詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

森川雅美『夜明け前に斜めから陽が射している』

2011-08-14 23:59:59 | 詩集
森川雅美『夜明け前に斜めから陽が射している』(思潮社、2011年06月30日発行)

 私は音痴である。音楽の素養というものもまったくない。だから私の書いていることはとんでもない勘違いなのかもしれないけれど……。
 私には、どうしてもなじめない「音」がある。森川雅美のことば、その音の動きは私にはどうにもなじめない。今回の詩集は『夜明け前に斜めから陽が射している』が、もうだめである。「音」が響きあわない。それに、「音」が多い。余分である。どの音が響きあわないのか、どの音が余分かと問われたらわからない。だが、私の耳は、その音をともかく「うるさい」と多いと感じてしまうのだ。私は音読はしないが、黙読のときも肉体の奥で喉や口蓋や舌は動いているらしい。その喉や舌が、ものすごく疲れるのである。森川のことばの場合。簡単には読めないのである。--簡単に読める音がいい詩の条件であるかどうかわからないが、私は、森川の音が苦手である。少し読んだだけで疲れ切ってしまう。なかなか読み進むことができない。

 「草野心平さんに」という詩がある。

あなたに出会うために待っている言葉に
関節は少しだけ折れ落日にも似る
岩だって年をとり中有に引っかり
どうだ水だって愉快に流れるさ
今日の時間が磨り減っていく過程だとしても
もはやあなたに借りたものは手元にはなく
ただひとりで誰にも見られず渡っていけ

 この最初の部分では、私は「関節は少しだけ折れ」という音が好きである。読みやすい。しかし、それが「落日にも似る」とつづくと読むことができない。「音」があっていない。音楽で「ド・ミ・ソ」という旋律の後、「レ・ファ・ラ」とつづくと、なんとなく楽に肉体に響いてくる感じがある。そういう「音」の関連性が、森川のことばには感じられない。「落日にも似る」の「落日」が読めないのである。「らくじつ」と読もうとしても、音にならない。音が聞こえてこない。文字は見えるが、音が聞こえない。「楽譜」をつきつけられたような気分になる。「楽譜」はたしかに音をあらわしているが、音痴には、それが読めない。「ド・レ・ミ」と学校で習ったことを思い出しても、「音」が聞こえてこない。
 音痴の私が言うのだから、これは、まあ、いい加減なことだが、私には、ようするに森川のことばは、「文字」としては知っている文字ばかりなので「わかる」ような気がするが、「音」としてはなじみのない音なので、えっ、それ、何? いま、何て言った? と聞き返したくなるような、変な気持ちになる。
 森川のことばの音は聞いても覚えられない音なのである。もちろん、再現もできない音なのである。それが音であるといわれればたしかに音には違いないが、私の肉体とは接点を持たない音でできている。
 次の「岩だって年をとり中有に引っかり」。私は、「中有」につまずいてしまう。これが「中陰」だったら、ずんぶん読みやすい。耳にも気持ちがいいし、喉や舌にも気持ちがいい。「ちゅうう」の「う」の音、「う・う」のつながりが苦しくて私は声に出せないのである。耳でも聞き取れないのである。「ちゅういん」だったら、この行を支配している「い」の音が助けてくれて、とても楽である。

 音が多い--というのは、たとえば1行目の「あなたに出会うために待っている言葉に」で言えば、3回出てくる「に」。とても邪魔である。そして、その「に」を含んだ「ために」が、うーん、とても気持ちが悪い。乾いていない。軽くない。べっとりと重たい。--というようなことはあくまで「感覚的」なことであり、「意味」には関係ない、のかもしれないが……。私には関係があるのだ。
 1行の中に、2行の「意味」がある。2行にわけて書けば「音」がかわるのに、1行に閉じ込めているために、気持ち悪くなっている。「ために」が、なぜ、2行か--といわれると、私は答えにつまるのだが……。たぶん、「ために」の「ため」が、「理由」となって忍び込んでくる感じが2行を感じさせるのだ。
 あとは、「関節は少しだけ折れ/落日にも似る」「岩だって年をとり/中有に引っかり」なら、そのままでは不安定であり、それぞれ違った音を引き寄せて1行ずつになるだろうと私は感じる。
 「どうだ水だって愉快に流れるさ」はとてもむずかしい。「どうだ/水だって/愉快に流れる/さ」かなあ。「どうだ/水/だって/愉快に/流れる/さ」とさらに細かく音が独立した方が、私にははるかに読みやすい。ひとつづき、1行では、苦しくてしようがない。

 でも、書き出しは、まだ、いい。14ページの、次の部分。(「草野心平さんに」のつづきである。)

背骨が小さな落花やいく本もの電線になり
折れ曲がる影に猫も歩き水面も傾き
直接ものを見る燃え落ちていく一瞬まで
名前になる前に埋もれた脳の水脈を下り
対岸の荒れ果てた山林を耕し

 これは、もう、私の耳を完全に超えているだけではなく、眼をも超えている。眼は「字面」を追うけれど、読めない。知っている文字しかないが、読めない。
 こんな字、どうやって書くのだろう。さっぱりわからない。

 「野村喜和夫さんに」には魅力的な行もある。

おくふかいあしどりで綴られていく

 あ、いいなあ、と思う。音の響き、ゆらぎが気持ちがいい。

はだにうつる梢のかげはおいぬかれ

 この行は、「梢のかげは」がうるさい。「梢は」か「かげは」だと、とても美しい。--といっても、あくまで、私の耳にとっては、ということだけれど。
 いま引用した2行は、まあ、いいのだけれど、

ふめいにだれかからてわたされる畝

 うわーっ、これはなんだろう。私は思わず目を閉じて、耳を塞いでしまう。「畝(うね)」という文字も醜悪だし、「音」はノイズを通り越している。
 「新藤凉子さんに」の、

くりかえす脳のだんさをこえ

 これにも、ぞっとしてしまった。

 こんな読み方をしてもらったら困る--と森川は言うかもしれないが、私には、こういう読み方しかできない。音がなじめないと、ことばを追っていても、つまずいてばかりで先へ進めない。




夜明け前に斜めから陽が射している
森川 雅美
思潮社
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アルフレッド・ヒチコック監督「鳥」(★★★★★)

2011-08-14 09:39:59 | 午前十時の映画祭
監督アルフレッド・ヒチコック 出演鳥、ロッド・テイラー、ジェシカ・タンディ、ティッピー・ヘドレン

 何度見ても飽きることのない大傑作。なぜ鳥が人間を襲うか――なんてくだらない謎解きの答えなら、いくらでも考えだすことができる。女の嫉妬。それが引き寄せる「禍い」の象徴とか、ね。ラストでティッピー・ヘドレンがロッド・テイラーの母と手を取り合ったとき平和が訪れるのは、その暗示。あるいは、田舎町に突然あらわれた都会の金持ち娘とエリート(弁護士)の恋に対するやっかみが鳥となって襲う、とかね。主人公の二人だけではなく町中を襲うのはなぜかって? どいういうやっかみも、やっかんだひとにはねかえるもの。「理由」は、どのシーンにもつけられる。小学校の女性教師が鳥に襲われ死んだのは、結局、恋の戦いでティッピー・ヘドレンに負けたから、とかね。
 でも、そんなことはどうでもいいなあ。
 ヒチコックは美女が不安におののく顔が大好き。ティッピー・ヘドレンは私の基準では美人度が低いんだけれど。まあ、これは個人的な好みの問題だね。
 で、美女が不安におののくとき、そこに「サスペンス」が生まれる。サスペンスが先にあって、それから美女が不安におののくのではなく、美女が不安におののくとき、その不安を実現(?)するためにサスペンスが必要になる。必然としてサスペンスが生まれる。逆じゃないんです。女性をもっともっと怖がらせるために、次々にサスペンスが作り上げられていく。そして、このとき、観客は、怖がる美人(ティッピー・ヘドレン)そのものになる。
 この映画は、その典型。たとえば、スピルバーグの「激突!」もこの系統。タンクローリーに追いかけられる「理由」は「追い越したから」などというのは、付け足し。ただ、タンクローリーがどこまでも追いかけてくるという「恐怖」をリアルに描いて、観客をその恐怖に引き込むことだけが狙い。そういう頂点として輝く大傑作。
 理由なんていらない。ただティッピー・ヘドレンが怖がればいい。金持ちで、わがままで、気が強い女――まともな(?)ことじゃ、怖がらない女。男に関心を持つと一人で車で追いかけてゆく。気づかれないように車ではなくボートで家に近づく……なんでもやってしまう。車の運転はもちろん、ボートの運転だって楽々。なんでも、できてしまう。できないことは、相手が必要な「恋」を成就させることくらい。それを、やろうとしている。こういう女は「理不尽」なもの、「理由」がわからないものじゃないと、怖がらないよねえ。
 鳥が襲ってくるのは、ティッピー・ヘドレンに原因がある。おまえは魔女だ、と言われたって、平気。逆上して、批判した女をひっぱたくんだもんね。人間がやること(人間が言うこと)なんかで怖がらない。人間がやることは「理不尽」にみえて、ちゃんと理由がある。そんなものは、「理由」を解決すれば解決する。わけのわからないことを言う奴は、ぶん殴って怒りをみせてやれば、それですむ。自分の方が「上」と見せつけて、怖がらせれば、それですむ。
 鳥――自然がやることは「理由」がわからない。自然は怖がらない。だから、怖い。
 最後まで、「理由」を明かさない。あらゆること、鳥が世界で何種類、何羽いるとか、小学校の教師とロッド・テイラーの間に何があったか、その母親とどんな関係にあるとか、さらにはガソリンにマッチの火が引火しそうとか、うるさいくらいにあれこれ説明するのに、鳥が人間を襲う理由だけは決して明かさない。
 これは、いいなあ。
 いまならCGでもっと鳥の動きも正確(?)に映像化できるんだろうけれど、そうじゃないところが、またまたおもしろい。ファーストシーン(クレジット)を横切るのは鳥の影ばかりで、どんな鳥なのか全体がわからない。本編のなかでも、くちばしを変にアップにしたり、全体が写らないように翼で画面を邪魔したり。カラスや鴎といった誰にでもわかるような鳥だけはきちんと「顔」を見せるけれど、あとはよくわからないまま、つまり「鳥」のまま。
 それからジャングルジムや電線にとまった大量の鳥。足の踏み場もないくらい庭を覆った鳥。いやあ、すごい執念だねえ。あんなに鳥を集めちゃって。(その執念の方が、怖い?)いったいどこから集めたんだろう。(餌とか、糞の始末とか、どうしたんだろうねえ。)
 それから。
 この映画には、私の大好きな「お遊び」がある。ティッピー・ヘドレンがロッド・テイラーのいる町まで車を飛ばす。助手席に置いた鳥籠のなかに「愛の鳥」がいる。この鳥が、車が急カーブを曲がるたびに、人間の体みたいに左右に傾く。2羽、仲良く。笑ってしまうねえ。かわいいねえ。
 最後に、この2羽が一緒に救出される(脱出できる)のだけれど、いいねえ。
ヒチコック以外に、こんなおもしろいシーン、洒落た遊びのシーンを撮る監督はいないなあ。
              (「午前10時の映画祭」青シリーズ29本目、天神東宝)




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