詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

秋山基夫『秋山基夫詩集』(4)

2011-08-04 23:59:59 | 詩集
秋山基夫『秋山基夫詩集』(4)(思潮社、現代詩文庫193 、2011年06月20日発行)

 秋山基夫は、基本的に「おしゃべり」な詩人である。「おしゃべり」というのは、聞く人間の表情(反応)を見て、それにあわせて次々に話をかえていくところにおもしろさがある。言いたいこと(結論)が決まっていて、それに向けてことばを動かしていくのではない。ことばを動かしながら、相手の反応を見て、それにあわせてことばの行き先をかえてしまう。
 『二重予約の旅』という詩集のなかの作品群に、その特徴がでている。
 秋山は実際には、そのことばを「おしゃべり」しているわけではなく、書いたのだろうけれど、リズムが「おしゃべり」である。架空の相手--つまり、自分自身を聞き手として、ことばを動かす。
 「生首の隠喩」の書き出し。

         わたしは現実意識をもつこともなく、脳だけは覚醒し、もちろん半覚醒の状態で、考えつづけている。

 「脳だけは覚醒し」と言ったあとに、即座に「もちろん半覚醒の状態で」と言いなおす。というか、つけくわえる。このリズム。これが「おしゃべり」である。この「間」をおかない追加によって、その直前のことばの「矛盾」を覆い隠すのである。
 「現実意識をもつこともなく、脳だけは覚醒し」って、変でしょ?
 「現実意識」のない「脳」の「覚醒」って何? 「脳」というのは「現実」を把握するためにある。そして「脳」が「覚醒」しているなら、常にそこには「現実」がある。たとえ「脳」の考えていることが「空想科学」であろうが、「生首」の登場する「怪談」であろうが、そのとき「脳」が向き合っているのは、それぞれの世界の「現実」である。「脳」は「現実」意外と向き合うことができない。どんなことがらであれ、「現実」と「意識」するのが「脳」というものである。だから、「現実意識をもつこともなく、脳だけは覚醒し」というのは、間違ったことばの運動、間違った「論理」である。
 でも、その「間違った論理」が、即座に隠されることで、「正しい」ものになる。このときの「正しい」を補足・補強するのが「もちろん」である。この「もちろん」は、たとえば私がいま書いたようなことを否定するのではなく肯定することばである。相手の言っていることを「肯定」し、そのうえで、新しいことがらをつけくわえるのである。「覚醒」と言った(書いた)けれど完全な覚醒ではなく、半分覚醒。半分は覚醒はしていない。これは「半分」は聞き手(ここでは、私・谷内のということ思って読んでもらいたい)の言い分を「肯定」し、つまり「完全には覚醒しているというわけではないが」とつけくわえ、それでも「半分は覚醒している」と言いなおしていることになる。
 この「もちろん半覚醒の状態で、」という表現は「曲者」だが、秋山の秋山らしさというか、『二重予約の旅』のエッセンスが凝縮している。聞き手の言い分(反論)を肯定しながら、それを全面的に「肯定」してしまうのではなく、「半分」だけ受け入れる、という姿勢。そして、残りの「半分」に自分の言い分を組み込ませるという方法。話者(秋山)と聞き手(秋山以外のひと--詩を書くときは、もちろんこの秋山以外のひとというのも秋山だけれど)の「論理(ことば)」が「半分」ずつ「肯定」され、「二重」になる。そのとき大切なのは「もちろん」ということ。「否定」を除外するという姿勢。相手の「論理(ことば)」は絶対に否定しない。否定しないけれど、それ全面的に受け入れるのではなく、そこに自分の「論理(ことば)」を重ねることはやめない。その結果、どうなるか。ことばは、どうしても拡大していく。ひとつの「論理(ことば)」を追うのではなく、つねに「二重」の「論理(ことば)」を追うことになる。それは、ことばが進めば進むほど、「二重」が増殖するのだ。枝分かれしていくのだ。
 支離滅裂--かもしれない。けれど、それが「おしゃべり」というものなのだ。「結論」があるのではなく、「結論」は「目的」ではなく、「おしゃべり」というのは「おしゃべり」そのものが目的なのである。ことばがどこへゆくかは問題ではない。どこへたどりつくかはどうでもいい。話している、その瞬間瞬間の悦びがあればそれでいいのだ。
 そして、この「おしゃべり」の快感、というのは、ようするに「口調」なのである。「肉体」のなかに空気をとりこみ、それをはきだす。そのはきだす瞬間、喉や唇や鼻腔や舌や、「声(音)」をだすためのあらゆる器官が感じる「共振」の快感。「おしゃべり」するひとの悦びに、聞く人の悦びが共振する。耳が共振し、目も共振する。肉体が共振する。話し手と聞き手の肉体がことばをはさんで共振する。ことばと向き合って、ふたつの肉体が共振する。その楽しさ。
 この楽しさは、いったん暴走が始まると、止まることができない。「役場の陰謀」の次の部分で、私は、笑いが止まらなくなり、どうしていいかわからなくなった。

体育館のあちこちで老人たちの脳味噌の血管が破裂する致命的な音が、実は現実には何も聞こえないのに、もうすさまじい連続多重音響となって耳の奥で鳴りつづける。

 「実は現実には何も聞こえないのに、」という「反論の肯定」(そんな音が他人に聞こえるはずがないという批判を自分で先取りして肯定してしまうすばらしい論理、「実は」という変な?ことば、「もちろん」に似たすばやい動き)が、絶妙すぎる。「聞こえないのに/耳の奥で鳴りつづける」の巧妙な論理。
 聞こえない? あ、聞こえなくていいんです。それはあくまで「耳の奥」に鳴り響く音であって、耳の外ではないのです。
 おいおい、それじゃ「音」じゃないじゃないか。
 なんて、反論は言いっこなし。これは、詩、なんです。「おしゃべり」なんです。その場限りの、言い逃れなんです。そういうことを、ことばは、やってのけることができるんです。



 思うに。(この、思うに、というのはいいかげんな論理の飛躍を含んでいるのだが……。)
 思うに、秋山基夫の詩群が、長い間「現代詩文庫」から漏れていたのは、「おしゃべり」文体が影響しているかもしれない。
 「おしゃべり」というのは「相手」がいないと成立しない。つまり、ひとりでは完結しない。「現代詩」は長い間、「ひとり」で「完結」する、「孤立した世界」だった。「孤高」であることを誇りにしている世界であった--と、私は思う。
 「孤高」はかっこいい。「おしゃべり」はかっこわるい。
 それが少しずつ変わってきたのかもしれない。「孤高」なんて、きどっているだけ。「おしゃべり」の柔軟さこそ、かっこいいのだ。そういうふうに、ことばの見方が変わってきていることを象徴する一冊だと思った。






秋山基夫詩集 (現代詩文庫)
秋山 基夫
思潮社



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アク・ロウヒミエス監督「4月の涙」(★★★★)

2011-08-04 19:31:15 | 映画
監督 アク・ロウヒミエス 出演 サムリ・ヴァウラモ、ピヒラ・ヴィータラ、エーロ・アホ

 この映画の感想を書くのは難しいなあ。フィンランドの内戦という歴史を私は知らない。で、白軍の男と赤軍の女が無人島に流れ着いて・・・という始まりから想像すると。どうしても「流されて」を思い浮かべてしまう。
 でも、ぜんぜん違う映画なのだ。
 男と女の愛を描いていることは確かなのだが、「流されて」のように単純ではない。同じ国民同士が戦うという内戦のむごたらしさが、人間の精神にどう影響するか、内戦の影響で人間がどのように変わるか、変わらないかを不気味な静かさで描いている。――不気味な、というのは、その殺戮が「戦場」ではなく、「日常」の場でおこなわれるからだ。捕虜を収容し、捕虜を解放するふりをして「脱走」を仕立て、それを殺戮する。存在しない「物語」が捏造され、捏造された「物語」を根拠に殺戮が行われる。
 戦う根拠などないのだ。内戦に根拠がないのだ。詳しくはわからないが、そしてこの映画でも明確には描かれていないが、フィンランドの内戦とロシアとの関係がわからない。なぜ、内戦をするのか、とりわけ「白軍」の方には理由が分からない。だから殺人(殺戮)の「根拠」を作ってしまう。
 あ、もしかすると、ここにこの映画の「根拠」のようなもの、作らなければならなかった理由があるのかもしれない。アク・ロウヒミエスの描きたいものがあるかもしれない。
 男と女が無人島に流される。そのとき、そこにどんな「物語」が生まれるか。そう考えるとき、「物語」とは結局、人間の欲望だね。どうしたいか。もし、私が女と無人島に流されたら、どうするか、何をしたいか。この「物語」は明白すぎて、もはや「物語」にならない。――だから、そういうことを、この映画は描かない。
 その後に「物語」を複雑に交錯させる。
 男と女とは別の、第三の主人公、判事が「作家」という設定が、この「物語」を面白くさせる。作家は現実ではなく、最初から「物語」を生きている。無人島で男と女は、どんな「物語」を生きたか。その「物語」に自分は参加できるか。できるとしたら、どういう形がありうるか。
 ねじくれているねえ。
 判事(作家)の妻が判事を訪ねてくると、さらに「物語」は錯綜する。判事は、男と妻の間に、男と女の「物語」が生まれるようそそのかす。積極的に「寝とられ男」を演じ、内戦に傷ついた精神を際立たせる。男が手洗いに立ち、妻がそれを追いかけ、セックスするのをドアの外で聞き耳を立てて「目撃」するのである。妻は、夫がセックスを「目撃」していることを知って、というか、夫に知らせるために、わざとセックスをする。それは男色の夫への復讐という「物語」である。異常だねえ。しかし、そこに内戦で苦悩する作家という「物語」、あるいは内戦が引き起こした苦悩によって男色に逃避した男という「物語」を挿入すれば、それな「異常」ではなく「悲劇」に代わる。それはほんとうは「悲劇」ではないが、作家は「悲劇」にしたいのだ。「悲劇の主人公」になることで自分の精神を安定させたい。
 しかもそれは、そこで終わりではない。
 この「悲劇の主人公」は、男に「愛」を求める。そして、無人島での男と女の「物語」を、「何もなかった物語」として求める。男と女の関係がなかった――と聞き出し、その「物語」によって、次に男と男の「物語」を求める。繊細で傷つきやすい精神を持った「教養人」としての二人の「物語」にすがろうとする。
 男(白軍の兵士)は、女を助けるために(女を愛してしまったがゆえに)、この「物語」を受け入れる。
 だが、こんな複雑(?)な「物語」とは無縁の人がいて、つまり「赤軍抹殺」という「物語」だけを自己のアイデンティティとする野蛮な(?)白軍の兵士たちがいて、逃走している赤軍の女を殺しにくる。そうして、もう一度、別の「物語」が起きる。逃げる女を惨殺しようとする野蛮な白軍の男を、無人島で一緒に生きた男が銃殺する。いわば、白軍の裏切り――そして、女への愛の完遂。
 観客は、若い兵士の「愛の物語」として、最終的にこの映画を納得するのだけれど。まあ、しかし、それはこの映画のテーマではないね。やはり、錯綜する「物語」――というより、「物語」抜きには生きてゆけない人間の悲しみが、内戦によって複雑にうごめくということを描きたかっただろうと思う。
 救いは、女の「物語」にある。赤軍の女にとって、男(白軍の男)はただ女をレイプし、殺して喜ぶだけの野蛮な人間だったが、そうではない男もいることを知る。愛に値する男が「白軍」「赤軍」に関係なく存在することを知るという「物語」がありうるのだ。

 あ、ストーリーの紹介に追われてしまったなあ。
 映画は、この錯綜する「物語」の、錯綜――内戦自体が、錯綜する「物語」だね――を汚れのないフィンランドの風景のなかで展開する。4月にも雪は残り、風は冷たい。光は透明で、人間の醜い感情とは無縁である。この対比がすごいなあ。映像が冷徹ですごいなあ。女の、揺るがない視線の強さだけが、フィンランドの大地と向き合っている。そのほかは、弱い男が作り上げた「物語」に過ぎない。
 だから、女は生きてゆくが、男は死んでゆく。「物語」は死に、女が産み続ける命だけが存在する。
                        (KBCシネマ2)






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