詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

福間健二「彼女のストライキ」

2011-12-03 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
福間健二「彼女のストライキ」(「現代詩手帖」2011年11月号)

 なんとなく苦手な詩人というものがいる。ある部分には共感するが、ある部分は共感できない。そして、その共感も、共感できないも、はっきりことばにして語れるわけではない。
 たとえば福間健二である。
 「彼女のストライキ」を読んでみる。私はスケベだから、どんなことばもセックスに結びつけて読んでしまう。この詩には、たとえば、

彼女の侵入できない廊下で動きはじめる。
                 いい気持ち


音楽が止む。
     摩擦によって。さ、ただではすまないよ。

 というような行がある。「いい気持ち」「摩擦」。かけ離れたところにあるのだけれど、そのことばが呼びあって、私にはセックスしているシーンが見えてくる。近くには「白いスカート、赤いベルト」ということばも散らばっているしね。
 で、このセックスが、どうも私にはピンとこないのである。簡単に言うと、欲情しない。
 うーん、なぜなんだろう。

 最初から読み直してみる。

どうして、この階段。自由も権利もなかった。
と気づかされる湿度の国の、畑と川、校庭と線路を横切り、
汗みずくになって、使えなくなった建物の外の、
人ひとりしか通れない
階段の上。
    最初のできごと、最初の行為のあとの
曇り空の感受性がよみがえる。これでおしまい、さようなら。

 「湿度の国」というのはモンスーン気候の日本ということかな? 「校庭と線路を横切り」というのだから、授業をさぼってか、放課後か知らないけれど、学校から離れてどこかの建物でセックス(最初のできごと、最初の行為)をして、そのあと空を見たら曇っていた。そのときの思い(感受性)が、いまよみがえる--ということ?
 まあ、詩なのだから、かってにそう思っておくことにする。
 で、この1連目で言うと、私が「色気」を感じたのは1行目だけなのだ。
 「階段」から「自由も権利もない」ということばへの飛躍。自由や権利を語るのに階段がつかわれる。このときの福間の肉体のなかにある切断と接続は信じてみたいなあ、と感じたのだ。この信じてみたいなあ、というのは、私にとってはセックス。交わることで自分がどう変わるのか、何を知るのか、見当がつかないけれど、それをしてみたい、そういう感じ。
 けれど、それが2行目で、あ、やーめた、と思ってしまう。あ、私はセックスには興味がありません。出会わなかったことにしてください、と言いたくなってしまう。
 「湿度の国の」の「湿度」にぞっとする。その日、そのときの「空気」の感じを、福間は「湿度」と言うようだが、この「湿度」と「自由/権利」ということばの距離というか、飛躍が、あるいは切断と接続が--どうにも気持ちが悪い。
 「自由/権利」も「湿度」も、どちらかというと「頭」のことばである。そういう意味では「共通項」がありそうなのだが--私にとっては完全に違う。
 「自由/権利」は、そのことばを私自身がどれだけはっきり理解しているかは別問題として、「肉体」のなかに入ってしまっている。何かに対して無性に腹が立った場合、私の「自由」、私の「権利」ということばを、よく考えもせずに口走ってしまう。そのことばは「肉体」の内部から噴出してくる。けれど、福間がここで書いている「湿度」は、そういう「肉体」の内部から噴出してこない。逆に、「肉体」の外から肌に密着してくる「もわーっ」である。
 「肉体の内側」と「肉体の外側」が、変な具合に出会ってしまう。まあ、福間の詩が好きなひとは、この出会いによって「肉体」がより立体化される感じがするのかもしれないけれど、私は、一歩ひいてしまう。思わず、引き下がって、身構えて、福間のことばを見てしまう。
 その結果、「畑と川、校庭と線路」という、ありふれた「情景」さえ、情景にはならない。色も形も、距離も実感できない「空虚」な何かをあらわしているように感じられる。福間が「空虚」を書いているというのなら、それはそれでいいのかもしれないけれど、何か納得できないものが残る。
 「階段」と「自由/権利」のことばのつながりに欲情してしまった私がいけないのかもしれないけれど。--まあ、こんなことは、セックスする寸前に「やっぱり、やめよう」と言うときの「痴話喧嘩(?)」、あるいは単なる「愚痴」のようなものかもしれないけれど。

    最初のできごと、最初の行為のあとの
曇り空の感受性がよみがえる。これでおしまい、さようなら。

 は、「曇り空の感受性」が、ちょっと魅力的である。「肉体」の外(曇り空)と「肉体」の内部(感受性)が「一体」になった感じがして、いいなあ、と思うが、それにつづく「これでおしまい、さようなら。」が、やっぱり、ぎょっとする。
 そんな簡単なの? セックスって。

彼女がたとえものすごくまちがっていたとしても、
その唇が動き、息をして肩が動くと、未来の光がさした。
解釈も、つぐないの言葉も、
秩序ある配置もいらない
少年の夏。死んだ詩人
          という装置を操作して
気楽な声をあげているみなさん、ほんとうにさようなら。

 「彼女がたとえものすごくまちがっていたとしても、」とは考えはするけれど、「自分が」たとえものすごくまちがっていたとしても、はせ考えない「少年」なのかもしれないなあ。「詩人」なのかもしれないなあ。
 そのとき、唇の動き、肩の動きを見た目が見る「未来の光」は、いったい、だれの「未来」なのだろうか。
 何か、「彼女(あとから出てくる、さっちゃん?)」と、福間が、ほんとうに出会っている感じがしないのである。福間だけがいる。福間の「ことば」のなかに、福間にとって都合がいい「彼女」がいる。その「彼女」は、福間をけっきょく突き動かさない--福間はけっして「彼女」によってかわらない、という感じがする。
 福間は、いや、「私は変わった」というかもしれない。まあ、だれでも「変わる」のだろうけれど、私がいう「変わる」は、「彼女」によって福間が変われば、同時に「彼女」自身もその瞬間から変わっていくので、どっちが変わったというのがわからなくなる関係なのだけれど、福間のことばにはその「どちらが変わったかわからない」けれど「変わった」という感じがしない。
 私にとって、福間がとっつきにくい詩人なのは、そういうことかなあ。



青い家
福間 健二
思潮社
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ヴィクター・フレミング監督「風と共に去りぬ」(★)

2011-12-03 19:30:45 | 午前十時の映画祭
監督 ヴィクター・フレミング 出演 ヴィヴィアン・リー、クラーク・ゲーブル、オリヴィア・デ・ハヴィランド

 「午前10時の映画祭」という催しがある。かつての名画をスクリーンで年間50本上映するものである。私は先週、福岡天神東宝で見たのだが、52席しかない小さな劇場での公開である。で、とてもつまらない。大スクリーンで見ないとおもしろくない。燃え盛るアトランタをヴィヴィアン・リーとクラーク・ゲーブルが馬車で駆け抜けるシーンはいまの映像からするとずいぶんおとなしいのだが、それでも大画面で赤い色と黒いシルエットをみれば興奮するはず。小さい画面ではおもしろくない。
 だいたいヴィヴィアン・リーのわがまま放題の女性像は、大画面でこそ生きてくる。大きな画面で観客を飲み込んでこそ輝く。小さい画面では等身大くらいの印象で、こんなわがまま女、いったい誰が相手にするのだ、とあきれかえるだけである。
 クラーク・ゲーブルの色男ぶりも、台なし。すけべなオヤジにしか見えない。それが子煩悩を演じると笑い話である。この映画では披露していないが、クラーク・ゲーブルの軽いウィンクは大画面で見てこそ、あ、いま、自分に向ってウィンクしたと錯覚できるのである。あれを真似して女をだましてみたいと思うのである。小さい画面では、私の方がウィンクはうまくやれるな、と思ってしまう。「一体化」できない。
 一方、オリヴィア・デ・ハヴィランドは小さい画面の方が映えた。演じている役柄がテレビの主人公――つまり、日常の連続のなかにいる。毒がない。安心感がある。
 でも、映画は毒がないとおもしろくない。映画はどうせ嘘。日常とつながらなくたって平気。日常を振り切るために、「スター」になりに映画館へ行くのだから。
 この映画は、記憶の中では★★★★の映画だが、今回の上映で一気に★ひとつになった。小さな画面ではおもしろくない映画の典型である。



 この天神東宝の上映について、「天神東宝命」「マイケル」「ニック」という人物が、「天神東宝支配人の深謀遠慮」があらわれたものと絶賛していた。「名作はスクリーンの大きさや客席の多さではないのだ、そんなものは関係ない」「2番劇場はまるで映画会社の試写室のようではありませんか。夢に見た映画評論家の気分に浸れるのです。素晴らしいですねえ」というのが理由である。
 「映画評論家」なんて夢見たことがないなあ。私は試写室なんかで映画をみておもしいろいのだろうか。私は見たことがないのでわからない。お金を払って、見知らぬ客と並んでみるからおもしろい。つまらない映画にはつまらない、金返せ、と怒鳴り散らす方が好きだ。
風と共に去りぬ [Blu-ray]
クリエーター情報なし
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