詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

新井啓子「さえずり」「ブルームーン」

2011-12-06 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
新井啓子「さえずり」「ブルームーン」(「続左岸」34、2011年11月14日発行)

 新井啓子「さえずり」「ブルームーン」は、人間のものではない「時間」と向き合っている。向き合うことで、自分のものではない「時間」と交わり、自分の中に変化をおこそうとしている--自分を見つめなおそうとしている。
 「さえずり」のなかほど。

うっそうとした木の間には
コノハズクの歌が響いている
地が震え
水が暴れ
むごい時間が流れても
いつも声は蘇ってきた

次の時も
その次の時も
行ったものがまた帰ってくる

 「時が流れ」「声は蘇る」。「声」にも「時間」はある。いや、「声」の「時間」の方が短いのだが、それは宇宙の時間より「強い」。宇宙の時間は「流れる」。けれどいきものの「時間」はよみがえる。この「よみがえり」を新井は「帰ってくる」と言いなおしている。「いのち」の引き継ぎではなく「いのち」が「帰ってくる」。復活。そこに、「強さ」のほんとうの秘密がある。
 「ブルームーン」は「宇宙」の「時間」を象徴する「月」との対話である。

月には何度会っただろう
一度目は満ちた月
そこへの道はまっすぐで いまにも手が届きそう
おいでおいで ここまでおいで

月に手紙を書いてみた
こんばんは こんばんは
私の名前は蒼い薔薇(ブルームーン)
月よ 影を連れてきて
銀箔の雲の下で 小さな光の話をしましょう

月からの返事が届く
影に光はありません 丸いは丸い 月は月

 月からの返事は、まあ、ちょっとつれないのだが、これは生きている「時間」、つまり「思想」の出発点が違うからである。宇宙にとっての「いま」は、いきものの「いま」とは「時間」の「間」の広さが違う。--考えてみればあたりまえのことなのだけれど、このあたりまえのことを新井は静かに、説得力を「こめて」書いている。
 対話というのは、何かを「こめて」することである。それは、たぶん「ことば」の「意味」以上に大切なものであると思う。
 (ちょっと飛躍してしまうのだが、きのう読んだ高岡力の「ハミング」の夫婦げんか--そこにも「ことば」の「意味」ではなく、別なものが「こめられて」いた。そのことばにならない何かが、「意味」をこえて、人間をつなぐ。)

 何度かの手紙のやりとりのあとの、ほとんど最後の部分。

月から蒼い返事が届く
お待ち下さい もう少し 光が重なる時がきます
昨日は今日に 明日は昨日に 三十三年でひとまわり
魚群が空から降ってきて 道を蒼く光らせます
月の光は蘇り 夜琴の音色を響かせます
あなたの花弁に届くよう 夜風に旅をさせましょう

月よ 花のシアワセは光と露に濡れること
影とゐること ゐないこと
ひと月に二度やってくる満月は ブルームーン
畑の真上に薄皮をまとって とろり
はみ出しそうに浮かんでいる

 「三十三年でひとまわり」と「ひと月に二度やってくる満月」の算数は、ちょっとうるさい感じがするが、これは私が算数が苦手だからかもしれない。ということは、置いておいて……。
 「月の光は蘇り」と新井は、ここで「さえずり」では鳥の声の「時間」をあらわすのにつかったことばをつかっている。「月の光」と「さえずり」は、このとき新井にとっては同じ「いのち」になる。
 その「いのち」を感じて、次の「月よ……」という蒼い薔薇のことばが動く。「いのち」と触れあうから「シアワセ」ということばも自然に動く。
 ここでいちばんおもしろいのは、

影とゐること ゐないこと

 と矛盾したことを1行で言っていることだ。「ゐる」「ゐない」は新井にとっては「同じ」なのだ。そして、それが「同じ」であるということは、そのとき蒼い薔薇は蒼い薔薇の「時間」だけを生きてはいないからだ。
 「さえずり」の詩で「流れる」と書かれていた「時間」を生きている。しかし、同時にその「流れる」は「とどまる」なのだ。--宇宙といきものの「時間」は相対的である。どちらかを固定すれば他方が流れて見える。その両方が流れていても、流れながら固定するということがあるのだ。(天動説、を思い浮かべればいいのかもしれない。)
 まあ、こういうことは、真剣に考えるとめんどうくさいから、私は省略する。
 詩なのだから、はっきりしなくていい。あいまいに「わかった」と思えばそれでいいと思う。
 で。(で、というのも、いいかげんな、私の「得意」とする飛躍なのだが……。)
 月と蒼い薔薇との「矛盾した統合」があったあと、満月は、

畑の真上に薄皮をまとって とろり
はみ出しそうに浮かんでいる

 ここが色っぽい。月であることを忘れてしまいそうになる。はだけた女の人の胸元を見ているような気持ちになる。「はみ出す」は、そして、着物から「はみ出す」ではなく、乳房そのものから乳房がはみ出す--乳房を突き破って、乳房がほんものになる、という印象である。
 この瞬間に「いのち」を感じるのは、私がやっぱりスケベな男だから?

ささめく声が遠ざかり 淡い香りも鎮まって
いのちと いのちが響きあい 一つの花が開きます
蒼い光の影のなか 荒れた地面に根をはって
小さく 小さく 開きます

 最後の「小さく」は「逆説」である。「小さく×小さく」は「マイナス×マイナス」の数学のように、「プラス」に変わる。
 (新井の詩は、ときどき「算数・数学」的にことばが動いている、と、ふと思った。--「日記」なので、見境なしに思いついたことをメモしておく。)









遡上
新井 啓子
思潮社
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デイヴィッド・リーン監督「ドクトル・ジバゴ」(★★★★)

2011-12-06 23:01:00 | 午前十時の映画祭


監督 デイヴィッド・リーン 出演 オマー・シャリフ、ジュリー・クリスティ、ジェラルディン・チャップリン、ロッド・スタイガー、アレック・ギネス

 この映画には1か所、どうしてもわからないシーンがある。
 オマー・シャリフとジュリー・クリスティがモスクワから遠く離れた街で再会する。そしてベンチに座って話をする。そのとき、スクリーンの左側に水たまりというより、小さな池がある。これは、何? いや、池でいいのだけれど、なぜスクリーンに映っている? 映す必要がある? ただの(?)地面ではだめ?
 これが、わからない。ここに池があるという「美意識」がわからない。
 デイヴィッド・リーンの映画は映像が美しい。この映画では、タイトルバックに白樺の林の絵がつかわれているが、その絵も美しい。ロシアの広大な風景が美しい。カナダで撮ったようだけれど、雪の山が美しいし、雪が美しい。空気が美しい。
 雪原の果てしなさと、そこにある空気の透明感(人間を拒絶した純粋さ)は、それを砂に置き換えると、そのまま「アラビアのロレンス」になる。広い空間の美しさ、そこに存在する空気の美しさがデイヴィッド・リーンの映像の特徴である。
 小さなもの--たとえば列車の小窓からオマー・シャリフが眺める月、雲に隠れて、またあらわれる月が美しい。(これは「インドへの道」で、水にうつった月を掬おうとするするシーンにも通じる。)
 こんな美しい「世界」のなかで、なぜ、人間のしていることは、こんなにも矛盾して、苦しいのか。デイヴィッド・リーンの映画を見ると、いつもそう思うのだが……。
 あの、池--あれは美しくない。広大でもない。とても違和感がある。なぜ、あのシーンに池が必要なのか。何かの象徴なのか。

 それにしても、ジュリー・クリスティは美人だなあ。不思議な不透明さがいいなあ。ロッド・スタイガーが、その不透明さを見抜いて、ぐいと自分にひきよせてしまうところ、それをジュリー・クリスティが拒絶できないところ--これが、この映画を支えている。デイヴィッド・リーンの映画には、何かしら美しさと不純の誘惑が同居している部分があって、それが映像を強くしていると思う。
 ジュリー・クリスティとロッド・スタイガーの「高潔ではない強さ」が、鏡の朱泥のように、この映画を輝かせている。



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