詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

弓田弓子「ほそい闇」

2011-08-12 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
弓田弓子「ほそい闇」(「ゆんで」3、2011年07月発行)

 弓田弓子「ほそい闇」は埴輪の印象を書くことから始まる。

その埴輪と対面していると
こころがざわめく
目の位置にある左右の
ほそい闇
まっすぐな鼻筋
その下のかすかな横線
唇だが
いつでも
喋っている
だれから受け継いだのか
早口である
訛りがある
口の中も闇
闇にむかい
いくつかのことばを
こちらから押しこむ
右の目がやや大きい
唇の線はほほえみ
左の目がたれて
闇がいどうする
彼女のいしだ
ためいきがもれてくる
首飾りがずれる

 ことばの変化--対象との距離の変化がおもしろい。
 「目の位置にある左右の/ほそい闇」というとき、弓田はまだそれを「目」とは認めていない。けれど、「目」ということばを書いた瞬間から、「鼻」があられわて、「唇」があるわれる。鼻の位置にあるもの、唇の位置にあるもの--ではなく、鼻筋、唇と意識が動いていく。
 弓田は埴輪の中にある「闇」について書いているのだが、それはそのまま「認識の闇」を思わせる。--ちょっとことばが暴走しすぎた。「認識の闇」と私が書いたのは、ひとが何かを認識するときに手さぐりでくぐりぬける不明領域のことである。(あ、ますますことばが暴走したかもしれない。)
 埴輪がある。埴輪には目がある。鼻がある。口がある。--のではなく、「目の位置」に孔が穿たれている。「鼻の位置」には隆起がある。「口の位置」にはまた孔がある。それを見て、私たちは目、鼻、口(唇)と呼ぶが、これはほんとうか。もしかすると違ったものかもしれないのに、私たちはやすやすとそれを目、鼻、口と判断してしまう。
 私たちの「目の記憶・目の認識する力」が土の像でしかないもの、その孔や突起を、私たちが「いま」知っているものと結びつけ、埴輪の各部位に「名前」をつけるのだ。そのときの、知っているものを呼び出し、各部位に名前をつけるという行為のあいだにある「認識の闇」--それがあるから、たぶん名付ける、埴輪の各部位を目、鼻、口と呼ぶことができるのだ。もし、私たちの「認識(記憶)」と「もの」のあいだに「闇」がなかったら、ものに名前はいらない。
 動物のように、じかに「もの」と接することができる。

 土の像の各部位に、目、鼻、口と「名前」をつけてゆくこと--ことばを結びつけ特定してゆくこと。
 その行為が、「闇」を不思議な形で歪ませていく。

だれから受け継いだのか
早口である
訛りがある
口の中も闇
闇にむかい
いくつかのことばを
こちらから押しこむ

 各部位に名前をつけるだけではなく、その闇に「歴史」を持ち込む。時間を持ち込む。たとえば口。弓田が書いているのは口だが、人間の口というのはことばを発するものである。話すとき、そこには、そのひとの「過去」があふれてくる。習慣としての早口。その土地の訛り--というのは「事実」にみえて「事実」ではない。それは、そう弓田が考えただけである。そして、その考えを弓田が埴輪の「闇」に、「こちら(弓田)」から「押しこんだ(押しつけた)」ものである。
 「目の位置にある」ものを「目」と呼び、鼻の位置にあるものを「鼻」と呼び、口の位置にあるものを「口」と呼び、そのまわりを「唇」と呼ぶのも同じである。それはすべて弓田が押し付けたものである。
 埴輪と弓田のあいだにある「間」--その見えない「闇」をわたって弓田はことばをおしつける。
 そうすると、そのことばを「埴輪」が生きはじめる。弓田のことばによって、動かないはずの埴輪が動く。

右の目がやや大きい
唇の線はほほえみ
左の目がたれて
闇がいどうする
彼女のいしだ

 これは、弓田のことばが動いているのであって、埴輪が動いているのではない。いや、そうではなくて、弓田の意識のなかで、弓田は埴輪になって動いている。埴輪と弓田が「ひとつ」になり、動く。埴輪と弓田が「ひとつ」になる--というのは現実にはありえない。埴輪と弓田は「離れている」。けれど、その離れた距離のなかにある「見えない闇」をことばがわたるとき、その闇を手さぐりでわたることばのなかで「ひとつ」になる。
 これは、大げさに言えば、セックスである。セックスは、もちろん楽しむためのものであるかもしれないが、同時に「何もの」かを生み出してしまう危険(?)を孕んだ行為でもある。
 で。
 弓田の場合、その「何もの」、あるいは「変なもの」が、やっぱり生まれ。産んでしまう。

 闇が「いどうする」、彼女の「いし」だ。

 「いどう」は移動、「いし」は意思(意志)。漢字で書けるはずのことばが「ひらがな」の形で書かれている。その「ひらがな」のなかに、「何もの」かがある。「変なもの」がある。弓田だけが感じた「何か」がある。
 だから「こころがざわめく」。
 「わかる」のに、「ことば」にならない。感じていることを語るには、どんなことばが正しいのか、弓田は知らない。
 だから、少しずつことばを動かしていく。
 この、ゆっくりしたていねいな動きが、「いどう」「いし」ということばのなかで結晶する。結晶している。



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