小島きみ子『その人の唇を襲った火は』(洪水企画、2011年06月15日発行)
小島きみ子『その人の唇を襲った火は』は、1篇の詩のなかにいくつもの「物語」があるように思える。その「複数」の関係が、私には、よくわからない。
「JESUS LOVES ME」という詩は9の部分から構成されている。その最初の部分は「守護神パラスアテナ」の書き出し。
ここには
(1)花粉症--それはイギリスで十九世紀に発見された
(2)花粉症が治まった--そのとき雨が降り始めた
(3)雨が降り始めて以来、髪が濡れているような……
と、書かれている「物語」を整理していこうとして、私は、ここでもうつまずいてしまう。
「……ような」って、何?
「比喩」なのかな?
その直後に、「まるで」ということばがつづく。「まるで」は、次の「……ような」へとつづくのだが、そのことばは単純にはうしろ(?)へはつながらず、「まるでそれは」ということばによって、強引に(?)、前へ引き戻される。
でも、「それは」って何?
「まるでそれは」の前にも「それからずっと」と「それ」ということばが出てくる。この「それ」はたぶん「雨が降り始めた(こと)」だろう。「雨が降り始めてからずっと」と言い換えることができる。
でも、「まるでそれは」の「それ」って何?
「髪が一日中濡れているような」の「ような」そのものを指しているように思える。
「比喩」ではなく、「比喩」をつくりだすことばの運動。
「一日中濡れている髪」という「もの」が「それ」ならば、「比喩」だが、その「比喩」をつくりだす(ささえる?)、「ような」ということば。
「比喩」というよりも、「比喩をつくりだすことば(ことばの運動)」そのもののなかへ、小島は入っていこうとしているように思える。
髪が一日中濡れている「ような」の「ような」、「建設中の都市全体が、神話のなかの精霊に征服されたような」の「ような」と重なる。同じ「運動」によって、強く結びつく。そして、その瞬間、そこに、「髪が一日中濡れている」という「物語」と、「都市全体が、神話の中の精霊に征服された」という「物語」が出会う。重なり合う。
「花粉症が治まった」ということばを読んだときは、そこに「私」という「物語」があると思ってしまったが、「私」の「物語」は「髪が一日中濡れている」という「物語」ではなく、あくまでも「髪が一日中濡れているような」という「ような」の「物語」へずれてゆく。さらに、「ような」をもとめて「建設中の都市全体が、神話のなかの精霊に征服された/ような」という「物語」へずれていく。
何、これ。
私が見ているものは(読んだものは)、次の部分に「ような」を補うとわかりやすくなるはずだ。
「まるでそれは」、「ような」「ような」「ような」「ような」の連続である。これを小島は、少し先で、
と呼んでいるが、それにしたって、「変容しつづける/ような/情熱の/ような/ファンダジー」という幻想の「ようだ」。
冒頭の「花粉症が治まった途端に」も「断定」ではなく、ほんとうは「治まった/ような」その瞬間に、「雨が降りはじめ/た/ような」かもしれない。
あらゆることばとことばのあいだに「ような」が入り込み、それが「物語」を次々に生み出しているのである。
そう思って読むと、次の部分が刺激的だ。
「人間」を「物語」と置き換えるとどうなるか。
「ような」は「物語」から「物語」への自由な交わり(飛躍?)をする際の、「世界内」の「通路」である。「ような」を繰り返すことは、「世界内」へ入り込み、「世界」を「内部」からとらえなおすことである。
「比喩」というのは、「いま/ここ」にないものを手がかかりに「いま/ここ」を考える手段だが、そのとき、小島の「比喩」(ような、の運動)は、「いま/ここ」から外部へと動いていくのではなく、また「外部」を「いま/ここ」へ取り込むのでもなく、ただ「いま/ここ」の「内部」を耕すのである。
「世界内のあり方」と小島は書いている。わざわざカギ括弧でくくっている。そのことばのなかの「内」への旅、それも「ような」を繰り返す旅--というようなことを私は思うのだが……。
(あすの「日記」につづく。)
小島きみ子『その人の唇を襲った火は』は、1篇の詩のなかにいくつもの「物語」があるように思える。その「複数」の関係が、私には、よくわからない。
「JESUS LOVES ME」という詩は9の部分から構成されている。その最初の部分は「守護神パラスアテナ」の書き出し。
十九世紀末にイギリスで、枯れ草熱(hay ferver)として発見された花粉症が治まった途端に、雨が降り始め、それからずっと、髪が一日中濡れているような、まるでそれは、建設中の都市全体が、神話のなかの精霊に征服されたような、濡れた夢に覆い隠された、エクスタティックな日々だった。
ここには
(1)花粉症--それはイギリスで十九世紀に発見された
(2)花粉症が治まった--そのとき雨が降り始めた
(3)雨が降り始めて以来、髪が濡れているような……
と、書かれている「物語」を整理していこうとして、私は、ここでもうつまずいてしまう。
「……ような」って、何?
「比喩」なのかな?
その直後に、「まるで」ということばがつづく。「まるで」は、次の「……ような」へとつづくのだが、そのことばは単純にはうしろ(?)へはつながらず、「まるでそれは」ということばによって、強引に(?)、前へ引き戻される。
でも、「それは」って何?
「まるでそれは」の前にも「それからずっと」と「それ」ということばが出てくる。この「それ」はたぶん「雨が降り始めた(こと)」だろう。「雨が降り始めてからずっと」と言い換えることができる。
でも、「まるでそれは」の「それ」って何?
「髪が一日中濡れているような」の「ような」そのものを指しているように思える。
「比喩」ではなく、「比喩」をつくりだすことばの運動。
「一日中濡れている髪」という「もの」が「それ」ならば、「比喩」だが、その「比喩」をつくりだす(ささえる?)、「ような」ということば。
「比喩」というよりも、「比喩をつくりだすことば(ことばの運動)」そのもののなかへ、小島は入っていこうとしているように思える。
髪が一日中濡れている「ような」の「ような」、「建設中の都市全体が、神話のなかの精霊に征服されたような」の「ような」と重なる。同じ「運動」によって、強く結びつく。そして、その瞬間、そこに、「髪が一日中濡れている」という「物語」と、「都市全体が、神話の中の精霊に征服された」という「物語」が出会う。重なり合う。
「花粉症が治まった」ということばを読んだときは、そこに「私」という「物語」があると思ってしまったが、「私」の「物語」は「髪が一日中濡れている」という「物語」ではなく、あくまでも「髪が一日中濡れているような」という「ような」の「物語」へずれてゆく。さらに、「ような」をもとめて「建設中の都市全体が、神話のなかの精霊に征服された/ような」という「物語」へずれていく。
何、これ。
私が見ているものは(読んだものは)、次の部分に「ような」を補うとわかりやすくなるはずだ。
濡れた夢に覆い隠された「ような」、エクスタティックな日々だった。
濡れた夢に覆い隠された「ような」、エクスタティックな「ような」日々だった。
「まるでそれは」、「ような」「ような」「ような」「ような」の連続である。これを小島は、少し先で、
「変容しつづける情熱のファンタジー」という幻想
と呼んでいるが、それにしたって、「変容しつづける/ような/情熱の/ような/ファンダジー」という幻想の「ようだ」。
冒頭の「花粉症が治まった途端に」も「断定」ではなく、ほんとうは「治まった/ような」その瞬間に、「雨が降りはじめ/た/ような」かもしれない。
あらゆることばとことばのあいだに「ような」が入り込み、それが「物語」を次々に生み出しているのである。
そう思って読むと、次の部分が刺激的だ。
パラノイアは狂気かもしれない。けれども、スキゾフレニーは狂気ではない。「人間」から「人間」への自由な交わりをする際の、新たな「世界内のあり方」なのだから。
「人間」を「物語」と置き換えるとどうなるか。
「ような」は「物語」から「物語」への自由な交わり(飛躍?)をする際の、「世界内」の「通路」である。「ような」を繰り返すことは、「世界内」へ入り込み、「世界」を「内部」からとらえなおすことである。
「比喩」というのは、「いま/ここ」にないものを手がかかりに「いま/ここ」を考える手段だが、そのとき、小島の「比喩」(ような、の運動)は、「いま/ここ」から外部へと動いていくのではなく、また「外部」を「いま/ここ」へ取り込むのでもなく、ただ「いま/ここ」の「内部」を耕すのである。
「世界内のあり方」と小島は書いている。わざわざカギ括弧でくくっている。そのことばのなかの「内」への旅、それも「ような」を繰り返す旅--というようなことを私は思うのだが……。
(あすの「日記」につづく。)