森川雅美『夜明け前に斜めから陽が射している』(思潮社、2011年06月30日発行)
私は音痴である。音楽の素養というものもまったくない。だから私の書いていることはとんでもない勘違いなのかもしれないけれど……。
私には、どうしてもなじめない「音」がある。森川雅美のことば、その音の動きは私にはどうにもなじめない。今回の詩集は『夜明け前に斜めから陽が射している』が、もうだめである。「音」が響きあわない。それに、「音」が多い。余分である。どの音が響きあわないのか、どの音が余分かと問われたらわからない。だが、私の耳は、その音をともかく「うるさい」と多いと感じてしまうのだ。私は音読はしないが、黙読のときも肉体の奥で喉や口蓋や舌は動いているらしい。その喉や舌が、ものすごく疲れるのである。森川のことばの場合。簡単には読めないのである。--簡単に読める音がいい詩の条件であるかどうかわからないが、私は、森川の音が苦手である。少し読んだだけで疲れ切ってしまう。なかなか読み進むことができない。
「草野心平さんに」という詩がある。
この最初の部分では、私は「関節は少しだけ折れ」という音が好きである。読みやすい。しかし、それが「落日にも似る」とつづくと読むことができない。「音」があっていない。音楽で「ド・ミ・ソ」という旋律の後、「レ・ファ・ラ」とつづくと、なんとなく楽に肉体に響いてくる感じがある。そういう「音」の関連性が、森川のことばには感じられない。「落日にも似る」の「落日」が読めないのである。「らくじつ」と読もうとしても、音にならない。音が聞こえてこない。文字は見えるが、音が聞こえない。「楽譜」をつきつけられたような気分になる。「楽譜」はたしかに音をあらわしているが、音痴には、それが読めない。「ド・レ・ミ」と学校で習ったことを思い出しても、「音」が聞こえてこない。
音痴の私が言うのだから、これは、まあ、いい加減なことだが、私には、ようするに森川のことばは、「文字」としては知っている文字ばかりなので「わかる」ような気がするが、「音」としてはなじみのない音なので、えっ、それ、何? いま、何て言った? と聞き返したくなるような、変な気持ちになる。
森川のことばの音は聞いても覚えられない音なのである。もちろん、再現もできない音なのである。それが音であるといわれればたしかに音には違いないが、私の肉体とは接点を持たない音でできている。
次の「岩だって年をとり中有に引っかり」。私は、「中有」につまずいてしまう。これが「中陰」だったら、ずんぶん読みやすい。耳にも気持ちがいいし、喉や舌にも気持ちがいい。「ちゅうう」の「う」の音、「う・う」のつながりが苦しくて私は声に出せないのである。耳でも聞き取れないのである。「ちゅういん」だったら、この行を支配している「い」の音が助けてくれて、とても楽である。
音が多い--というのは、たとえば1行目の「あなたに出会うために待っている言葉に」で言えば、3回出てくる「に」。とても邪魔である。そして、その「に」を含んだ「ために」が、うーん、とても気持ちが悪い。乾いていない。軽くない。べっとりと重たい。--というようなことはあくまで「感覚的」なことであり、「意味」には関係ない、のかもしれないが……。私には関係があるのだ。
1行の中に、2行の「意味」がある。2行にわけて書けば「音」がかわるのに、1行に閉じ込めているために、気持ち悪くなっている。「ために」が、なぜ、2行か--といわれると、私は答えにつまるのだが……。たぶん、「ために」の「ため」が、「理由」となって忍び込んでくる感じが2行を感じさせるのだ。
あとは、「関節は少しだけ折れ/落日にも似る」「岩だって年をとり/中有に引っかり」なら、そのままでは不安定であり、それぞれ違った音を引き寄せて1行ずつになるだろうと私は感じる。
「どうだ水だって愉快に流れるさ」はとてもむずかしい。「どうだ/水だって/愉快に流れる/さ」かなあ。「どうだ/水/だって/愉快に/流れる/さ」とさらに細かく音が独立した方が、私にははるかに読みやすい。ひとつづき、1行では、苦しくてしようがない。
でも、書き出しは、まだ、いい。14ページの、次の部分。(「草野心平さんに」のつづきである。)
これは、もう、私の耳を完全に超えているだけではなく、眼をも超えている。眼は「字面」を追うけれど、読めない。知っている文字しかないが、読めない。
こんな字、どうやって書くのだろう。さっぱりわからない。
「野村喜和夫さんに」には魅力的な行もある。
あ、いいなあ、と思う。音の響き、ゆらぎが気持ちがいい。
この行は、「梢のかげは」がうるさい。「梢は」か「かげは」だと、とても美しい。--といっても、あくまで、私の耳にとっては、ということだけれど。
いま引用した2行は、まあ、いいのだけれど、
うわーっ、これはなんだろう。私は思わず目を閉じて、耳を塞いでしまう。「畝(うね)」という文字も醜悪だし、「音」はノイズを通り越している。
「新藤凉子さんに」の、
これにも、ぞっとしてしまった。
こんな読み方をしてもらったら困る--と森川は言うかもしれないが、私には、こういう読み方しかできない。音がなじめないと、ことばを追っていても、つまずいてばかりで先へ進めない。
私は音痴である。音楽の素養というものもまったくない。だから私の書いていることはとんでもない勘違いなのかもしれないけれど……。
私には、どうしてもなじめない「音」がある。森川雅美のことば、その音の動きは私にはどうにもなじめない。今回の詩集は『夜明け前に斜めから陽が射している』が、もうだめである。「音」が響きあわない。それに、「音」が多い。余分である。どの音が響きあわないのか、どの音が余分かと問われたらわからない。だが、私の耳は、その音をともかく「うるさい」と多いと感じてしまうのだ。私は音読はしないが、黙読のときも肉体の奥で喉や口蓋や舌は動いているらしい。その喉や舌が、ものすごく疲れるのである。森川のことばの場合。簡単には読めないのである。--簡単に読める音がいい詩の条件であるかどうかわからないが、私は、森川の音が苦手である。少し読んだだけで疲れ切ってしまう。なかなか読み進むことができない。
「草野心平さんに」という詩がある。
あなたに出会うために待っている言葉に
関節は少しだけ折れ落日にも似る
岩だって年をとり中有に引っかり
どうだ水だって愉快に流れるさ
今日の時間が磨り減っていく過程だとしても
もはやあなたに借りたものは手元にはなく
ただひとりで誰にも見られず渡っていけ
この最初の部分では、私は「関節は少しだけ折れ」という音が好きである。読みやすい。しかし、それが「落日にも似る」とつづくと読むことができない。「音」があっていない。音楽で「ド・ミ・ソ」という旋律の後、「レ・ファ・ラ」とつづくと、なんとなく楽に肉体に響いてくる感じがある。そういう「音」の関連性が、森川のことばには感じられない。「落日にも似る」の「落日」が読めないのである。「らくじつ」と読もうとしても、音にならない。音が聞こえてこない。文字は見えるが、音が聞こえない。「楽譜」をつきつけられたような気分になる。「楽譜」はたしかに音をあらわしているが、音痴には、それが読めない。「ド・レ・ミ」と学校で習ったことを思い出しても、「音」が聞こえてこない。
音痴の私が言うのだから、これは、まあ、いい加減なことだが、私には、ようするに森川のことばは、「文字」としては知っている文字ばかりなので「わかる」ような気がするが、「音」としてはなじみのない音なので、えっ、それ、何? いま、何て言った? と聞き返したくなるような、変な気持ちになる。
森川のことばの音は聞いても覚えられない音なのである。もちろん、再現もできない音なのである。それが音であるといわれればたしかに音には違いないが、私の肉体とは接点を持たない音でできている。
次の「岩だって年をとり中有に引っかり」。私は、「中有」につまずいてしまう。これが「中陰」だったら、ずんぶん読みやすい。耳にも気持ちがいいし、喉や舌にも気持ちがいい。「ちゅうう」の「う」の音、「う・う」のつながりが苦しくて私は声に出せないのである。耳でも聞き取れないのである。「ちゅういん」だったら、この行を支配している「い」の音が助けてくれて、とても楽である。
音が多い--というのは、たとえば1行目の「あなたに出会うために待っている言葉に」で言えば、3回出てくる「に」。とても邪魔である。そして、その「に」を含んだ「ために」が、うーん、とても気持ちが悪い。乾いていない。軽くない。べっとりと重たい。--というようなことはあくまで「感覚的」なことであり、「意味」には関係ない、のかもしれないが……。私には関係があるのだ。
1行の中に、2行の「意味」がある。2行にわけて書けば「音」がかわるのに、1行に閉じ込めているために、気持ち悪くなっている。「ために」が、なぜ、2行か--といわれると、私は答えにつまるのだが……。たぶん、「ために」の「ため」が、「理由」となって忍び込んでくる感じが2行を感じさせるのだ。
あとは、「関節は少しだけ折れ/落日にも似る」「岩だって年をとり/中有に引っかり」なら、そのままでは不安定であり、それぞれ違った音を引き寄せて1行ずつになるだろうと私は感じる。
「どうだ水だって愉快に流れるさ」はとてもむずかしい。「どうだ/水だって/愉快に流れる/さ」かなあ。「どうだ/水/だって/愉快に/流れる/さ」とさらに細かく音が独立した方が、私にははるかに読みやすい。ひとつづき、1行では、苦しくてしようがない。
でも、書き出しは、まだ、いい。14ページの、次の部分。(「草野心平さんに」のつづきである。)
背骨が小さな落花やいく本もの電線になり
折れ曲がる影に猫も歩き水面も傾き
直接ものを見る燃え落ちていく一瞬まで
名前になる前に埋もれた脳の水脈を下り
対岸の荒れ果てた山林を耕し
これは、もう、私の耳を完全に超えているだけではなく、眼をも超えている。眼は「字面」を追うけれど、読めない。知っている文字しかないが、読めない。
こんな字、どうやって書くのだろう。さっぱりわからない。
「野村喜和夫さんに」には魅力的な行もある。
おくふかいあしどりで綴られていく
あ、いいなあ、と思う。音の響き、ゆらぎが気持ちがいい。
はだにうつる梢のかげはおいぬかれ
この行は、「梢のかげは」がうるさい。「梢は」か「かげは」だと、とても美しい。--といっても、あくまで、私の耳にとっては、ということだけれど。
いま引用した2行は、まあ、いいのだけれど、
ふめいにだれかからてわたされる畝
うわーっ、これはなんだろう。私は思わず目を閉じて、耳を塞いでしまう。「畝(うね)」という文字も醜悪だし、「音」はノイズを通り越している。
「新藤凉子さんに」の、
くりかえす脳のだんさをこえ
これにも、ぞっとしてしまった。
こんな読み方をしてもらったら困る--と森川は言うかもしれないが、私には、こういう読み方しかできない。音がなじめないと、ことばを追っていても、つまずいてばかりで先へ進めない。
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