粕谷栄市「心願」(「現代詩手帖」2011年08月号)
粕谷栄市「心願」は『遠い川』の詩群につながる作品である。区別がつかない。ただ同じことを書いている。けれど、私は、その「同じこと」を読むのが好きである。
「ひょうたん」があり、「私」がいる。そして、「私」は「ひょうたん」といっしょにいる「老人」になりたい。
そうして、「私」は実際に、詩のなかでは「老人」になってしまう。つまり「私」と「老人」の区別がなくなる。そうすると、次は、「ひょうたん」と「私」の区別がなくなる。そういう気持ちになる。
「ひょうたん」「私」「老人」がなにやら溶け合って、どこからどこまでが「ひょうたん」であり、どこからどこまでが「私」、さらにどこからどこまでが「老人」であるか、いちいち書き分けるのが、いや、区別しながら読み進むのが面倒になる。
そして、そうしていると分かるのだが--と思わず書いてしまい、あ、いまの「そして、そうしていると分かるが、」というのは粕谷のことばであった。どうやら、私は粕谷のことばのなかに、完全にはまりこんでしまったらしい。そして、そうしていると(完全にはまりこんでいると)分かるのだが、私(谷内)が粕谷であって、そうして「ひょうたん」と「老人」の詩を書いていても、あるいは、そこにある「ひょうたん」や「老人」であっても、「一向、差し支えなくなるのだ。」
でも、こんなことを書いていたら、感想でも、批評でもなくなるから、私は強引に私に引き返して……。
この「そうしていると分かるが、」が粕谷の「思想」である。「肉体」である。そして、その中心は「分かる」ではなく、むしろ「そうしていると」、その「そうして」の「そう」にある。
「そう」って何?
むずかしいねえ。「そう」を自分のことばで言いなおすのはとてもむずかしい。
「そう」の「そ」は「その」の「そ」に似ている。
何か前に書いたこと、それを指し示し、同時に「肯定」している。「そうしていると」というのは、「そうであることをよし」としていること、「肯定」することである。
そうすると、「そうしていると分かる」とは「肯定すると分かる」ということでもある。
実際、粕谷が書いているのは、「ひょうたん」があるということを「肯定」することからはじまっている。そこに「老人」を登場させ、「老人」が「老人」であるということを「肯定」する。(それは「老人」である「私」を「肯定」することでもある。)
そして、この「肯定」は、また「そう」の「そ」(「その」の「そ」)を、ただくりかえすことでもある。「そ(の)」が指し示す先行するもの・ことをただただ繰り返す。粕谷の書いていることばは、いっこうに前へは進まない。おなじところにとどまり、ただ同じことを繰り返す。
同じを繰り返す--これが「肯定」である。
すべてを「肯定」し、何も「否定」しない。
また、このときの「肯定」は「否定」の反対の姿勢というだけにとどまらない。
「なぜ」を捨てているのだ。「なぜ」を気にしないのだ。「肯定」は「疑問」をもたないということである。「否定」はきっと「疑問」からはじまる。「疑問」をすてれば、自然に、「肯定」になる。
「そうしていると分かる」は「疑問」をもたずに、「いま/ここ」を「肯定」すると、「分かる」ということだ。
でも、何が?
「なぜ」を捨てたあと、「何」が「分かる」のか。
「永遠」が「分かる」のである。
では「永遠」とは何か。
「そのでたらめな超越だか永遠だかに」と「でたらめ」ということばで「否定」している。これは「矛盾」である。だから「思想」である。この「矛盾」をときほぐすのはむずかしい。
「いつの日か、そのでたらめな超越だか永遠だかに」の「か」に注目すべきなのだと思う。「か」は「疑問」。「特定」できていないのである。「いつ」を特定できない。「時間」を特定できない。それが「永遠」とつながっている。
そして、その「時間」を特定できないことを書いた直後に、「いや」と、また「否定」を持ち出してきている。そして、それは「時間」ではなく、「ひょうたん」という「もの」である。
ふたつを強引に結びつけてみると、「時間」を「否定」した「もの」。「時間」を超越した「もの」。それが「永遠」にならないだろうか。
「もの」のなかに、「永遠」がある--ということが「分かる」のである。
これは、「なぜ」を欠いた粕谷のたどりついた「思想」である。それは「納得」と言い換えてもいいかもしれない。
粕谷栄市「心願」は『遠い川』の詩群につながる作品である。区別がつかない。ただ同じことを書いている。けれど、私は、その「同じこと」を読むのが好きである。
ひょうたんが、一つ、所在なげに、そこにころがって
いる。ひょうたんは、ひょうたん以外のものでありえな
い。いつまでたっても、それは、ひょうたんだ。
だからといって、何があるというわけもないが、私は、
そこで、ひとり、笑っている老人になりたいと思う。
なぜ、自分がそこにいるのか、どうして、そうなった
のか、何もかも、全く、気にならなくなった老人になり
たいのだ。
「ひょうたん」があり、「私」がいる。そして、「私」は「ひょうたん」といっしょにいる「老人」になりたい。
そうして、「私」は実際に、詩のなかでは「老人」になってしまう。つまり「私」と「老人」の区別がなくなる。そうすると、次は、「ひょうたん」と「私」の区別がなくなる。そういう気持ちになる。
ひょうたんは、いつまでたっても、ただのひょうたん
だ。そのことに関わりがあるのかないのか、老人は、笑
っている。そして、そうしていると分かるが、そこにこ
ろがるひょうたんも、さりげなく、笑っている。
その茫漠のなかにいると、自分が、そのひょうたんで
あっても、一向、差し支えなくなるのだ。
「ひょうたん」「私」「老人」がなにやら溶け合って、どこからどこまでが「ひょうたん」であり、どこからどこまでが「私」、さらにどこからどこまでが「老人」であるか、いちいち書き分けるのが、いや、区別しながら読み進むのが面倒になる。
そして、そうしていると分かるのだが--と思わず書いてしまい、あ、いまの「そして、そうしていると分かるが、」というのは粕谷のことばであった。どうやら、私は粕谷のことばのなかに、完全にはまりこんでしまったらしい。そして、そうしていると(完全にはまりこんでいると)分かるのだが、私(谷内)が粕谷であって、そうして「ひょうたん」と「老人」の詩を書いていても、あるいは、そこにある「ひょうたん」や「老人」であっても、「一向、差し支えなくなるのだ。」
でも、こんなことを書いていたら、感想でも、批評でもなくなるから、私は強引に私に引き返して……。
この「そうしていると分かるが、」が粕谷の「思想」である。「肉体」である。そして、その中心は「分かる」ではなく、むしろ「そうしていると」、その「そうして」の「そう」にある。
「そう」って何?
むずかしいねえ。「そう」を自分のことばで言いなおすのはとてもむずかしい。
「そう」の「そ」は「その」の「そ」に似ている。
何か前に書いたこと、それを指し示し、同時に「肯定」している。「そうしていると」というのは、「そうであることをよし」としていること、「肯定」することである。
そうすると、「そうしていると分かる」とは「肯定すると分かる」ということでもある。
実際、粕谷が書いているのは、「ひょうたん」があるということを「肯定」することからはじまっている。そこに「老人」を登場させ、「老人」が「老人」であるということを「肯定」する。(それは「老人」である「私」を「肯定」することでもある。)
そして、この「肯定」は、また「そう」の「そ」(「その」の「そ」)を、ただくりかえすことでもある。「そ(の)」が指し示す先行するもの・ことをただただ繰り返す。粕谷の書いていることばは、いっこうに前へは進まない。おなじところにとどまり、ただ同じことを繰り返す。
同じを繰り返す--これが「肯定」である。
すべてを「肯定」し、何も「否定」しない。
また、このときの「肯定」は「否定」の反対の姿勢というだけにとどまらない。
なぜ、自分がそこにいるのか、どうして、そうなった
のか、何もかも、全く、気にならなくなった老人になり
たいのだ。
「なぜ」を捨てているのだ。「なぜ」を気にしないのだ。「肯定」は「疑問」をもたないということである。「否定」はきっと「疑問」からはじまる。「疑問」をすてれば、自然に、「肯定」になる。
「そうしていると分かる」は「疑問」をもたずに、「いま/ここ」を「肯定」すると、「分かる」ということだ。
でも、何が?
「なぜ」を捨てたあと、「何」が「分かる」のか。
しずかな四月の昼、ひょうたんが笑っている。自分も
笑っている。そこが、どんな人間も知ることのない、怖
ろしいところだとしても、どうでもいいのだ。
おのれのまぬけな一生のはてに、私は、その老人にな
りたいのだ。いや、自分がとっくに死んでいることも忘
れている、そのひょうたんになりたいのだ。
いつの日か、そのでたらめな超越だか永遠だかに、い
や、その丸い尻をした、ただのひょうたんに、心から、
なりたいと思っているのだ。
「永遠」が「分かる」のである。
では「永遠」とは何か。
「そのでたらめな超越だか永遠だかに」と「でたらめ」ということばで「否定」している。これは「矛盾」である。だから「思想」である。この「矛盾」をときほぐすのはむずかしい。
「いつの日か、そのでたらめな超越だか永遠だかに」の「か」に注目すべきなのだと思う。「か」は「疑問」。「特定」できていないのである。「いつ」を特定できない。「時間」を特定できない。それが「永遠」とつながっている。
そして、その「時間」を特定できないことを書いた直後に、「いや」と、また「否定」を持ち出してきている。そして、それは「時間」ではなく、「ひょうたん」という「もの」である。
ふたつを強引に結びつけてみると、「時間」を「否定」した「もの」。「時間」を超越した「もの」。それが「永遠」にならないだろうか。
「もの」のなかに、「永遠」がある--ということが「分かる」のである。
これは、「なぜ」を欠いた粕谷のたどりついた「思想」である。それは「納得」と言い換えてもいいかもしれない。
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