小島きみ子『その人の唇を襲った火は』(2)(洪水企画、2011年06月15日発行)
小島きみ子の「ような」を繰り返すことで、「世界の内部」を追うことばを追っていたはずだが、「守護神パラスアテナ」の、きのうのつづき。
「息が切れてきた。」に私はびっくりしてしまった。森鴎外の文体のように、そこだけが「すぱっ」と切れている。「主語」は「私」なのだろうけれど、なぜ、ここで急に「私」という「主語」があらわれるのか。(きのう引用はしなかったが、「屋上に行ってLucifer を見るつもりだった。」という文があるので、「息が切れてきた。」というのは、屋上までのぼることで「私」の「息が切れてきた」ということはわかるのだが……。)
きっと、「ような」ということばが省略されているように、「私」という「主語」がいつも省略されるというのも、小島のことばの運動の特徴なのだと思う。
だから、(と、私は、強引に考えるのである。)
「パラノイアは狂気かもしれない。」--この文の「主語」は「パラノイア」ではない。この文は、「私は、パラノイアは狂気かもしれない、と考える(思う)。」である。さらに言いなおすと、「私は、パラノイアは狂気のようなものかもしれない、と考える。」である。
「けれども、スキゾフレニーは狂気ではない。」は「けれども、私は、スキゾフレニーは狂気のようなものではない、と考える。」である。
「「人間」から「人間」への自由な交わりをする際の、新たな「世界内のあり方」なのだから。」は「私は、スキゾフレニーは、「人間」から「人間」への自由な交わりのようなことををする際の、新たな「世界内のあり方」のようなものだ、と考えている。」になる。
なんだか、よくわからない? 混乱しそう?
あ、私が混乱しているのかもしれないが--混乱ついでに、さらに強引に言ってしまえば、こんなふうにして「主語」の「私」と「ような」を文章のなかに組み込んでみると、小島の言っている「世界」というものが、「私」の「考え」そのものに見えてくる。
小島は、彼女自身の「考え」の「内部」を「ような」を繰り返すことで掘り返していくのである。「私」の「内部」には「ような」が重なり合っている。
その「ような」の重なりを、一つずつ「引き剥がす」(掘り進む)というのは、こういうことを書くときにどうしても生じてしまう「矛盾」なのだが、それは「内」へ掘り進むと同時に、「外」へ突き進むこと(高みへのぼること)とどこかで重なるのだ。
内へ掘り進めば外へ出てしまう。深みへ深みへと掘り進めば高みへ出てしまう。「内部」と「外部」は緊密につながっていて、人間はそのつながり(自由な交際、自由な交わり)を、通過するのである--と、ここで、小島のことばを復讐しておこう。
--こんな「読み方」をしていたら、いつまでたっても、小島の詩集を読み終えることができない。そして、こうした「読み方」は完全に間違っているとも思う。「誤読」することが大好きな私が「読み方が間違っている」と自分で言ってしまうのも変だけれど、間違っているのだ。
この短いことばには、他の側面がある。私はその短いことばに「私」という「主語」が省略されていると書いた。そして、どの文章にも「私」という「主語」を補うことができるし、「私」を補うとき、「ような……と考えている」ということばも補うことができると読んできた。
それはそうなのかもしれないが(と、私は私の考えを「ひとごと」のように書いてしまうが……)、もしそうだとすると、小島の書いていることばは、また逆の「可能性」を秘めていることになりはしないか。つまり「私」を「主語」とする「文」から、そこに書かれたものが「独立」して、かってに動いていくということがありうるのではないのか。
「私」の「考え(のような……と思うこと)」なのに、いったん「考え」が「ことば」になってしまうと、その「ことば」が「私」を裏切って「主語」になって運動してしまう。そういうことが起きうるのではないのか。
ここでは「主語」は何だろう。「動詞」(述語)を欠いたまま、あらゆる「意識」のなかに浮かんでくるものが「主語」になろうとしている。互いの「述語」を否定して、「主語」であることを競っている。「私」という「主語」は、もう「物語」のなかの「主語」を制御できない。
「暗灰色の眼」は「だれの眼」か。ユピテル、か。だが、ユピテルは「比喩」である。「比喩」が「すべて」をのっとる--と考えれば、また最初の「ように」にことばはもどっていく。だが、小島は、その運動を断ち切って(つまり、「だれの眼」か、という「主語」佐賀市を拒絶して)、「眼」を「主語」にしてしまう。そして、
よくよく考えて読まないとわからないことばへと疾走する。
何、これ? これ、何? どういう意味?
スキゾフレニーの眼は、眼によって眼を破砕する。そういう(そのような?)スキゾフレニーの眼を「意思的に」獲得する。
でも、「……ことだ」とは「何が」「……ことだ」なのか。
わからない。
でも、
を、重ね合わせると、どうなるか。
「「人間」から「人間」への自由な交わりをする」ということばと、「眼によって眼を破砕する」とは同じことなのではないのか。「自由な交わり」とは「人間」によって「人間」を破砕する」こと。「眼によって眼を破砕する」とは「眼から眼へ自由な交わりをすること、自由に交際(交代)すること」。
「私」は「私」であって、「私」ではない。
この詩には「私」と「K」が出て来るが、「私」は「私」であって「私」ではないとき、「私」は「K」である。それは「私」は「私のように」ではなく、「Kのように」考える。つまり「K」を「主語」として「考える」ということになるかもしれない。
あらゆる「主語」が「主語」であって、「主語」ではないのだ。もし「主語」というもを「ことば」を動かす「エネルギー」の「主体」と考えるなら--「ように」ということばのあり方そものが「主語」なのかもしれない。
「ように」ということばをとおして、あらゆる「主語」が自由な交わりを通過し、そうすることで「主語」を互いに破壊し、あらゆる「主語」を成り立たせている「世界」の「内」の混沌へと導く--その混沌のなかに、小島は「詩」を見ているということになるのかもしれない。
小島きみ子の「ような」を繰り返すことで、「世界の内部」を追うことばを追っていたはずだが、「守護神パラスアテナ」の、きのうのつづき。
パラノイアは狂気かもしれない。けれども、スキゾフレニーは狂気ではない。「人間」から「人間」への自由な交わりをする際の、新たな「世界内のあり方」なのだから。息が切れてきた。屋上に出ると、森の上をゆるく白い水蒸気が流れて行く。また、髪が濡れてくる。雨粒に変身したユピテルのように。
「息が切れてきた。」に私はびっくりしてしまった。森鴎外の文体のように、そこだけが「すぱっ」と切れている。「主語」は「私」なのだろうけれど、なぜ、ここで急に「私」という「主語」があらわれるのか。(きのう引用はしなかったが、「屋上に行ってLucifer を見るつもりだった。」という文があるので、「息が切れてきた。」というのは、屋上までのぼることで「私」の「息が切れてきた」ということはわかるのだが……。)
きっと、「ような」ということばが省略されているように、「私」という「主語」がいつも省略されるというのも、小島のことばの運動の特徴なのだと思う。
だから、(と、私は、強引に考えるのである。)
「パラノイアは狂気かもしれない。」--この文の「主語」は「パラノイア」ではない。この文は、「私は、パラノイアは狂気かもしれない、と考える(思う)。」である。さらに言いなおすと、「私は、パラノイアは狂気のようなものかもしれない、と考える。」である。
「けれども、スキゾフレニーは狂気ではない。」は「けれども、私は、スキゾフレニーは狂気のようなものではない、と考える。」である。
「「人間」から「人間」への自由な交わりをする際の、新たな「世界内のあり方」なのだから。」は「私は、スキゾフレニーは、「人間」から「人間」への自由な交わりのようなことををする際の、新たな「世界内のあり方」のようなものだ、と考えている。」になる。
なんだか、よくわからない? 混乱しそう?
あ、私が混乱しているのかもしれないが--混乱ついでに、さらに強引に言ってしまえば、こんなふうにして「主語」の「私」と「ような」を文章のなかに組み込んでみると、小島の言っている「世界」というものが、「私」の「考え」そのものに見えてくる。
小島は、彼女自身の「考え」の「内部」を「ような」を繰り返すことで掘り返していくのである。「私」の「内部」には「ような」が重なり合っている。
その「ような」の重なりを、一つずつ「引き剥がす」(掘り進む)というのは、こういうことを書くときにどうしても生じてしまう「矛盾」なのだが、それは「内」へ掘り進むと同時に、「外」へ突き進むこと(高みへのぼること)とどこかで重なるのだ。
内へ掘り進めば外へ出てしまう。深みへ深みへと掘り進めば高みへ出てしまう。「内部」と「外部」は緊密につながっていて、人間はそのつながり(自由な交際、自由な交わり)を、通過するのである--と、ここで、小島のことばを復讐しておこう。
--こんな「読み方」をしていたら、いつまでたっても、小島の詩集を読み終えることができない。そして、こうした「読み方」は完全に間違っているとも思う。「誤読」することが大好きな私が「読み方が間違っている」と自分で言ってしまうのも変だけれど、間違っているのだ。
息が切れてきた。
この短いことばには、他の側面がある。私はその短いことばに「私」という「主語」が省略されていると書いた。そして、どの文章にも「私」という「主語」を補うことができるし、「私」を補うとき、「ような……と考えている」ということばも補うことができると読んできた。
それはそうなのかもしれないが(と、私は私の考えを「ひとごと」のように書いてしまうが……)、もしそうだとすると、小島の書いていることばは、また逆の「可能性」を秘めていることになりはしないか。つまり「私」を「主語」とする「文」から、そこに書かれたものが「独立」して、かってに動いていくということがありうるのではないのか。
「私」の「考え(のような……と思うこと)」なのに、いったん「考え」が「ことば」になってしまうと、その「ことば」が「私」を裏切って「主語」になって運動してしまう。そういうことが起きうるのではないのか。
また、髪が濡れてくる。雨粒に変身したユピテルのように。黄金の雨粒となって彼女を奪うもの。その子が森の王を殺すとも。
ここでは「主語」は何だろう。「動詞」(述語)を欠いたまま、あらゆる「意識」のなかに浮かんでくるものが「主語」になろうとしている。互いの「述語」を否定して、「主語」であることを競っている。「私」という「主語」は、もう「物語」のなかの「主語」を制御できない。
また、髪が濡れてくる。雨粒に変身したユピテルのように。黄金の雨粒となって彼女を奪うもの。その子が森の王を殺すとも。山の端から雲が湧いてきた。暗灰色の眼だ。眼によって眼を破砕するスキゾフレニーの眼を意思的に獲得することだ。遠くからくぐもったKの声が聴こえてきた。
「暗灰色の眼」は「だれの眼」か。ユピテル、か。だが、ユピテルは「比喩」である。「比喩」が「すべて」をのっとる--と考えれば、また最初の「ように」にことばはもどっていく。だが、小島は、その運動を断ち切って(つまり、「だれの眼」か、という「主語」佐賀市を拒絶して)、「眼」を「主語」にしてしまう。そして、
眼によって眼を破砕するスキゾフレニーの眼を意思的に獲得することだ。
よくよく考えて読まないとわからないことばへと疾走する。
何、これ? これ、何? どういう意味?
スキゾフレニーの眼は、眼によって眼を破砕する。そういう(そのような?)スキゾフレニーの眼を「意思的に」獲得する。
でも、「……ことだ」とは「何が」「……ことだ」なのか。
わからない。
でも、
スキゾフレニーは狂気ではない。「人間」から「人間」への自由な交わりをする際の、新たな「世界内のあり方」なのだから。
を、重ね合わせると、どうなるか。
「「人間」から「人間」への自由な交わりをする」ということばと、「眼によって眼を破砕する」とは同じことなのではないのか。「自由な交わり」とは「人間」によって「人間」を破砕する」こと。「眼によって眼を破砕する」とは「眼から眼へ自由な交わりをすること、自由に交際(交代)すること」。
「私」は「私」であって、「私」ではない。
この詩には「私」と「K」が出て来るが、「私」は「私」であって「私」ではないとき、「私」は「K」である。それは「私」は「私のように」ではなく、「Kのように」考える。つまり「K」を「主語」として「考える」ということになるかもしれない。
あらゆる「主語」が「主語」であって、「主語」ではないのだ。もし「主語」というもを「ことば」を動かす「エネルギー」の「主体」と考えるなら--「ように」ということばのあり方そものが「主語」なのかもしれない。
「ように」ということばをとおして、あらゆる「主語」が自由な交わりを通過し、そうすることで「主語」を互いに破壊し、あらゆる「主語」を成り立たせている「世界」の「内」の混沌へと導く--その混沌のなかに、小島は「詩」を見ているということになるのかもしれない。