新井啓子「さえずり」「ブルームーン」(「続左岸」34、2011年11月14日発行)
新井啓子「さえずり」「ブルームーン」は、人間のものではない「時間」と向き合っている。向き合うことで、自分のものではない「時間」と交わり、自分の中に変化をおこそうとしている--自分を見つめなおそうとしている。
「さえずり」のなかほど。
「時が流れ」「声は蘇る」。「声」にも「時間」はある。いや、「声」の「時間」の方が短いのだが、それは宇宙の時間より「強い」。宇宙の時間は「流れる」。けれどいきものの「時間」はよみがえる。この「よみがえり」を新井は「帰ってくる」と言いなおしている。「いのち」の引き継ぎではなく「いのち」が「帰ってくる」。復活。そこに、「強さ」のほんとうの秘密がある。
「ブルームーン」は「宇宙」の「時間」を象徴する「月」との対話である。
月からの返事は、まあ、ちょっとつれないのだが、これは生きている「時間」、つまり「思想」の出発点が違うからである。宇宙にとっての「いま」は、いきものの「いま」とは「時間」の「間」の広さが違う。--考えてみればあたりまえのことなのだけれど、このあたりまえのことを新井は静かに、説得力を「こめて」書いている。
対話というのは、何かを「こめて」することである。それは、たぶん「ことば」の「意味」以上に大切なものであると思う。
(ちょっと飛躍してしまうのだが、きのう読んだ高岡力の「ハミング」の夫婦げんか--そこにも「ことば」の「意味」ではなく、別なものが「こめられて」いた。そのことばにならない何かが、「意味」をこえて、人間をつなぐ。)
何度かの手紙のやりとりのあとの、ほとんど最後の部分。
「三十三年でひとまわり」と「ひと月に二度やってくる満月」の算数は、ちょっとうるさい感じがするが、これは私が算数が苦手だからかもしれない。ということは、置いておいて……。
「月の光は蘇り」と新井は、ここで「さえずり」では鳥の声の「時間」をあらわすのにつかったことばをつかっている。「月の光」と「さえずり」は、このとき新井にとっては同じ「いのち」になる。
その「いのち」を感じて、次の「月よ……」という蒼い薔薇のことばが動く。「いのち」と触れあうから「シアワセ」ということばも自然に動く。
ここでいちばんおもしろいのは、
と矛盾したことを1行で言っていることだ。「ゐる」「ゐない」は新井にとっては「同じ」なのだ。そして、それが「同じ」であるということは、そのとき蒼い薔薇は蒼い薔薇の「時間」だけを生きてはいないからだ。
「さえずり」の詩で「流れる」と書かれていた「時間」を生きている。しかし、同時にその「流れる」は「とどまる」なのだ。--宇宙といきものの「時間」は相対的である。どちらかを固定すれば他方が流れて見える。その両方が流れていても、流れながら固定するということがあるのだ。(天動説、を思い浮かべればいいのかもしれない。)
まあ、こういうことは、真剣に考えるとめんどうくさいから、私は省略する。
詩なのだから、はっきりしなくていい。あいまいに「わかった」と思えばそれでいいと思う。
で。(で、というのも、いいかげんな、私の「得意」とする飛躍なのだが……。)
月と蒼い薔薇との「矛盾した統合」があったあと、満月は、
ここが色っぽい。月であることを忘れてしまいそうになる。はだけた女の人の胸元を見ているような気持ちになる。「はみ出す」は、そして、着物から「はみ出す」ではなく、乳房そのものから乳房がはみ出す--乳房を突き破って、乳房がほんものになる、という印象である。
この瞬間に「いのち」を感じるのは、私がやっぱりスケベな男だから?
最後の「小さく」は「逆説」である。「小さく×小さく」は「マイナス×マイナス」の数学のように、「プラス」に変わる。
(新井の詩は、ときどき「算数・数学」的にことばが動いている、と、ふと思った。--「日記」なので、見境なしに思いついたことをメモしておく。)
新井啓子「さえずり」「ブルームーン」は、人間のものではない「時間」と向き合っている。向き合うことで、自分のものではない「時間」と交わり、自分の中に変化をおこそうとしている--自分を見つめなおそうとしている。
「さえずり」のなかほど。
うっそうとした木の間には
コノハズクの歌が響いている
地が震え
水が暴れ
むごい時間が流れても
いつも声は蘇ってきた
次の時も
その次の時も
行ったものがまた帰ってくる
「時が流れ」「声は蘇る」。「声」にも「時間」はある。いや、「声」の「時間」の方が短いのだが、それは宇宙の時間より「強い」。宇宙の時間は「流れる」。けれどいきものの「時間」はよみがえる。この「よみがえり」を新井は「帰ってくる」と言いなおしている。「いのち」の引き継ぎではなく「いのち」が「帰ってくる」。復活。そこに、「強さ」のほんとうの秘密がある。
「ブルームーン」は「宇宙」の「時間」を象徴する「月」との対話である。
月には何度会っただろう
一度目は満ちた月
そこへの道はまっすぐで いまにも手が届きそう
おいでおいで ここまでおいで
月に手紙を書いてみた
こんばんは こんばんは
私の名前は蒼い薔薇(ブルームーン)
月よ 影を連れてきて
銀箔の雲の下で 小さな光の話をしましょう
月からの返事が届く
影に光はありません 丸いは丸い 月は月
月からの返事は、まあ、ちょっとつれないのだが、これは生きている「時間」、つまり「思想」の出発点が違うからである。宇宙にとっての「いま」は、いきものの「いま」とは「時間」の「間」の広さが違う。--考えてみればあたりまえのことなのだけれど、このあたりまえのことを新井は静かに、説得力を「こめて」書いている。
対話というのは、何かを「こめて」することである。それは、たぶん「ことば」の「意味」以上に大切なものであると思う。
(ちょっと飛躍してしまうのだが、きのう読んだ高岡力の「ハミング」の夫婦げんか--そこにも「ことば」の「意味」ではなく、別なものが「こめられて」いた。そのことばにならない何かが、「意味」をこえて、人間をつなぐ。)
何度かの手紙のやりとりのあとの、ほとんど最後の部分。
月から蒼い返事が届く
お待ち下さい もう少し 光が重なる時がきます
昨日は今日に 明日は昨日に 三十三年でひとまわり
魚群が空から降ってきて 道を蒼く光らせます
月の光は蘇り 夜琴の音色を響かせます
あなたの花弁に届くよう 夜風に旅をさせましょう
月よ 花のシアワセは光と露に濡れること
影とゐること ゐないこと
ひと月に二度やってくる満月は ブルームーン
畑の真上に薄皮をまとって とろり
はみ出しそうに浮かんでいる
「三十三年でひとまわり」と「ひと月に二度やってくる満月」の算数は、ちょっとうるさい感じがするが、これは私が算数が苦手だからかもしれない。ということは、置いておいて……。
「月の光は蘇り」と新井は、ここで「さえずり」では鳥の声の「時間」をあらわすのにつかったことばをつかっている。「月の光」と「さえずり」は、このとき新井にとっては同じ「いのち」になる。
その「いのち」を感じて、次の「月よ……」という蒼い薔薇のことばが動く。「いのち」と触れあうから「シアワセ」ということばも自然に動く。
ここでいちばんおもしろいのは、
影とゐること ゐないこと
と矛盾したことを1行で言っていることだ。「ゐる」「ゐない」は新井にとっては「同じ」なのだ。そして、それが「同じ」であるということは、そのとき蒼い薔薇は蒼い薔薇の「時間」だけを生きてはいないからだ。
「さえずり」の詩で「流れる」と書かれていた「時間」を生きている。しかし、同時にその「流れる」は「とどまる」なのだ。--宇宙といきものの「時間」は相対的である。どちらかを固定すれば他方が流れて見える。その両方が流れていても、流れながら固定するということがあるのだ。(天動説、を思い浮かべればいいのかもしれない。)
まあ、こういうことは、真剣に考えるとめんどうくさいから、私は省略する。
詩なのだから、はっきりしなくていい。あいまいに「わかった」と思えばそれでいいと思う。
で。(で、というのも、いいかげんな、私の「得意」とする飛躍なのだが……。)
月と蒼い薔薇との「矛盾した統合」があったあと、満月は、
畑の真上に薄皮をまとって とろり
はみ出しそうに浮かんでいる
ここが色っぽい。月であることを忘れてしまいそうになる。はだけた女の人の胸元を見ているような気持ちになる。「はみ出す」は、そして、着物から「はみ出す」ではなく、乳房そのものから乳房がはみ出す--乳房を突き破って、乳房がほんものになる、という印象である。
この瞬間に「いのち」を感じるのは、私がやっぱりスケベな男だから?
ささめく声が遠ざかり 淡い香りも鎮まって
いのちと いのちが響きあい 一つの花が開きます
蒼い光の影のなか 荒れた地面に根をはって
小さく 小さく 開きます
最後の「小さく」は「逆説」である。「小さく×小さく」は「マイナス×マイナス」の数学のように、「プラス」に変わる。
(新井の詩は、ときどき「算数・数学」的にことばが動いている、と、ふと思った。--「日記」なので、見境なしに思いついたことをメモしておく。)
遡上 | |
新井 啓子 | |
思潮社 |