詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粕谷栄市「心願」

2011-08-19 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
粕谷栄市「心願」(「現代詩手帖」2011年08月号)

 粕谷栄市「心願」は『遠い川』の詩群につながる作品である。区別がつかない。ただ同じことを書いている。けれど、私は、その「同じこと」を読むのが好きである。

 ひょうたんが、一つ、所在なげに、そこにころがって
いる。ひょうたんは、ひょうたん以外のものでありえな
い。いつまでたっても、それは、ひょうたんだ。
 だからといって、何があるというわけもないが、私は、
そこで、ひとり、笑っている老人になりたいと思う。
 なぜ、自分がそこにいるのか、どうして、そうなった
のか、何もかも、全く、気にならなくなった老人になり
たいのだ。

 「ひょうたん」があり、「私」がいる。そして、「私」は「ひょうたん」といっしょにいる「老人」になりたい。
 そうして、「私」は実際に、詩のなかでは「老人」になってしまう。つまり「私」と「老人」の区別がなくなる。そうすると、次は、「ひょうたん」と「私」の区別がなくなる。そういう気持ちになる。

 ひょうたんは、いつまでたっても、ただのひょうたん
だ。そのことに関わりがあるのかないのか、老人は、笑
っている。そして、そうしていると分かるが、そこにこ
ろがるひょうたんも、さりげなく、笑っている。
 その茫漠のなかにいると、自分が、そのひょうたんで
あっても、一向、差し支えなくなるのだ。

 「ひょうたん」「私」「老人」がなにやら溶け合って、どこからどこまでが「ひょうたん」であり、どこからどこまでが「私」、さらにどこからどこまでが「老人」であるか、いちいち書き分けるのが、いや、区別しながら読み進むのが面倒になる。
 そして、そうしていると分かるのだが--と思わず書いてしまい、あ、いまの「そして、そうしていると分かるが、」というのは粕谷のことばであった。どうやら、私は粕谷のことばのなかに、完全にはまりこんでしまったらしい。そして、そうしていると(完全にはまりこんでいると)分かるのだが、私(谷内)が粕谷であって、そうして「ひょうたん」と「老人」の詩を書いていても、あるいは、そこにある「ひょうたん」や「老人」であっても、「一向、差し支えなくなるのだ。」

 でも、こんなことを書いていたら、感想でも、批評でもなくなるから、私は強引に私に引き返して……。

 この「そうしていると分かるが、」が粕谷の「思想」である。「肉体」である。そして、その中心は「分かる」ではなく、むしろ「そうしていると」、その「そうして」の「そう」にある。
 「そう」って何?
 むずかしいねえ。「そう」を自分のことばで言いなおすのはとてもむずかしい。
 「そう」の「そ」は「その」の「そ」に似ている。
 何か前に書いたこと、それを指し示し、同時に「肯定」している。「そうしていると」というのは、「そうであることをよし」としていること、「肯定」することである。
 そうすると、「そうしていると分かる」とは「肯定すると分かる」ということでもある。
 実際、粕谷が書いているのは、「ひょうたん」があるということを「肯定」することからはじまっている。そこに「老人」を登場させ、「老人」が「老人」であるということを「肯定」する。(それは「老人」である「私」を「肯定」することでもある。)
 そして、この「肯定」は、また「そう」の「そ」(「その」の「そ」)を、ただくりかえすことでもある。「そ(の)」が指し示す先行するもの・ことをただただ繰り返す。粕谷の書いていることばは、いっこうに前へは進まない。おなじところにとどまり、ただ同じことを繰り返す。
 同じを繰り返す--これが「肯定」である。
 すべてを「肯定」し、何も「否定」しない。
 また、このときの「肯定」は「否定」の反対の姿勢というだけにとどまらない。

 なぜ、自分がそこにいるのか、どうして、そうなった
のか、何もかも、全く、気にならなくなった老人になり
たいのだ。

 「なぜ」を捨てているのだ。「なぜ」を気にしないのだ。「肯定」は「疑問」をもたないということである。「否定」はきっと「疑問」からはじまる。「疑問」をすてれば、自然に、「肯定」になる。
 「そうしていると分かる」は「疑問」をもたずに、「いま/ここ」を「肯定」すると、「分かる」ということだ。
 でも、何が?
 「なぜ」を捨てたあと、「何」が「分かる」のか。

 しずかな四月の昼、ひょうたんが笑っている。自分も
笑っている。そこが、どんな人間も知ることのない、怖
ろしいところだとしても、どうでもいいのだ。
 おのれのまぬけな一生のはてに、私は、その老人にな
りたいのだ。いや、自分がとっくに死んでいることも忘
れている、そのひょうたんになりたいのだ。
 いつの日か、そのでたらめな超越だか永遠だかに、い
や、その丸い尻をした、ただのひょうたんに、心から、
なりたいと思っているのだ。

 「永遠」が「分かる」のである。
 では「永遠」とは何か。
 「そのでたらめな超越だか永遠だかに」と「でたらめ」ということばで「否定」している。これは「矛盾」である。だから「思想」である。この「矛盾」をときほぐすのはむずかしい。
 「いつの日か、そのでたらめな超越だか永遠だかに」の「か」に注目すべきなのだと思う。「か」は「疑問」。「特定」できていないのである。「いつ」を特定できない。「時間」を特定できない。それが「永遠」とつながっている。
 そして、その「時間」を特定できないことを書いた直後に、「いや」と、また「否定」を持ち出してきている。そして、それは「時間」ではなく、「ひょうたん」という「もの」である。
 ふたつを強引に結びつけてみると、「時間」を「否定」した「もの」。「時間」を超越した「もの」。それが「永遠」にならないだろうか。
 「もの」のなかに、「永遠」がある--ということが「分かる」のである。
 これは、「なぜ」を欠いた粕谷のたどりついた「思想」である。それは「納得」と言い換えてもいいかもしれない。



遠い川
粕谷 栄市
思潮社
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パオロ・ベンヴェヌーティ、パオラ・バローニ監督「プッチーニの愛人」(★★★)

2011-08-19 23:44:10 | 映画
監督 パオロ・ベンヴェヌーティ、パオラ・バローニ 出演 リッカルド・ジョシュア・モレッティ、タニア・スクイッラーリオ、ジョバンナ・ダッディ

 映像がとても美しい。台詞はほとんどない。あっても、男たちが酒場でジャンケン(?)のようなものをして、負けたら酒をおごるシーンくらい。それも、声は「掛け声」だけ。あとはときどき手紙が読み上げられる。音楽は、ピアノと、女の歌声だけ。
 しかし、いいなあ。
 どの映像も非常にしっかりしている。「構図」がある。全シーンが名画になっている。こういう「絵」を撮るんだ、というしっかりした意識がある。舟で湖(川?)をゆくシーンなど、葦で舟や人が隠れるときの、その隠れ方、そして次にあらわれるときのあらわれ方まで、綿密に計算されている。--なぜ、このシーンを取り上げたかというと……。水の上って、「線」が描けない。リハーサルと本番とで、映像が一緒になるとは限らない。それでも、完璧なのだ。
 最初にメイドが別荘の窓を開けて光を入れるシーンがあり、最後にホテルのボーイが手紙をもってくるシーンがあるのだが、その最後のボーイの姿は壁に映った影というのも冒頭と不思議な感じに呼応していて、楽しい。
 おかしいのは、プッチーニが浮気をするシーン。使用人に、ピアノの鍵盤に印をつけて、こことここを叩く、と教える。使用人は、それを懸命に叩く。庭には妻がいる。ようするに、ピアノを弾いているという「アリバイ」をつくって、浮気に出かけるのだが。
 えっ、プッチーニの妻は、プッチーニの弾くピアノと使用人が弾くピアノの音の区別がつかなかった?
 あ、そんなんじゃ浮気されたってしようがないよなあ。
 私は妙にプッチーニに同情してしまうのである。妻の嫉妬深さ。そして、娘のずるさ。それに比べると、このプッチーニの「アリバイ」づくりのかわいらしさ。
 「小話」風になっている。
 たぶん、プッチーニの愛人騒動というのは、イタリアでは周知のことなので、人間劇というより、「小話」にしたかったんだろうなあ。監督は無声映画をとってみたかったんだろうなあ。無声映画には、こういう「小話」が似合っているね。
 その「小話」という点からいうと、ホテルのボーイの影(影絵みたい)もしゃれていてとても楽しいのだが、何と言えばいいのだろう、そいう「小話」の部分と「小話」をはみだすものが入り乱れて、少し残念でもある。「小話」にするなら、もうすこし映像が軽い方が楽しい。あまりに映像が美しすぎて、「小話」がかすむのである。
 特に、最後の最後のほんとうのラストシーン。高い木々を下から撮った映像。テレンス・マリックと違って「神」ということばなど出てこないのだが、(神はほかのシーンに出てくるけれど)、神を感じてしまう。静かな気持ちになる。--この静かさ、その沈黙が、うーん、映画をちぐはぐなものにしている。


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