三井葉子『灯色醗酵』(思潮社、2011年07月30日発行)
三井葉子『灯色醗酵』を読みながら、「知っている」と「わかる」の違いについて考えた。詩集のタイトルにもなっている「灯色醗酵」。(「醗酵」の「醗」を三井は旧字体で書いているが、私のワープロはその文字をもたない。)
冒頭の1行「善人なを……」は「歎異抄」の一節である。だれもが知っている(聞いたことがある)1行だと思う。意味も知っている。善人が往生できる。そうであるなら、悪人はもっと往生できる。--知っているけれど、それを私が「わかっている」かどうか、これはあやしい。私はどこかで聞きかじったことを、いま、ここに書き写しているだけである。
その誰もが知っていることば(お文章--と三井は書いている)に出会ったときのことを三井は書いている。そこに「分かる」ということばが出てくる。
これは、「どうしたら生きられるのか分かった」という意味と同じである。「歎異抄」に出会って、「どうしたら生きられるか」、それが「分かった」。「分からなかった」ものが「分かる」ようになった。
その、「分かる」とは、どういうことか。
ここに「言う」ということばがあるが、この「言う」に私は注目した。
三井は「善人なを……」を言い換えているのである。三井のことばで、「価値を作ることは世界をつくること」と言い換えている。この言い換えは、もちろん、そっくりそのままの「言い換え」ではない。「歎異抄」の「文語(?)」を「口語」に言い換えたのでもない。また「意味」をわかりやすく言いなおしたものでもない。
親鸞の弟子が書き記したものを読み、三井がそのとき感じここと、「分かった」と思ったことを、まったく別のことばで言いなおしたものである。だから、たとえば、「善人なをもちて往生をとぐ。いはんや悪人をや。」の「意味」を書きなさいと「試験問題」がだされたとき、三井が書いているように「価値を作るのは世界を作ることである。」と書いても、○はもらえない。「正解」にはしてもらえない。一般に共有されている「意味」とはまったく違うからである。
違う--ということを、三井も知っているはずである。
知っているけれど、「分かった」と思ったのだ。違ったことばで言いなおすことができた瞬間に、三井には「歎異抄」が「分かった」のである。
このことを、私は、とてもおもしろいと思う。
「分かる」というのは、自分が納得できるということである。自分の「肉体」のなかに、そのことばを入れても不自然なことが起きないということである。
私は「現代詩講座」で河邉由紀恵の『桃の湯』を受講生と一緒に読んだことがある。その詩集のなかに「ふわっ」とか「ざらっ」とか「ねっとり」とかのことばが出てくる。そのことばは全員が知っている。そして、また「分かっている」。けれど、その「分かっている」はずの、「ふわっ、ざらっ、ねっとり」を自分のことばで言いなおしてみて、という具合に質問を投げかけてみると、全員、すぐにはことばにならない。
それは「ふわっ、ざらっ、ねっとり」が「分かりすぎている」ためにことばにならないのである。「肉体」で「分かっている」ので、ことばにならない。ことばにする必要を感じなかったから、別のことばにしてみようとも思わなかった。だから、ことばにできない。とまどってしまう。
完全に分かっていることは、ことばにならないのだ。
逆に、分かっていないことはことばになる。
--というのは、ちょっと矛盾した言い方だが、繰り返し聞いたり読んだりして「知っている」ことは、その繰り返し聞いたり読んだりした「ことば」をそっくり繰り返せばいいのだから、「分からないこと」もことばにできるのである。たとえば、私が「善人なを……」を「善人が往生できるのだから、悪人はもっと簡単に往生できる」と言ったように。それがどういうことか私は「分からない」。だから、平気で「他人のことば」(聞いたことば、読んだことば)を繰り返すことができる。
「分かっていないこと」は他人のことばを借りて平気で言えるが、「分かっていること」(ふわっ、ざらっ、ねっとり)は言いなおせない。それは、誰も「言いなおしていない」。だから、どうしていいのか分からない。頼ることばがないのだ。
この「分かる」(分かっている)ことというのは、そして、私の「分かる」と、他人の「分かる」が一緒かどうかは、はっきりとは判断できない。河邉が「ふわっ」ということばであらわしたものを、もし私が別のことば(別の知っていることば)で言いなおしたとき、それは河邉の感じていることと同じであるかどうかは、まったくわからない。同じであるという保証はなにもない。それにもかかわらず、私たちは「ふわっ、ざらっ、ねっとり」を「分かる」と思ってしまう。
この問題は、河邉の詩集についてふれたとき、すでに書いたので、繰りかえさないが……。
あることばが「分かる」とは、そのことばを、それとはまったく別の「知っていることば」で言いなおすことができると言うことだ。
(これから書くこと、いままで書いたこともそうかもしれないが、それは私の「独断」がほとんどなので、まあ、適当に読んでください。)
「分かる」というのは、私の感覚では「肉体」で「分かる」。「頭」は「知る」ときにつかう。「分かる」ということは、それぞれの「肉体」のなかでしか起きないので、その「分かる」を他人に伝えるには、どうしても「知っていることば」をつかうしかない。それはなんといえばいいのか、どうしても「分かっている」こととはそっくりにはならない。「知っていることば」というのは、「私」自身のことばではなく、他人から聞いたり、読んだりしたものだからである。だから、一回言いなおしただけでは不十分である。何回も言いなおすことで、少しずつずれてくるもの、重なり合うものが出てくる。その「ずれ」や「重なり」の動きでしか、「分かっている」ことは言い表せないのだ。
書いていることが、ちょっと迷路に入り込んだようだ。
三井のことばに戻る。
三井は「善人なを……」をまず、「価値を作るのは世界を作ることである。」と言い直し、すぐにもう一度「虚構に出会ったのよ」と言いなおしている。そのふたつは同じことを指している。「価値をつくる」というのは「虚構をつくる」ということである。そして、「虚構をつくる」とは「世界」をつくるということである。
そのとき「世界」とは、「ことば」の運動である。
人の一生という世界。それを親鸞は「善人なを……」と言った。そのことばにふれて、三井は、そこには「価値」が書かれていると感じたのだ。悪人がほんとうに善人よりも往生しやすいかどうかではなく、そこには、親鸞の「価値」が書かれていると「分かった」のである。そして、それが「虚構」であると分かったのである。つまり、そこにあるのは「ことばの運動」であると「分かった」のである。
「分かる」というのは、「ことばの運動」を自分でつくりだしてゆけることだ。
「知る」というのは、他人の「ことばの運動」をただ繰り返すだけのことである。
「他人のことばの運動」を「自分のことばの運動」で置き換え、「同じこと」を「違ったことば」で言い表すことができたときが「分かった」と言えるときなのだ。
言いなおすことで「知る」と「分かる」は、平行な関係になる。
このことを三井は、「雀」という詩の中で「わたしにも分かったのです。さまざまなことは異次元ではなく平面での移動なんだというふうにです。」と書いている。「分かる」というのは、「他人のことば」から「自分のことば」への「移動」なのである。しかも、「平面」での「移動」なのである。--私は、三井が「平面」と呼んでいるものを「平行」と呼ぶのだが……。
「分かる」ということは、何かを完全に「自分のことば」でいいなおすこと。
だから、
この3行は「善人なを……」の「三井語」による言い換えである。「価値をつくるのは世界をつくること」の「三井語」による言い換えである。「虚構」の「三井語」による言い換えである。
さらに三井はつづける。
「自分のことば」で何かを言いなおすとき、それは「生まれる」である。「生まれ変わる」のである。「知っている」から「分かる」に生まれ変わるのである。その生まれ変わりは、どうしたって、三井自身の「価値」をつくる(価値をあきらかにする)。その「価値」は「ことば」によってのみ成立する「虚構」である。
三井は、「善人なを……」ということばにふれて、「自分のことば」というものがあるということを発見したのだ。「ことば」に自分をあずけることができると「分かった」のである。「ことば」の中で、三井は生まれる。ことばの中で三井は三井になる。ことばは、三井を抱きしめる。
(1回では書き切れないので、あすも感想の続きを書く--予定。)
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三井葉子『灯色醗酵』を読みながら、「知っている」と「わかる」の違いについて考えた。詩集のタイトルにもなっている「灯色醗酵」。(「醗酵」の「醗」を三井は旧字体で書いているが、私のワープロはその文字をもたない。)
善人なをもちて往生をとぐ。いはんや悪人をや。
このお文章に出会ったのはわたしには大事件であった。どうしたら生き
られるのか分からなかったわたしのむねに、とつぜん灯がついた。
価値を作るのは世界を作ることである。
虚構に出会ったのよ と。小説家のM氏に言うとM氏は
それこそが宗教ナンヤ と言った。M氏は親鸞学者である。
虚構の庭は五色の花びら
水は日射しをたたえ
鯉は笑っている
冒頭の1行「善人なを……」は「歎異抄」の一節である。だれもが知っている(聞いたことがある)1行だと思う。意味も知っている。善人が往生できる。そうであるなら、悪人はもっと往生できる。--知っているけれど、それを私が「わかっている」かどうか、これはあやしい。私はどこかで聞きかじったことを、いま、ここに書き写しているだけである。
その誰もが知っていることば(お文章--と三井は書いている)に出会ったときのことを三井は書いている。そこに「分かる」ということばが出てくる。
どうしたら生きられるのか分からなかったわたしのむねに、とつぜん灯がついた。
これは、「どうしたら生きられるのか分かった」という意味と同じである。「歎異抄」に出会って、「どうしたら生きられるか」、それが「分かった」。「分からなかった」ものが「分かる」ようになった。
その、「分かる」とは、どういうことか。
価値を作るのは世界を作ることである。
虚構に出会ったのよ と。小説家のM氏に言う
ここに「言う」ということばがあるが、この「言う」に私は注目した。
三井は「善人なを……」を言い換えているのである。三井のことばで、「価値を作ることは世界をつくること」と言い換えている。この言い換えは、もちろん、そっくりそのままの「言い換え」ではない。「歎異抄」の「文語(?)」を「口語」に言い換えたのでもない。また「意味」をわかりやすく言いなおしたものでもない。
親鸞の弟子が書き記したものを読み、三井がそのとき感じここと、「分かった」と思ったことを、まったく別のことばで言いなおしたものである。だから、たとえば、「善人なをもちて往生をとぐ。いはんや悪人をや。」の「意味」を書きなさいと「試験問題」がだされたとき、三井が書いているように「価値を作るのは世界を作ることである。」と書いても、○はもらえない。「正解」にはしてもらえない。一般に共有されている「意味」とはまったく違うからである。
違う--ということを、三井も知っているはずである。
知っているけれど、「分かった」と思ったのだ。違ったことばで言いなおすことができた瞬間に、三井には「歎異抄」が「分かった」のである。
このことを、私は、とてもおもしろいと思う。
「分かる」というのは、自分が納得できるということである。自分の「肉体」のなかに、そのことばを入れても不自然なことが起きないということである。
私は「現代詩講座」で河邉由紀恵の『桃の湯』を受講生と一緒に読んだことがある。その詩集のなかに「ふわっ」とか「ざらっ」とか「ねっとり」とかのことばが出てくる。そのことばは全員が知っている。そして、また「分かっている」。けれど、その「分かっている」はずの、「ふわっ、ざらっ、ねっとり」を自分のことばで言いなおしてみて、という具合に質問を投げかけてみると、全員、すぐにはことばにならない。
それは「ふわっ、ざらっ、ねっとり」が「分かりすぎている」ためにことばにならないのである。「肉体」で「分かっている」ので、ことばにならない。ことばにする必要を感じなかったから、別のことばにしてみようとも思わなかった。だから、ことばにできない。とまどってしまう。
完全に分かっていることは、ことばにならないのだ。
逆に、分かっていないことはことばになる。
--というのは、ちょっと矛盾した言い方だが、繰り返し聞いたり読んだりして「知っている」ことは、その繰り返し聞いたり読んだりした「ことば」をそっくり繰り返せばいいのだから、「分からないこと」もことばにできるのである。たとえば、私が「善人なを……」を「善人が往生できるのだから、悪人はもっと簡単に往生できる」と言ったように。それがどういうことか私は「分からない」。だから、平気で「他人のことば」(聞いたことば、読んだことば)を繰り返すことができる。
「分かっていないこと」は他人のことばを借りて平気で言えるが、「分かっていること」(ふわっ、ざらっ、ねっとり)は言いなおせない。それは、誰も「言いなおしていない」。だから、どうしていいのか分からない。頼ることばがないのだ。
この「分かる」(分かっている)ことというのは、そして、私の「分かる」と、他人の「分かる」が一緒かどうかは、はっきりとは判断できない。河邉が「ふわっ」ということばであらわしたものを、もし私が別のことば(別の知っていることば)で言いなおしたとき、それは河邉の感じていることと同じであるかどうかは、まったくわからない。同じであるという保証はなにもない。それにもかかわらず、私たちは「ふわっ、ざらっ、ねっとり」を「分かる」と思ってしまう。
この問題は、河邉の詩集についてふれたとき、すでに書いたので、繰りかえさないが……。
あることばが「分かる」とは、そのことばを、それとはまったく別の「知っていることば」で言いなおすことができると言うことだ。
(これから書くこと、いままで書いたこともそうかもしれないが、それは私の「独断」がほとんどなので、まあ、適当に読んでください。)
「分かる」というのは、私の感覚では「肉体」で「分かる」。「頭」は「知る」ときにつかう。「分かる」ということは、それぞれの「肉体」のなかでしか起きないので、その「分かる」を他人に伝えるには、どうしても「知っていることば」をつかうしかない。それはなんといえばいいのか、どうしても「分かっている」こととはそっくりにはならない。「知っていることば」というのは、「私」自身のことばではなく、他人から聞いたり、読んだりしたものだからである。だから、一回言いなおしただけでは不十分である。何回も言いなおすことで、少しずつずれてくるもの、重なり合うものが出てくる。その「ずれ」や「重なり」の動きでしか、「分かっている」ことは言い表せないのだ。
書いていることが、ちょっと迷路に入り込んだようだ。
三井のことばに戻る。
三井は「善人なを……」をまず、「価値を作るのは世界を作ることである。」と言い直し、すぐにもう一度「虚構に出会ったのよ」と言いなおしている。そのふたつは同じことを指している。「価値をつくる」というのは「虚構をつくる」ということである。そして、「虚構をつくる」とは「世界」をつくるということである。
そのとき「世界」とは、「ことば」の運動である。
人の一生という世界。それを親鸞は「善人なを……」と言った。そのことばにふれて、三井は、そこには「価値」が書かれていると感じたのだ。悪人がほんとうに善人よりも往生しやすいかどうかではなく、そこには、親鸞の「価値」が書かれていると「分かった」のである。そして、それが「虚構」であると分かったのである。つまり、そこにあるのは「ことばの運動」であると「分かった」のである。
「分かる」というのは、「ことばの運動」を自分でつくりだしてゆけることだ。
「知る」というのは、他人の「ことばの運動」をただ繰り返すだけのことである。
「他人のことばの運動」を「自分のことばの運動」で置き換え、「同じこと」を「違ったことば」で言い表すことができたときが「分かった」と言えるときなのだ。
言いなおすことで「知る」と「分かる」は、平行な関係になる。
このことを三井は、「雀」という詩の中で「わたしにも分かったのです。さまざまなことは異次元ではなく平面での移動なんだというふうにです。」と書いている。「分かる」というのは、「他人のことば」から「自分のことば」への「移動」なのである。しかも、「平面」での「移動」なのである。--私は、三井が「平面」と呼んでいるものを「平行」と呼ぶのだが……。
「分かる」ということは、何かを完全に「自分のことば」でいいなおすこと。
だから、
虚構の庭は五色の花びら
水は日射しをたたえ
鯉は笑っている
この3行は「善人なを……」の「三井語」による言い換えである。「価値をつくるのは世界をつくること」の「三井語」による言い換えである。「虚構」の「三井語」による言い換えである。
さらに三井はつづける。
そんならわたしも生きられると十八のわたしは思った。生きられる、ではなく生まれられるとわたしは思った。死に死にて生き生きるいのちである。
「自分のことば」で何かを言いなおすとき、それは「生まれる」である。「生まれ変わる」のである。「知っている」から「分かる」に生まれ変わるのである。その生まれ変わりは、どうしたって、三井自身の「価値」をつくる(価値をあきらかにする)。その「価値」は「ことば」によってのみ成立する「虚構」である。
三井は、「善人なを……」ということばにふれて、「自分のことば」というものがあるということを発見したのだ。「ことば」に自分をあずけることができると「分かった」のである。「ことば」の中で、三井は生まれる。ことばの中で三井は三井になる。ことばは、三井を抱きしめる。
(1回では書き切れないので、あすも感想の続きを書く--予定。)
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