詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高岡淳四「時化続きの後、久々に青い空を見るというのに 油山に生きる3」

2011-08-08 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
高岡淳四「時化続きの後、久々に青い空を見るというのに 油山に生きる3」(「妃」15、2011年07月30日発行)

 高岡淳四「時化続きの後、久々に青い空を見るというのに 油山に生きる3」は自殺した従兄弟の思い出を書いている。
 くだくだと(?)どうでもいいことを書いている。それが不思議とおもしろい。特に、「文体」がねじれるときの、「さらり」とした感じがとてもいい。
 あ、天才だなあ、ことばをほんとうにきちんと動かしているんだなあ、動かすことができるんだなあ、といつも感心してしまう。

本当に、よく私のことが見えているのですよ。東京の、東京大学での学生生活について聞かれると、周りの人が賢いのでたいへんです、などと謙虚そうなそこを言っているけれど、親戚に褒められたりうらやましがられたりするのが本当は大好きなこととか。

 「言っているけれど」の「けれど」の使い方がとてもいい。いや、「けれど」のことばの受け方がいい。「けれど」とつながれば、そこに前の文を否定することばがつづくはずなのだけれど、高岡は、それを不思議な形でするりとかわしながら、文の全体を「本当に、よく私のことが見えているのですよ。」へ引き渡してしまう。その軽いスピードが気持ちがいい。書いていることが「嫌味」にならない。
 補足する。「謙虚そうなことを言っているけれど」と「けれど」をつかえば、普通は「謙虚ではない」という「ない」を含んだ文がつづくはずなのだが、「けれど」だけでそれを省略してしまう。その省略によってスピードが出る。それから「親戚に褒められたりうらやましがられたりするのが本当は大好き」と「謙虚ではない」ことを「事実」として言ってしまう。「ない」(否定)を含まないことばで言ってしまう。それが「否定」をふくまないからこそ、「本当に、よく私のことが見えているのですよ。」にまっすぐにつながる。「ない」(否定)を含んだ文章がここに挿入されると、その瞬間に「謙虚そうなことを言っているけれど、謙虚ではない」で文が終わってしまう。高岡の「自己分析」で世界が完結し、従兄弟の視線と分離してしまう。
 これではまずい。

 私たちは、あれやこれやを抱え込むと面倒くさくなり、適当なところで文を区切る。適当に区切る。そうすることでものごとを「分離」し、「整理」してゆく。それはそれでいいのだけれど、人間にはそういう「分離」とは相いれないような、ずるずるしたつながりがあって、それは「分離」した瞬間に、途切れてしまう。
 高岡は、こうした「分離」を、「分離」の形をとらないまま表現することができる。ずるずるずるーっと動いて、なおかつ、「文体」がみだれた、内容がわかりにくくなったという感じにならないまま続けることができる。
 「接続」の表現が、飛び抜けている。「分離」を内に隠したまま、さらりと「接続」をやってのける。そこから不思議なスピードが生まれる。

私が、お爺さん、お祖母さん、叔父さん、叔母さんに向かって言っていることに聞き耳をたてて、いちいち馬鹿にしたようなことを言うのです。お爺さんも、お祖母さんも、叔父さんも、叔母さんも、みんなそんなことは分かっていて、わざわざ聞いてくれているのに、奴だけは許してくれないのですよ。
と言える程に大人でなかった私は、デブだのハゲだのという攻撃に対して、あっさりと自分の品格を落として、父親と酒を飲み、父親が寝ても冷蔵庫からビールを引っぱり出してきて飲み、正月だから冷えてなくてもいい、とケースから出してきたものも飲んでいたら、お祖母さんからもうやめろと言われ、今度は酔いにまかせて奴に絡みだし、子供の頃の恥ずかしい話しなどをして気がつけば、若いのに髪が大分うすくなった酔っ払い東大生対ひきこもりの腰のひけた立ち回りに至っていた、などということもあった。

 「と言える程に」の「と」。前の文を、ぽんと放り出してしまう。
 そして、ずるずるずるーっと、どうでもいいことを書く。そこに「正月だから冷えてなくてもいい」というような「実感」を挿入することで文を分断しながら、あくまで「挿入」を貫くことで文全体は「接続」(連続)しつづける。
 「分離」は不思議な形で常に隠される。--いまの「正月だから」うんぬんは、一種の笑いによってつながっていく。「笑い」というのはほんらい「分離」の作用が強いのだけれど、高岡は、これを「連続するユーモア」という形でつないでしまう。
 「若いのに髪が大分うすくなった酔っ払い東大生対ひきこもりの腰のひけた立ち回り」という文には、変に笑えるでしょ? 私は高岡にあったことはないので、どんな風貌をしているか知らないのだが、「若いハゲ」を思うとそれだけでおかしい。(失礼!)そうか、「若いハゲ」なのか、会ったらからかってやろう、笑ってやろうなんて密かに思いながら、高岡の書いていることばに引き込まれてしまっている。

 つまらないことがら(?)のなかにあるもの、--つまらないというのは「意味」には無関係なこと、と言い換えた方がいいのかな?--、そのなかの不思議な「笑い」のような軽いもの。あるいは、誰とでも簡単に「連続」してしまう何か。「笑う」とき、何と言えばいいのかな、ちょっと相手を馬鹿にして(自分を優位にして)、相手との関係ができる。その気楽な「接続感(連続感)」で、世界を拡げてゆく。
 私は騙されているかもしれないけれど、こうした「連続感」で広がってゆく世界の中心にいることができる高岡は「正直」だと思う。正直でないと、世界がぶれる。高岡の世界は何が挿入されても(挿入の瞬間に、世界が「分断」されても)、すーっと別のことばとつながってもとに戻る。
 連続(接続)による「復元力」がとても強い。「復元力」が強いので、安心してことばを読むことができる。

 ことばが脱線したとき(ほんとうに言いたいことから「分離」して、どんどん暴走して行ってしまうとき)、それをもとに戻すのはたいへんである。
 私は、「もとに戻る」とその度に書いて引き返すが、高岡は、そんなことをしないで、自然に戻ってしまう。

僕の方が普通は先に死ぬと思うから、好きにしてくれたらいいのだけれども、
僕がつりが好きだからと言って、間違えても、海に蒔かないで。
生きている時、落ちないように、落ちないように、としていた場所に沈められるだなんて、
考えるだけでぞっとする。

 これは飛行機の中で、散骨のことを考えていた時の「脱線」である。そのなかの「落ちないように、落ちないように、」というのは釣りをしているときの岸壁かどこかから「落ちないように」ということなのかも知れないけれど、飛行機に乗りながら、飛行機が「落ちないように、落ちないように」と祈っている(?)感じにもつながり、とても不思議である。 
 高岡のことばは、いつでも自在に「現実」そのものへと戻る。「復元力」は「現実感覚」ということかもしれない。
 (あ、この書き方はちょっと乱暴な論理の飛躍だね。)
 まあ、そういうことを考えた。
 高岡以上の天才、名文家はいない--と私は思う。

おやじは山を下れるか?
高岡 淳四
思潮社
コメント
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