詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小島きみ子『その人の唇を襲った火は』(3)

2011-08-31 23:59:59 | 詩集
小島きみ子『その人の唇を襲った火は』(3)(洪水企画、2011年06月15日発行)

 小島きみ子『その人の唇を襲った火は』には、いくつも不思議な「文」が出てくる。全部を数え上げていたらきりがない。
 詩集のタイトルとなっている「その人の唇を襲った火は」から、そのひとつ。

鳥の鳴き声は、「音」そのもので、音の意味を知ることはできない。耳をつんざく音の連なりの「音」の空間に存在するものは何か。鳥の声に点火されたものは、意味ではなく、人間という存在への「反応」だとしたら、この「音」は「誕生するもの」「現象するもの」が過去につけた光の跡かもしれない。

 私は考えてしまう。どう「誤読」すべきなのか、わからない。文をひとつひとつ、読んでいくことにする。

鳥の鳴き声は、「音」そのもので、音の意味を知ることはできない。

 この文の「主語」は何? だれ? だれが「知ることはできない」のか。「人は一般に」ということなのか。そして「音」と括弧でくくられたことばがあり、また括弧なしの音もある。その区別は? 括弧つきの「音」は抽象化された「音」、意識の中の「音」かもしれない。括弧なしの音は、鳥の鳴き声ということかもしれない。

耳をつんざく音の連なりの「音」の空間に存在するものは何か。

 「耳をつんざく音の連なり」とは、鳥の鳴き声の「連なり」のことである。「連なる」ということばが指し示すものは、複数の存在である。鳥の鳴き声は「連続している(連なっている)」が、それは実は複数の「音」から構成されている。そして、その鳴き声を構成する「音」のひとつひとつには「意味」はない。「意味」があるとすれば、それは「連なり方」(鳴き方)にあると言える。
 まあ、これはどうでもいいことで……。
 小島のことばがおもしろいのは、その「音」と「音」との「連なり(つながり)」を考えるとき、そこに「空間」ということばを持ち出すことである。「音」と「音」との「隔たり」。その「隔たり」をつなぎ、「つらなり」ができあがる。「空間」が「連なり」、「広がり」ができる。
 でも、それはほんとうに「空間」? 「音」がある。別の「音」がある。そのとき、そこには「空間」が必須のものか。ある「音」がある。「間」をおいて別の「音」が聴こえる。そのとき、その「間」は「空間」ではなく、「時間」である。「空間(ひろがり)」はなくても、「時間」さえあれば、「音」は連なり、鳥の鳴き声になる。

 最初に小島の詩を読んだとき、

「世界内のあり方」

 ということばに、私はつまずいた。そのことばを手がかりに、あれこれ考えた。
 「世界・内」というとき、小島は「空間」を考えているのかもしれない。
 けれど「ように」ということばを連ねて、「世界・内」へ入っていくとき、それは「空間」としての「内部」なのか。
 「空間」ではないのではないのか。
 「空間」ではない「間」を、とりあえず「時間」と仮定してみる。そして「時間」をつくるものを「私」という「人間」の運動と仮定してみる。そうすると、「時間」の「内部」へ入っていくとは、「私」の「運動」の「内部」へ入っていくことになる。
 「私」を動かし、動くことで生まれる「時間」。(運動のないところでは「時間」は計測されない。計測しても「意味」がない--というのは、私の「独断」かもしれないが……。)
 と、ここまで考えたとき、私には、「鳥の鳴き声」が「人間のことば」のように感じられる。「鳥の鳴き声」というのは「比喩」であって、ほんとうは「人間のことば」のことが、ここでは書かれているのだ。
 人間のことばは、分解していく(?)と、ひとつひとつの「音」のつらなりになる。「音」のひとつひとつには「意味」はない。そうであるなら、「つらなった音」である「ことば」に「意味」があると感じるのは「誤解」かもしれない。あるいは、そこに「意味」があると仮定して、では、その「意味」をつくっているのは何なのか。
 「音」と「音」との「空間(と小島は書く)」、その「音」と「音」の隔たりをつないでいるのは何なのか。
 それは、

鳥の声に点火されたものは、意味ではなく、人間という存在への「反応」だ

 鳥の声を動かしている(ことばを動かしている)のは、意味ではなく、人間が存在することによって動きはじめる「人間」そのものへの反応である。
 あ、なんだか、わかったようで、わからないね。
 まあ、でも詩だから、これでいいのだ。
 「意味」が最初に「ある」のではなく、人間が存在することで、そして人間が何かに反応することで、そこから「音」が生まれる。そして、「音」がつらなり、「ことば」になる。--「意味」以前の、「反応」。「反応」としかいいようのない何かを、小島は書きたいのだ。

鳥の声に点火されたものは、意味ではなく、人間という存在への「反応」だとしたら、この「音」は「誕生するもの」「現象するもの」が過去につけた光の跡かもしれない。

 人間が存在し、「反応」すること、その繰り返しによって、「ことば」が成立する。「繰り返し」の「内部」には「意味」はない。そこには小島が「空間」と呼ぶものがあるだけである。そして「空間」のなかで繰り返される「連なり」が確定されるとき、「意味」は「連なる音(ことば)」の外部へあふれていく。
 私たちは、その「あふれてきた音の連なり(ことば)」を「ような(もの)」と把握し、「ような(もの)」を引き剥がし引き剥がし、「内部」へ下りてゆくとき、純粋な(?)「意味」を見出すということなのかな?
 そして、そこで私たちが見出すものは、

「誕生するもの」「現象するもの」が過去につけた光の跡

 ということになる。
 何これ? 「意味」がわからないね。いや、全体の「意味」はわからないが、気になることばがある。

過去

 「音の連なり(ことば)」には「過去」がある。
 「過去」とは「空間」ではなく、「時間」の領域に属することばである。
 「空間」を掘り下げていって、小島は「時間」を見出している。
 これは、どういうことか。
 小島には、「空間」と「時間」の区別が判然としていないということである。「空間」と「時間」は「越境」するのである。
 そして、この「越境」ということばを小島の詩の中心に置くと、小島の詩は「わかる」ような気がする。
 人間が「越境」する。「ことば」が「越境」する。

 小島の詩には、いろいろな「ことば」が引用されている。そのことばは、それぞれ「越境」の「過去」(時間)をもっている。その「ことば」にふれるとき、小島自身の「ことば」は一瞬「音」に還元される。
 他者のことばと小島のことばの「あいだ」が、「広がり」というよりも「深淵(深さ)」として出現する。その「深さ」を小島は掘り進むというよりも、「渡る」。架橋する。この橋渡しの感覚が、長さ(広さ)を呼び覚まし、「空間」を感じさせるのかもしれない。
 けれど「ことば」は「音」であり、それが「私」を中心としたどの「空間」から発せられているか(どこに存在するか)は、いつでも、どうでもいいことになる。どんなに遠くで発せられても、それを聴く(読む)とき、その「場」はいつも「私の場」になってしまう。
 「時間」も、実は、同じである。いつの時代のことばであろうと、それを読むとき、「いま」と「かつて」は隣り合うだけでなく、「一体」になる。
 「越境」は「一体」という形で動くのである。

言葉よ、存在せよ

 これは「その人の唇を襲った火は」の最後の部分の、「最後」を省略した形だが、小島は「言葉よ、存在せよ」と叫びながら詩を書いていることになる。
 「言葉よ、存在せよ」、そうすれば、私は「越境」できる。「越境」する運動のなかかに(内部に)、詩は、「……のような」という形で存在する。
 そして「……のような」の「ような」によって、「越境」は加速する。詩は燃焼し、閃光を放ちながら燃えつきる。消尽する。

 こういう閃光をともなうことばの運動は、私のように眼の悪い人間には、とてもつらい。肉体的に、とても負担が大きい。いくつもの光を見落として、眼にやさしい光だけを追ってしまうことになる。--申し訳ないが。








今月のお薦め
1 三井葉子『灯色醗酵』
2 斎藤恵子『海と夜祭』
3 柏原寛「なぎさの胚珠」
4 小島きみ子『その人の唇を襲った火は』
5 秋山基夫詩集(現代詩文庫)
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チャン・イーモウ監督「サンザシの樹の下で」(★★★★)

2011-08-31 19:34:05 | 映画
チャン・イーモウ監督「サンザシの樹の下で」(★★★★)

監督 チャン・イーモウ 出演 チョウ・ドンユィ、 ショーン・ドウ

 美しいシーンがいくつもあるが、やはり最初に見たシーンが一番印象的だ。
 少女と青年が飛び石を伝って川を渡る。手をつなぐことをためらっている少女に青年が木の枝を差し出す。木の枝をはさんでの結びつき。川を渡ってからも、ふたりは枝を捨てない。両端の手が次第に近づく。青年の手が少女の手に近づいていく。そっと手に触れる。少女はそれを拒まない。手と手が触れ合って、手を握って、枝は捨てられる。この無言のクローズアップが美しい。
 こんな純愛がいまどきあるはずがない――かもしれない。
 それでは、いつなら、こういう純愛があるのか。
 チャン・イーモウは、文革の嵐が吹き荒れていた1970年代を舞台にしている。これは二重の意味で驚かされる。文革はなんども映画に描かれているが、それは文革を告発するものであった。この映画も文革を告発はしているが、声高ではない。描き方が静かである。これが驚きのひとつ。そして、もうひとつは、文革の時代にも文革とは無関係(?)に恋愛があった、ということである。恋愛に「時代」は関係ない、人間はいつでも恋愛をしてしまうというのは「本能」だから当たり前なのかもしれないが、その「当たり前」を当り前ではない時代を舞台にしたところに驚いてしまう。
文革の定義(とらえ方)はいろいろあるだろうが、チャン・イーモウは、文革を「人が人を監視する」時代ととらえた。「人が人を監視する」という状況のなかで、どうやって恋愛をするか。恋愛というのは個人的なものである。他人を排除して成立するものである。ところが、文革は「人が人を監視する」ということをとおして「個人的なもの」を「ブルジョア的なもの」(走資派)として排除しようとする。恋愛がのびやかに育ちにくい状況である。
 だからなのか。純愛、なのである。
 そして、この純愛のように、文革の時代にも、普通の暮らしはあったのだ。純愛が、普通の暮らしの、一番純粋な暮らしにみえてくる。人は、どういうときでも「美しく」生きるものである。
その象徴的なシーンが「サンザシの洗面器」。洗面器に模様が描いてあるなんて、なんて「ブルジョア的」。だって、洗面器に絵が描いてあろうがなかろうが、洗面器の「機能」には無関係だからねえ。それでも、人は「美」を楽しむ。そして、青年はそれを見つけて、少女に「手品」をしてみせる。いいなあ。川を渡るときの小枝といい、洗面器といい、ひとはそこにあるものをつかって恋愛をする。気持ちをあらわすものなのだ。そしてそこに、必ず肉体の触れ合いがあるというのもいいなあ。
 美しいものを楽しむ――といえば、少女がつくる「金魚」もいいなあ。今見れば(現在の日本から見れば)、つまらないものかもしれない。けれど、恋愛をしているときには、つまらないものなどない。すべてが美しい。すべてが「気持ち」を代弁するからだ。「無言」のなかにこそ、「ことば」がある。――というのが、純愛の必須条件かもしれない。
 川をはさんで2人が歩くシーン。両岸での2人のパントマイム。――これは、まあ、テオ・アンゲロプロスの「こうのとり、たちずさんで」の川をはさんでの結婚式へのオマージュだろうね。こういう「無言」のシーンはことばがスクリーンからあふれてくるね。
 それから。水遊びと自転車のシーンもいいなあ。ここでも「ことば」ははしゃぐ声だけ。それなのに、「ことば」があふれている。字幕が必要のない「ことば」、翻訳するひつようのない「ことば」。つまり、それは誰もがつかうことば、「肉体でおぼえたことば」だね。肉体関係なんて出てこないのに「肉体」の喜びがある。プラトニックとは、こういうことなのか、と思った。

 思い返せば。
 「紅いコーリャン」も純愛だったねえ。コン・リーが両天秤で弁当を男のところへ走って運ぶときの美しさ。それから、男がコーリャンを踏みつぶして畑の真ん中に初夜(真昼間だけれど)のベッドをつくるところ。実際のセックスをみるよりドキドキする。「肉体」の声が聞こえてくるからね。


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紀伊國屋書店
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大西若人「どこが『美人画』なのか」

2011-08-31 17:10:01 | その他(音楽、小説etc)
大西若人「どこが『美人画』なのか」(「朝日新聞」2011年08月31日夕刊)

 大西若人「どこが『美人画』なのか」は岡田三郎助の「あやめの衣」について書いた文章である。後ろ向きの、肩肌を脱いだ女性を描いているが、顔は見えない。それなのに「美人画」と言われている。それはなぜ?

 丸みのある顔のライン、赤みが差す耳や頬、そして、さまざまな色彩が重なり合ったきめ細かい素肌。確かに美しいが、着物の部分を隠してみると、急に魅力が減じはしないか。鮮やかな着物が美しいのも間違いないが、美人の根拠にはなりえない。

 「着物の部分を隠してみると、急に魅力が減じはないか。」という問題提起の形でのことばの動かし方が大西マジックである。「減じはしないか」という気取った(口語的ではない)ことばが、これから「大事なこと」を書くぞ、と告げている。
 そして、実際「大事なこと」(魅力的なことば)が次の段落で始まる。

 だが、両者の組み合わせの妙。完全なヌードでもなく、着衣でもない。右肩がのぞく構図は次の動きを想像させ、きぬ擦れまで聞こえそうだ。

 「両者の組み合わせの妙。」という体言止めで、ことばが加速する。「完全なヌードでもなく、着衣でもない。」と否定形をたたみかける。そして「右肩がのぞく構図は次の動きを想像させ、きぬ擦れまで聞こえそうだ。」の文の巧みさ。「想像させ」ということばで、絵を見るには想像力がいるのだと指摘した後、絵にはないもの(視覚では捉えられないもの)、つまり「きぬ擦れ」という「音」を聞かせようとする。聴覚を刺激する。芸術のなかで、人間の感覚が融合し、そこから絵を超える「美しさ」が噴出してくる。
 あ、絵よりも美しい。――絵より美しくていいのか、という疑問が常につきまとうのが大西の欠点(長所)である。

 今回の文章は、しかし不思議だねえ。最後の段落がつまらない。大西の文章でつまらないと感じたのは初めてのことなので、指摘しておく。

 ヌードでもなければ、着衣でもない。顔も見えない。否定形の積み重ねの果てに、大いなる美が肯定されている。

 これは、私が引用した二つ目の段落の繰り返しである。「完全なヌードでもなく、着衣でもない。」「ヌードでもなければ、着衣でもない。」の繰り返しは、あまりにもことばが重なりすぎるし、「否定形の積み重ねの果てに、大いなる美が肯定されている。」という美の数学は、せっかく「きぬ擦れまで聞こえそうだ。」と書いたときの、「聴覚」の存在を見えなくしてしまっている。
書きすぎて、「美」が傷ついてしまった。


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