瀬尾育生「暮鳥」(3)(「現代詩手帖」2011年08月号)
「2」の冒頭。
これには註釈がついている。ベンヤミンの「言語一般あるいは……」という文章からの引用らしい。私は不勉強でベンヤミンを読んだことがないが、この他者のことばの引用による「分離」と「反復」がおもしろい。
どういう状況であろうと、何かについて語っていて、そのときにほかの誰かのことばを引用するとき、そこには「論理」の接続があると同時に「分離」があり、また引用の瞬間に始まる「反復」もあるのだが、この反復は2種類ある。この作品に則していえば、ひとつは「ベンヤミン」そのものの「反復」。もうひとつはベンヤミンのことばをたどることで、いままで言ってきた瀬尾自身のことばをたどりなおす--点検し、補強する。
あ、でも、この作品では、瀬尾が(話者が)、いったい話者自身のどのことばを「反復」しようとしているかわからない。
わからないまま、「反復」はさらに増幅する。
「二週間経ったころ」と「時間」が明確にされる。「時間」による「ある一点(過去)」と「いま」の「分離」がその瞬間に生まれ、また「過去」を意識するときその意識の中では「過去」の一点が「反復」される。
この一点とは、最初にこの詩を読んだときに「倒置法」について触れたが、やはりここでも「倒置法」によって明示される。
それは、引用のつづきを読むとはっきりする。
ベンヤミンの「もしも自然に言葉が与えられたら」が、二週間というの「分離」のあと、いま「反復」されているのだ。自然にことばがあたえられていたら、つまり自然がことばを語ることができるなら--私はそのことばを誘うために、木々の名前、花々の名前を呼んでみる。しかし、木々も花々も答えない。答えないけれど、その「答えない」を、話者は「沈黙の形」と呼ぶことで「ことば」にしてしまう。
それは正しいか。つまりベンヤミンの言った「言葉」のありようと合致しているか。私には確かめる術はないのだが(ベンヤミンの著作を読めば、それなりの「答え」を言うことができるかもしれないが)、それはどうでもいいのだ。合致しているかどうかはどうでもいいのだ。合致していようがしていまいが「沈黙の形」ということばで話者が「反復」したということにかわりはない。
「反復」は、ベンヤミンへ近づくことか、遠ざかることか。近づきながら、遠ざかるという「矛盾」を生きることである。話者がベンヤミンそのもののことばになってしまえば、それはベンヤミンではなく話者であるということができる。それはベンヤミンではなくなる。また、ベンヤミンから遠ざかりながら話者自身の思考を突き進めてゆけば、ベンヤミンから遠ざかることになるのかといえば、そうではない。出発点がベンヤミンなら、そのことばがどこまで動いてゆこうがそれはベンヤミンが考えたかもしれないことばの行く末である。遠ざかったつもりでも、それはそこにいないベンヤミンのより近づくことである。
「分離」と「反復」は、「矛盾」にしかたどりつけないのである。言い換えると「思想」になるかしかないのである。いつでもことばは、矛盾の中で思想になってしまうのである。--というのは、ちょっと先を急いだ乱暴なことばだけれど。
詩のつづき。
「鳥は鳴き獣たちは吠える。」はたしかに鳥たちの嘆き、獣たちの嘆きかもしれない。そしてそれが「沈黙」という形に見えるのは、実は、話者がその「音」を話者自身のことばに翻訳(?)できないからである。つまり「反復」できないからである。「分離」を感じ、話者のことば自身が「沈黙」していることになる。
それはそれとして。
「風が葉叢をそよがせ、」はどうなるだろう。このとき嘆いているのは「風」なのか、それとも「葉叢」なのか。沈黙しているのは「風」なのか、それとも「葉叢」なのか。わからない。そうして、わからないと感じた瞬間、繰り返しになるが、「鳥は鳴き獣たちは吠える」とき「沈黙」しているのは鳥なのか獣なのか、あるいは「話者」なのかわからなくなる。
このあとが、おもしろい。
風・葉叢・鳥・獣という「自然」の「沈黙(嘆き)」を、さらに深く沈黙させる--強く実感するということだろう--ために、自らをその沈黙者たちに埋め込む。その「埋め込み」は「分離」ではなく「接着」のように見える。自らを埋め込むことで、風・葉叢・鳥・獣という「自然」を強くつなぎとめるように見える。(瀬尾のことばが「粘着力」を発揮するのはこういうときである。)
しかし、そうなのか?
このことばは「沈黙」ではない。これはうるさいくらいに「論理的」なことばの運動である。「沈黙」とは正反対のものである。
「沈黙」に埋め込むことができるのは「沈黙」ではなく、「饒舌」なのだ。
「矛盾」である。「矛盾」だから、そこに「思想」がある。
この「矛盾」は、しかし、どういえばいいのだろう。「文学」の宿命である。
を、私は、ふいに思い出してしまうのだ。
ベンヤミンのことばは芭蕉を念頭においてはいないだろう。瀬尾のことばも芭蕉を念頭においてはいないだろう。私も、芭蕉のことばを最初から考えていたわけではない。けれど、突然、芭蕉によって、瀬尾のことばを「分離」してみたくなったのである。そうして「反復」してみたくなったのである。芭蕉の中にある「分離」と「反復」、そしてそのふたつが「閑かさ」、つまり「沈黙」を深めている、いっそう深く閑か(沈黙)という状態を刻印していると感じるからである。
私の感想は、どんどん瀬尾のことばから離れて行ってしまうかもしれない。「誤読」が「誤読」を通り越して、単なることばの暴走になってしまっているかもしれない。
瀬尾のことばが、私のなかのことばの「分離」と「反復」を誘発し、そして増幅させているのかもしれない。
「2」の冒頭。
もしも自然に言葉が与えられたら自然は嘆くであろう。
これには註釈がついている。ベンヤミンの「言語一般あるいは……」という文章からの引用らしい。私は不勉強でベンヤミンを読んだことがないが、この他者のことばの引用による「分離」と「反復」がおもしろい。
どういう状況であろうと、何かについて語っていて、そのときにほかの誰かのことばを引用するとき、そこには「論理」の接続があると同時に「分離」があり、また引用の瞬間に始まる「反復」もあるのだが、この反復は2種類ある。この作品に則していえば、ひとつは「ベンヤミン」そのものの「反復」。もうひとつはベンヤミンのことばをたどることで、いままで言ってきた瀬尾自身のことばをたどりなおす--点検し、補強する。
あ、でも、この作品では、瀬尾が(話者が)、いったい話者自身のどのことばを「反復」しようとしているかわからない。
わからないまま、「反復」はさらに増幅する。
二週間が経ったころ、夜のなかに歩み出てゆくと、いくつもの匂いと白いものたちの塊りが暗がりの中にとつぜん浮き上ってきた。
「二週間経ったころ」と「時間」が明確にされる。「時間」による「ある一点(過去)」と「いま」の「分離」がその瞬間に生まれ、また「過去」を意識するときその意識の中では「過去」の一点が「反復」される。
この一点とは、最初にこの詩を読んだときに「倒置法」について触れたが、やはりここでも「倒置法」によって明示される。
それは、引用のつづきを読むとはっきりする。
それらの語り出しについて、私はいくつかの木々の名、花々の名を呼んだ。だが彼らは嘆くとしての沈黙の形で嘆くのであろう。
ベンヤミンの「もしも自然に言葉が与えられたら」が、二週間というの「分離」のあと、いま「反復」されているのだ。自然にことばがあたえられていたら、つまり自然がことばを語ることができるなら--私はそのことばを誘うために、木々の名前、花々の名前を呼んでみる。しかし、木々も花々も答えない。答えないけれど、その「答えない」を、話者は「沈黙の形」と呼ぶことで「ことば」にしてしまう。
それは正しいか。つまりベンヤミンの言った「言葉」のありようと合致しているか。私には確かめる術はないのだが(ベンヤミンの著作を読めば、それなりの「答え」を言うことができるかもしれないが)、それはどうでもいいのだ。合致しているかどうかはどうでもいいのだ。合致していようがしていまいが「沈黙の形」ということばで話者が「反復」したということにかわりはない。
「反復」は、ベンヤミンへ近づくことか、遠ざかることか。近づきながら、遠ざかるという「矛盾」を生きることである。話者がベンヤミンそのもののことばになってしまえば、それはベンヤミンではなく話者であるということができる。それはベンヤミンではなくなる。また、ベンヤミンから遠ざかりながら話者自身の思考を突き進めてゆけば、ベンヤミンから遠ざかることになるのかといえば、そうではない。出発点がベンヤミンなら、そのことばがどこまで動いてゆこうがそれはベンヤミンが考えたかもしれないことばの行く末である。遠ざかったつもりでも、それはそこにいないベンヤミンのより近づくことである。
「分離」と「反復」は、「矛盾」にしかたどりつけないのである。言い換えると「思想」になるかしかないのである。いつでもことばは、矛盾の中で思想になってしまうのである。--というのは、ちょっと先を急いだ乱暴なことばだけれど。
詩のつづき。
風が葉叢をそよがせ、鳥は鳴き獣たちは吠える。そのようにして彼らは嘆き、かつ沈黙しているのであろう。
「鳥は鳴き獣たちは吠える。」はたしかに鳥たちの嘆き、獣たちの嘆きかもしれない。そしてそれが「沈黙」という形に見えるのは、実は、話者がその「音」を話者自身のことばに翻訳(?)できないからである。つまり「反復」できないからである。「分離」を感じ、話者のことば自身が「沈黙」していることになる。
それはそれとして。
「風が葉叢をそよがせ、」はどうなるだろう。このとき嘆いているのは「風」なのか、それとも「葉叢」なのか。沈黙しているのは「風」なのか、それとも「葉叢」なのか。わからない。そうして、わからないと感じた瞬間、繰り返しになるが、「鳥は鳴き獣たちは吠える」とき「沈黙」しているのは鳥なのか獣なのか、あるいは「話者」なのかわからなくなる。
このあとが、おもしろい。
私はその嘆きをいっそう深く沈黙させるために、自らをそれらの沈黙者たちの列に埋め込む。
風・葉叢・鳥・獣という「自然」の「沈黙(嘆き)」を、さらに深く沈黙させる--強く実感するということだろう--ために、自らをその沈黙者たちに埋め込む。その「埋め込み」は「分離」ではなく「接着」のように見える。自らを埋め込むことで、風・葉叢・鳥・獣という「自然」を強くつなぎとめるように見える。(瀬尾のことばが「粘着力」を発揮するのはこういうときである。)
しかし、そうなのか?
私はその嘆きをいっそう深く沈黙させるために、自らをそれらの沈黙者たちの列に埋め込む。
このことばは「沈黙」ではない。これはうるさいくらいに「論理的」なことばの運動である。「沈黙」とは正反対のものである。
「沈黙」に埋め込むことができるのは「沈黙」ではなく、「饒舌」なのだ。
「矛盾」である。「矛盾」だから、そこに「思想」がある。
私はその嘆きをいっそう深く沈黙させるために、自らをそれらの沈黙者たちの列に埋め込む。
この「矛盾」は、しかし、どういえばいいのだろう。「文学」の宿命である。
閑かさや岩にしみいる蝉の声 芭蕉
を、私は、ふいに思い出してしまうのだ。
ベンヤミンのことばは芭蕉を念頭においてはいないだろう。瀬尾のことばも芭蕉を念頭においてはいないだろう。私も、芭蕉のことばを最初から考えていたわけではない。けれど、突然、芭蕉によって、瀬尾のことばを「分離」してみたくなったのである。そうして「反復」してみたくなったのである。芭蕉の中にある「分離」と「反復」、そしてそのふたつが「閑かさ」、つまり「沈黙」を深めている、いっそう深く閑か(沈黙)という状態を刻印していると感じるからである。
私の感想は、どんどん瀬尾のことばから離れて行ってしまうかもしれない。「誤読」が「誤読」を通り越して、単なることばの暴走になってしまっているかもしれない。
瀬尾のことばが、私のなかのことばの「分離」と「反復」を誘発し、そして増幅させているのかもしれない。
詩的間伐―対話2002‐2009 | |
稲川 方人,瀬尾 育生 | |
思潮社 |