詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジェフリー・アングルス「先見者 多田智満子に」、清水あすか「我が無く、ふるえ。」

2011-12-23 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
ジェフリー・アングルス「先見者 多田智満子に」、清水あすか「我が無く、ふるえ。」(「現代詩手帖」2011年12月号)

 ジェフリー・アングルス「先見者 多田智満子に」(初出「ミて」116 、09月発行)は中盤が美しい。多田智満子の翻訳の文体に似ている--というと変な言い方になるのだろうけれど、私はジェフリー・アングルスを知らないので、そう思ってしまった。多田智満子も、私は実は知らない。何冊かの翻訳を読んだだけだけれど、ことばに無駄がない。異質なものが、異質ではなく、新しい何かに結晶する--そういうことばの運動を感じる。多田智満子の文体をジェフリー・アングルスは吸収し、突き破るところまで動いて行っているのだと思う。

見えない漁夫が
網を 暗い海に
繰り返して 何度も
投げているうちに
魚のかかる日は
きっとやって来る
(ここで 先見者は一瞬
ドラマチックに中断する)
透明な網糸は 最初は見えず
鱗を優しく愛撫するだけ
囲む網が狭くなると
暗い海が光ってくる
銀貨の山のように
(コップを廻しながら
彼女は話し続ける)
やがて 恋人のように
網が魚を抱きしめる
編目は 海を吐き出して
息切れする魚だけ残る

 「見えない漁夫」なのに、なぜ、そこに漁夫がいると書かれるのか。
 --ここに、この詩の(あるいは多田の、あるいはジェフリー・アングルスが多田から吸収したことばの運動の)基本というか、出発点がある。
 「見えない」ものも、ひとはことばにすることができる。
 漁夫が見えないなら、当然、その漁夫が投げている網も見えないはずなのだが、「繰り返して 何度も/投げているうちに」と、その運動が描かれ、そのときから私たちは漁夫ではなく、繰り返される網の動き、網を動かす漁夫の肉体の動きのなかに引きずり込まれていく。
 私たちは「もの」ではなく、「動き」を見ている。
 見えないのに。
 なぜだろう。
 「見えない」を強調するように、最初は「暗い海」と「暗さ」が強調される。けれど、それは「暗い」から見えないのではない、ということが、

透明な網糸

 その「透明」に変わっていく。
 この「透明」が、私には、なぜか「運動」に思えるのである。網と透明である。しかし、その網が「動く」。そこに「運動」がある。運動の「軌跡」がある。それは、私たちの外で起こっていることだけれど、その網を動かす漁夫の肉体の動きが一方にあり、その肉体の動きが私たちの肉体に作用してきて、見えない(透明な)網を見えるように感じさせてしまう。
 エアー・ギター、ではなくエアー・漁網(網目)、
 ということになるのかもしれない。
 その運動に「優しく(優しい)」という要素がくわわると、もう、それは「投網」とはちがったものになってしまう。--というか、「優しく」ということばが、私たちを「肉体」そのものへ引き込み、そこから「愛撫」がでてくることに何の違和感も感じない。
 もう、私たちは(書かれている漁夫と、読んでいる私)は漁なんかどうでもいいのに、あ、あ、あ、。

囲む網が狭くなると
暗い海が光ってくる
銀貨の山のように

 魚の鱗がきらきら銀貨のように光っている、光ながらひきあげられようとしているという実景が描かれ--その実景を想像した途端に、それが、それこそがやっぱり比喩だとでも言うように、

やがて 恋人のように
網が魚を抱きしめる

 と「肉体」に、つまり、セックスにことばが動いていく。

編目は 海を吐き出して
息切れする魚だけ残る

 これは、網がひきあげられ、そこから海の水がすべてこぼれ落ち、魚だけが網のなかに残るということなのだが--うーん。網のなかに水が残るはずがない、水を残さないための網なのだから、ここで書かれていることばはいはば「無駄」というか、書かなくてもいいことばなのに。うーん。その書かなくていいことばを通ることで、ことばの内部に何か違ったものがまじりこんでくる。
 男の手の中で(男に抱きしめられ)、女が体中の息を吐き出して、つまりエクスタシーで死んでしまって、ぐったりした肉体そのものになっている姿を思ってしまう。
 漁とは無関係な、(というのは漁をしながらセックスはできないということだが)、セックスの最後を思い浮かべてしまう。漁とセックスが重なってしまう。
 このことばの運動を支えているのが、「見えない」漁夫、「透明な」網目、だと私は思う。見えないものを書くことで、そこにほんとうに「見えない」もの、男と女のセックスを見せてしまう。漁夫も網目も「見えない」ので、その漁夫のかわりにセックスする人間を、セックスそのものを「見てしまう」。
 そして。
 その「見えないセックス」をいっそう強烈にするのが、不思議なことに、人間のからだではなく(それは、もちろん見えないからね)、「囲む網が狭くなると/暗い海が光ってくる/銀貨の山のように」という実際の漁の風景であり、また「網目は 海を吐き出して」という事実としての風景である。
 でも、それはほんとうに見えている?
 見えてはいなくて、想像しているだけ?
 あ、こんな区別はつまらない。
 こんな区別をせずに、ことばが動いた瞬間に見える漁の風景を見て、同時に、あれ、これは漁の風景というよりもセックスの最中、絶頂の瞬間じゃないかと混同する--その瞬間がおもしろい。

 途中に、「ドラマチックに中断する」ということばがあるが、中断することによって、ことばが接続してしまうのだ。異質なものの噴出、たとえば「銀貨の山のように」という1行、その比喩が、比喩を経由することで、魚の鱗、魚の塊(さんまや、鰯の水揚げみたい)をリアルに浮かび上がらせ、そのことによって一瞬、セックス(優しく愛撫する)を遠ざけ、遠ざけることでより強く引き寄せる。より強く引き寄せるために、いったん遠ざけるという逆説(ドラマチックな中断)が、夢を、幻を、強く輝かせるのだ。

 そうか、ことばは「見えない」ものを、「見る」ために動くのか、とあらためて思った。



 清水あすか「我が無く、ふるえ。」(初出「空の広場」5、09月発行)は、ジェフリー・アングルスのことばから遠く離れたところで動いている。「見えない」ではなく「見える」が書かれている。そして、「見える」のだけれど、それはまだことばにならない、ということが書かれている。
 東日本大震災のことを書いているのだ思う。

おまえの「と、思った」は
農協の跡地にあるよ。
今資材置き場になっているとこだよ。

そこに、この世でない、があるよ。
木材下、西日から伸びるどくだみの花の白さ
ぶっちゃられた、足が短い引き出しの見とれる木目
そんな余白におまえ
立っていた、を知っているよ。
アスファルトの突起でできた影や
としょうりがくわえて歩いていった煙っ端に
おそろしい、になる前のおそろしさや
うつくしい、になる前のうつくしいがある。

ね、そこらへんの石一つを
おまえの墓石にしたって、いいんだよ。
だいじょうぶ。

あぁたしかに、さびしい、はあるねぇ!
あのふくらみにふくらんだ
空き缶いっぱいのビニル袋を二つもしばりゆらつく自転車。
あそこに入っているのは、さびしい、になるまえのさびしさだ。
花の白さにも、木目にも
影にも煙のきわにもあったものだ。そして
そこへ立っていたおまえにも。
資材置き場を見つけたね。余白を
そこらへんの石一つに
託したって、
いいよ。

 「見えない」ではなく、清水には「見える」。そして、「見える」ということは、「ある」ということなのだ。ジェフリー・アングルスは「見えない」を書くことで、いのちの動きを引き出したが、清水は逆のことを書く。
 清水は「見える」ことを書く--と私は書いたが、これは方便であって、実は「ある」だけを書いている。「ある」は、ほんとうは「見える」のではない。「ある」は、清水が「おぼえている」のである。「肉体」でおぼえている。おぼえているために「ある」が「見える」と錯覚する。それほど、「おぼえている」は強烈なのだ。

おまえの「と、思った」は
農協の跡地にあるよ。

 おまえは震災の犠牲になって死んでしまったのかもしれない。おえまの口癖は「……と、思った」かもしれない。--これは、私が勝手に想像して読んでいることだから、違っているかもしれない。(ごめんなさい。)その、おまえを、農協の跡地にきたとき、見た。「おまえ」がそこに「ある」のを見た。現実には、そこにおまえはいないのだけれど、そこにおまえがいた時間が「ある」。そこにおまえの思い出が「ある」。

そこに、この世でない、があるよ。

 この1行の「ある」は強烈である。
 「この世でない」ものがこの世にあっていいはずがない。けれど「ある」。
 この世にいてほしいはずの、おまえは、いない。ない。
 ただ、農協の跡地に、その資材置き場になってしまってなにも「ない」ところに、おまえの記憶が(肉体が)「ある」。
 ふたつの「ない」が「ある」のなかで強く結びついて、そこに「ある」。
 それを清水は見ている--というか、肉体か見てしまう。おぼえているのだ。何かを。体験したことのすべてを。

そんな余白におまえ
立っていた、を知っているよ。

 これは、そこにおまえが立っていた、ということを知っているということだが、この「知っている」は「おぼえている」である。単に知っているのではないしっかりと「おぼえている」、わすれることができない、いつでも思い出すことができるということだ。
 どくだみの白い花、引き出しの木目に見とれているのは、いまの清水か、それともかつてのおまえの姿かよくわからないが、これは区別しなくていいのだ。清水がおまえを思い出すとき、清水とおまえは「一体」になる。「おぼえている」のは自分の体験だけではなく、おまえの体験も「おぼえている」。
 おまえと清水--そこにはふたつの主体(人間)がいるのだが、「おぼえている」のは個人の肉体ではない。人間をつなぐ肉体である。
 その「おぼえる(おぼえている)」を通して、あらゆる「ある」もつながる。「一体」になる。そういうことを、清水は書いている。

 大震災によって、世界は一変した。
 「おそろしい」「うつくしい」「さびしい」。そういう「ふつうのことば」であらわしていたものが、そのままのことばであらわせるかどうかわからない。
 わからないけれど、何か、つながっている。その「何か」を、清水は「おぼえている」。
 大震災前と大震災後をつなぐ「おそろしい」「うつくしい」「さびしい」が「ある」。こうやって、ここでここばを動かすたびに「ある」が沸き上がってくる。「おぼえている」ものを、もう一度、肉体で繰り返し確かめるということが、ここからはじまるのかもしれない。





Killing Kanoko: Selected Poems of Hiromi Ito
Hiromi Ito,伊藤比呂美,ジェフリー・アングルス
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八柳李花ー谷内修三往復詩(13)

2011-12-23 01:00:37 | 
そこにあるのは  谷内修三

初めて読んだ詩には夢の中を舟が流れてくる
夢が水なのか、夜が水なのか。
その舟は母を探している。母は死んでしまって
記憶の中にもいないのに。
夢のなかでは舟と母は文字が似ている。
母が舟を探しているのかもしれない。
どこかへ行くための、あるいはどこかから帰るための。母は死んでしまって、
どこにも行けないしどこにも帰れないのに。
初めて読んだ詩の中で舟は遠くから流れてくる
光を砕きながら群青の影をつくっている。
群青の影を深く深くしずめながら流れている。
追いかけるように飛んできた鳥が
舟を追い越した瞬間、すべてが消えた。
そこにあるのは(振り返ってみても)
舟は母だったのか、母が舟だったのか。母は死んでしまって、
だれに問いかけていいのかわからない。

                         2011年11月23日
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