詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

瀬尾育生「暮鳥」

2011-08-05 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
瀬尾育生「暮鳥」(「現代詩手帖」2011年08月号)

 瀬尾育生「暮鳥」は書き出しに非常に惹かれた。

百足を千切ると指先が光った。暗がりの虫たち、爬行する虫たちの汚泥に光が累積する。おまえはその中にもう百日も棲んでいるのだからね。けれどおまえを千切る私の指が光るのは、遠ざかる「分離」を私が今日も反復しているからだ。

 「百足を千切ると指先が光った。」は、とても変である。「百足」に足はあっても指はないだろう。しかし、あの百本の足(誰が数えた?)がわさわさと動くのは足というよりなんだか指のように器用だから、まあ指でもいいのかな? いや、あれはきっと指である。
 私は、ことばをよく読みもしないで、読んだ先から、そんなふうに考える。
 けれど、そうして読んでいくと「けれどおまえを千切るわたしの指が光るのは、」という文が突然出てくる。(瀬尾にとっては突然ではないかもしれないが、私にとっては突然である。)えっ、光るのは「私(瀬尾)」の指?
 うーん。
 「遠ざかる「分離」を私が今日も反復しているからだ。」
 そうか、「分離」と「反復」が「光る」ということなのだな。「分離」と「反復」は「光」のなかで「ひとつ」になるのだな、と私は見当をつける。
 で、その「見当」がつけたとこは、あとからきっと出てくると思うのだが、その前に。
けれどおまえを千切る私の指が光るのは、遠ざかる「分離」を私が今日も反復しているからだ。

 この文章のなかの「私」の反復。
 なぜ?
 一種の「悪文」だね。
 でも、この「悪文」であるところに、瀬尾の「思想」が出る。
 すでに、ここに「分離」と「反復」がある。「私の指」と「私」が「分離」している。「私の指」を「私」が「反復」している。見つめなおしている。それは、百足を千切った指を(指先を)、「光った」と描写したときから始まっている。百足を千切って、百足を描写するのではなく、百足を千切った指を見る(観察する。「光った」と描写する)。このときの百足から指先への視点の移行が「分離(切断)」であり、「光った」と描写することが「反復」である。ことばによって、ある状態を描写するのは、ことばによってある状態を「反復」するということである。
 この「分離」と「反復」には、もうひとつ重要な「構文」というか、ことばがある。「けれど」という「接続詞」である。「けれど」というのは、先行する文章と、これからはじまる文章が矛盾していること、つまりそこには「断絶/分離」があることをあらわす。
 これは、実に、おもしろい。
 「おまえを千切る私の指が光るのは、遠ざかる「分離」を私が今日も反復しているからだ。」という文は、最初から「用意」されていたものではないのだ。
 「けれど」が有効であるためには(つまり、それが「矛盾」をあらわすことばであるためには)、「光る」ものは「私」であってはならないのだ。
 事実(といっていいのかな?)、

百足を千切ると指先が光った。暗がりの虫たち、爬行する虫たちの汚泥に光が累積する。おまえはその中にもう百日も棲んでいるのだからね。

 このことばのつづき具合を追うとき、まず「百足」が印象に残る。「百足」は「暗がりの虫たち」である。その虫たちがうごめくとき「汚泥に光が累積する」という具合に読める。「汚泥」のなかに「百足」は「百日も棲んでいる」。そのために「汚泥」は光る。その「光」は千切られた「指先」という具合に「誤読」することができる。
 「百足を千切ると指先が光った。」と瀬尾が書いたとき、その「指先」はたしかに「百足」のものであったのだ。
 だからこそ、「けれど」ということばで、百足の指先を否定し、そこから切断/分離し、「私の指」にことばを動かしていくのである。
 このとき、「私の指先」は「光る」ことで、冒頭の千切られた「百足」の「指先(足先)」と交錯し、スパークし、「ひとつ」になる。どっちがどっちか、はっきりしなくなる。だからこそ、「私の指が」と書いたあと、「私が」ともういちど「私」を登場させ、主語を明確にする必要が出てくるのである。
 この、ことばの粘着力というのか、修辞学の強靱さというのか、よくわからないが、「矛盾」をぐいとねじまげるようにして、まっすぐにする(?)文体が、とてもおもしろい。
 一度「思想」の核心を通ったことばは、そのテーマである「分離」と「反復」を乱反射させることになる。

ここは漁港だから、自転車いっぱいに魚が積まれて運ばれたり、零れ落ちた魚がまた自転車に轢かれたりする。魚たちの断面が夜、防波堤沿いの路面にあちこち光っている。

 「また」が反復である。「魚たちの断面」の「断面」は「分離」の言い換えである。

今夜生まれる子の臍の緒が切られるときも、その断面が光るのだと私は思う。

 「臍の緒が切られる」は「分離」。「断面」も「分離」。「今夜」は、そうして「反復」である。同じことが繰り返されてきたのだ。子が生まれ、臍の緒が切られるといういのちの繰り返しが「反復」されてきて、それが「今夜」また反復されているのである。
 それは、先に引用した部分の「夜」、そしていま引用した部分の「今夜」という「暗がり」(最初の行に出てた)の中で「光る」。分離(切断)された断面が、暗く光るのだ。光ながら暗さを浮かび上がらせるのだ。
 「けれど」の「矛盾」を呼び出す接続詞は、あらゆるところにひそんでいるのだ。緊密に結びついているのだ。

昔に離れた黒い蛆虫。胎児のだんす。鼻から口から眼から臍から這い込むキリスト。体のあちこちに開孔部をつくり、そこに「主」を迎え入れる。

 「蛆虫」「胎児」「キリスト」が、反復される。それは別々のものであるが、別々のものであるのは、それがたまたま「分離」(切断)されたからそうなのであって、ことばが反復するとき同じように光と闇を生きるだけである。
 差異はない。だから差異はある。
 瀬尾の「けれど」は「だから」(ここには書かれていないけれど)と表裏一体になって動いている。




戦争詩論
瀬尾 育生
平凡社
コメント
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