長嶋南子「創世記」(「きょうは詩人」20、2011年12月26日発行)
長嶋南子「創世記」は読みはじめてすぐに「聖書」の「創世記」のパロディーであることがわかる。私は「創世記」を読んだわけではないのだが、まあ、聞いて知っている範囲でのことだから、感想もいいかげんになるけれど。
パロディーの安心感は「文体」が落ち着いていることである。--と書いて、あ、違うなあ、と思いなおす。
パロディーはたしかに先行することばの枠組みを借りて自分のことばを動かしてみることだが、誰かの「文体」の枠を借りるからといって、必ずしもそのとき書かれる「文体」が安定するわけではない。
誰かの「文体」を借りれば、誰でも「文体」が落ち着くのであれば、誰もがパロディーを書くだろう。
パロディーには、何か、特別な「力」が必要なのだと思う。
で、それは何?
というようなことは、この2連だけではわからない。
もとの「ことば」が持っている強さと向き合い、同じようにことばを強くするためには、きっと決まりがある。そして、その決まりは、独断で言うのだが、パロディーのなかで動くことばの「距離」の「一定」である。
ことばの「物差し」が「一定」である、といえばいいのかな?
文鳥、アロエ、メダカ、どじょう、金魚、白猫、ミニチュアダックスフント。どれも、見たことがあるなあ。知っているなあ。ここにイグアナなんかが紛れ込むと「一定」が崩れる。
で、この「物差し」(一定)が、いちばん明確なのは「第七日」にでてくる「コンビニ」である。
「暮らし」(日常)がそのまま「物差し」になっている。
「日常の暮らし」という「物差し」で、もとの文体のことばを作り替えていくのだ。もとの文体をのっとるのだ。「物差し」そのもを交換してしまうのだ。「ことば」の入れ替えではなく「物差し」の入れ替えなのである。
文体の「枠」を借りるのではなく、むしろ、ことばとことばの「距離」の取り方を借りるのである。
いい表現が思い浮かばないのだが--強引に比喩をつかっていえば、たとえば「聖書の創世記」がメートル法でことばを選んでいるとしたら、「長嶋の創世記」は尺貫法でことばを選んでいる。「聖書の創世記」がメートル法で貫かれるのに対し、「長嶋の創世記」は尺貫法で貫かれる。
そうすると、自然に、尺貫法のサイズの「創世記」になる。そうして、「物差し」が違っているだけで、ほんとうは同じ何かがつくられている--同じ何かをつくろうとしても、「物差し」が違うと自然に違ったものができあがるのだということに気がつくのだが。
うーん。
そういう世界をつくる上げるためには、まず自分自身の「物差し」を確立しないと行けない。「物差し」が決まっていないと、自分の「物差し」のあてようがないのである。
長嶋は、長嶋の「物差し」を持っているのだ。それがパロディーによって、より鮮明になるのだ。長嶋は「聖書」の「文体」など借りてはいないのだ。
「文体」を借りるというのは、「物差し」を借りることである。
長嶋は、「文体」を生き直しているのだ。自分の「物差し」で「文体」をつくり直しているのだ。
笑ってしまうねえ。
「物差し」が強靱になりすぎて、「物語」を完全に破壊し、つくりなおしてしまう。「文体」をつくりなおすと、「物語」も自然に変わってしまうのだ。
そして、このとき、ことばなんて、こんなもの--と一種の「開き直り」のような快感が生まれる。
「聖書の創世記」が言っている(書かれていること)なんて、ほんとう?
男のあばら骨から女がつくられたなんて、ほんとう?
いいかげんなことを書いているんじゃない?
だって、引きこもりの息子(たぶん--母親ということばが出てくるからね)には、女がいない。あばら骨から女がつくられるなんていうのは、うそ。
そうではなくて、女が男を産んだのだ。
--これは、長嶋が、自分の体験だから、証明できる。肉体がはっきりおぼえている。
で、ね。
こんなことを書いていいかどうかわからないけれど(と書きながら、私は書くのだけれど)、「聖書」のことばなんか、嘘っぽいよねえ。男のあばら骨から女が生まれたなんて。何が嘘ぽいといって、そこには人間関係の「めんどうくささ」がない。生きることの「めんどうくささ」がない。
現実は。
女は子どもを産んでしまうと(それが男とか女とかは関係ない。ここでは、たまたま息子、つまり男だけれど)、ほおっておくわけにはいかない。めんどうをみなければいけない。「いつもご飯をおいておく」ということをしなければいけない。
いや、しなくたっていい、という意見もあるだろけれど、そういうしなくていいことをしなければいけないのが「めんどうくさい」ということ。
でも、そんなめんどうくさいことに、ずーっとかまけているわけにもいかない。
どうすればいいかなあ。
せめて、ことばで「いじめ」てしまえ。憂さを晴らしてしまえ。
あんなにぶくぶく太ってしまって、あれじゃあ、女はできないねえ。世話をしてくれるいい女なんてつかまえられっこないねえ。--と「露骨」にいうのではなく「太りすぎた青年のからだからは/あばら骨を取り出せなかった/したがって女はつくられなかった」と聖書のことばを逆手にとって、言いたいことを言ってしまう。
そして、これがおかしいのは、そこに「論理」があるから、というよりも。
そこに長嶋の「肉体」があるから。「暮らし」の「物差し」の基準となる「肉体」があるから。
私は長嶋には会ったことがない。写真は見たことがあるかなあ。あっても、おぼえていないのだから、見ていないということだね。--それなのに、この最後の3行を読んだ瞬間、長嶋が見えるように感じるのである。
「息子、男ってめんどうくさい。女は男のあばら骨からつくられたなんていいながら、実際になにかしているのは女なのに。ばかな男たち」
でも、こんなことは、こころのなかで言ってしまえば、知らん顔して、そのまま生きて行ける。なんでもかんでも、こころのなかで言ってしまって(ほんとうは詩にしているんだけれど)、あとは、知らん顔して生きていけばいい。
長嶋はなんでも知っている。
でも、知らん顔をする。
聖書の「創世記」。知っている。でも、知らん顔して、電灯をつけて昼と夜を逆転させるとか、文鳥だとか、アロエだとか、メダカだとか、ミニチュアダックスフントだとかで、「世界」を描写してしまう。
いいなあ、この知らん顔。
うん、大丈夫。人間はいつでも生きて行ける、と励まされた気持ちになる。
「太りすぎた青年のからだからは/あばら骨を取り出せなかった/したがって女はつくられなかった」なんて言われたら息子は怒るだろう。
でも、怒ることが、生きること。
母親の長嶋は、息子が部屋からでてきてなにかすることを願っている。それが「怒る」とういことでも、自発的に、自分のことばを動かす。そこから「生きる」がはじまる。
--とは、書いてはいないのだけれど、そういう「呼吸」が、長嶋のことばにはある。だから、読んでいて、いやな気持ちにならない。おかしい、楽しい、という感じになる。
さっきまでつかっていた「物差し」を「呼吸」ということばで言いなおして、今書いたことを書き直すと、もっと長嶋のことばの「肉体」に近づくことができるかなあ、と今、ふいに思ったけれど。
これは次の私の課題。
私は目が悪くて40分以上書くと頭痛がする。で、きょうの「日記」はここまで。
長嶋さん、中途半端でごめんなさい。
長嶋南子「創世記」は読みはじめてすぐに「聖書」の「創世記」のパロディーであることがわかる。私は「創世記」を読んだわけではないのだが、まあ、聞いて知っている範囲でのことだから、感想もいいかげんになるけれど。
初めに部屋は鍵がつけられた
部屋のなかは大いなる闇があり
光あれといって電灯をつけた
昼と夜は逆転された
こうして夜があり朝があり 第一日
ついで空を飛ぶものとして文鳥を
つがいで飼い始めた
こうして夜があり朝があり 第二日
パロディーの安心感は「文体」が落ち着いていることである。--と書いて、あ、違うなあ、と思いなおす。
パロディーはたしかに先行することばの枠組みを借りて自分のことばを動かしてみることだが、誰かの「文体」の枠を借りるからといって、必ずしもそのとき書かれる「文体」が安定するわけではない。
誰かの「文体」を借りれば、誰でも「文体」が落ち着くのであれば、誰もがパロディーを書くだろう。
パロディーには、何か、特別な「力」が必要なのだと思う。
で、それは何?
というようなことは、この2連だけではわからない。
この部屋に根付くものをと願い
その通りになった
アロエ一鉢
こうして夜があり朝があり 第三日
ついで水の生きものが群がるように
メダカ どじょう 金魚
生めよふえよ 水に満ち
こうして夜があり朝があり 第四日
ついで野の獣をと思う
その通りになった
白猫とミニチュアダックスフントが来た
こうして夜があり朝があり 第五日
部屋には犬と猫 文鳥と金魚 アロエ一鉢
すべてを支配し名をつけた
こうして夜があり朝があり 第六日
部屋のなかはすべて完成し
祝して聖なる休日としてコンビニに走る
こうして夜があり朝があり 第七日
もとの「ことば」が持っている強さと向き合い、同じようにことばを強くするためには、きっと決まりがある。そして、その決まりは、独断で言うのだが、パロディーのなかで動くことばの「距離」の「一定」である。
ことばの「物差し」が「一定」である、といえばいいのかな?
文鳥、アロエ、メダカ、どじょう、金魚、白猫、ミニチュアダックスフント。どれも、見たことがあるなあ。知っているなあ。ここにイグアナなんかが紛れ込むと「一定」が崩れる。
で、この「物差し」(一定)が、いちばん明確なのは「第七日」にでてくる「コンビニ」である。
「暮らし」(日常)がそのまま「物差し」になっている。
「日常の暮らし」という「物差し」で、もとの文体のことばを作り替えていくのだ。もとの文体をのっとるのだ。「物差し」そのもを交換してしまうのだ。「ことば」の入れ替えではなく「物差し」の入れ替えなのである。
文体の「枠」を借りるのではなく、むしろ、ことばとことばの「距離」の取り方を借りるのである。
いい表現が思い浮かばないのだが--強引に比喩をつかっていえば、たとえば「聖書の創世記」がメートル法でことばを選んでいるとしたら、「長嶋の創世記」は尺貫法でことばを選んでいる。「聖書の創世記」がメートル法で貫かれるのに対し、「長嶋の創世記」は尺貫法で貫かれる。
そうすると、自然に、尺貫法のサイズの「創世記」になる。そうして、「物差し」が違っているだけで、ほんとうは同じ何かがつくられている--同じ何かをつくろうとしても、「物差し」が違うと自然に違ったものができあがるのだということに気がつくのだが。
うーん。
そういう世界をつくる上げるためには、まず自分自身の「物差し」を確立しないと行けない。「物差し」が決まっていないと、自分の「物差し」のあてようがないのである。
長嶋は、長嶋の「物差し」を持っているのだ。それがパロディーによって、より鮮明になるのだ。長嶋は「聖書」の「文体」など借りてはいないのだ。
「文体」を借りるというのは、「物差し」を借りることである。
長嶋は、「文体」を生き直しているのだ。自分の「物差し」で「文体」をつくり直しているのだ。
鍵のかかった部屋の前には母親だという女が
いつもご飯をおいていく
青年は部屋をみまわし満足して
深い眠りにつく
太りすぎた青年のからだからは
あばら骨を取り出せなかった
したがって女はつくられなかった
笑ってしまうねえ。
「物差し」が強靱になりすぎて、「物語」を完全に破壊し、つくりなおしてしまう。「文体」をつくりなおすと、「物語」も自然に変わってしまうのだ。
そして、このとき、ことばなんて、こんなもの--と一種の「開き直り」のような快感が生まれる。
「聖書の創世記」が言っている(書かれていること)なんて、ほんとう?
男のあばら骨から女がつくられたなんて、ほんとう?
いいかげんなことを書いているんじゃない?
だって、引きこもりの息子(たぶん--母親ということばが出てくるからね)には、女がいない。あばら骨から女がつくられるなんていうのは、うそ。
そうではなくて、女が男を産んだのだ。
--これは、長嶋が、自分の体験だから、証明できる。肉体がはっきりおぼえている。
で、ね。
こんなことを書いていいかどうかわからないけれど(と書きながら、私は書くのだけれど)、「聖書」のことばなんか、嘘っぽいよねえ。男のあばら骨から女が生まれたなんて。何が嘘ぽいといって、そこには人間関係の「めんどうくささ」がない。生きることの「めんどうくささ」がない。
現実は。
女は子どもを産んでしまうと(それが男とか女とかは関係ない。ここでは、たまたま息子、つまり男だけれど)、ほおっておくわけにはいかない。めんどうをみなければいけない。「いつもご飯をおいておく」ということをしなければいけない。
いや、しなくたっていい、という意見もあるだろけれど、そういうしなくていいことをしなければいけないのが「めんどうくさい」ということ。
でも、そんなめんどうくさいことに、ずーっとかまけているわけにもいかない。
どうすればいいかなあ。
せめて、ことばで「いじめ」てしまえ。憂さを晴らしてしまえ。
あんなにぶくぶく太ってしまって、あれじゃあ、女はできないねえ。世話をしてくれるいい女なんてつかまえられっこないねえ。--と「露骨」にいうのではなく「太りすぎた青年のからだからは/あばら骨を取り出せなかった/したがって女はつくられなかった」と聖書のことばを逆手にとって、言いたいことを言ってしまう。
そして、これがおかしいのは、そこに「論理」があるから、というよりも。
そこに長嶋の「肉体」があるから。「暮らし」の「物差し」の基準となる「肉体」があるから。
私は長嶋には会ったことがない。写真は見たことがあるかなあ。あっても、おぼえていないのだから、見ていないということだね。--それなのに、この最後の3行を読んだ瞬間、長嶋が見えるように感じるのである。
「息子、男ってめんどうくさい。女は男のあばら骨からつくられたなんていいながら、実際になにかしているのは女なのに。ばかな男たち」
でも、こんなことは、こころのなかで言ってしまえば、知らん顔して、そのまま生きて行ける。なんでもかんでも、こころのなかで言ってしまって(ほんとうは詩にしているんだけれど)、あとは、知らん顔して生きていけばいい。
長嶋はなんでも知っている。
でも、知らん顔をする。
聖書の「創世記」。知っている。でも、知らん顔して、電灯をつけて昼と夜を逆転させるとか、文鳥だとか、アロエだとか、メダカだとか、ミニチュアダックスフントだとかで、「世界」を描写してしまう。
いいなあ、この知らん顔。
うん、大丈夫。人間はいつでも生きて行ける、と励まされた気持ちになる。
「太りすぎた青年のからだからは/あばら骨を取り出せなかった/したがって女はつくられなかった」なんて言われたら息子は怒るだろう。
でも、怒ることが、生きること。
母親の長嶋は、息子が部屋からでてきてなにかすることを願っている。それが「怒る」とういことでも、自発的に、自分のことばを動かす。そこから「生きる」がはじまる。
--とは、書いてはいないのだけれど、そういう「呼吸」が、長嶋のことばにはある。だから、読んでいて、いやな気持ちにならない。おかしい、楽しい、という感じになる。
さっきまでつかっていた「物差し」を「呼吸」ということばで言いなおして、今書いたことを書き直すと、もっと長嶋のことばの「肉体」に近づくことができるかなあ、と今、ふいに思ったけれど。
これは次の私の課題。
私は目が悪くて40分以上書くと頭痛がする。で、きょうの「日記」はここまで。
長嶋さん、中途半端でごめんなさい。
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