小島きみ子『その人の唇を襲った火は』(3)(洪水企画、2011年06月15日発行)
小島きみ子『その人の唇を襲った火は』には、いくつも不思議な「文」が出てくる。全部を数え上げていたらきりがない。
詩集のタイトルとなっている「その人の唇を襲った火は」から、そのひとつ。
私は考えてしまう。どう「誤読」すべきなのか、わからない。文をひとつひとつ、読んでいくことにする。
この文の「主語」は何? だれ? だれが「知ることはできない」のか。「人は一般に」ということなのか。そして「音」と括弧でくくられたことばがあり、また括弧なしの音もある。その区別は? 括弧つきの「音」は抽象化された「音」、意識の中の「音」かもしれない。括弧なしの音は、鳥の鳴き声ということかもしれない。
「耳をつんざく音の連なり」とは、鳥の鳴き声の「連なり」のことである。「連なる」ということばが指し示すものは、複数の存在である。鳥の鳴き声は「連続している(連なっている)」が、それは実は複数の「音」から構成されている。そして、その鳴き声を構成する「音」のひとつひとつには「意味」はない。「意味」があるとすれば、それは「連なり方」(鳴き方)にあると言える。
まあ、これはどうでもいいことで……。
小島のことばがおもしろいのは、その「音」と「音」との「連なり(つながり)」を考えるとき、そこに「空間」ということばを持ち出すことである。「音」と「音」との「隔たり」。その「隔たり」をつなぎ、「つらなり」ができあがる。「空間」が「連なり」、「広がり」ができる。
でも、それはほんとうに「空間」? 「音」がある。別の「音」がある。そのとき、そこには「空間」が必須のものか。ある「音」がある。「間」をおいて別の「音」が聴こえる。そのとき、その「間」は「空間」ではなく、「時間」である。「空間(ひろがり)」はなくても、「時間」さえあれば、「音」は連なり、鳥の鳴き声になる。
最初に小島の詩を読んだとき、
ということばに、私はつまずいた。そのことばを手がかりに、あれこれ考えた。
「世界・内」というとき、小島は「空間」を考えているのかもしれない。
けれど「ように」ということばを連ねて、「世界・内」へ入っていくとき、それは「空間」としての「内部」なのか。
「空間」ではないのではないのか。
「空間」ではない「間」を、とりあえず「時間」と仮定してみる。そして「時間」をつくるものを「私」という「人間」の運動と仮定してみる。そうすると、「時間」の「内部」へ入っていくとは、「私」の「運動」の「内部」へ入っていくことになる。
「私」を動かし、動くことで生まれる「時間」。(運動のないところでは「時間」は計測されない。計測しても「意味」がない--というのは、私の「独断」かもしれないが……。)
と、ここまで考えたとき、私には、「鳥の鳴き声」が「人間のことば」のように感じられる。「鳥の鳴き声」というのは「比喩」であって、ほんとうは「人間のことば」のことが、ここでは書かれているのだ。
人間のことばは、分解していく(?)と、ひとつひとつの「音」のつらなりになる。「音」のひとつひとつには「意味」はない。そうであるなら、「つらなった音」である「ことば」に「意味」があると感じるのは「誤解」かもしれない。あるいは、そこに「意味」があると仮定して、では、その「意味」をつくっているのは何なのか。
「音」と「音」との「空間(と小島は書く)」、その「音」と「音」の隔たりをつないでいるのは何なのか。
それは、
鳥の声を動かしている(ことばを動かしている)のは、意味ではなく、人間が存在することによって動きはじめる「人間」そのものへの反応である。
あ、なんだか、わかったようで、わからないね。
まあ、でも詩だから、これでいいのだ。
「意味」が最初に「ある」のではなく、人間が存在することで、そして人間が何かに反応することで、そこから「音」が生まれる。そして、「音」がつらなり、「ことば」になる。--「意味」以前の、「反応」。「反応」としかいいようのない何かを、小島は書きたいのだ。
人間が存在し、「反応」すること、その繰り返しによって、「ことば」が成立する。「繰り返し」の「内部」には「意味」はない。そこには小島が「空間」と呼ぶものがあるだけである。そして「空間」のなかで繰り返される「連なり」が確定されるとき、「意味」は「連なる音(ことば)」の外部へあふれていく。
私たちは、その「あふれてきた音の連なり(ことば)」を「ような(もの)」と把握し、「ような(もの)」を引き剥がし引き剥がし、「内部」へ下りてゆくとき、純粋な(?)「意味」を見出すということなのかな?
そして、そこで私たちが見出すものは、
ということになる。
何これ? 「意味」がわからないね。いや、全体の「意味」はわからないが、気になることばがある。
「音の連なり(ことば)」には「過去」がある。
「過去」とは「空間」ではなく、「時間」の領域に属することばである。
「空間」を掘り下げていって、小島は「時間」を見出している。
これは、どういうことか。
小島には、「空間」と「時間」の区別が判然としていないということである。「空間」と「時間」は「越境」するのである。
そして、この「越境」ということばを小島の詩の中心に置くと、小島の詩は「わかる」ような気がする。
人間が「越境」する。「ことば」が「越境」する。
小島の詩には、いろいろな「ことば」が引用されている。そのことばは、それぞれ「越境」の「過去」(時間)をもっている。その「ことば」にふれるとき、小島自身の「ことば」は一瞬「音」に還元される。
他者のことばと小島のことばの「あいだ」が、「広がり」というよりも「深淵(深さ)」として出現する。その「深さ」を小島は掘り進むというよりも、「渡る」。架橋する。この橋渡しの感覚が、長さ(広さ)を呼び覚まし、「空間」を感じさせるのかもしれない。
けれど「ことば」は「音」であり、それが「私」を中心としたどの「空間」から発せられているか(どこに存在するか)は、いつでも、どうでもいいことになる。どんなに遠くで発せられても、それを聴く(読む)とき、その「場」はいつも「私の場」になってしまう。
「時間」も、実は、同じである。いつの時代のことばであろうと、それを読むとき、「いま」と「かつて」は隣り合うだけでなく、「一体」になる。
「越境」は「一体」という形で動くのである。
これは「その人の唇を襲った火は」の最後の部分の、「最後」を省略した形だが、小島は「言葉よ、存在せよ」と叫びながら詩を書いていることになる。
「言葉よ、存在せよ」、そうすれば、私は「越境」できる。「越境」する運動のなかかに(内部に)、詩は、「……のような」という形で存在する。
そして「……のような」の「ような」によって、「越境」は加速する。詩は燃焼し、閃光を放ちながら燃えつきる。消尽する。
こういう閃光をともなうことばの運動は、私のように眼の悪い人間には、とてもつらい。肉体的に、とても負担が大きい。いくつもの光を見落として、眼にやさしい光だけを追ってしまうことになる。--申し訳ないが。
*
今月のお薦め
1 三井葉子『灯色醗酵』
2 斎藤恵子『海と夜祭』
3 柏原寛「なぎさの胚珠」
4 小島きみ子『その人の唇を襲った火は』
5 秋山基夫詩集(現代詩文庫)
小島きみ子『その人の唇を襲った火は』には、いくつも不思議な「文」が出てくる。全部を数え上げていたらきりがない。
詩集のタイトルとなっている「その人の唇を襲った火は」から、そのひとつ。
鳥の鳴き声は、「音」そのもので、音の意味を知ることはできない。耳をつんざく音の連なりの「音」の空間に存在するものは何か。鳥の声に点火されたものは、意味ではなく、人間という存在への「反応」だとしたら、この「音」は「誕生するもの」「現象するもの」が過去につけた光の跡かもしれない。
私は考えてしまう。どう「誤読」すべきなのか、わからない。文をひとつひとつ、読んでいくことにする。
鳥の鳴き声は、「音」そのもので、音の意味を知ることはできない。
この文の「主語」は何? だれ? だれが「知ることはできない」のか。「人は一般に」ということなのか。そして「音」と括弧でくくられたことばがあり、また括弧なしの音もある。その区別は? 括弧つきの「音」は抽象化された「音」、意識の中の「音」かもしれない。括弧なしの音は、鳥の鳴き声ということかもしれない。
耳をつんざく音の連なりの「音」の空間に存在するものは何か。
「耳をつんざく音の連なり」とは、鳥の鳴き声の「連なり」のことである。「連なる」ということばが指し示すものは、複数の存在である。鳥の鳴き声は「連続している(連なっている)」が、それは実は複数の「音」から構成されている。そして、その鳴き声を構成する「音」のひとつひとつには「意味」はない。「意味」があるとすれば、それは「連なり方」(鳴き方)にあると言える。
まあ、これはどうでもいいことで……。
小島のことばがおもしろいのは、その「音」と「音」との「連なり(つながり)」を考えるとき、そこに「空間」ということばを持ち出すことである。「音」と「音」との「隔たり」。その「隔たり」をつなぎ、「つらなり」ができあがる。「空間」が「連なり」、「広がり」ができる。
でも、それはほんとうに「空間」? 「音」がある。別の「音」がある。そのとき、そこには「空間」が必須のものか。ある「音」がある。「間」をおいて別の「音」が聴こえる。そのとき、その「間」は「空間」ではなく、「時間」である。「空間(ひろがり)」はなくても、「時間」さえあれば、「音」は連なり、鳥の鳴き声になる。
最初に小島の詩を読んだとき、
「世界内のあり方」
ということばに、私はつまずいた。そのことばを手がかりに、あれこれ考えた。
「世界・内」というとき、小島は「空間」を考えているのかもしれない。
けれど「ように」ということばを連ねて、「世界・内」へ入っていくとき、それは「空間」としての「内部」なのか。
「空間」ではないのではないのか。
「空間」ではない「間」を、とりあえず「時間」と仮定してみる。そして「時間」をつくるものを「私」という「人間」の運動と仮定してみる。そうすると、「時間」の「内部」へ入っていくとは、「私」の「運動」の「内部」へ入っていくことになる。
「私」を動かし、動くことで生まれる「時間」。(運動のないところでは「時間」は計測されない。計測しても「意味」がない--というのは、私の「独断」かもしれないが……。)
と、ここまで考えたとき、私には、「鳥の鳴き声」が「人間のことば」のように感じられる。「鳥の鳴き声」というのは「比喩」であって、ほんとうは「人間のことば」のことが、ここでは書かれているのだ。
人間のことばは、分解していく(?)と、ひとつひとつの「音」のつらなりになる。「音」のひとつひとつには「意味」はない。そうであるなら、「つらなった音」である「ことば」に「意味」があると感じるのは「誤解」かもしれない。あるいは、そこに「意味」があると仮定して、では、その「意味」をつくっているのは何なのか。
「音」と「音」との「空間(と小島は書く)」、その「音」と「音」の隔たりをつないでいるのは何なのか。
それは、
鳥の声に点火されたものは、意味ではなく、人間という存在への「反応」だ
鳥の声を動かしている(ことばを動かしている)のは、意味ではなく、人間が存在することによって動きはじめる「人間」そのものへの反応である。
あ、なんだか、わかったようで、わからないね。
まあ、でも詩だから、これでいいのだ。
「意味」が最初に「ある」のではなく、人間が存在することで、そして人間が何かに反応することで、そこから「音」が生まれる。そして、「音」がつらなり、「ことば」になる。--「意味」以前の、「反応」。「反応」としかいいようのない何かを、小島は書きたいのだ。
鳥の声に点火されたものは、意味ではなく、人間という存在への「反応」だとしたら、この「音」は「誕生するもの」「現象するもの」が過去につけた光の跡かもしれない。
人間が存在し、「反応」すること、その繰り返しによって、「ことば」が成立する。「繰り返し」の「内部」には「意味」はない。そこには小島が「空間」と呼ぶものがあるだけである。そして「空間」のなかで繰り返される「連なり」が確定されるとき、「意味」は「連なる音(ことば)」の外部へあふれていく。
私たちは、その「あふれてきた音の連なり(ことば)」を「ような(もの)」と把握し、「ような(もの)」を引き剥がし引き剥がし、「内部」へ下りてゆくとき、純粋な(?)「意味」を見出すということなのかな?
そして、そこで私たちが見出すものは、
「誕生するもの」「現象するもの」が過去につけた光の跡
ということになる。
何これ? 「意味」がわからないね。いや、全体の「意味」はわからないが、気になることばがある。
過去
「音の連なり(ことば)」には「過去」がある。
「過去」とは「空間」ではなく、「時間」の領域に属することばである。
「空間」を掘り下げていって、小島は「時間」を見出している。
これは、どういうことか。
小島には、「空間」と「時間」の区別が判然としていないということである。「空間」と「時間」は「越境」するのである。
そして、この「越境」ということばを小島の詩の中心に置くと、小島の詩は「わかる」ような気がする。
人間が「越境」する。「ことば」が「越境」する。
小島の詩には、いろいろな「ことば」が引用されている。そのことばは、それぞれ「越境」の「過去」(時間)をもっている。その「ことば」にふれるとき、小島自身の「ことば」は一瞬「音」に還元される。
他者のことばと小島のことばの「あいだ」が、「広がり」というよりも「深淵(深さ)」として出現する。その「深さ」を小島は掘り進むというよりも、「渡る」。架橋する。この橋渡しの感覚が、長さ(広さ)を呼び覚まし、「空間」を感じさせるのかもしれない。
けれど「ことば」は「音」であり、それが「私」を中心としたどの「空間」から発せられているか(どこに存在するか)は、いつでも、どうでもいいことになる。どんなに遠くで発せられても、それを聴く(読む)とき、その「場」はいつも「私の場」になってしまう。
「時間」も、実は、同じである。いつの時代のことばであろうと、それを読むとき、「いま」と「かつて」は隣り合うだけでなく、「一体」になる。
「越境」は「一体」という形で動くのである。
言葉よ、存在せよ
これは「その人の唇を襲った火は」の最後の部分の、「最後」を省略した形だが、小島は「言葉よ、存在せよ」と叫びながら詩を書いていることになる。
「言葉よ、存在せよ」、そうすれば、私は「越境」できる。「越境」する運動のなかかに(内部に)、詩は、「……のような」という形で存在する。
そして「……のような」の「ような」によって、「越境」は加速する。詩は燃焼し、閃光を放ちながら燃えつきる。消尽する。
こういう閃光をともなうことばの運動は、私のように眼の悪い人間には、とてもつらい。肉体的に、とても負担が大きい。いくつもの光を見落として、眼にやさしい光だけを追ってしまうことになる。--申し訳ないが。
*
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1 三井葉子『灯色醗酵』
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4 小島きみ子『その人の唇を襲った火は』
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