岡本勝人『古都巡礼のカルテット』(思潮社、2011年05月31日発行)
岡本勝人『古都巡礼のカルテット』はタイトルどおり古都を旅する詩集である。おもしろいのは、その詩集が「古都」から始まらないことである。
突然、「誰がために鐘は鳴る」という「古都」とは無関係なものから始まる。しかし、それは何やら私の知らないものを経めぐって、「釈尊」という「古都」につながるもの--私が「古都」と関連づけているものへと辿り着く。
これ、何?
私にはさっぱりわからない。さっぱりわからないのは、そこに書かれているいくつかのことばの「意味」を知らないからだ。はじめて読むからだ。ジョン・ダンの「島」は
へえーっ。
でも、それを、私は私自身とどう結びつけていいかわからない。「知る」、「知ったこと」が、「わかる」になるまでには時間がかかるのだ。そのことばに相当する「体験」をしないことには、「わかる」というところまで辿り着けない。
で、ぜんぜん「わからない」のだけれど、その「わからないこと」をとおして「わかること」もある。
そうか、岡本はヘミングウェイもジョン・ダンも読んでいる。そしてジョン・ダンの詩については、ただ読むだけではなく、ていねいにことばの「意味」をジョン・ダンの文脈のなかで把握している。
さらには、島ということばを手がかりに、英語、サンスクリット語をたぐりよせながら、そのことばの偶然の重なり(?)からインスピレーションに導かれて、釈尊(仏教)を岡本の「肉体」のなかに取り込むところまで理解している。
この詩には、岡本の「知識」が「肉体」となって動いている。--そういうことが、「わかる」。この「わかる」は、そこに書かれていることは、私の知らないことであるばかりか、「わからないこと」であると「わかる」ことでもある。
で、「わからないこと」に出会ったとき、それでは「わからないまま」かというとちょっと違う。「わからないまま」でも、先に書いたように「わかる」ことがある。岡本がどういう人間であるか、ということは「わかる」のだ。
これが、私にとっては、とても重要なのである。
一昨日、昨日と森川雅美、村嶋正浩の詩を読んだが、私には結局のところ森川雅美は「わからない」。ことばは全部知っていることばだし、私なりに「意味」を語ることはできる。けれど「わからない」。村嶋正浩は、ことばの音が「わかる」。その「わかる」音をとおして村嶋がかろうじて「わかる」。
岡本は、そのふたりのことばとはまったく違うことばを生きている。そして、そのことばは、私の「知らない」ことばが中心となっている。だから、何も「わからない」のだが、その岡本の書くことばと「肉体」が密接につながっているということが「信じられる」。
何がどう違うのだ、と問われれば答えに困るのだけれど、岡本のことばは「わからない」けれど、「信じる」ことができる。「わからない」ゆえに、「信じる」ことができる。それは、こどもが両親のいうことに対して、何も理解していないにもかかわらず、そこから何かが「わかる」というのに似ている。「わからない」まま「信じる」。そうやって、つくられていく「肉体」があり、「ことば」がある。
先の1連目につづいて、2連目は次の行の展開となる。
これはジョン・ダンの詩の引用なのか。あるいは釈尊のことばの引用なのか。無知な私には「わからない」。けれど、1連目のようなことばの「語源」をたどりなおした岡本にとっては、これは岡本自身の「肉体」である。
その「肉体」のなかには、1連目には書かれていなかったことばがあって、ここではそれが唐突に噴出してきている。「肉体」を破って噴出してきている。
「法」。
それは「決まり」であり「哲理」であり「真理」ということなのだろう。
そんなことは、岡本はここに書いていないが「わかる」。「わかる」というのは、法、哲理、真理--というものを岡本が「肉体化」しているということが「わかる」という意味である。
ことばの意味、あるいは語源のなかにひそんでいるものを探しつづけて、ことばとことばが出会うたびに、ひとつのことばでは明らかにできなものを浮かび上がらせる。そういう「体験」を岡本は「肉体化」して、そのうえでことばを動かしている。その強靱な「肉体」としてのことばが、ゆるぎなく動いている。
旅をする--新しい土地に触れる、というのは、新しいことばにであうのとほとんど同じである。新しく見たもの(はじめて見たもの)がことばを刺激し、ことばの「組み立てなおし」(解体と再構築--というのが今風のいいかたになののかな?)を迫る。
いままでの「ことば」ではとらえることのできないものがそこにあるからだ。
その、ことばの組み立てなおし(解体と再構築、脱構築と再構築?)を、岡本は「古都」をめぐりながら、これからはじめるのだ。
「古都」への旅がことばの点検から始まる、「誰がために鐘は鳴る」という岡本のものではないこば、しかし、岡本の「肉体」のなかでなじんでいることばの点検から始まるのは、きちんと「理由」、「根拠」があるのだ。
だれの「肉体」のなかにも、自分のことばと他人のことばがある。見極めながら、自分のことばをていねいにたぐりよせる、あるいは生まれてくるまでゆっくり動く必要がある。
岡本が、そういうことをしているということが、最初の1連目、そして2連目を読んだだけで伝わってくる。
岡本の「肉体化したことば(ことばの肉体)」は「新しいことば」を必然的に生み出す。途中を省略してしまうが、最初の詩では、次の部分。
「想像」「想起」「表象」が、新しく「定義」されている。その「定義」はだれそれの「定義」と似ているかもしれない。まったく新しい「定義」ではないかもしれない。けれど、そのひとつひとつが岡本の「肉体」が直接触れた「熊野」の光景・風土・習慣と重なるとき、それは岡本の「肉体」だけが語ることのできる何ものかを内に抱え込んでいる。その何ものかがあたらしい「ことばの肉体」のなかで、さらに次の「肉体としてのことば」を生み出していく。
もう、岡本は「熊野」にこだわらない。そこが「杉並区」であろうが、あるいはニューヨークであろうが、岡本の「肉体」のなかには「古都」が存在しているから(古都が肉体かされているから)、その「肉体」は、次々に「新しいことば」を生み出していくのである。
いまと交わり、過去と交わり、つぎつぎに生み出すことで、生まれ変わるのである。
この「肉体」の変遷はとても刺激的である。
岡本勝人『古都巡礼のカルテット』はタイトルどおり古都を旅する詩集である。おもしろいのは、その詩集が「古都」から始まらないことである。
「誰がために鐘は鳴る」という詩がある
ヘミングウェイの小説のタイトルにもなった
詩人で僧侶のジョン・ダンの詩だ
その詩のなかの「島」(Island)は
「なにびとも一島嶼ではない」という意味の島で
「こころのよるべとなる島」は
つながりのある土地の意味だ
インド・ヨーロッパ語に属するサンスクリット語では
島(ディーパ)の語意は燈明(ディーパ)と訳せた
すべては
諸要素のあつまりに過ぎないから
すべては過ぎ去るものであるから
みずからを燈明(ともしび)とし
みずからを島とせよ
釈尊は甘露のふる地上で星になった
突然、「誰がために鐘は鳴る」という「古都」とは無関係なものから始まる。しかし、それは何やら私の知らないものを経めぐって、「釈尊」という「古都」につながるもの--私が「古都」と関連づけているものへと辿り着く。
これ、何?
私にはさっぱりわからない。さっぱりわからないのは、そこに書かれているいくつかのことばの「意味」を知らないからだ。はじめて読むからだ。ジョン・ダンの「島」は
「なにびとも一島嶼ではない」という意味の島
へえーっ。
でも、それを、私は私自身とどう結びつけていいかわからない。「知る」、「知ったこと」が、「わかる」になるまでには時間がかかるのだ。そのことばに相当する「体験」をしないことには、「わかる」というところまで辿り着けない。
で、ぜんぜん「わからない」のだけれど、その「わからないこと」をとおして「わかること」もある。
そうか、岡本はヘミングウェイもジョン・ダンも読んでいる。そしてジョン・ダンの詩については、ただ読むだけではなく、ていねいにことばの「意味」をジョン・ダンの文脈のなかで把握している。
さらには、島ということばを手がかりに、英語、サンスクリット語をたぐりよせながら、そのことばの偶然の重なり(?)からインスピレーションに導かれて、釈尊(仏教)を岡本の「肉体」のなかに取り込むところまで理解している。
この詩には、岡本の「知識」が「肉体」となって動いている。--そういうことが、「わかる」。この「わかる」は、そこに書かれていることは、私の知らないことであるばかりか、「わからないこと」であると「わかる」ことでもある。
で、「わからないこと」に出会ったとき、それでは「わからないまま」かというとちょっと違う。「わからないまま」でも、先に書いたように「わかる」ことがある。岡本がどういう人間であるか、ということは「わかる」のだ。
これが、私にとっては、とても重要なのである。
一昨日、昨日と森川雅美、村嶋正浩の詩を読んだが、私には結局のところ森川雅美は「わからない」。ことばは全部知っていることばだし、私なりに「意味」を語ることはできる。けれど「わからない」。村嶋正浩は、ことばの音が「わかる」。その「わかる」音をとおして村嶋がかろうじて「わかる」。
岡本は、そのふたりのことばとはまったく違うことばを生きている。そして、そのことばは、私の「知らない」ことばが中心となっている。だから、何も「わからない」のだが、その岡本の書くことばと「肉体」が密接につながっているということが「信じられる」。
何がどう違うのだ、と問われれば答えに困るのだけれど、岡本のことばは「わからない」けれど、「信じる」ことができる。「わからない」ゆえに、「信じる」ことができる。それは、こどもが両親のいうことに対して、何も理解していないにもかかわらず、そこから何かが「わかる」というのに似ている。「わからない」まま「信じる」。そうやって、つくられていく「肉体」があり、「ことば」がある。
先の1連目につづいて、2連目は次の行の展開となる。
この世でみずからを島とし
みずからをたよりとして
他人をたよりとせず
法を島とし
法をよりどころとして
他のものをよりどころとせずにあれ
これはジョン・ダンの詩の引用なのか。あるいは釈尊のことばの引用なのか。無知な私には「わからない」。けれど、1連目のようなことばの「語源」をたどりなおした岡本にとっては、これは岡本自身の「肉体」である。
その「肉体」のなかには、1連目には書かれていなかったことばがあって、ここではそれが唐突に噴出してきている。「肉体」を破って噴出してきている。
「法」。
それは「決まり」であり「哲理」であり「真理」ということなのだろう。
そんなことは、岡本はここに書いていないが「わかる」。「わかる」というのは、法、哲理、真理--というものを岡本が「肉体化」しているということが「わかる」という意味である。
ことばの意味、あるいは語源のなかにひそんでいるものを探しつづけて、ことばとことばが出会うたびに、ひとつのことばでは明らかにできなものを浮かび上がらせる。そういう「体験」を岡本は「肉体化」して、そのうえでことばを動かしている。その強靱な「肉体」としてのことばが、ゆるぎなく動いている。
旅をする--新しい土地に触れる、というのは、新しいことばにであうのとほとんど同じである。新しく見たもの(はじめて見たもの)がことばを刺激し、ことばの「組み立てなおし」(解体と再構築--というのが今風のいいかたになののかな?)を迫る。
いままでの「ことば」ではとらえることのできないものがそこにあるからだ。
その、ことばの組み立てなおし(解体と再構築、脱構築と再構築?)を、岡本は「古都」をめぐりながら、これからはじめるのだ。
「古都」への旅がことばの点検から始まる、「誰がために鐘は鳴る」という岡本のものではないこば、しかし、岡本の「肉体」のなかでなじんでいることばの点検から始まるのは、きちんと「理由」、「根拠」があるのだ。
だれの「肉体」のなかにも、自分のことばと他人のことばがある。見極めながら、自分のことばをていねいにたぐりよせる、あるいは生まれてくるまでゆっくり動く必要がある。
岡本が、そういうことをしているということが、最初の1連目、そして2連目を読んだだけで伝わってくる。
岡本の「肉体化したことば(ことばの肉体)」は「新しいことば」を必然的に生み出す。途中を省略してしまうが、最初の詩では、次の部分。
<おれはひとりの修羅なのだ>
東北の詩人がビオラを弾く
想像とはないものを思うこと
夕暮れの山上都市に
桜の花弁がふる山の風の舌
無邪気な鳥は
空気をあらわす鳥だった
想起とは過去のものを思うこと
雨上がりのしめりけをおびた
熊野の古い道を水がさらさらと流れる
月のような顔の女が
水をあらわす魚を頭においた
表象とはいまあったものを思うこと
「想像」「想起」「表象」が、新しく「定義」されている。その「定義」はだれそれの「定義」と似ているかもしれない。まったく新しい「定義」ではないかもしれない。けれど、そのひとつひとつが岡本の「肉体」が直接触れた「熊野」の光景・風土・習慣と重なるとき、それは岡本の「肉体」だけが語ることのできる何ものかを内に抱え込んでいる。その何ものかがあたらしい「ことばの肉体」のなかで、さらに次の「肉体としてのことば」を生み出していく。
赤い太陽がしっとりと山のきわにかたむいておちる
透明な夕暮れの空
妖精が大地の石畳のうえで
穀物のみのりをかかえて口笛をふく
杉並区の道の両側にある共同墓地は
霊魂の歴史の一部である
もう、岡本は「熊野」にこだわらない。そこが「杉並区」であろうが、あるいはニューヨークであろうが、岡本の「肉体」のなかには「古都」が存在しているから(古都が肉体かされているから)、その「肉体」は、次々に「新しいことば」を生み出していくのである。
いまと交わり、過去と交わり、つぎつぎに生み出すことで、生まれ変わるのである。
東北の詩人はビオラを弾く
父さんがいて
母さんがいて
そして ぼくがいる
青春 朱夏 白秋 玄冬
青龍 朱雀 白虎 玄武
ひとは未知 みちて 物質となる
白い道をよぎって 意識よ 休息せよ
なぜか 東西南北
きみたち 無意識のゆくにまかせる
渇ーっ!という声が 響きわたる
この「肉体」の変遷はとても刺激的である。
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