詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

三井葉子『灯色醗酵』

2011-08-24 23:59:59 | 詩集
三井葉子『灯色醗酵』(思潮社、2011年07月30日発行)

 三井葉子『灯色醗酵』を読みながら、「知っている」と「わかる」の違いについて考えた。詩集のタイトルにもなっている「灯色醗酵」。(「醗酵」の「醗」を三井は旧字体で書いているが、私のワープロはその文字をもたない。)

 善人なをもちて往生をとぐ。いはんや悪人をや。

このお文章に出会ったのはわたしには大事件であった。どうしたら生き
られるのか分からなかったわたしのむねに、とつぜん灯がついた。
価値を作るのは世界を作ることである。
虚構に出会ったのよ と。小説家のM氏に言うとM氏は
それこそが宗教ナンヤ と言った。M氏は親鸞学者である。

虚構の庭は五色の花びら
水は日射しをたたえ
鯉は笑っている

 冒頭の1行「善人なを……」は「歎異抄」の一節である。だれもが知っている(聞いたことがある)1行だと思う。意味も知っている。善人が往生できる。そうであるなら、悪人はもっと往生できる。--知っているけれど、それを私が「わかっている」かどうか、これはあやしい。私はどこかで聞きかじったことを、いま、ここに書き写しているだけである。
 その誰もが知っていることば(お文章--と三井は書いている)に出会ったときのことを三井は書いている。そこに「分かる」ということばが出てくる。

どうしたら生きられるのか分からなかったわたしのむねに、とつぜん灯がついた。

 これは、「どうしたら生きられるのか分かった」という意味と同じである。「歎異抄」に出会って、「どうしたら生きられるか」、それが「分かった」。「分からなかった」ものが「分かる」ようになった。
 その、「分かる」とは、どういうことか。

価値を作るのは世界を作ることである。
虚構に出会ったのよ と。小説家のM氏に言う

 ここに「言う」ということばがあるが、この「言う」に私は注目した。
 三井は「善人なを……」を言い換えているのである。三井のことばで、「価値を作ることは世界をつくること」と言い換えている。この言い換えは、もちろん、そっくりそのままの「言い換え」ではない。「歎異抄」の「文語(?)」を「口語」に言い換えたのでもない。また「意味」をわかりやすく言いなおしたものでもない。
 親鸞の弟子が書き記したものを読み、三井がそのとき感じここと、「分かった」と思ったことを、まったく別のことばで言いなおしたものである。だから、たとえば、「善人なをもちて往生をとぐ。いはんや悪人をや。」の「意味」を書きなさいと「試験問題」がだされたとき、三井が書いているように「価値を作るのは世界を作ることである。」と書いても、○はもらえない。「正解」にはしてもらえない。一般に共有されている「意味」とはまったく違うからである。
 違う--ということを、三井も知っているはずである。
 知っているけれど、「分かった」と思ったのだ。違ったことばで言いなおすことができた瞬間に、三井には「歎異抄」が「分かった」のである。

 このことを、私は、とてもおもしろいと思う。
 「分かる」というのは、自分が納得できるということである。自分の「肉体」のなかに、そのことばを入れても不自然なことが起きないということである。

 私は「現代詩講座」で河邉由紀恵の『桃の湯』を受講生と一緒に読んだことがある。その詩集のなかに「ふわっ」とか「ざらっ」とか「ねっとり」とかのことばが出てくる。そのことばは全員が知っている。そして、また「分かっている」。けれど、その「分かっている」はずの、「ふわっ、ざらっ、ねっとり」を自分のことばで言いなおしてみて、という具合に質問を投げかけてみると、全員、すぐにはことばにならない。
 それは「ふわっ、ざらっ、ねっとり」が「分かりすぎている」ためにことばにならないのである。「肉体」で「分かっている」ので、ことばにならない。ことばにする必要を感じなかったから、別のことばにしてみようとも思わなかった。だから、ことばにできない。とまどってしまう。
 完全に分かっていることは、ことばにならないのだ。
 逆に、分かっていないことはことばになる。
 --というのは、ちょっと矛盾した言い方だが、繰り返し聞いたり読んだりして「知っている」ことは、その繰り返し聞いたり読んだりした「ことば」をそっくり繰り返せばいいのだから、「分からないこと」もことばにできるのである。たとえば、私が「善人なを……」を「善人が往生できるのだから、悪人はもっと簡単に往生できる」と言ったように。それがどういうことか私は「分からない」。だから、平気で「他人のことば」(聞いたことば、読んだことば)を繰り返すことができる。
 「分かっていないこと」は他人のことばを借りて平気で言えるが、「分かっていること」(ふわっ、ざらっ、ねっとり)は言いなおせない。それは、誰も「言いなおしていない」。だから、どうしていいのか分からない。頼ることばがないのだ。
 この「分かる」(分かっている)ことというのは、そして、私の「分かる」と、他人の「分かる」が一緒かどうかは、はっきりとは判断できない。河邉が「ふわっ」ということばであらわしたものを、もし私が別のことば(別の知っていることば)で言いなおしたとき、それは河邉の感じていることと同じであるかどうかは、まったくわからない。同じであるという保証はなにもない。それにもかかわらず、私たちは「ふわっ、ざらっ、ねっとり」を「分かる」と思ってしまう。
 この問題は、河邉の詩集についてふれたとき、すでに書いたので、繰りかえさないが……。

 あることばが「分かる」とは、そのことばを、それとはまったく別の「知っていることば」で言いなおすことができると言うことだ。
 (これから書くこと、いままで書いたこともそうかもしれないが、それは私の「独断」がほとんどなので、まあ、適当に読んでください。)
 「分かる」というのは、私の感覚では「肉体」で「分かる」。「頭」は「知る」ときにつかう。「分かる」ということは、それぞれの「肉体」のなかでしか起きないので、その「分かる」を他人に伝えるには、どうしても「知っていることば」をつかうしかない。それはなんといえばいいのか、どうしても「分かっている」こととはそっくりにはならない。「知っていることば」というのは、「私」自身のことばではなく、他人から聞いたり、読んだりしたものだからである。だから、一回言いなおしただけでは不十分である。何回も言いなおすことで、少しずつずれてくるもの、重なり合うものが出てくる。その「ずれ」や「重なり」の動きでしか、「分かっている」ことは言い表せないのだ。

 書いていることが、ちょっと迷路に入り込んだようだ。
 三井のことばに戻る。

 三井は「善人なを……」をまず、「価値を作るのは世界を作ることである。」と言い直し、すぐにもう一度「虚構に出会ったのよ」と言いなおしている。そのふたつは同じことを指している。「価値をつくる」というのは「虚構をつくる」ということである。そして、「虚構をつくる」とは「世界」をつくるということである。
 そのとき「世界」とは、「ことば」の運動である。
 人の一生という世界。それを親鸞は「善人なを……」と言った。そのことばにふれて、三井は、そこには「価値」が書かれていると感じたのだ。悪人がほんとうに善人よりも往生しやすいかどうかではなく、そこには、親鸞の「価値」が書かれていると「分かった」のである。そして、それが「虚構」であると分かったのである。つまり、そこにあるのは「ことばの運動」であると「分かった」のである。
 「分かる」というのは、「ことばの運動」を自分でつくりだしてゆけることだ。
 「知る」というのは、他人の「ことばの運動」をただ繰り返すだけのことである。
 「他人のことばの運動」を「自分のことばの運動」で置き換え、「同じこと」を「違ったことば」で言い表すことができたときが「分かった」と言えるときなのだ。
 言いなおすことで「知る」と「分かる」は、平行な関係になる。
 このことを三井は、「雀」という詩の中で「わたしにも分かったのです。さまざまなことは異次元ではなく平面での移動なんだというふうにです。」と書いている。「分かる」というのは、「他人のことば」から「自分のことば」への「移動」なのである。しかも、「平面」での「移動」なのである。--私は、三井が「平面」と呼んでいるものを「平行」と呼ぶのだが……。

 「分かる」ということは、何かを完全に「自分のことば」でいいなおすこと。
 だから、

虚構の庭は五色の花びら
水は日射しをたたえ
鯉は笑っている

 この3行は「善人なを……」の「三井語」による言い換えである。「価値をつくるのは世界をつくること」の「三井語」による言い換えである。「虚構」の「三井語」による言い換えである。
 さらに三井はつづける。

そんならわたしも生きられると十八のわたしは思った。生きられる、ではなく生まれられるとわたしは思った。死に死にて生き生きるいのちである。

 「自分のことば」で何かを言いなおすとき、それは「生まれる」である。「生まれ変わる」のである。「知っている」から「分かる」に生まれ変わるのである。その生まれ変わりは、どうしたって、三井自身の「価値」をつくる(価値をあきらかにする)。その「価値」は「ことば」によってのみ成立する「虚構」である。

 三井は、「善人なを……」ということばにふれて、「自分のことば」というものがあるということを発見したのだ。「ことば」に自分をあずけることができると「分かった」のである。「ことば」の中で、三井は生まれる。ことばの中で三井は三井になる。ことばは、三井を抱きしめる。

        (1回では書き切れないので、あすも感想の続きを書く--予定。)




灯色(ひいろ)醗酵
三井 葉子
思潮社


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田村隆一試論(2)

2011-08-24 00:09:17 | 詩集
田村隆一試論(2)(よみうりFBS文化センター「現代詩講座」、2011年08月22日)

 前回につづき、田村隆一の作品を読みます。
 (詩を朗読する。)

四千の日と夜 田村隆一

一篇の詩が生れるためには
われわれは殺さなければならない
多くのものを殺さなければならない
多くの愛するものを射殺し、暗殺し、毒殺するのだ

見よ。
四千の日と夜の空から
一羽の小鳥のふるえる舌がほしいばかりに、
四千の夜の沈黙と四千の日の逆光線を
われわれは射殺した

聴け、
雨のふるあらゆる都市、溶鉱炉、
真夏の波止場と炭鉱から
たったひとりの飢えた子供の涙がいるばかりに、
四千の日の愛と四千の夜の憐みを
われわれは暗殺した

記憶せよ、
われわれの眼に見えざるものを見、
われわれの耳に聴えざるものを聴く
一匹の野良犬の恐怖がほしいばかりに、
四千の夜の想像力と四千の日のつめたい記憶を
われわれは毒殺した

一篇の詩を生むためには、
われわれはいとしいものを殺さなければならない
これは死者を甦らせるただひとつの道であり、
われわれはその道を行かなければならない

質問1 第一印象は? どこが一番「わからない」部分か。
「戦争のことを書いている」
「殺さなければならない、が分からない」
「全部、逆説を書いている。それくらいしないと詩は書けない」
「思っていることと逆のことを書いている。生の悲しさが、人の心に浸透してくる」

 私も、「殺さなければならない」が一番むずかしい部分、分かりにくい行だと思う。
  普通は、「殺してはいけない」と言いますね。実際、人間を殺してしまうとたいへんなことになるし、人間でなくても、動物でも「殺してはいけない」と言われる。田村隆一はけれど「殺さなければならない」と言う。常識に反することを書いている。だから、むずかしい。「わからない」。
 前回、詩を読んだとき、ことばには「知っていることば」と「わかっていることば(わかることば)」があるという話をしました。そして、「射殺」「射殺する」ということばは知っているけれど、自分では実際にしたことがないから「わからない」というとこを話しました。今回の詩には、「殺す」「射殺」「暗殺」「毒殺」と、やはり知っているけれどわからないことばがたくさん出てくる。
 しかも「殺さなければならない」という形で出てくる。これが、この詩の一番わからないところだと思う。

 まず、「わからない」ということを自覚して、それから詩を読みます。これが大事だと思います。

 読者に「わからない」ことは、つまり、そこでは田村のことばが十分に言い尽くされていないからです。言い足りないことがある。田村は田村のことばを完全に説明しきっていない。「殺さなければならない」の「理由」を書いていない。だから、わからない。
 殺人事件が起きると、かならず「動機」が問題になりますね。動機というのは「理由」です。「理由」がわかったからといって、「殺人」がほんとうに理解できたかというと、ちょっとよくわからないけれど、まあ、なんとなく「納得」できる。
 田村の1連目には、「殺さなければならない」の「理由」がひとことも書かれていない。いや、「一篇の詩が生まれるためには」が「理由」だと言うことになるかもしれないけれど、そういう「理由」では、なぜ?と思うだけですね。詩のために殺人が許されるということは、絶対にないですね。
 だから、詩のためには「理由」には値しないなあ、と思う。

 いま言った、「説明しきっていない」「言い尽くしていない」という思いは、たぶん、田村隆一自身にもあると思う。だから、2連目以降で、1連目に書いたことを言いなおしている。別のことばで言っている。
 どんな作家でも、詩人でも、言いたいことは何度でも「言いなおす」(繰り返す)。その「言い直し」に注目しながらことばを読んでいくと、だんだんその詩人の言いたいことが明確になっていきます。
 で、1連目と、2、3、4、5連目を読むと、似ているところと違っているところがあります。

質問2 どこが似ていて、どこが違っているか?
「1連目と5連目が、一篇の詩が生まれるためには、一篇の詩を生むためにはではじまっていて、似ている。そのあいだの2-4連目は、1、5連目と違っている」
「1連目の、射殺、暗殺、毒殺を、2連目以降で説明している」
「5連目が田村の意見だと思う」
「1連目と5連目が対になっている。5連目の甦らせなければならないが、もっとも言いたいことだと思う」

 いま、みなさんが気づいたように、1連目と5連目はとても似ている。「対」になっています。でも、1連目と5連目は、実は、大きく違っている部分もあります。
 一番違っているのは、1連目が「一篇の詩が生まれるためには」なのに対し、5連目が「一篇の詩を生むためには」という部分。
 主語が違っている。「生まれる」の主語は「詩」。「生む」の主語は「私(われわれ)」。
 これは、あとでもう一度触れるので、そのままにしておいて、別の「生まれる」というのは、この場合、他人が生む、他人から生まれる、ということになるかもしれない。「生む」は自分で「生む」。

 それをのぞくと、どこだろう。どこを、どう言いなおしているだろうか。
 1連目が「射殺し、暗殺し、毒殺する」と現在形であるのに対し、2、3、4連目は「射殺した」「暗殺した」「毒殺した」と過去形になっている。
 なぜ、過去形なのだろう。

 「一篇の詩が生まれるためには」「殺さなければならない」ということばを手がかりにすると、それでは「殺した」あとはどうなるか、ということを考えてみるといい。「一篇の詩が生まれるために」「殺さなければならない」のだとしたら、「殺した」あとには「一篇の詩が生まれた」状態になっていないといけない。
 「生まれる-殺す」「生まれた-殺した」という具合に、現在形と過去形が対応しないといけない。
 ということは、「殺した」と書かれているのだから、それぞれの連には「詩」が「生まれている」(生まれた)はず。
 それは、どこだろう。

質問3 2、3、4連目で「詩」を感じるのはどの行? どの部分? 「詩」を考えるとむずかしくなりますね。だから、最初の講座にもどるけれど、「詩は気障なうそつき」というのがこの講座のキャッチコピーなのだけれど、2、3、4連目で、気障なのはどの部分? かっこいいのはどの部分? それを言ってみてください。

「一羽の小鳥のふるえる舌がほしいばかりに、」
「たったひとりの飢えた子供の涙がいるばかりに、」
「一匹の野良犬の恐怖がほしいばかりに、」

 私もみなさんが指摘したのと同じ行がかっこいいと思う。気障なことばだなあと思う。そして、そのことばが目立つように田村も工夫していると思う。かっこいいことば、気障なことばのあと、「四千日の夜、四千日の昼」と同じようなことばを繰り返し、前の行に意識が集中するようにしている。
 こういうことばを書いてみたいなあと思う。

質問4 で、この3行には、共通点がある。似たことばがある。それは何?
「ほしいばかりに、が同じ」

 そうですね。「ほしいばかりに」に2回出てくる。まったく同じですね。もう一か所は「ほしいばかりに」ではなく「いるばかりに」。「いる」は「必要」という意味ですね。だから、「ほしい」と「いる」はこの場合、同じですね。「必要」、だから「ほしい」と田村は書いている。
 そこで、さっき話したことにちょっと戻ると……。
 「殺人」には「理由」(動機--○○がしたい)が必要といいましたね。
 ここでは、その「理由(動機)」が書かれている。
 射殺したのは「一羽の小鳥のふるえる舌がほしい」から、暗殺したのは「たったひとりの飢えた子供の涙がいる」から、毒殺したのは「一匹の野良犬の恐怖がほしい」から。
 それが「殺人」の「理由(動機)」だとしたら、それこそが田村が詩だと考えているものであるということの証明になると思う。
 ここでは「一篇の詩」になっていない。1行の部分だけれど、そういうものが「詩」だと田村が考えていることになる。「殺した」結果として、その1行が生まれたのだから、それが詩であるということになると思う。

 田村が「詩」は「何かを殺した」結果生まれるものであり、それはたとえば「一羽の小鳥のふるえる舌」というような、かっこいいことばである--ととりあえず、ここでは「仮定」しておきますね。

 次に、では「何を」殺したか--それを見ていきます。
 1連目では、「多くのもの」「多くの愛するもの」と書かれていた。それが2、3、4連目でどう書き換えられているか。

四千の夜の沈黙と四千の日の逆光線を

四千の日の愛と四千の夜の憐みを

四千の夜の想像力と四千の日のつめたい記憶を

質問5 ここにも「共通のことば」がありますね。それは、何?
「四千日の夜」「四千日の日」

 そうですね。「四千の夜」「四千の日」が、一部は順序が逆になっているけれど、繰り返し出てくる。田村は「四千」にこだわっている。「四千」というのは、前回の講座のとき、だれかが言ってくれたけれど、たぶん日本が戦争をしていた11年の年月の日数なのだと思う。
 その戦争の日々、「われわれは」沈黙、逆光線、愛、憐れみ、想像力、記憶を「殺した」。その結果、「一羽の小鳥のふるえる舌」「ひとりの飢えた子供の涙」「一匹の野良犬の恐怖」という「詩」が生まれた。
 田村は、そんなふうに考えているのだと分かります。

 あ、でも、これは、ちょっと変ですねえ。
 「一羽の小鳥のふるえる舌」が「詩」だとしても、それでは詩のためには戦争が必要になる?
 そういう疑問が出てくる。
 これでは、いくらなんでも、おかしいですね。
 やっぱり「常識」に反している。だから、おかしい。変なことを言っている。言っていることがわからない。「逆説」を言っている。むずかしい、という最初の印象に戻ってしまいます。

 ここから、少し視点を変えて詩を読み直してみる。「詩」を私は「気障な嘘つき」と定義して、この講座を始めたのだけれど、これはいわば「方便」ですね。詩は気障な嘘つきではないのです。
 詩は、けっして忘れることのできないもの。「気障な嘘」というのは「気障」なことをいわれた、嘘をつかれたという印象が残る。
 この強い印象が残るということと、詩は関係があるのだと思う。
 田村も、強い印象ののこることばが詩だと感じているのだと思う。忘れることができないもののなかに詩があると考えているのだと思います。
 「四千日の夜と昼」を「戦争」の日々と読んできました。3連目が「戦争」ということを考えるとき、一番わかりやすいので、3連目を中心に見てみると。
 戦争のとき、子供が飢えて泣いている。それを田村は忘れることができない。その子供が泣いているとき、「われわれ」は(これは田村の世代がということだけれど)--「われわれ」は何をしたか。人に対する「愛」を、「憐れみ」を殺した。知らない顔をしたというのではないけれど、どうすることもできなかった。愛や憐れみを「殺して」、飢えて泣いている子供を見ているしかなかった。
 それはまた、そういう子供を見た自分を忘れることができない--という意味だとも思います。「愛」や「憐れみ」を殺してしまった自分を忘れることができない。
 この「愛」や「憐れみ」というのは、「想像力」とも言えますね。他者に対する「想像力」。それから、その「想像力」の奥には、自分の「記憶(体験)」というものがある。飢えたら、つらい、悲しい--そういう記憶が、想像力を動かす。そういう精神の動き、こころの動きを「殺す」ことによって、「われわれ」は子供が飢えて泣いているのを見てしまった。そして、自分の心を殺して見てしまったから、その子供の涙を忘れることができない。
 詩のように、鮮明に、いまも浮かび上がってくる。--この詩を書いたとき田村は、そういう状態なのだと思います。

 ただ、そんなふうに考えたとき、2連目の「沈黙」「逆光線」を「愛」「憐れみ」にうまく結びつけるのはむずかしい。何もできずに黙っていることを「沈黙」と呼ぶなら、飢えている子供をかわいそうに思い、しかし、どうすることもできずに黙っていたことが「沈黙」になる。それを「射殺」すれば、それでは、沈黙が破られ、声になるのか--これはむずかしい。
 そうではなくて、ほんとうは「沈黙する」ことで、何かを殺した、ということなのだと思う。それこそ「逆説」で何かを言おうとしているのかもしれません。
 --これでは、何か変なところが残る。説明できな部分が残る、という不満があるかもしれないけれど、たぶん、詩というのは、そういうものだのだと思います。説明しきれない。どこかに矛盾がある。
 だから、わからない部分、説明しきれない部分は、説明しきれないものとして残したまま、先へ進みます。

 戦争の日々、四千日から「一羽の小鳥のふるえる舌」「ひとりの飢えた子供の涙」「一匹の野良犬の恐怖」という「詩」--忘れられないものが、生まれた。
 そう田村が書いたとき、そのみっつのことばのなかに、また「共通のことば」がある。「一羽」「ひとり」「一匹」。「一」がある。それは戦争による犠牲というのは、けっきょく「一(ひとり)」に還元されるということだと思う。戦争で何万人もの人が死んでゆく。けれど、それは「何万人」ではなく、あくまで「ひとり」。その「一」であることを田村は忘れたくないのだと思う。
 私は、そう思って、この詩を読みました。

 最後の連。

一篇の詩を生むためには、
われわれはいとしいものを殺さなければならない
これは死者を甦らせるただひとつの道であり、
われわれはその道を行かなければならない

 「一篇の詩が生まれるためには」ではなく「一篇の詩を生むためには、」と書いているところから、ここでは田村が、詩を書いていく「決意表明」のようなものをしているのだと思って読みました。
 でも、この「決意表明」はとてもむずかしい。わかりにくい。

死者を甦らせるただひとつの道

 これが、非常にむずかしい。「死者を甦らせる」ということは、私たちは現実として不可能であると知っている。だから、よけいむずかしく感じる。何を言っているかわからない。
 少し遠回りをしながら読みます。「ただひとつの道」「その道」と突然、「道」が出てきます。これは「比喩」ですね。この「比喩」を、この詩のなかにあることばで言いなおすと、どういうことになりますか?

質問6 「道」を言い換えてみてください。
「詩人としての道」
「詩」
「ほんとうにしたかったこと」
「正しく歩むこと」
「これは逆説。人間愛」

 あ、私の質問の仕方がよくなかったみたい。
 何かを言うとき、私たちは何度も言い換える。大切なことならば大切なだけ、繰り返し言い換える。
 「道」というのは「方法」とか「手段」とかの意味でつかわれることが多い。「手段」「方法」の「比喩」が「道」。
 「手段」「方法」と仮定して、それではそれはを指し示している。「道」が比喩であるかぎり、それは前に書いている何かの言い換えなのだと思う。
 私は「いとしいものを殺す」ということを「道」と言いなおしているのと思う。

われわれはいとしいものを殺さなければならない
これは死者を甦らせるただひとつの道であり

という2行は、

われわれはいとしいものを殺さなければならない
死者を甦らせるただひとつの方法はいとしいものを殺すことである

 ということになる。
 これでは1行目、2行目に同じことばが出てきてしまう。同じことばが出てくるというのは、それがそれだけ大事なこと、言いたいことだからだと思うけれど、これではちょっとくどい感じがする。そのために、「ただひとつの道」と「道」ということばをつかって言いなおしたのだと思う。
 ここで、ちょんと思い出してもらいたいことがあります。
 前回「幻を見る人」を読んだとき、「ために」ということばに田村の「思想」(思い)がこもっている、ということを話しました。

空から小鳥が墜ちてくる
誰もいない所で射殺された一羽の小鳥のために
野はある

 この2行目の「ために」は、田村独特のことばです。なにも「野」はそのためにあるのではない。けれど、田村は「ために」ということばで結びつけた。こんな死んだ小鳥と野の結びつけは田村が初めてやったことであり、そのむすびつけのために「ために」ということばがつかわれた。
 「ために」というのは、とっても大切なことばなんだと思います。そういうことばを私は「思想」のことばと呼びます。キーワードとも言います。
 この詩にも「一篇の詩が生まれるためには」「一篇の詩を生むためには」という具合に「ために」がつかわれているけれど、これは言い換えると「一篇の詩のために」という形にすると、前回の「ために」と同じものであることがわかると思います。
 「思想」というか、その人にとってとても重要なことば、田村の場合「ために」だけれど、それはときどき省略されてしまう。田村にとってはわかりきったことなので、書く、という意識が生まれない。無意識のなかで書いてしまっているので、書き忘れてしまう。そういうことがある。その「無意識のなかで書いてしまっていることば」を、詩のなかに復活させると、詩がわかりやすくなります。
 そこで、質問。

質問6  「ために」を、もし、この詩最終連に補うとしたら、どこに補えますか? そして、そのときそのまわりのことばは、どんな具合にかわりますか?

 これも、私の質問が悪かったみたい。
 私は、最終連、

これは死者を甦らせるただひとつの道であり、

 に「ための」を挿入して読みます。「ために」を補って読みます。
 「死者を甦らすために」、あるいは「死者のために」。
 ただ、単純に「ために」を補うと、ことばがうまくつながらない。

死者を甦らせる「ために」ただひとつの道である

 でも、「ために」を「ための」にすると文法的に(?)なじみのあることばになります。

死者を甦らせる「ための」ただひとつの道である

 で、もう一度、「道」はなんの譬喩かという問題に引き返します。そのとき、

われわれはいとしいものを殺さなければならない
死者を甦らせるただひとつの方法はいとしいものを殺すことである

 という行を考えたけれど、ここに「ために」を挿入して、少し書き換えてみる。そうすると、

われわれはいとしいものを殺さなければならない
死者を甦らせる「ために」いとしいものを殺すことがただひとつの方法である
(死者を甦らせる「ために」いとしいものを殺さなければならない)

 こうすると、意味は通じやすくなるし、また田村が、一生懸命「いとしいものを殺す」ということを繰り返しているのも分かる。
 さらに「ために」が、この詩では

一篇の詩が生まれるためには(1連目)
一篇の詩を生むためには(5連目)

と2回つかわれている。それも「詩」ということばと一緒につかわれている。それを考えながら、先に作り替えた(?)5連目を読むと、

われわれはいとしいものを殺さなければならない
一篇の詩「のために」いとしいものを殺さなければならない

 「ために」ということばを中心に見ていくと、「一篇の詩」と「死者」が同じものになる。

一篇の詩の「ために」いとしいものを殺す
死者を甦らせる「ために」いとしいものを殺す

 「死者」は田村にとっては、忘れることのできない、とても強烈な印象を与えたものなのだということが分かる。まるで「詩」のように、強烈で、一度体験したら絶対に忘れることができないもの。

 で、ここから、詩を大きく逆戻りしてみます。
 各連のなかで、「詩」は、どれ、との行が一番かっこいいか、どの行が一番気障か、そういう質問を私は最初の方にしました。
 そのとき「一羽の小鳥のふるえる舌」「飢えで泣いている子供」「野良犬の恐怖」がそういうものに当たる、というふうに考えたと思います。
 これは、全員が、同じように考えましたね。珍しく「意見が一致」してしまったことがらです。
 でも、「一羽の小鳥のふるえる舌」「飢えで泣いている子供」「野良犬の恐怖」は、普通、「詩」と呼んでいるものとは違いますね。
 普通は、もっとロマンチックというか、美しい、優しいというイメージを呼び起こすものが詩と呼ばれている。悲しい詩、さびしい詩もあるけれど、やはりどこか美しい。美しいものがこころに響いてくる。田村の書いているものは、それとは相いれない。反対のもの、ですね。強烈だけれど、「美しい」「ロマンチック」というものとは違っている。

 これが大切なのだと思います。
 田村は、この詩で「一篇の詩が生まれるためには」「一篇の詩を生むためには」と書くことで、「詩の定義」をしている。「いとしいものを殺すとき、生まれるのが詩」。それは、私たちが普通詩と考えているものとは違う。
 「殺す」と「詩」は相いれない。
 別なことばでいえば、田村は、これからは今まで考えられているものとは違う詩を書かなければならない、と言っている。
 それは、射殺された小鳥の震える舌のようなもの。これを戦争で死んだ仲間に重ねると、死んでいく時ひとりの男が感じた、恐怖、震える肉体、無念の涙になる。それを、だれも経験していない強烈なことば、印象に残ることばで書きたい――ということになると思う。
 そして、「殺す」というのも、また「比喩」だと思います。「殺す」は現実のことではなく、「想像力」のなかでの「殺す」になると思います。

 詩の全体を補足する形で、少し前に引き返してみます。

記憶せよ、
われわれの眼に見えざるものを見、
われわれの耳に聴えざるものを聴く
一匹の野良犬の恐怖がほしいばかりに、
四千の夜の想像力と四千の日のつめたい記憶を
われわれは毒殺した

 ここには、田村のいいたいことが書かれていると思う。
 「想像力」とは何か。前回、バシュラールの定義、想像力とはものをねじまげる力というのを紹介したけれど、田村は「われわれの眼に見えざるものを見、/われわれの耳に聴えざるものを聴く」を「想像力」と呼んでいるように思います。
 そして、その「想像力」のためには「記憶」も必要。何かを記憶していないと、想像できない。記憶の力を借りて、いま、ここでは見えないものをみる。聞こえないものを聴く。それは想像力の目、想像力の耳をつかうということかもしれない。
 ことばは、目に見えないものを書くことができる。耳に聞こえないものを聞くことができる。目に見えないけれど存在するもの、耳に起呼ないけれど存在するもの--そういうものは、ある。「一羽の小鳥のふるえる舌」「飢えた子供の涙」「野良犬の恐怖」。これは、「いま/ここ(この部屋)」では見えない、聞こえない。けれど、ことばにしたとき、見えるし、聴こえる。
 同じように、「たったひとりの死者」を「いま/ここ」に鮮明に浮かび上がらせるのが田村の詩を書く目的なのだ、と田村は言っているのだと思う。そのためには、どんな困難もいとわない--そういいたいのだと思って、私はこの詩を読みました。
 
 そして、その「殺す」ということを、私はいま「想像力」と言ったばかりなのだけれど、「想像力」ではなく、むしろ、4連目と結びつけると「記憶」になる。「記憶」というか、知っていることがないと「想像」もできないから--ということは、ちょっとおいておいて。
 「記憶」と言えば、田村にとっては「四千の日の夜」。戦争。それをしっかり見つめること。それを忘れないこと。「いとしいもの」を忘れてしまっても(殺してしまっても)、いや「いま/ここ」にある「いとしいもの」を殺す--それについて語るのではなく、つまり、「いま/ここ」を「黙殺」してでも、「過去(記憶)」を直視する。
 そこから「一羽の小鳥のふるえる舌」「ひとりの飢えた子供の涙」「一匹の野良犬の恐怖」「(たったひとりの)死者(の無念)」が強烈に浮かび上がる。いつまでも忘れられないものとしてことばに定着する。
 詩になる。
 私たちは普通、詩というとき思い浮かべるもの、美しい花の姿とか、美人をたたえることばだとか--そういうものを否定する、書くことをやめる。そうして、いままで書いて来なかった悲惨なことがら(戦争)のなかで直視した「真実」を書く。「真実」は「美しくない」かもしれない。けれど、それが詩。

 田村は、そういう詩を書きたい、言っている。書かなければならないと、自分に言い聞かせている。--私は、そんなふうに読みました。

 ことばが「現実」を書くのではなく、ことばの力で私たちが見つめなければならないものをつくりだしていく。目に見えるようにする。聴こえるようにする。
 それが「現代詩」なのだと思います。



 講座のあとの「自由討論」、いや、もっと気軽な「談話」だけれど。
 受講生のなかから、「最終連のひとつの道」とは詩人のことである、あるいは詩のことである、という声がでました。戦争を風化させないために詩を書く--と田村の作品をとらえたものだと思います。

(上記の内容は、テープ起こしではありません。若干、当日の内容とことなります。省略した部分と加筆があります。)




「現代詩講座」は受講生を募集しています。
事前に連絡していただければ単独(1回ずつ)の受講も可能です。ただし、単独受講の場合は受講料がかわります。下記の「文化センター」に問い合わせてください。

【受講日】第2第4月曜日(月2回)
         13:00~14:30
【受講料】3か月前納 <消費税込>    
     受講料 11,300円(1か月あたり3,780円)
     維持費   630円(1か月あたり 210円)
※新規ご入会の方は初回入会金3,150円が必要です。
 (読売新聞購読者には優待制度があります)
【会 場】読売福岡ビル9階会議室
     福岡市中央区赤坂1丁目(地下鉄赤坂駅2番出口徒歩3分)

お申し込み・お問い合わせ
読売新聞とFBS福岡放送の文化事業よみうりFBS文化センター
TEL:092-715-4338(福岡) 093-511-6555(北九州)
FAX:092-715-6079(福岡) 093-541-6556(北九州)
  E-mail●yomiuri-fbs@tempo.ocn.ne.jp
  HomePage●http://yomiuri-cg.jp



田村隆一全集 1 (田村隆一全集【全6巻】)
田村 隆一
河出書房新社
コメント (4)
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現代詩講座「田村隆一試論」(2)(受講生作品篇)

2011-08-24 00:07:15 | 詩(雑誌・同人誌)
現代詩講座「田村隆一試論」(2)(受講生作品篇)
         (よみうりFBS文化センター「現代詩講座」、2011年08月22日)

<課題>田村隆一になってみよう。――8 月8 日に読んだ田村隆一を参考に、田村隆一になったつもりで、詩を書く。その際、かならずひとつは田村の詩のなかのことばをつかう。


<受講生の作品>

真夏の詩について     石川希代子

羨望の先鋒 ぽっちり光る
木 ひとつの木は たつ
原野であれ文化文明の瓦礫の中でも全て荒野
地球球体の西側は灼熱 熱線で
人も家畜も焼かれ炙られ緑は全て自然発火
東側ではひたすら冷い寒風 吹雪

こころだけでは足りなくて皮膚の下まで満たした魂を煮えたぎらせ
木は気として 時にことばを暗号化する
転んだまごころは 二千十一年の東の島国
ほんの一角で世界の裏返しを見た

飢えた人は 詩に死をからませ
詩格の重さに自己の刺客を

受講生感想「最後の2行、死と詩の、同じ音の組み合わせが田村ぽい」
谷内感想「「こころだけでは足りなくて皮膚の下まで満たした魂を煮えたぎらせ/木は気として 時にことばを暗号化する」がかっこいい。「暗号化」が面白い」



午前十一時二分     岩永恵美


野に墜ちた太った男は
黒い脂肪を拡散する

胞子が天をあけたとき
我々の子は地に臥せた

音なき声は かつての空のためにある
姿なき体は かつての川のためにある

今、緑あふれる世界は憧憬の中
今、この世界は一握りの頭の中

なぜと問う人は どこへ行ったのか
なぜ問うと問う人は 安全地帯に鎮座する

聞け 叫びが あの山を越える様を
見よ 願いが あの海を越える様を

静寂の園に御霊が集う

受講生感想「「なぜ問うと問う人は」が面白いが、そのあとの「安全地帯に鎮座する」は他の言葉があったのでは」
谷内感想「長崎原爆のことを書いているのだと思う。「音なき声は かつての空のためにある/姿なき体は かつての川のためにある」の対句が面白い」





幻を見る人     上原和恵

詩人から父がはい出してくる
関東大震災の少し前に生を受けた男たちに
殺し合いがあった

青年たちは知性を奪い取られていた
男たちから未来は消えていた
闇だけがあった

詩人は父と同じ地面に立ち 同じ空気を吸った
父と詩人は知性をひそめ 沈黙を守った

どうして二人は交差しなかったのだろうか
ただどうしてそうなのかわたしにはわからない

父は沈黙を守り続けた
父の未来は閉ざされ市井に紛れ込んだ
未来がひらけた詩人は言葉で先行した

詩人の言葉のなかに父の沈黙は内包され
わたしのなかで沈黙は言葉となって
重さを増す

受講生感想「父と詩人の対比。詩人の本望を見る」「「どうして二人は交差しなかったのだろうか」が印象的」「「詩人の言葉のなかに父の沈黙は内包され」がいい。声にならなかった声が誰かに代弁されて、引き継がれてゆく」
谷内感想「交差ということばを田村が使っているかどうかわからないが、交差のつかいかたに、田村っぽさを感じる。書き出しの一行目が象徴的で印象に残る」



幻を見る人     小野真代

誰もいない野原に骨が落ちる
けものが骨を拾う
けものは無数の骨でできている

風が運んでくるいろいろなもの
昨日の告解 今日の喜び 明日の裏切り
誰かの歌声 子どもの祈り

けものに音は届かない
けものは光を感じない
けものは怒りに支配されている

骨はかつて言葉を知っていたのだ
花の美しさを語り
大事な人をなぐさめ
宝石のように言葉を紡いだ
今ではけものの咆哮しか吐きだせない

けものは誰にも止められない
こもの自身ですら止められない
無数の骨がきしむ音
空は燃え
海は枯れ
世界が終るところまで

骨は落ち続ける
けものは永遠に死なない

誰もいない世界でけものが吠える

受講生感想「けものということばの使い方が面白い」
谷内感想「印象的な行がたくさんある。「けものは骨でできている」「骨はかつて言葉を知っていたのだ」が強い。三連目の前の二行もいい。「昨日の告解・・・」の言葉の動きが飛躍があって楽しい」



それより    吉本洋子

私はそれより後に生まれた
それより先に生まれた姉は
私の生まれる二日前に居なくなった

この町での挨拶は前ですか後ですか
それはそれは
で 始まって終わる

今はもう空には鳥が飛び
地には夾竹桃が咲き続けている

今日
咲き続けている夾竹桃の上に
空が拡がる
あの町にも
海を越えた都市にも繋がる空だ

それより後に生まれた空だ
無添加の空だ
眼の鼻の耳の記憶の無い空だ

花弁が月足らずで散って
欲望を感じない若い雄が徘徊する
明るい空の下だ

谷内感想「「それより」の「それ」は戦争だと思って読んだ。「眼の鼻の耳の記憶の無い空だ」が印象に残る。「花弁が月足らずで散って」の「月足らず」ということばの使い方がおもしろい」





水の定義    谷内修三

コップの中に水がある
ペットボトルから注がれたその水の恐怖と愉悦を定義せよ
机の上には午後の疲労が静かに光っている
水を飲むわたしの肉体のなかの倦怠のように

最初の水は海だった なぜ選ばれたかわからないまま
天空の苦い誘惑と甘い拒絶を定義しようとするが
果てしない不安に激しく叩かれ墜ちるそのとき
わたしはどこにも存在しない大地をくぐる宿命なのか

だが「半壊の雲よ、きみのなかで闇は崩れる」と
言ったか言わなかったか森の奥深く太古の樹の根は震え
おお 季節の初めの春よ 時間よ
残酷な愛撫という定義 嫉妬という空虚な定義

水よ水よ 虚構を定義するとき憎悪の都市を川が流れ
水道管の破壊を定義するときふるさとがわたしを呼ぶ
文字を書くインクに水はなくわたしのことばには
花を濡らす水もなく乾いた逆説のように消える




「現代詩講座」は受講生を募集しています。
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         13:00~14:30
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     維持費   630円(1か月あたり 210円)
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     福岡市中央区赤坂1丁目(地下鉄赤坂駅2番出口徒歩3分)

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