斎藤恵子『海と夜祭』(2)(思潮社、2011年07月31日発行)
「往来」という作品は、同人誌で読んだとき感想を書いた。きょう書くことは、そのとき書いたこととまったく違ったことになるかもしれない。あるいは、違ったことを書こうとしても、まったく同じになるかもしれない。書いてみないとわからない。
1連目。
この6行には、私に「わからないことば」がある。「憤怒」である。「意味」はもちろん知っている。憤って、怒っている。けれど、そのことばは私の「肉体」のなかへは入って来ない。「頭」のはしっこをかすめて消えていく。
一方、「すずめの胸のしろさ」は、「知らないことば」である。あれっ、すずめの胸って白かったかな? 思い出せない。そのくせ「わかる」のである。小さなすずめの「腹」(私は、腹がしろだったという印象がある)、そのすずめを裏返して見たときの手に残っている感触(ふわふわ、生暖かくて、ひねり潰せそうなよわよわしい頼りなさ)が、「あ、しろ、に違いない」と思い起こさせるのだ。
私の記憶は間違っているかもしれない。しかし、間違っていたとしても、その「肉体」に残る何かが、私をぐいとひっぱる。
私の「記憶(知識)」は「すずめの色」と合致しないかもしれない。しかし、「わかる」のである。「わかる」とき、それが「正しい」かどうかはどうでもいいのだ。
いや、これは変な言い方だし、「すずめの胸のしろさ」ということばを書いた斎藤には申し訳ないことなのだが、私が「わかる」のは「しろさ」そのものではなく、その「しろさ」と一緒にあるもの、「しろさ」ということばでは表現されなかった「肉体」の記憶、「肉体」が知っている何かなのだ。書かれていない何かを「共有」したと感じたとき、私は「わかった」と思うのである。
別のことばでいうと、ある夕暮れ、何か矛盾した感じ、弱々しさと暴力と、その両方の誘惑が混じり合う一瞬、「すずめの胸のしろさ」ということばを「つかう」ことで納得できると思うのである。「つかえる」と感じたとき「わかった」と思うのである。「わかっている」ことはきっと「つかえる」ことなのだ。
「憤怒」は、たぶん「憤り、怒り」という「意味の範囲」でしかつかえない。「知っている意味」(辞書で読んだ意味)の「範囲」でしか「つかえない」。だから、「わかる」という感じにはならない。
「ゆき先がわからなくても走る」の「わからなくても」が「わかる」。「わかる」と勝手に思い込む。「わからなくても」を私のことばで言いなおすとどうなるか。すぐには、思いつかない。何も思わなくても、「肉体」のなかで「動く」何かを感じてしまう。「肉体」が「わかってしまう」のである。「頭」ではなくて……。
この「わかる」の印象は、3連目でもっと強烈にわきあがる。
「あらあら手がよごれるよ」が痛烈に「わかる」のである。そのことばを言ったひとの「批判」よりも、そういう「声」を聞いた瞬間の、はずかしさのようなものが。
この「はずかしさ」を私なりにことばにしてみると……。
枯れた百合、褐色になったつぼみ、黒ずんだ茎を手折ったとき、「わたし(斎藤/谷内--このとき、私は斎藤になって、そのことばを聞いている)」は、「枯れた」も「褐色」も「黒ずんだ」も見ていない。実際には、それは枯れて、褐色になり、黒ずんでいるが、その「向こう側」に、つややかに咲いて匂っている百合がある。その百合が見えている。存在しないはずの、不思議にあやしい何か。「肉体」は、その「不思議な色」を見ていて、それが「よごれた花」だということを忘れてしまっている。
その「忘れてしまっていたこと」を「あらあら手がよごれるよ」ということばが呼び覚ますのである。
それは、いけない遊びを見つかってしまったような「はずかしさ」である。
その「はずかしさ」のなかで、つややかだった百合が一瞬の内にかき消える。ただし、消えるといっても、燃え上がって消える感じなのだが。そして、ふいに、枯れた、褐色、黒ずむ--という「現実」がもどってくる。
このときの「美」から「醜」への急激な転換--それを斎藤は4連目で言いなおしているが、それがまた「わかる」。実に、よく「わかる」。わかりすぎて、「私は女?」という疑問に襲われさえするのである。
「美しいでしょ」は盛りを過ぎてしまった百合の「声」である。その「声」を聞いてしまう斎藤の「肉体」が「わかる」。「声」のなかにある「見捨てられた」が、「わかる」。腕の中で「ぬるみ」の、その「ぬるみ」が「わかる」。哀れさが「わかる」。さらに、ねばねばと光る芯のしべの「ねばねば」の醜さ、しつこさが「わかる」。それが腕の中でいっそう大きくひらいたの「いっそう」のあがきのようなものが「わかる」のである。
困ったなあ、と思う。こんなこと「わかりたくないなあ」と思う。
いや、私が「わかった」ことはほんとうはとんでもない勘違いで、私のいつもの「誤読」であったとしても、そんなふうに「誤読」してしまうときの、私自身の感じが、こまったなあ、なのである。
この4連目にはつづきがある。
「路わきの枯れた百合」はウインドウ越しにみた百合の、「将来像」かもしれない。ウインドウ越しに、斎藤は、自分の「過去」と「いま」と「未来」を見たのである。
「美しいでしょ」というとき、その「美しさ」はすでに「過去」のなかに半分沈んでいる。「手がよごれるよ(汚いよ)」が顔をのぞかせはじめている。
知っている。でも、わかりたくない。そのわかりたくないが、わかる。
「わからなくても走る」は「頭」は「わからなくても」、「肉体」は「わかっている」から、走るなのかもしれない。
5連目。
「わたし(斎藤)」は「百合」を手折ったのではなく、またショウウインドウのなかに百合があるのではなく、たまたま「わたし」が百合の色の服を着ていて、その姿をウインドウに映してみた--ということかもしれない。カンナやヒマワリの色の服を着ているのは、現実の女たちかもしれないし、過去と未来の斎藤かもしれない。
5連目で、斎藤は詩の構造(ことばの運動)の「種明かし」をしているかもしれない。 --うーん。
これは、私には、ちょっとつまらない。
「わかった」と思ったことが「知識(?)」に置き換えられたような感じ。整理されすぎて、味気がなくなっている。「誤読」する楽しみが急に減らされた感じがする。
詩に「意味」や「正解(こう読むのが正しい--作者の書いているのはこうであると特定すること)」は必要ではないと思う。詩人は、「意味」や「正解」への「道筋」を用意してはいけないのかもしれない。
「誤読」されるにまかせなければならないのだ。
「誤読」に「誤読」を重ね、読者が(谷内が)「私はこの詩のここが大好きなんです」と言うのを、少し微笑んで「あら、そうなの」と答えさえすればいいのである。後ろをむいて「あっかんべー」をしながら、「まあ、ばかなやつ、すけべなことしか考えられないし、女を馬鹿にしているわねえ」と言っていればいいのである。
すぐれた詩は、どんな「誤読」をも超えて、そこに存在するのだから。
「往来」という作品は、同人誌で読んだとき感想を書いた。きょう書くことは、そのとき書いたこととまったく違ったことになるかもしれない。あるいは、違ったことを書こうとしても、まったく同じになるかもしれない。書いてみないとわからない。
1連目。
日暮れる空の下
すずめの胸のしろさになった往来を歩く
夕陽が大きなかおになっている
怖ろしい憤怒の光るかお
わたしは走り出す
ゆき先がわからなくても走る
この6行には、私に「わからないことば」がある。「憤怒」である。「意味」はもちろん知っている。憤って、怒っている。けれど、そのことばは私の「肉体」のなかへは入って来ない。「頭」のはしっこをかすめて消えていく。
一方、「すずめの胸のしろさ」は、「知らないことば」である。あれっ、すずめの胸って白かったかな? 思い出せない。そのくせ「わかる」のである。小さなすずめの「腹」(私は、腹がしろだったという印象がある)、そのすずめを裏返して見たときの手に残っている感触(ふわふわ、生暖かくて、ひねり潰せそうなよわよわしい頼りなさ)が、「あ、しろ、に違いない」と思い起こさせるのだ。
私の記憶は間違っているかもしれない。しかし、間違っていたとしても、その「肉体」に残る何かが、私をぐいとひっぱる。
私の「記憶(知識)」は「すずめの色」と合致しないかもしれない。しかし、「わかる」のである。「わかる」とき、それが「正しい」かどうかはどうでもいいのだ。
いや、これは変な言い方だし、「すずめの胸のしろさ」ということばを書いた斎藤には申し訳ないことなのだが、私が「わかる」のは「しろさ」そのものではなく、その「しろさ」と一緒にあるもの、「しろさ」ということばでは表現されなかった「肉体」の記憶、「肉体」が知っている何かなのだ。書かれていない何かを「共有」したと感じたとき、私は「わかった」と思うのである。
別のことばでいうと、ある夕暮れ、何か矛盾した感じ、弱々しさと暴力と、その両方の誘惑が混じり合う一瞬、「すずめの胸のしろさ」ということばを「つかう」ことで納得できると思うのである。「つかえる」と感じたとき「わかった」と思うのである。「わかっている」ことはきっと「つかえる」ことなのだ。
「憤怒」は、たぶん「憤り、怒り」という「意味の範囲」でしかつかえない。「知っている意味」(辞書で読んだ意味)の「範囲」でしか「つかえない」。だから、「わかる」という感じにはならない。
「ゆき先がわからなくても走る」の「わからなくても」が「わかる」。「わかる」と勝手に思い込む。「わからなくても」を私のことばで言いなおすとどうなるか。すぐには、思いつかない。何も思わなくても、「肉体」のなかで「動く」何かを感じてしまう。「肉体」が「わかってしまう」のである。「頭」ではなくて……。
この「わかる」の印象は、3連目でもっと強烈にわきあがる。
路のわきに枯れた百合
褐色になったつぼみがうなだれていた
わたしは黒ずむ茎を手折った
あらあら手がよごれるよ
通りがかりのひとの声
色彩が消えてゆく
「あらあら手がよごれるよ」が痛烈に「わかる」のである。そのことばを言ったひとの「批判」よりも、そういう「声」を聞いた瞬間の、はずかしさのようなものが。
この「はずかしさ」を私なりにことばにしてみると……。
枯れた百合、褐色になったつぼみ、黒ずんだ茎を手折ったとき、「わたし(斎藤/谷内--このとき、私は斎藤になって、そのことばを聞いている)」は、「枯れた」も「褐色」も「黒ずんだ」も見ていない。実際には、それは枯れて、褐色になり、黒ずんでいるが、その「向こう側」に、つややかに咲いて匂っている百合がある。その百合が見えている。存在しないはずの、不思議にあやしい何か。「肉体」は、その「不思議な色」を見ていて、それが「よごれた花」だということを忘れてしまっている。
その「忘れてしまっていたこと」を「あらあら手がよごれるよ」ということばが呼び覚ますのである。
それは、いけない遊びを見つかってしまったような「はずかしさ」である。
その「はずかしさ」のなかで、つややかだった百合が一瞬の内にかき消える。ただし、消えるといっても、燃え上がって消える感じなのだが。そして、ふいに、枯れた、褐色、黒ずむ--という「現実」がもどってくる。
このときの「美」から「醜」への急激な転換--それを斎藤は4連目で言いなおしているが、それがまた「わかる」。実に、よく「わかる」。わかりすぎて、「私は女?」という疑問に襲われさえするのである。
細い茎は腕の中でぬるみ
ぶちの赤い花弁をひろげた
美しいでしょ
見捨てられたものの声
腕の中でいっそう大きくひらいた
ねばねばと光る芯のしべ
「美しいでしょ」は盛りを過ぎてしまった百合の「声」である。その「声」を聞いてしまう斎藤の「肉体」が「わかる」。「声」のなかにある「見捨てられた」が、「わかる」。腕の中で「ぬるみ」の、その「ぬるみ」が「わかる」。哀れさが「わかる」。さらに、ねばねばと光る芯のしべの「ねばねば」の醜さ、しつこさが「わかる」。それが腕の中でいっそう大きくひらいたの「いっそう」のあがきのようなものが「わかる」のである。
困ったなあ、と思う。こんなこと「わかりたくないなあ」と思う。
いや、私が「わかった」ことはほんとうはとんでもない勘違いで、私のいつもの「誤読」であったとしても、そんなふうに「誤読」してしまうときの、私自身の感じが、こまったなあ、なのである。
この4連目にはつづきがある。
花を抱いた姿をショウウインドウに映す
じぶんのかおばかりが見え
やがて
ぼやけて花弁ばかりになり
百合はショウウインドウの飾花になっていた
「路わきの枯れた百合」はウインドウ越しにみた百合の、「将来像」かもしれない。ウインドウ越しに、斎藤は、自分の「過去」と「いま」と「未来」を見たのである。
「美しいでしょ」というとき、その「美しさ」はすでに「過去」のなかに半分沈んでいる。「手がよごれるよ(汚いよ)」が顔をのぞかせはじめている。
知っている。でも、わかりたくない。そのわかりたくないが、わかる。
「わからなくても走る」は「頭」は「わからなくても」、「肉体」は「わかっている」から、走るなのかもしれない。
5連目。
暗くなり前にも後ろにもひとが多くなった
ゆるくこぶしを重ねて手の望遠鏡を作る
カンナやヒマワリの色の服をきたひとがいる
ざわめきが高くなる
わたしは道なりに歩いてみる
夜祭があるのかもしれない
「わたし(斎藤)」は「百合」を手折ったのではなく、またショウウインドウのなかに百合があるのではなく、たまたま「わたし」が百合の色の服を着ていて、その姿をウインドウに映してみた--ということかもしれない。カンナやヒマワリの色の服を着ているのは、現実の女たちかもしれないし、過去と未来の斎藤かもしれない。
5連目で、斎藤は詩の構造(ことばの運動)の「種明かし」をしているかもしれない。 --うーん。
これは、私には、ちょっとつまらない。
「わかった」と思ったことが「知識(?)」に置き換えられたような感じ。整理されすぎて、味気がなくなっている。「誤読」する楽しみが急に減らされた感じがする。
詩に「意味」や「正解(こう読むのが正しい--作者の書いているのはこうであると特定すること)」は必要ではないと思う。詩人は、「意味」や「正解」への「道筋」を用意してはいけないのかもしれない。
「誤読」されるにまかせなければならないのだ。
「誤読」に「誤読」を重ね、読者が(谷内が)「私はこの詩のここが大好きなんです」と言うのを、少し微笑んで「あら、そうなの」と答えさえすればいいのである。後ろをむいて「あっかんべー」をしながら、「まあ、ばかなやつ、すけべなことしか考えられないし、女を馬鹿にしているわねえ」と言っていればいいのである。
すぐれた詩は、どんな「誤読」をも超えて、そこに存在するのだから。
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