詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田中庸介「からし壺」

2011-08-10 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
田中庸介「からし壺」(「妃」15、2011年07月30日発行)

 田中庸介は、高岡淳四と同じように、とても正直である。ことばを無理矢理動かさない。自然に動かす。動いてゆけるところまで動かす。ことばが核心にたどりつくまで、ていねいにつきそう。こういうことができるのは正直な人間である。
 わたしはどうしてもめんどうになり、はったりでごまかしたりする。
 正直--嘘がないから、ことばが核心にたどりついたとき、はっとして、あ、背筋をのばしてよまなくっちゃ、と思うのだ。反省するのだ。
 「からし壺」は母が死んで、葬儀があって、その遺骨の一部を「からし壺」に入れて、故郷(甲州)へ帰るときのようすを書いている。

放射能から逃げるようにして東京を離れ山梨。温泉につかって部屋に戻る。
かばんをあけてみるとからし壺のふたが開き、母がかばんの底に
こぼれだしていた。

からし壺のふたがねじ式でないことを父はすっかり忘れていたのだ。

津波の写真が載っている山梨日日新聞のページをあけて。
かばんの中身を新聞の上にあける。
白い粉がさらさら、こぼれだす。

遺灰というものは産業廃棄物になるほどのものだだけれども、
かばんの底のざらざらをそのままにしておくわけにもいかず。
できるかぎり回収してやりたいと思って
裏っ返しにして振るう。
布の目に入りこんだ骨粉を。
一所懸命かきだして新聞の上にあけた。

薬包紙に測りとった試薬をふるうように、
新聞の折り目に沿わせるように、
お骨の粉をもとに戻した。こぼれないように。
失わないように。

(というか、もう失っているのですけれども)
(というか、もう、失っているのですよ)

それでも畳の目にこぼれるわけですじゃんね。
細かい粉が。

それを人差し指でなぞる。
なぞって一つずつ拾ってから、からし壺に戻す。

お骨の断片は意外にとげとげしていて、
眼には見えなくても、指でなぞると指に吸いついて来る。

指に刺さるというか。
母が指に刺さります。

 壺の構造を忘れてしまっていて、遺骨がこぼれた。それを拾い集めた--そのことを淡々と、時系列に従って書いている。
 それだけなのだけれど、その「それだけ」のことのなかに、あるいは「それだけ」のことだからこそ、まじりっけのないものがまじってくる。--あ、変な言い方だね。「それだけ」を書こうとしているのだが、「それだけ」を突き抜けて、田中の「品」が浮かび上がる。「品」が「それだけ」を支えて、たしかなもの、美しいものにしている。
 たとえば、

かばんの底のざらざらをそのままにしておくわけにもいかず。
できるかぎり回収してやりたいと思って

 あることがらを、「そのままにしておくわけにもいかず」と思うこと。そして、その「思い」のままに、自分から出ていくこと。「いま/ここ」の自分から脱けだして、動くこと。
 そのことを田中は「できるかぎり」「してやりたい」と言いなおしている。
 そして、この「できるかぎり」「してやりたい」は、単なる「ことば」ではなく、田中は「行動」として実際に「肉体」を動かす。「やりたい」は「思い」ではなく、実践そのものなのである。
 「実践」というのは、肉体を動かすことである。--あたりまえのことだけれど、これはとはても大切なことである。何が大切かと言うと、肉体を動かすと言うことは、肉体が具体的なものと出会い、それと関わると言うことである。そして、そこには知らず知らずの内に「肉体」の「過去」があらわれる。「肉体」の「暮らし」があらわれる。

薬包紙に測りとった試薬をふるうように、

 田中の「肉体」は試薬を「薬包紙に測りと」るという作業をきちんと組み込んでいる。その組み込まれた肉体の動きが、いま、ここで役に立っている。(役に立っているというのは奇妙な言い方だね。もっと適切なことばがあると思う。ほかにことばが思いつかない。--申し訳ない。)
 そうした「肉体」がなじんでいる動きが、肉体になじんでいることばを動かす。そのことばのなかを動いていく精神は、まっすぐである。--そのまっすぐさを、私は「正直」と呼び、「品」と呼ぶのである。
 ここには「間違い」がはいって来ない。「空想」がはいって来ない。
 想像力を定義して「ものをねじまげる力だ」といったのはバシュラールだが、田中のことばには、そういう「ねじまげられた運動」がない。「肉体」の過去、「肉体」の暮らし、「肉体」の力が、「間違い」を押し出して、ただただ、まっすぐに動くのである。そのまっすぐさと、ことばが少しずつ少しずつ動いていく。
 そうして、そのまっすぐな「肉体」の動きは、

眼には見えなくても、指でなぞると指に吸いついて来る。

 ということを発見する。「眼には見えなくても」。
 あ、この世界には「眼には見えなくても」存在しているものがたくさんある。この「目に見えないけれど存在しているもの」を「正直な肉体」「品のある肉体」は見逃さないのだ。「眼」ではなく「肉眼」で発見する。「肉眼」は普通「こころの中」にあるとおもわれるけれど、そうではないのだ。「肉眼」は「眼」以外の「肉体」にあって、「眼」をつかわずに「存在」を見るものなのだ。
 田中のこの詩では「指」。
 指に「肉眼」がある。それがこぼれ落ちた小さな「遺骨」を見つけだす。「吸いついてくる」--その「触覚」の感じが「肉眼」である。触ることで、見ているのだ。
 顔のなかほどにあるふたつの「眼」は、対象と密着するとなにも見えない。その「眼」は対象と距離をおかないと見えない。そういう「弱点」をもっている。それを「指」の「肉眼」が補っている。「触る」。感じる。そして、そのことを通して「遺骨を見つける」。
 正直に動く肉体、品のある肉体は、そのまっすぐさを生きることで、肉体を超越する。

母が指に刺さります。

 あ、すごい。
 「母」は死んでいない。いないものが「指」に「刺さる」わけがない。けれど、刺さるのだ。そのとき、母は「遺骨」であって、「遺骨」ではない。「肉体」の燃え残った何かではない。そうではなく、「生きている母」である。
 「肉眼」の力が、母を甦らせるのである。

 田中庸介、高岡淳四--このふたりの正直なことばには、私はいつもただただ感動する。魯迅、森鴎外、安岡昇平の正直につながる美しさに感動する。






スウィートな群青の夢
田中 庸介
未知谷
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アルフレッド・ヒチコック「レベッカ」(★★★★)

2011-08-10 13:57:42 | 午前十時の映画祭
監督 アルフレッド・ヒチコック 出演 ローレンス・オリヴィエ、ジョーン・フォンテーン、ジュディス・アンダーソン

 ヒチコックの映画のおもしろさのひとつに、美女が苦悩する、ということがある。不安、悲しみ、恐怖のなかで、美女の顔が歪む。--歪むのだけれど、その歪みが逆に、その女性の完璧な美しさを想像させる。想像力のなかで、美女がより美女にかわる。
 悦びのなかで美女がさらに美女になるという例は多い。あのシシー・スペイセクさえ、「キャリー」でダンスパーティーの「女王」に選ばれた瞬間、ほんとうの「美女」のように輝いている。
 ヒチコックは、そういう映画には興味がないようだ。美女はあくまでいじめられ、苦悩し、不安におののく。この映画もそうしたシリーズ。いや、そのなかの代表作かな?
 この映画の構造が、想像力そのものをテーマにしているから、よけいにそんなことを感じるのかもしれない。
 ジョーン・フォンテーンはローレンス・オリヴィエに求婚されて、結婚する。大豪邸で住むことになる。しかし、そこにはローレンス・オリヴィエの「前妻」の影がちらついている。絶世の美人。レベッカ。事故で死んでしまった。ローレンス・オリヴィエ自身がレベッカを忘れられずにいるのにくわえ、レベッカにつかえていた夫人(メイド頭?)が常にジョーン・フォンテーンとレベッカを比較し、「前の奥様は……」というようなことをいう。
 ジョーン・フォンテーンは自分自身の「美しさ」を追求することができない。どんなに追い求めても、それより「上」がある。レベッカの肖像を真似て、「理想の美人」になってみると、逆にローレンス・オリヴィエの苦悩を甦らせ、怒らせてしまうという具合。
 で、そのときどきの、ジョーン・フォンテーンの、ああ、美しいですねえ。いや、ほんとう。そうなんだ、美人はいじめるとさらに美しくなるんだ。美人をいじめてみたい。苦悩する顔を見てみたい--という、ちょっとサディスティックな気持ちになりながら、ずーっと映画を見てしまう。ヒチコックの策中にはまり込んでしまったまま、映画を見てしまう。まあ、映画は監督に騙される楽しみだから、それはそれでいいんだけれど。

 ということは、別にして。
 この映画はヒチコックがアメリカで撮った第一作なのだけれど、そこに出てくる人間が、ローレンス・オリヴィエをはじめとして「レベッカ側」がイギリス人。対するジョーン・フォンテーンがアメリカ人という構図が、この映画をまたまたおもしろくしている。
 イギリスの個人主義というのは、アメリカともフランスとも違うねえ。本人がはっきりことばにしていわないかぎり、その「個人の秘密」は存在しない。プライバシーは、本人が語らないかぎり、あくまでも「隠されている」。だれもが知っていても、本人がいわないかぎり、その「秘密」は存在しない。
 シェークスピアの国だけあって、ことばが重要なんですねえ。
 ね、だから、ことば、ことば、ことば。(オリヴィエが出ているから「ハムレット」を引用しているわけではないんですよ。)
 そこに存在しないレベッカ(死んでしまったレベッカ)が何と言ったか。プライバシーをどう語ったか。特に、オリヴィエに何と言ったか、ということがとっても大切になる。オリヴィエに言ったことは「ほんとう」だったのか、それとも「嘘」だったのか。それをことばで追い詰めるようにして、映画はクライマックスへ突っ走る。
 まるで小説を読んでいる感じだなあ。
 これがね、オリヴィエの演じる大富豪がアメリカ人だったら、レベッカがアメリカ人だったら、こんなストーリーにはならない。「嘘」を語ることで自分を隠す(プライバシーを捏造することで、ほんとうの自分を隠す)ということは、しない。ひたすらしゃべって、オリヴィエを自分の問題に(苦悩に)巻き込んでゆく。
 イギリスだから、何かを知っていても(たとえばレベッカが誰かとセックスをしている、浮気をしている、というのを見聞きしても)、そのことを「追及」し、語られていることが真実か嘘かという問題には踏み込まない。語られていないことは、聞いてはいけないのだ。
 これは、ほら、ジョーン・フォンテーンに対するオリヴィエの態度に端的にあらわれている。「過去」を語らない。レベッカのことを最小限にしか語らない。みんな、そうだね。--語られることが少ないということが、つまり、オープンに何でも話してしまわない、というイギリス人の個人主義の「壁」がジョーン・フォンテーンの苦悩をいっそう強めるという仕組みになっている。
 これがこの映画のいちばんおもしろいことろ、と私は思う。

レベッカ [DVD]
クリエーター情報なし
JVCエンタテインメント
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする