岡本勝人『古都巡礼のカルテット』(2)(思潮社、2011年05月31日発行)
岡本勝人『古都巡礼のカルテット』の作品群は基本的には「古都」をめぐる。けれど、そのことばがジョン・ダンの詩からはじまったように、「古都」にしばられるわけではない。
「第二楽章 巡礼歌は四辻にきこえない」の冒頭。
「四辻」ということばが出てくるが、このことばが岡本の作品を特徴づけているかもしれない。四辻では、何かが出会う。違う方向のものが出会う。そのとき、それは「出会い」だけではない。出会いながら、別な方向へ「開かれる」ことである。
岡本のことばの特徴は、いくつものことばが出会い、その出会いが重層的に結晶するというよりも、層をつくるのではなく、水平方向へ広がっていくのである。
いま引用した1連目につづく2連目は次のようになっている。
「男」が「女」にかわっているが、ここでは1連目の「歩く」「四辻」「階段」が重なり合う。そのために、勝本の作品は「古都=奈良」と「古都=ローマ」を、「古都」という共通項で「重ね合わせ」ているようにみえる。その「重なり」をつなぐものは「古都」であると同時に、岡本の「肉体」であるように見える。
そして、その重層的な「肉体」から「歴史=時間」があふれてくる。
--という具合に読んでいきたいのだが、私の印象では、そうならないのだ。
ここで重なり合うのは「四辻」から人が別な方向へ歩いていくことができる、そしてそこではひとはいままでとは違った何かに出会うことができるという「平面的」な動きなのである。
もし、そこに「時間」というものがあるとしても、それは垂直に積み上げられた「時間」ではない。重層化した「時間」ではない。
「四辻」は「2本」の道が交叉してできる。2本のはずなのに、交叉した瞬間、そこに「4」が生まれる。増幅する。「四辻」ということばを選びとったときから、岡本は、歩くことで「増幅する時間」に選びとられているといえる。
別な言い方をしながら、私の考えたことを説明しなおしてみる。
ある道を歩いてくる。その両脇には、いろいろなものが存在し、それを見ながらひとは自分がどこにいるか、どんなふうに生きているかを知る。そのまま道をまっすぐに歩いていけば、その生き方はたぶんかわらない。
けれど、その道と交叉する道に出会い、それをきっかけにたとえば右へ曲がってみる。そうすると、そこにはいままで見てきたものとは違ったものがある。それを自分のことばで言いなおすとき、それはほんらいそこにあったものとは違ったものになる。「別な時間」がそこに噴出してくる。「新しい時間」が動きだす。
そういうことが起きる。
ちょっと抽象的に書きすぎてしまったが、角を曲がって知らない通りに踏み込むとき、自分の視線が洗われるだけではなく、そこにあるものも新しい人間の視線に洗われ別の存在になる。
そういうことが起きる。
この行の「足を延ばした」。それは、その方向へ歩きだしたということだけれど、ただ「歩く」のではない。「延ばす--拡張する」ということが、そこにはあるのだ。
何かに出会い、それを契機に、考えを「凝縮する」(結晶化する)という方向ではなく、その出会いを利用して、いままでの考えを「延ばす」(拡大する)。
これは、「開放する」ということだ。「開放する」は「解放する」でもある。「自由」になる、ということでもある。
実際、岡本は、自在にことばを放り出しているように見える。何か書きたいことがあり(結論があり)、それへ向けてことばを動かすのではなく、どうなってもいい、自分を縛り付けているいくつかのことばを、出会ったものに対してぶつけていく。出会ったものを利用して捨てていく。そうすると、そのことばは、何かしら「自由」になる。
もとの文体(出典の文体)から解放され、ある意味では「無意味」として動く。つまり、そこにあるものを「無意味」にしてしまうために動く。
「奈良町の四辻」と「ローマの四辻」はまったく関係がない。関係がなくても、あらゆるものは適当に「理由」をつけて出会うことができる。そこから、東西南北、どの方向へ動いていくかは、まったく「自由」だ。
ここからはじまることを「信用」していいのか。いいか、わるいか、私にはわからない。けれど、私は信用してしまうのだ。
「歩く肉体」のスピード感が納得できるからである。
--抽象的なことばかり書いて、なんだか、岡本にもうしわけない。詩集の感想をもっと早く書きたかったが、書けなかった。それは、いま私が書けることは「抽象的」な印象に過ぎないということが「わかっている」からである。
岡本の歩行する肉体、出会いのなかで肉体を開放し、それにあわせてことばを解放していく--そのいさぎよい快感。
こういう詩が、私は、ようするに好きなのだ。
肉体を感じ、同時にことばも感じる。自由になることばを感じ、肉体が自由になるのを感じる。ここから、新しいことばが生まれるはずだと信じることができる。
岡本勝人『古都巡礼のカルテット』の作品群は基本的には「古都」をめぐる。けれど、そのことばがジョン・ダンの詩からはじまったように、「古都」にしばられるわけではない。
「第二楽章 巡礼歌は四辻にきこえない」の冒頭。
西大寺から近鉄線にのって
男は奈良駅にもどると
猿沢池まで商店街を散歩することにした
中央の道を遊歩していると右手に池があらわれた
白鷺が首をひねり
岩のうえで亀が甲羅をほしている
三重塔の階段のしたには衣手の柳があり
太陽がおちると路肩から夜の光がはなたれ
男のまぶたに不透明な水面が照射される夕暮れ
右手には柿の葉ずしの料理屋「平宗」がある
左手の奈良町の四辻にいくと元興寺跡にでる
三重塔に登る階段は興福寺南円堂に通ずる道だ
男は「四国九番南円堂」の書字の道標に触れ
「不空羂索観世音菩薩像」と染められたのぼりをみる
おみやげ物店にはいると
北円堂が開帳しているという声がした
「楕円形」との遭遇である
「四辻」ということばが出てくるが、このことばが岡本の作品を特徴づけているかもしれない。四辻では、何かが出会う。違う方向のものが出会う。そのとき、それは「出会い」だけではない。出会いながら、別な方向へ「開かれる」ことである。
岡本のことばの特徴は、いくつものことばが出会い、その出会いが重層的に結晶するというよりも、層をつくるのではなく、水平方向へ広がっていくのである。
いま引用した1連目につづく2連目は次のようになっている。
太陽神のオベリスクがたつローマの四辻
北からの巡礼者をうけいれたポポロ門から
女は歩きどおしだ
映画にでてくるスペイン階段と
バルカッチァの泉をすぎる
バルベリーニ広場のトリトンの噴水は
アンデルセンの即興詩人の舞台だ
クアットロ・フォンターネの辻には
四つの噴水がある
女はボッロミーニのたてた
「楕円形」のドームの教会にはいると
ちかくの教会へと足を延ばした
「男」が「女」にかわっているが、ここでは1連目の「歩く」「四辻」「階段」が重なり合う。そのために、勝本の作品は「古都=奈良」と「古都=ローマ」を、「古都」という共通項で「重ね合わせ」ているようにみえる。その「重なり」をつなぐものは「古都」であると同時に、岡本の「肉体」であるように見える。
そして、その重層的な「肉体」から「歴史=時間」があふれてくる。
--という具合に読んでいきたいのだが、私の印象では、そうならないのだ。
ここで重なり合うのは「四辻」から人が別な方向へ歩いていくことができる、そしてそこではひとはいままでとは違った何かに出会うことができるという「平面的」な動きなのである。
もし、そこに「時間」というものがあるとしても、それは垂直に積み上げられた「時間」ではない。重層化した「時間」ではない。
「四辻」は「2本」の道が交叉してできる。2本のはずなのに、交叉した瞬間、そこに「4」が生まれる。増幅する。「四辻」ということばを選びとったときから、岡本は、歩くことで「増幅する時間」に選びとられているといえる。
別な言い方をしながら、私の考えたことを説明しなおしてみる。
ある道を歩いてくる。その両脇には、いろいろなものが存在し、それを見ながらひとは自分がどこにいるか、どんなふうに生きているかを知る。そのまま道をまっすぐに歩いていけば、その生き方はたぶんかわらない。
けれど、その道と交叉する道に出会い、それをきっかけにたとえば右へ曲がってみる。そうすると、そこにはいままで見てきたものとは違ったものがある。それを自分のことばで言いなおすとき、それはほんらいそこにあったものとは違ったものになる。「別な時間」がそこに噴出してくる。「新しい時間」が動きだす。
そういうことが起きる。
ちょっと抽象的に書きすぎてしまったが、角を曲がって知らない通りに踏み込むとき、自分の視線が洗われるだけではなく、そこにあるものも新しい人間の視線に洗われ別の存在になる。
そういうことが起きる。
ちかくの教会へと足を延ばした
この行の「足を延ばした」。それは、その方向へ歩きだしたということだけれど、ただ「歩く」のではない。「延ばす--拡張する」ということが、そこにはあるのだ。
何かに出会い、それを契機に、考えを「凝縮する」(結晶化する)という方向ではなく、その出会いを利用して、いままでの考えを「延ばす」(拡大する)。
これは、「開放する」ということだ。「開放する」は「解放する」でもある。「自由」になる、ということでもある。
実際、岡本は、自在にことばを放り出しているように見える。何か書きたいことがあり(結論があり)、それへ向けてことばを動かすのではなく、どうなってもいい、自分を縛り付けているいくつかのことばを、出会ったものに対してぶつけていく。出会ったものを利用して捨てていく。そうすると、そのことばは、何かしら「自由」になる。
もとの文体(出典の文体)から解放され、ある意味では「無意味」として動く。つまり、そこにあるものを「無意味」にしてしまうために動く。
「奈良町の四辻」と「ローマの四辻」はまったく関係がない。関係がなくても、あらゆるものは適当に「理由」をつけて出会うことができる。そこから、東西南北、どの方向へ動いていくかは、まったく「自由」だ。
ここからはじまることを「信用」していいのか。いいか、わるいか、私にはわからない。けれど、私は信用してしまうのだ。
「歩く肉体」のスピード感が納得できるからである。
--抽象的なことばかり書いて、なんだか、岡本にもうしわけない。詩集の感想をもっと早く書きたかったが、書けなかった。それは、いま私が書けることは「抽象的」な印象に過ぎないということが「わかっている」からである。
岡本の歩行する肉体、出会いのなかで肉体を開放し、それにあわせてことばを解放していく--そのいさぎよい快感。
こういう詩が、私は、ようするに好きなのだ。
肉体を感じ、同時にことばも感じる。自由になることばを感じ、肉体が自由になるのを感じる。ここから、新しいことばが生まれるはずだと信じることができる。
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