白井知子『地に宿る』(2)(思潮社、2011年11月30日発行)
白井のことばの強さ。それは感情ではなく「もの」を書くからである。論理ではなく「もの」を書く。書くことで白井は「もの」になる。人間が「もの」になる、とは、「ことば」になるということでもある。自律することば。
--これは、きのう、詩集の余白に書いたメモである。
つづきを書こうとしてみたが、きのう考えたことときょう考えることは、どうも一致してくれない。
で、違うことを書く。
白井のことばの強さ。それは感情ではなく「もの」を書くからである。この「もの」というのは、白井でありながら白井をこえる「いのち」のことである。それは「ひとり」の「いのち」ではない。「ひとつ」の「いのち」でもない。私が生きる「いのち」は一回限りのものだが、白井のことばが生きる「いのち」は一回限りではない。「ひとり」や「ひとつ」のものを超えている。その、私にはつかみきれない「いのち」のことばが、「もの」として感じられるということである。
どの詩を取り上げてもいいのだけれど、きのう巻頭の詩を読んだので、きょうは最後の詩を取り上げてみる。
「ぞっくり寒い」「ぬくまりにきた」は、きのう読んだ「九歳の鎖骨」の、
を思い出させる。それは、たしかにつながっている。
そして、「美味しそうなおまえの臓腑をひきちぎっていくからなのさ」は、
と響きあっている。
これは、祖母の語る「龍」、あるいは「獣たち」を、祖母は単に「ことば」として語るのではなく、祖母自身の「肉体」として語るということに他ならない。語ることで祖母は「獣たち」の「肉体」になる。つまり老女の「肉体」を超えて、超越的な「肉体」を生きる。それが傷ついて死にかけた「軍鶏」であろうと、老女ではないということで超越的であり、特権的である。
この「超越」、あるいは「特権」が「もの」である。存在の「力」である。そこを通ることで、人間は人間になるのだ。その「超越」「特権」を通り抜けないと「いのち」は存在しないのである。
「おまえの躰は/おまえだけのものじゃない」。それは、目覚めてくる獣たちが内臓を食べるためにある--というのは、獣たちに内臓を食べられることで、白井の「肉」は「獣たち」の「肉体」になるということである。
白井の内臓を食べる「獣たち」は「獣たち」であって、「獣たち」ではない。それは「白井」そのものであり、また「祖母」でもある。
すべての口(食べるという行為)は、あらゆる「いのち」につながっている。
このことを、祖母は「学校教科書」のように「正しく」は語らない。矛盾と、恐怖と、その恐怖の愉悦として語る。
「美味しそうなおまえの臓腑をひきちぎっていくからなのさ」。この1行のなかの、「美味しそうな」ということばの矛盾。美味しくなければ、白井は食べられることはない。美味しいから食べられる。それは白井にとっては死を意味するから「正しい」ことではない。けれど、そこに不思議な愉悦がある。「美味しい」という愉悦が、白井の死、あるいは恐怖を超えて、すばらしいものとして輝く。
この輝きも、また、「もの」である。
そして、この「もの」は、実は「もの」ではない。「ことば」だ。「ことば」だけがとらえうる「形」である。ことばの運動が「形」をそこに出現させる。--あ、これは正しい書き方ではないなあ。
「形」といっても、それは、見えないというか、とどまっていないからだ。動いているからだ。常に変化し、変化することで、「ひとつ」であるからだ。
何のことかわからない?
きっと、この文章を読んでいるひとには、何のことかわからない。
それは、私自身が、よくわからないということでもある。
書きたいことがある。--けれど、それは「ことば」になってくれない。ことばにしてしまうと、どうも違ったものになってしまう。
白井は、詩のことばをとおして、白井以外の何かとつながる。たとえば祖母とつながる。祖母の語る「ことば」とつながる。そうして、白井ではなくなってしまう。白井でなく、では何になるかといえば、祖母の語る「獣たち」になる。「獣たち」になって、白井の内臓を引きちぎって「美味しい」と味わうときに、「獣たち」でありながら「祖母」にもなる。「美味しい」と教えてくれたのは「獣たち」ではなく、「祖母」なのだから。
「もの」と私が書いてきたものは、この矛盾した「接続と断絶」の運動かもしれない。この運動は、「土地」も超越するし、「時間」も超越する。
「神話」になる、と言い換えることができるかもしれない。
「神話」は「いのち」が「いのち」になるために見る夢である。そこをくぐることで「いのち」と「ことば」は人間になる。
白井は、そうして、いろいろな土地の「人間」と出会い、ことばと出会い、そのなかで「白井」という枠を脱ぎ捨て、「神話のいのち」にもどっていく。
ここには「往復」がある。「往復」するたびに、何かが強くなる。往復が、ことばと「肉体」を鍛え、白井を白井以上の「いのち」にする。「往復」することで、白井は「いのち」に「なる」。
--こんなことは、抽象的にことばを重ねてみても、しようがない。
詩に戻る。
ポーランド国境近くのソルブ人の、昔話、即興話を白井は聞き取っている。
「九歳の鎖骨」の「三十八億年」は「三十八億歳」になっている。おなじことだ。「鳥に餌をやらないと おまえたちのお腹を啄ばみにくる」--これも、すでに見てきたことである。
知らないひとに出会い、知らないことばを聞くたびに、同じことが繰り返される。
ひとは、もしかすると自分の知らないことは繰り返すことができないのかもしれない。自分が知っていること、三十八億年間繰り返してきたことを、いまは、人間の形をして(白井の形をして)思い出し、それを再び覚えるだけなのかもしれない。
「肉体」で覚え、覚えたことを「ことば」にする。またいつか、そのことばを繰り返し、「肉体」にもどるために。
白井のことばを読んでいると、なんだか酔ってしまったように、同じことばを繰り返してしまう。--とても強い詩集なのだ。この詩集は。
白井のことばの強さ。それは感情ではなく「もの」を書くからである。論理ではなく「もの」を書く。書くことで白井は「もの」になる。人間が「もの」になる、とは、「ことば」になるということでもある。自律することば。
--これは、きのう、詩集の余白に書いたメモである。
つづきを書こうとしてみたが、きのう考えたことときょう考えることは、どうも一致してくれない。
で、違うことを書く。
白井のことばの強さ。それは感情ではなく「もの」を書くからである。この「もの」というのは、白井でありながら白井をこえる「いのち」のことである。それは「ひとり」の「いのち」ではない。「ひとつ」の「いのち」でもない。私が生きる「いのち」は一回限りのものだが、白井のことばが生きる「いのち」は一回限りではない。「ひとり」や「ひとつ」のものを超えている。その、私にはつかみきれない「いのち」のことばが、「もの」として感じられるということである。
どの詩を取り上げてもいいのだけれど、きのう巻頭の詩を読んだので、きょうは最後の詩を取り上げてみる。
耳もとをくすぐる鳥獣の声
祖母フミの夜話のならいだ
ありったけの声色で
古い支那の珍獣動物園の話からはじまるのだった
--麒麟や天馬 龍がいるのだよ
本物を見たいものだ ほれぼれするだろうねえ
角は鹿 頭は駱駝 目は鬼 項は蛇
腹は蜃 鱗は魚 爪は鷹
掌は虎 耳は牛に似ている
変幻自在の聖獣さま
うっとり繰りかえしては
わたしの心臓をとんとん叩く
--おまえのお腹の真ん中で冬眠している獣たち
もう起きたかい まだ眠ったままかい
よくお聞き おまえの躰は
おまえだけのものじゃない
春がぞっくり寒いのは
目を覚ました獣が
美味しそうなおまえの臓腑をひきちぎっていくからなのさ
一匹の口は ぎっしり眠るもっと小さな
獣たちの口につながっている
ぬくまりにきた獣を粗末にしてはならない
ようやくたどり着いたものばかり
「ぞっくり寒い」「ぬくまりにきた」は、きのう読んだ「九歳の鎖骨」の、
--ぞっくりと寒くなっちまってね
傷口が攣れる おまえのどこでもいいから被せておくれ
を思い出させる。それは、たしかにつながっている。
そして、「美味しそうなおまえの臓腑をひきちぎっていくからなのさ」は、
軍鶏の腐りだした贓物が透けてくる
と響きあっている。
これは、祖母の語る「龍」、あるいは「獣たち」を、祖母は単に「ことば」として語るのではなく、祖母自身の「肉体」として語るということに他ならない。語ることで祖母は「獣たち」の「肉体」になる。つまり老女の「肉体」を超えて、超越的な「肉体」を生きる。それが傷ついて死にかけた「軍鶏」であろうと、老女ではないということで超越的であり、特権的である。
この「超越」、あるいは「特権」が「もの」である。存在の「力」である。そこを通ることで、人間は人間になるのだ。その「超越」「特権」を通り抜けないと「いのち」は存在しないのである。
「おまえの躰は/おまえだけのものじゃない」。それは、目覚めてくる獣たちが内臓を食べるためにある--というのは、獣たちに内臓を食べられることで、白井の「肉」は「獣たち」の「肉体」になるということである。
白井の内臓を食べる「獣たち」は「獣たち」であって、「獣たち」ではない。それは「白井」そのものであり、また「祖母」でもある。
すべての口(食べるという行為)は、あらゆる「いのち」につながっている。
このことを、祖母は「学校教科書」のように「正しく」は語らない。矛盾と、恐怖と、その恐怖の愉悦として語る。
「美味しそうなおまえの臓腑をひきちぎっていくからなのさ」。この1行のなかの、「美味しそうな」ということばの矛盾。美味しくなければ、白井は食べられることはない。美味しいから食べられる。それは白井にとっては死を意味するから「正しい」ことではない。けれど、そこに不思議な愉悦がある。「美味しい」という愉悦が、白井の死、あるいは恐怖を超えて、すばらしいものとして輝く。
この輝きも、また、「もの」である。
そして、この「もの」は、実は「もの」ではない。「ことば」だ。「ことば」だけがとらえうる「形」である。ことばの運動が「形」をそこに出現させる。--あ、これは正しい書き方ではないなあ。
「形」といっても、それは、見えないというか、とどまっていないからだ。動いているからだ。常に変化し、変化することで、「ひとつ」であるからだ。
何のことかわからない?
きっと、この文章を読んでいるひとには、何のことかわからない。
それは、私自身が、よくわからないということでもある。
書きたいことがある。--けれど、それは「ことば」になってくれない。ことばにしてしまうと、どうも違ったものになってしまう。
白井は、詩のことばをとおして、白井以外の何かとつながる。たとえば祖母とつながる。祖母の語る「ことば」とつながる。そうして、白井ではなくなってしまう。白井でなく、では何になるかといえば、祖母の語る「獣たち」になる。「獣たち」になって、白井の内臓を引きちぎって「美味しい」と味わうときに、「獣たち」でありながら「祖母」にもなる。「美味しい」と教えてくれたのは「獣たち」ではなく、「祖母」なのだから。
「もの」と私が書いてきたものは、この矛盾した「接続と断絶」の運動かもしれない。この運動は、「土地」も超越するし、「時間」も超越する。
「神話」になる、と言い換えることができるかもしれない。
「神話」は「いのち」が「いのち」になるために見る夢である。そこをくぐることで「いのち」と「ことば」は人間になる。
白井は、そうして、いろいろな土地の「人間」と出会い、ことばと出会い、そのなかで「白井」という枠を脱ぎ捨て、「神話のいのち」にもどっていく。
ここには「往復」がある。「往復」するたびに、何かが強くなる。往復が、ことばと「肉体」を鍛え、白井を白井以上の「いのち」にする。「往復」することで、白井は「いのち」に「なる」。
--こんなことは、抽象的にことばを重ねてみても、しようがない。
詩に戻る。
ポーランド国境近くのソルブ人の、昔話、即興話を白井は聞き取っている。
--冬がおわりをつげるころ
鳥が巣をつくって卵をうむだろう
三十八億歳の星屑ってとこかい
鳥に餌をやらないと おまえたちのお腹を啄ばみにくる
食べ物をやりさえすれば
<鳥の結婚式>に招いてくれる
「九歳の鎖骨」の「三十八億年」は「三十八億歳」になっている。おなじことだ。「鳥に餌をやらないと おまえたちのお腹を啄ばみにくる」--これも、すでに見てきたことである。
知らないひとに出会い、知らないことばを聞くたびに、同じことが繰り返される。
ひとは、もしかすると自分の知らないことは繰り返すことができないのかもしれない。自分が知っていること、三十八億年間繰り返してきたことを、いまは、人間の形をして(白井の形をして)思い出し、それを再び覚えるだけなのかもしれない。
「肉体」で覚え、覚えたことを「ことば」にする。またいつか、そのことばを繰り返し、「肉体」にもどるために。
白井のことばを読んでいると、なんだか酔ってしまったように、同じことばを繰り返してしまう。--とても強い詩集なのだ。この詩集は。
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