詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岡井隆「沼津在「恐怖の一夜」にちなんで 清水昶さんの霊に」

2011-08-20 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
岡井隆「沼津在「恐怖の一夜」にちなんで 清水昶さんの霊に」(「現代詩手帖」2011年08月号)

 岡井隆「沼津在「恐怖の一夜」にちなんで 清水昶さんの霊に」はタイトルから分かるように、清水昶を追悼した詩である。その書き出しが、非常におもしろい。
 ここには「3つ」の要素が書かれている。

新聞の訃報は人の名前が読むものを打つ好例だが人名に付された四五行の解説はその人を知るものにとつては慮外のことつまりどうでもいいので清水昶の名だけで一気にぼくのその朝をざわめく暗い森にしてしまつた

(1)新聞の訃報は人の名前が読むものを打つ
(2)人名に付された四五行の解説はその人を知るものにとつては慮外のことつまりどう   でもいい
(3)清水昶の名だけで一気にぼくのその朝をざわめく暗い森にしてしまつた

 岡井が書きたい結論(?)は、訃報欄で清水昶の名を読み、暗くなった、ということなのだと思うが、私はその「事実」よりも、そのことを書くのに、わざわざ(2)の部分を挿入していることを、とてもおもしろく感じた。「追悼詩」なのにおもしろがってはいけないのかもしれないが、(2)の部分に、岡井を強く感じ、ちょっと笑ってしまったのである。

 たしかに、岡井がいうように、清水昶を個人的に知っている岡井にとって新聞の訃報欄に書いてある「解説」はどうでもいい。新聞の「解説」も「略歴」も、すべて知っていることである。
 では、岡井にとっては何が大切なのか。
 岡井は、最初の文につづけて、清水昶と行った沼津の思い出を書いている。同人誌を発行する相談をしたことを書いている。大雨で恐怖の夜、洪水に襲われたかもしれない恐怖の夜だったらしい。その、酔っぱらったときの、清水昶と岡井の態度がまったく違っていたというようなことが、清水昶の文章を詩のなかにとりこみ、また岡井の短歌を取り込む形で、延々と書かれていく。
 その書かれていることは、実におもしろい。(引用は長くなるので、引用しない。「現代詩手帖」で読んでください。)岡井が朝が「暗い森」になったと書いているのは、それはそこに書かれている思い出が、恐怖にもかかわらず、あまりにも明るくまばゆいことだからである。

 --ということは別にして、私は少し違ったことを書きたい。
 最初に少し書いたが、私は(2)の部分をとてもおもしろいと思った。そして、(2)の部分でも、私が一番魅力的に感じるのは、
 
慮外のことつまりどうでもいいので

 である。
 ここで岡井は「慮外」をわざわざ「どうでもいい」と言いなおしている。「慮外」か「どうでもいい」のどちらかを省略して、

四五行の解説はその人を知るものにとつては慮外のことなので清水昶の名だけで一気にぼくのその朝をざわめく暗い森にしてしまつた

四五行の解説はその人を知るものにとつてはどうでもいいことので清水昶の名だけで一気にぼくのその朝をざわめく暗い森にしてしまつた

 という文章でも「意味」はかわらないはずである。それなのに、わざわざ岡井は、「つまり」ということばをつかって漢字熟語(漢語)を和語に言いなおしている。
 この「言い直し」が、ことばにはふたつのリズムとメロディーがあるということを教えてくれる。漢字熟語のリズムとメロディー。和語のリズムとメロディー。
 そしてその事実は、ことばには、それぞれそのことばが生きたリズムとメロディーがあることを教えてくれる。
 リズムとかメロディーというのは、ことばの「意味」からみれば、まあ、「どうでもいい」ことかもしれない。--と、普通には考えられているかもしれない。
 けれど、違うのだ。
 何を言ったか、どんな意味だったか--ということよりも、どんな口調で言ったかそのときのリズム、メロディーが伝えるものの方が重要なのだ。たくさんのことを語っているのだ。「意味」を越える何かを語っているのだ。
 それは、岡井が引用している清水昶の文章を読めば分かる。清水昶の文章を、岡井は、
アルコールの匂ひが背後にするやや大げさな面白がりのところがないではない

 と批評しながら引用しているが、そこに「人間」がでている。「意味」ではなく、「人間」がでている。リズムやメロディーには、「人間」がでるのである。
 それを知っていて、岡井は、わざわざ(2)の文章を書いているのだ。「慮外のことつまりどうでもいいので」ということばで、リズム・メロディーの複数性を先取りする形で表現しているのである。
 「慮外のことつまりどうでもいいので」ということばで暗示したことを、岡井は、その後、清水昶ことばと岡井のことばを並べて見せることで、具体的に例示しているのである。



 追記。 
 (1)(2)(3)のなかでは、(2)は「意味」的には、無用のものである。つまり、(2)を省略して、

新聞の訃報は人の名前が読むものを打つ。清水昶の名だけで一気にぼくのその朝をざわめく暗い森にしてしまつた。

 書き出しを、そう書いたも「意味」はかわらない。「結論」はかわらない。けれど、岡井は(2)を挿入する。いわば「無意味」を挿入する。そして、その「無意味」に呼応するような、「無意味」なエピソードを次々に書きつづける。
 それは、なぜか私には、「無意味」だけが「意味」をつなぎ、そして「意味」を超越して生き残る--ということを想像させる。
 詩の書き出しの「構造」が作品全体の「構造」をあらわし、同時に、その「思想」をあらわしていると思う。



注解する者―岡井隆詩集
岡井 隆
思潮社
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