三井葉子『灯色醗酵』(2)(思潮社、2011年07月30日発行)
「夕凪」は美しい作品だ。「ことば」とともに生きる三井の姿をくっきりと浮かび上がらせる。そして、そこにはとても不思議なことばがある。
「ことば」ということばが書かれている。そして、「ことばは消えることができる」と書いている。
ことばが消える?
三井は、ことばを書いている。それなのに、ことばが消える?
消えたのは、どのことば?
どんなふうに、消える?
人は誰でも、大事なことは、何度でも言いなおす--と私は信じている。「ことばが消える」は、この詩では、どの「言い直し」なのだろうか。
直前の3行。
この3行のうちの、「たそがれひとり戸に立ち寄りて切なくきみを思はざらめや」は三井のことばではない。三井が註釈で書いているが「三世紀中国の女詩人・子夜」のことばである。
たそがれに外に出て戸口に立つ。そしてきみを思う--そのことばを、三井は「ことば」で繰り返すのではなく、「肉体」で繰り返す。そのことばにあるように、自分の「肉体」を戸口に立たせる。そして、きみを思ってみる。
「知っていることば」を「肉体」で繰り返してみる。そのことを三井は「覚えた」と書いている。
知っている→覚えた→分かった
ことばは、たぶん三井の「肉体」のなかで、そんなふうに動く。
子夜の詩を読む。それは子夜のことばを「知る」こと。「意味」も「頭」で「知る」ことができる。そして、それを暗記し、「頭」で「覚える」こともできる。けれど、三井がここで書いている「覚える」は「暗記」ではない。「頭」の問題ではない。
「肉体」で「覚える」のである。「肉体」で「知る」のである。
あまりよい例ではないが、たとえば酒を「覚える」、セックスの悦びを「覚える」というようなことばの使い方がある。変なことを「覚える」と、いつ、そんなことを「覚えた」と叱られる。誰に教えられた、とも批判されたりする。けれど、誰に教えられるわけでもないけれど「覚える」ことがある。
ここでこういう例を書いていいのかどうかよくわからないが、動物の場合、誰に何を教えられるわけでもないのに、すべてを「知っている」。それは「分かっている」といっしょになっている。それは遺伝子(?)をつうじて「肉体」に組み込まれている。「肉体」が「覚えている」ということかもしれない。動物の場合、「知っている=覚えている=わかっている」ということなのかもしれない。
その動物の「本能」のようなものが、やはり「動物」である人間にもそなわっていて、誰におそわったわげでもないのに、なんとなく知ってしまったこと、覚えてしまったこと、そしてわかってしまったことがある。
「肉体」が「肉体」をそそのかすのかもしれない。
それがどういう形をとるのであれ、私たちは「肉体」をくぐりぬけて、「分かる」。「肉体」をとおして、「わかる」。
人間の「知る=覚える=分かる」は「悟る」ということかもしれない。
「悟る」を例にするといちばんいいのかもしれない。「悟り」は、ことばでは言えない。「分かりすぎていて」、それは「頭」で「整理」する必要がない。「頭」で論理的に組み立てて納得する必要がない。
「悟り」の瞬間、「ことばは消える」。
戸口に立って、だれかを待つ。切ない気持ちで、立っている。
それは、「ことば」として「描写」できるけれど、実際に立っているときは、そんなことは「ことば」にはならない。そのとき、ことばになるのは「あの人は、どうしているだろう。あの角からもうすぐ姿をあらわすだろうか」とかなんとか、どうにもならないことである。「切なく」というような「ことば」も消える。それは、「他人」につたえるこめのことばであって、「肉体」は「切ない」という「ことば」など必要としていないし、もっと違う、「ああでもない、こうでもない、くだくだ」を生きている。
このとき「悟り」とは遠い境地にいるように見えるが--そうではないのかもしれない。その瞬間「恋」というものがどういうものか、三井は「悟っている」。
だから、ことばは、消えるのだ。
「分かった」(悟った)瞬間から、「ことば」は消える。
たとえば、きのう読んだ「灯色醗酵」では、三井は「善人なを……」という「ことば」を知った。そして、それが「価値をつくること」「虚構」というものであると「分かった」(悟った)。その瞬間、三井の意識(肉体、と私は言いたいのだが)から「親鸞のことば」が消えた。三井がM氏に話したのは「価値をつくる」「世界をつくる」「虚構」という、三井のことばである。親鸞のことばは、その三井のことばによって遠ざけられている。消されてしまっている。そして、親鸞のことばが「消えた」とき、そこに、親鸞-三井を結ぶ「宗教」というもうひとつのことば(M氏のことば)が生まれる。
「夕凪」に戻る。
言葉が消えるとき、「わたしは何を消したか」。--これをことばにするのは、とてもむずかしい。もう、ことばを必要としていないから。それでも、三井はそれをことばにしようとしている。ことばにして確かめようとしている。
「とぶように逃げていく時」と「(それ)に立ちはだかって/失うもの」。
これは「ことば」になりきれていない。言い換え(説明)になっていないが、この「矛盾」とも呼べない「矛盾」のなかに、三井の言いたいことがあるのだと、私は感じる。私は「分かる」--だから、「分かった」ふりをして「誤読」する。
「とぶように逃げて行く時」の「時」は、英語でいうwhenではなくtimeだろう。「分かる(悟る)」一瞬、そこには「ことば」はないが、「時間」もない。「永遠」にむかって開かれた「時間」がある。「いま」なのに「いま」なのではなく、その「いま」は「過去」へも「未来」へも開かれている。「永遠」のなかに溶け込んでしまう。
「永遠」というとかっこいいけれど(理想のように見えるけれど)、そんなふうに「いま」「過去」「未来」の境目を失ってしまうというのは、やはり、どうもおかしい。人間は「いま」を生きていかなければならない。「いま」が「永遠」であるというのは「矛盾」なのである。
だから、何かが「永遠」を拒もうとする。「いま」に立ち止まろうとする。「いま」にこだわろうとする。「いま」を「いま」と叫ぼうとする。それは「肉体」と言い換えることができると思う。「肉体」には「いま」しかないのだ。
その「肉体」さえも、「分かる」瞬間、「ことば」は失ってしまう。「分かる」瞬間、「分かったこと(悟り)」に「肉体」さえもあずけてしまうのだ。「ことば」に。けっして語られることのない「ことば」に。
「悟り」として語られる「ことば」は「悟り」ではない。「悟り」は「ことば」を超えている。三井は「悟り」ということばをつかっていないので、それをふたたび「分かる」に戻すと、「分かる」(分かったこと)というのは、ことばにならないのだ。「分かる」瞬間、何もかもが消える。「肉体」は「いま/ここ」にあるけれど、その「肉体」の感覚さえ消えてしまう。
そして、「消えることば」によって「肉体」は抱きしめられる。
この「悟り」に似た至福の瞬間を、三井は「愉楽」と呼んでいる。
それは、きょう見た「夕凪」に似ている--と三井は、この詩で書いているのだ。
何もかもが「輪郭」(境目)をなくして、ぼんやりとまじりあう。溶け合う。
三井は三井を「分かっている」。そして「分かっている」ことを書くことができる。「分かっている」ことを書いているから、そのことばは、どこまでも自在にひろがりを獲得する。三井語の世界に踏み込むと、「世界」の輪郭が消える。--その愉悦。
「夕凪」は美しい作品だ。「ことば」とともに生きる三井の姿をくっきりと浮かび上がらせる。そして、そこにはとても不思議なことばがある。
海は
凪をあそんでいる
かすみ立ち かすみ消えるあの凪に誰か雑(ま)じることがあるのだろうか
ことば と、わたしは呼んでみる
たそがれひとり戸に立ち寄りて切なくきみを思はざらめや と
わたしも外に出て
戸口に立つことも覚えたのだ
ことばは消えることができる
わたしは何を消したのだろう
とぶように逃げて行く時(とき) に立ちはだかって
失うものを
あずけたのではないか
ことばに
ことばは消える
ことばは抱きしめる
そんな愉悦の
夕凪の
とき
を
ねえ
誰か覚えてる?
「ことば」ということばが書かれている。そして、「ことばは消えることができる」と書いている。
ことばが消える?
三井は、ことばを書いている。それなのに、ことばが消える?
消えたのは、どのことば?
どんなふうに、消える?
人は誰でも、大事なことは、何度でも言いなおす--と私は信じている。「ことばが消える」は、この詩では、どの「言い直し」なのだろうか。
直前の3行。
たそがれひとり戸に立ち寄りて切なくきみを思はざらめや と
わたしも外に出て
戸口に立つことも覚えたのだ
この3行のうちの、「たそがれひとり戸に立ち寄りて切なくきみを思はざらめや」は三井のことばではない。三井が註釈で書いているが「三世紀中国の女詩人・子夜」のことばである。
たそがれに外に出て戸口に立つ。そしてきみを思う--そのことばを、三井は「ことば」で繰り返すのではなく、「肉体」で繰り返す。そのことばにあるように、自分の「肉体」を戸口に立たせる。そして、きみを思ってみる。
「知っていることば」を「肉体」で繰り返してみる。そのことを三井は「覚えた」と書いている。
知っている→覚えた→分かった
ことばは、たぶん三井の「肉体」のなかで、そんなふうに動く。
子夜の詩を読む。それは子夜のことばを「知る」こと。「意味」も「頭」で「知る」ことができる。そして、それを暗記し、「頭」で「覚える」こともできる。けれど、三井がここで書いている「覚える」は「暗記」ではない。「頭」の問題ではない。
「肉体」で「覚える」のである。「肉体」で「知る」のである。
あまりよい例ではないが、たとえば酒を「覚える」、セックスの悦びを「覚える」というようなことばの使い方がある。変なことを「覚える」と、いつ、そんなことを「覚えた」と叱られる。誰に教えられた、とも批判されたりする。けれど、誰に教えられるわけでもないけれど「覚える」ことがある。
ここでこういう例を書いていいのかどうかよくわからないが、動物の場合、誰に何を教えられるわけでもないのに、すべてを「知っている」。それは「分かっている」といっしょになっている。それは遺伝子(?)をつうじて「肉体」に組み込まれている。「肉体」が「覚えている」ということかもしれない。動物の場合、「知っている=覚えている=わかっている」ということなのかもしれない。
その動物の「本能」のようなものが、やはり「動物」である人間にもそなわっていて、誰におそわったわげでもないのに、なんとなく知ってしまったこと、覚えてしまったこと、そしてわかってしまったことがある。
「肉体」が「肉体」をそそのかすのかもしれない。
それがどういう形をとるのであれ、私たちは「肉体」をくぐりぬけて、「分かる」。「肉体」をとおして、「わかる」。
人間の「知る=覚える=分かる」は「悟る」ということかもしれない。
「悟る」を例にするといちばんいいのかもしれない。「悟り」は、ことばでは言えない。「分かりすぎていて」、それは「頭」で「整理」する必要がない。「頭」で論理的に組み立てて納得する必要がない。
「悟り」の瞬間、「ことばは消える」。
戸口に立って、だれかを待つ。切ない気持ちで、立っている。
それは、「ことば」として「描写」できるけれど、実際に立っているときは、そんなことは「ことば」にはならない。そのとき、ことばになるのは「あの人は、どうしているだろう。あの角からもうすぐ姿をあらわすだろうか」とかなんとか、どうにもならないことである。「切なく」というような「ことば」も消える。それは、「他人」につたえるこめのことばであって、「肉体」は「切ない」という「ことば」など必要としていないし、もっと違う、「ああでもない、こうでもない、くだくだ」を生きている。
このとき「悟り」とは遠い境地にいるように見えるが--そうではないのかもしれない。その瞬間「恋」というものがどういうものか、三井は「悟っている」。
だから、ことばは、消えるのだ。
「分かった」(悟った)瞬間から、「ことば」は消える。
たとえば、きのう読んだ「灯色醗酵」では、三井は「善人なを……」という「ことば」を知った。そして、それが「価値をつくること」「虚構」というものであると「分かった」(悟った)。その瞬間、三井の意識(肉体、と私は言いたいのだが)から「親鸞のことば」が消えた。三井がM氏に話したのは「価値をつくる」「世界をつくる」「虚構」という、三井のことばである。親鸞のことばは、その三井のことばによって遠ざけられている。消されてしまっている。そして、親鸞のことばが「消えた」とき、そこに、親鸞-三井を結ぶ「宗教」というもうひとつのことば(M氏のことば)が生まれる。
「夕凪」に戻る。
ことばは消えることができる
わたしは何を消したのだろう
とぶように逃げて行く時(とき) に立ちはだかって
失うものを
あずけたのではないか
ことばに
言葉が消えるとき、「わたしは何を消したか」。--これをことばにするのは、とてもむずかしい。もう、ことばを必要としていないから。それでも、三井はそれをことばにしようとしている。ことばにして確かめようとしている。
「とぶように逃げていく時」と「(それ)に立ちはだかって/失うもの」。
これは「ことば」になりきれていない。言い換え(説明)になっていないが、この「矛盾」とも呼べない「矛盾」のなかに、三井の言いたいことがあるのだと、私は感じる。私は「分かる」--だから、「分かった」ふりをして「誤読」する。
「とぶように逃げて行く時」の「時」は、英語でいうwhenではなくtimeだろう。「分かる(悟る)」一瞬、そこには「ことば」はないが、「時間」もない。「永遠」にむかって開かれた「時間」がある。「いま」なのに「いま」なのではなく、その「いま」は「過去」へも「未来」へも開かれている。「永遠」のなかに溶け込んでしまう。
「永遠」というとかっこいいけれど(理想のように見えるけれど)、そんなふうに「いま」「過去」「未来」の境目を失ってしまうというのは、やはり、どうもおかしい。人間は「いま」を生きていかなければならない。「いま」が「永遠」であるというのは「矛盾」なのである。
だから、何かが「永遠」を拒もうとする。「いま」に立ち止まろうとする。「いま」にこだわろうとする。「いま」を「いま」と叫ぼうとする。それは「肉体」と言い換えることができると思う。「肉体」には「いま」しかないのだ。
その「肉体」さえも、「分かる」瞬間、「ことば」は失ってしまう。「分かる」瞬間、「分かったこと(悟り)」に「肉体」さえもあずけてしまうのだ。「ことば」に。けっして語られることのない「ことば」に。
「悟り」として語られる「ことば」は「悟り」ではない。「悟り」は「ことば」を超えている。三井は「悟り」ということばをつかっていないので、それをふたたび「分かる」に戻すと、「分かる」(分かったこと)というのは、ことばにならないのだ。「分かる」瞬間、何もかもが消える。「肉体」は「いま/ここ」にあるけれど、その「肉体」の感覚さえ消えてしまう。
そして、「消えることば」によって「肉体」は抱きしめられる。
この「悟り」に似た至福の瞬間を、三井は「愉楽」と呼んでいる。
それは、きょう見た「夕凪」に似ている--と三井は、この詩で書いているのだ。
何もかもが「輪郭」(境目)をなくして、ぼんやりとまじりあう。溶け合う。
三井は三井を「分かっている」。そして「分かっている」ことを書くことができる。「分かっている」ことを書いているから、そのことばは、どこまでも自在にひろがりを獲得する。三井語の世界に踏み込むと、「世界」の輪郭が消える。--その愉悦。
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