詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高岡力『ド』

2011-12-05 23:59:59 | 詩集
高岡力『ド』(土曜美術出版販売、2011年11月10日発行)

 高岡力『ド』には、わからないところがたくさんある。たとえば、表題作になっている「ド」。公園のトイレで拾った鉄パイプをふりまわす。音が出る。この音は「ド?」ということを中心にしてことばが動く。その終わりの方。

ビラが貼ってある 大日本愛国党って何? あまいんだな 塗りがベラベラ捲くれちゃって「ペ」は「ミ」?「ラ」は「ソ」? 「ミソ」「ミソ」と大日本愛国党が捲くれてるとおもうと可笑しくて振ってみる

 あれ? 「ペラペラ」って、「ペ」の方が低い? 私は音痴だし、私の育ったところは標準語とはアクセントが逆になるところなんだけれど……。私の耳には「高低高低」、高岡の書いていることばで言えば「ソミソミ」になる。
 こういうことはどうでもいいこと(意味には無関係なこと)なのかもしれないけれど、私の肉体はなんだかねじれた世界に入り込んだようで、気持ちが悪い。
 ついでにどうでもいいことを書いておくと、詩集の表紙に五線譜が書いてある。シャープが1個ついている。そして、C音が書かれている。--これって、ド? Cは確かにハ調ではドかもしれないけれど、シャープか一個ついたらドではないのでは? 
 何か、高岡の感じている「音」は私とは完全に違うなあ、と思う。肉体で感じる部分も、知識(?)で感じる部分も。

 「ドッポン」も、不思議な音が主役だ。海岸に死体が浮いている。「お巡り」がそれを竿で引き寄せる--のではなく、引き寄せては、突き放すように沈めている。その部分の数行。

すっかり白眼だ 仕事熱心ではないようだ
せっかく引き寄せた漂着物を竿の先で 海へ戻す
豚のような塊はいったん沈み 腹部を矢先にドッポンと浮き上がってくる
何が楽しいのだろう 光るものを使いよ言うな肉に引っかけると
また ゆっくりたぐり寄せている

 「ドッポン」というのは、ものが水の中から浮き上がる音? 水の中に何かを落とすと「ドッポン」と音がするのでは?
 でもね、浮き上がってくるとき、静かに浮き上がるのではなく、一気に浮き上がり、そのスピードが速すぎて(?)、水面を突き破ってしまうときは、「ドッポン」かどうかはっきり思い出せないけれど、確かに水を破る音がするなあ。
 ドッポン、か。
 なかなかいい耳だなあ、と思う。

 そうすると、ビラがペラペラも「ミソミソ」というのは、あり得るのかも。何かを突き破って、そのために音がいつもの音とは違う感じで響くのかもしれない。
 そして、よくよく考えてみると、ふつうに聞いていると思っている音というのは、ほんとうは聞いていないね。「習慣」として、「流通言語」として聞いていると思い込んでいるだけで、自分の肉体を研ぎすましていない。感覚を働かせてはいない。単に、表現されたことばを流用しているだけだね。
 高岡は「流通言語」の向こう側へ、「意味」ではなく、「音」の力で入っていこうとしているのかもしれない。
 そんなことを思いながら読んでいると、「ハミング」に出会う。これは、とってもおもしろかった。

洗い立ては 吸ったんだろう太陽を
シミ一つなく 白くて
気持ちいいわ
そんな敷布を 被して
転がした 梱包をしようと おもう
宛先はどこにしよう
白いビニール
の紐で 縛り そうだ
実家だな 返品という事で そうね
不良品ですものね 私
と 観念している妻は 歌を唱ってる
自作だが まだ詞が ない 題名は決まってるの
なんだよ おしえない
さよならの歌だな 段ボールを取り出し
抱え入れる 動くなよ ガムテープが何処にもない
ねえ 君 何処へやった
と 聴いてみたが ハミング してる
あれほど 動くな・・・よ
と 云ったのに
戻 ると
シーツ姿で 料理を してる
手だけ出しちゃった と 蒼いものを刻んでる
いいよ 弁当買ってきたから そう
手を引っ込め 箱の中へ帰って くれた
製造元には電話しとくよ
そう
印鑑容易しといてくれって
そう
そういえば君の父上は 去年の夏に死んだっけ
そう
そういえば 俺も参列した よな
おいおい君がなくもん だから
つられて俺もないたよ な
そう
空気穴を あけとくよ
そう
第二の人生が ある のだから
そう
たくさん あけといてください ね
と 妻は 云うと また 
ハミングを
始めた

自作だが まだ詞が ない
明るい歌だ 鳥も鳴いている

 男と女、夫婦がけんかして、ああ言えばこう言う状態を書いているのだと思う。妻をシーで梱包し、実家に送り返すというところまでけんかが進んでいるのだから、おだやかではないが、そういうことは、まあ半分以上は、あれこれ説明するのがめんどうくさくてついつい先走ってしまうだけのことだから、どうでもいいのだが、その、ああ言えばばこう言う、だけではなく、高岡の書いている夫婦げんかには、はぐらかしが入り込む。これが「ハミング」。ことばにしないで「音」にしてしまう。そこが、なんとも不思議で楽しい。あ、きちんと「肉体」をとおってことばが動いているというのがわかる。「意味」や「思想」ではなく、暮らしの「知恵」がここにある。
 「ハミング」じゃ、何もわからない、言っている「意味」がわからない--かもしれないけれど、夫婦げんかに「意味」などない。そんなものに「意味」を探しているようでは、すでに夫婦ではない。「意味」を探しているようでは、夫婦げんかという「知恵比べ」はできない。--あ、これ、いいことばだなあ、と自分で書いておく。夫婦げんかというのは、一種の「知恵比べ」だな。「知恵」は「暮らし」にどれだけ密着しているか、「暮らし」をどう乗り切るかという「知恵」なんだけれど……。

なんだよ おしえない

 という1行が象徴的だが、ほら、けんかの途中で「質問」なんかするなよ。した方が負けに決まってるんだから。「知恵比べ」なんだから。
 そして、その「知恵比べ」は、なんというか夫婦の「区切り」がない。夫がこう主張し、妻がこう主張しという「意見」の対立がない。そんな「頭」で区別するようなことがらは、夫婦には「意味」がない。「なんだよ おしえない」という「呼吸」が「意味」をのみこんでいる。「呼吸」に「知恵」がいっぱいつまっている。
 で、

シーツ姿で 料理を してる
手だけ出しちゃった と 蒼いものを刻んでる
いいよ 弁当買ってきたから そう

 この「いいよ 弁当買ってきたから そう」の接続と断絶が--いやあ、悲しくておかしいねえ。意地の張り合い、のばかばかしさ。犬も食わないとはよくいったものだなあ、と思う。
 後半の、妻の父の葬儀の思い出と「いま」がふいに重なるところもおもしろいなあ。
 最後まで読むと、ハミングとは「言ったって、どうせわかりはしない。だから勝手にわからない音だけ言ってしまう」というような感じかなあとおぼろげにわかるのだけれど--ね、こんなことを書くとつまらなくなるでしょ? 「意味」にしてしまうと、つまらないでしょ?
 そういうことばの袋小路に入る手前で高岡はことばを動かしているんだなあ。






高岡 力
土曜美術社出版販売
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谷川俊太郎「おのれのヘドロ」

2011-12-05 18:42:44 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「おのれのヘドロ」(「朝日新聞」2011年12月05日夕刊)

 谷川俊太郎は、「流通言語」を詩にかえてしまうことができる。だれでもが知っていることば、だれでもがつかう比喩を、谷川独自の色にかえることができる。しかも、「かえた」ということを強く意識させない。まるで、それは私(谷川)が考えたことではなく、あなた(読者)が感じていることでしょ、とでもいうような静かさでことばを動かす。
 「おのれのヘドロ」はタイトルそのものが「流通言語」である。「ヘドロ」という「比喩」も説明が必要ないくらい「流通」している。つまり、読まなくても、書いてあることがわかる。
 --と、言いたくなるのだが……。

こころの浅瀬で
もがいていてもしようがない
こころの深みに潜らなければ
おのれのヘドロは見えてこない

偽善
迎合
無知
貪欲(どんよく)

自分は違うと思っていても
気づかぬうちに堆積(たいせき)している
捨てたつもりで溜(た)まるもの
いつまでたっても減らぬもの

 最後の1行目にたどり着くまでは、「だれもが言っていること」と思って読んでいた。けれど、最後の1行に「あっ」と思った。
 「ヘドロ」は溜まる。汚れが溜まって「ヘドロ」になる。
 谷川は、そういう「流通している常識」のあとに、「いつまでたっても減らぬ」をつけくわえている。「減らない」。
 私は、谷川が書くまで気がつかなかった。そうか、「ヘドロ」は溜まるのではなく、減らないのか……。減らないから「ヘドロ」になるのか。
 これは小さな発見か、それとも大きな発見か--区別はむずかしいが、どういうことでも「私」という「個人」にとっては「大小」はない。発見に「小さい」「大きい」はない。けれど、谷川は、そういうことも読者に意識させないように、ほんとうに静かにことばを動かしている。
 「流通言語」を装っているが、「流通言語」ではないのだ。


二十億光年の孤独 (集英社文庫 た 18-9)
谷川 俊太郎
集英社
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