失業して、一家で引っ越して、それから先が完全に省略されて、突然、ショーン・ペンが「大成功」を収めているというストーリーはむちゃくちらゃすぎる。子供時代のショーン・ペンが弟とけんかしていて、弟がショーン・ペンを許す--そこから寛容さを知り、「神」に目覚め、成功していくというのは、それはそれでいいけれど、もう少し、どんなふうに人間的に変化していったかを描かないと、人間を描いたことにならないのでは?

 「シン・レッド・ライン」もこの映画も、私は汚れたスクリーンで見ている。本来のテレンス・マリックの美しい映像から遠い映像を見ている。そのため、何かを見落としているかもしれない。あるいは、そのおかげで、テレンス・マリックの奇妙なマジックに騙されずに見ているのかもしれない。--どっちだろう。
                           (08月12日、中州大洋1)





シン・レッド・ライン [DVD]
クリエーター情報なし
パイオニアLDC
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする