詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

秋山基夫『秋山基夫詩集』(3)

2011-08-03 23:59:59 | 詩集
秋山基夫『秋山基夫詩集』(3)(思潮社、現代詩文庫193 、2011年06月20日発行)

 「窓」シリーズがある。その「Ⅳ」の後半。

部屋に入って
シャワーをあびて
酒をのんで
もう何もない
からのコップをテーブルにおいて
ねた ねむりの中で
夜どおしシャワーの音が聞こえ
壁に上衣とズボンがたれていた

雨のひとつぶひとつぶが地上に衝突し
細胞のひとつぶひとつぶが消えていく

 この部分がとても印象に残った。書かれていることば、その光景というか、秋山の感じている「虚無」を実感できた。「秋山の感じている虚無」と書いたが、もちろんこれはほんとうのことではなく、私がかってに「虚無」をつくりあげ、それを感じているだけなのだろうけれど。

酒をのんで
もう何もない
からのコップをテーブルにおいて

 この「からの」は「空の」、つまり「何もない」、「何も(はいって)ない」コップのこを書いているのだが、「からの」とひらがなで書かれると、私は、

酒をのんで
もう何もないから
コップをテーブルにおいて

 と、「誤読」したくなるのだ。「理由」を説明するときの「から」として読んでしまいたくなるのだ。

もう何もないから
コップをテーブルにおいて
ねた

 とつづけたくなるのだ。「から」と置き換えなくても、酒をのんで、酒がなくなった、そして、ねるという一連の行動には、虚無的な「理由」がある。しかし、「から」がないと、なんとなく漠然としている。「から」をはっきり書いてみると「理由」が前面に出てくる。
 なぜ、こんなことにこだわるかというと……。
 秋山が「窓」で書いていることがらは、スケッチに見えてスケッチではないからだ。「窓」から見えた光景を描写し、それにつながる光景を描写し、淡々と日常を描いているように見えるが、そうではない。
 たとえば、

ねた ねむりの中で
夜どおしシャワーの音が聞こえ
壁に上衣とズボンがたれていた

 「ねむりの中で/夜どおしシャワーの音が聞こえ」るというのは、ありえる。眠っていても「耳」は目覚めている。眠りきれない「耳」が無意識に音を聞くということはありうる。けれど、ねむりの中で、どうして「壁に上衣とズボンがたれていた」がわかるのか。どうやって見たのか。目をあけて? 目をあけていても、「ねむりの中」? 「耳」は「耳」自身を閉ざすことができないから音を聞いてしまう。けれど「目」は「瞼」を閉ざすことで何も見えなくなる。「ねむり」は「瞼」を閉ざした状態である。そうであるなら、ここに書かれていることは、「現実」ではなく、一種の「嘘」である。
 この「嘘」を意識という。「意識」とは「肉体」ではつかみきれないものを強引につかんでしまう「力業」の「嘘」なのだ。
 一度こういう領域へことばが進んでしまうと、そこからはさらに「意識」の嘘が増殖してゆく。

雨のひとつぶひとつぶが地上に衝突し
細胞のひとつぶひとつぶが消えていく

 この2行。「雨のひとつぶひとつぶ」は目で見えないことはない。雨粒の全部を数えきれないけれど、その数えきれないひとつぶひとつぶは見えてしまうという不思議は不思議としておいておいて……そのひとつぶひとつぶが「地上に衝突」するというのも目で見ることができる。耳がよければ、その音を聞くことができる。けれど

細胞のひとつぶひとつぶが消えていく

 これは、何だろう。「細胞」とは何? 何の細胞? 雨の細胞だろうか。雨粒のなかの「組織」のことだろうか。それとも秋山の肉体のなかの細胞? そう考えるはちょっと飛躍が大きすぎる。とりあえず「雨粒の細胞」ということにしてことばを動かしていく。雨粒が地面に衝突して、雨粒ではなくなることを秋山は「細胞のひとつぶひとつぶが消えていく」と書いたのだと仮定してみる。
 では、そのとき、ほんとうに秋山は「細胞」を見たのか。「目」で見たのか。
 見えないね。細胞なんか。雨粒に細胞があるかどうかも、わからない。
 でも、そういう見えないもの、わからないものも、ことばは書いてしまうことができる。そして、その見えないものをあたかも見えるように感じさせるのが「意識」なのである。「意識」の「嘘」がここにある。
 この「意識」を動かしているもの。それは「事実」であることもあるけれど、別のものもある。「理由」。人間がつくりだした、強引ななにごとか。
 先の2行を次のように書き換えてみる。

雨のひとつぶひとつぶが地上に衝突する「から」
細胞「は衝撃で壊れ」のひとつぶひとつぶが消えていく

 「から」と、雨が降って地面にぶつかるという現象を「理由」にしてしまうと、その「理由」にひきづられて、肉眼では見えないことがかってに動いてしまう。「意識」がどこからかかってに「細胞」ということばをひっぱりだして、見えないことをことばにしてしまう。「嘘」を完成させてしまう。
 「から」をつかうと、どんなことでも「嘘」になってしまう。いや、「嘘」を完成させることができる。
 シャワーの音と壁の上衣・ズボンは、

ねた ねむりの中で
夜どおしシャワーの音が聞こえ「たのは」
シャワーの栓をしっかり締めなかった「から」
壁に上衣とズボン「をひっかけたから、それはそのまま」たれてい「と、意識は判断し」た

 と書きかえることができる。
 秋山が「窓」で書いているのは「現実」の光景ではない。それはあくまで「意識」の光景なのである。
 この「意識」を「私」と置き換えると、とてもおもしろいことがわかる。
 秋山が書いているのは「現実」の光景ではない。それはあくまで「私」の光景である。
 そして、この「私」の光景ということを意識して詩を読み返す。すると、「私」ということばが「窓」シリーズでは一度も書かれていないことが鮮明に浮かび上がる。

「私は」シャワーをあびて
「私は」酒をのんで
もう何もない
からのコップを「私は」テーブルにおいて
「私は」ねた ねむりの中で

 なぜ、「私は」が省略されているのか。日本語は「主語」を省略できるからといえばそれまでだが、ひとがことばを省略するのは、それがそのひとにとって自明すぎることだからである。わかりきったことはことばにできない。ことばにすることを思いつかない。
 「それ、とって」
 親しいひとにそういうとき「それ」はいったひとにはわかりきっている。わかりきっているから「もの」の名前が出てこない。
 同じように「窓」シリーズでは「主語」が「私」であることは秋山にはわかりきっている。だから「私は」という主語はない。そして、そのわかりきった「私」とは「肉体」ではない。「意識」である。ことばが動いてゆくことで、そこにはほんとうは存在しないものを浮かび上がらせてしまう意識、それが「私」である。
 この「意識」の強さ、「意識」の動きの強さが、私が最初に感じた「虚無」に結びつく。「意識」が現実を分析しすぎて、「意識」だけが暴走する。過剰な意識が、現実を遠ざける。
 遠い現実感--それが虚無。
 この虚無を、遠い現実感を、「窓」という身近な「現実」に限定して描くという「矛盾」が、秋山のことばを強いものにしている。清潔なものにしている。

 「矛盾」だけが「思想」である、と私は思う。



岡山の詩100年
秋山 基夫,坂本 明子,岡 隆夫,三沢 浩二
和光出版



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