堀江敏幸「天文台クリニック」(「現代詩手帖」2011年12月号)
堀江敏幸「天文台クリニック」(初出『ろうそくの炎がささやく言葉』08月)は嘘のないことばで書かれている。この嘘のなさ、そしてそこに書かれている内容(病気を抱えてうまれた新生児)を前にすると感想がなかなか書きにくい。
でも書いておきたい。
飲みたければ
そこに自販機があるわ
弥勒菩薩よりずっと小顔の
色艶のいい観音様が
千の手から無造作に抜き出した一本の
細い手をのばして彼に言う
五色の珠飾りをまとったべつの手で
珈琲のはいった紙コップを持ち
さらにまたべつの手で
金色に輝く主治医は彼の妻の身体をさぐり
象
にではなく
羊
にもらった
なまあたたかい水といっしょに
小さな命を引き出すと
残る九九七本の細腕で
それを高々と抱き上げた
最後の方の「九九七本の細腕」というのは「千手観音」がすでに「無造作に抜き出した一本」「五色の珠飾りをまとったべつの手」「さらにまたべつの手」と三本つかっているために、「残る」九九七本になるのだが、この嘘のなさはちょっとつらい。窮屈である。堀江は嘘のないところで、ことばを正確に動かしたいのだろうけれど、なんだか詩を読んでいるというよりも、「意味」をきちんと押さえろよと叱られている気持ちになる。
途中にでてくる「象」は「千手観音」(仏)との関係する象である。仏は象に乗っている。そして、その次の「羊」は「なまあたたかい水」と関係している。羊水である。ことばにはきちんと「意味」がある。単にイメージを書いているのではないのだ。
大きな耳で身体をくるみ
表産道を滑り出た生きものはいま
渡り廊下のむこうの病室の
無菌のガラスカプセルに寝かされている
優雅なオカピの看護師が
蒼白い光を当てながら
皺ひとつない灰色の命を
しずかに見守っている
波長四三五ミリ
光はしかし
像の顔を造顔しない
黄を白に
変えることもない
「表参道」ではなく「表産道」。これは、実際に産道をとおって新しい命が生まれてくるから「産道」なのだが、見守る両親にとっては「産道」は「参道」であるという「いのり」がこめられているのかもしれない。
最後の方の「黄を白に/変えることもない」から、その命には「黄疸(たぶん)」の症状がみられるのだと思う。そして、黄疸の奥にはもっと複雑な病気が隠されているのかもしれない。
そのために、新生児は母親と隔離されている。
詩は、このあと、その新生児と母(妻)のために彼(この詩の主人公)が何をすべきなのか、そのことを主人公が語るという具合に展開する。
そのとき、最初に指摘した九九七本の手の「算数」の正しさ(嘘のなさ)と、「千手観音」という比喩(嘘)、あるいは「羊水」を「羊」と「水」に分離して表現する方法(嘘)が、ぎしぎしと音を立てて動いていく。「遊び」がないまま、つまり「揺らぐ」ことで全体の動きを調整するという「あいまいさ」を欠いたまま、正確に、正確に、正確に、どこまでも正確に動こうとする。そして、実際、そのことばは正確すぎるくらい正確に動いていると思うのだが。
飛びましょう
と彼はこたえる
どんなに時間がかかっても
この耳で
光は通すが薄っぺらな言葉は通さない一族の耳で
幻の霞をさがします
これは、薄っぺらな医療のことばを信じるのではなく、自分の一族(彼、妻、子ども)なかにある(一族をつなぐ)、希望(光)を信じて不可能なこと(幻の霞をさがす)でもするという決意だろう。
堀江は、最後にもう一度言いなおしている。
千の手をひとつひとつ握りしめ
慈悲深い瞳をのぞき込むように
彼は静かに決意を表明する
私は飛びます
どこへでも
この世にない場所へでも
妻のために
息子のために
いずれ生まれる飛行象の
はるかな子孫のために
ちょっとつらい。
美しすぎる。
論理をはしょって、というか、ただいいかげんなことを言ってしまうのだが、堀江の書いている「嘘のなさ」は、まだ「肉体」になっていない。「肉体」になるまえの「正直さ」(1000-3 =997 )は、わかるのだけれど、私はそこには吸い込まれるようには動けない。なんだか身構えてしまう。--これは、まあ、堀江のことばの問題ではなく、私の「性質」なのかもしれない。(だから、書きながら、こういう感想でいいのかなあ、と疑問をもっているのだが--と、ここでは半括弧のまま、閉じないで先をつづける。
私は、いま、きのう読んだ長谷川龍生の詩の「らかんさん」を思い出している。その「らかんさん」と堀江の詩の「千手観音」は、私にはどうもかけ離れた存在に感じられる。「羅漢」と「千手観音」は、まあ、違う存在だからかけはなれていて当然なのかもしれないけれど、そういう「宗教」の問題ではなく、人間の「信仰」の問題としてかけ離れている感じがする。
長谷川の「らかん」は「肉体」になっている。そこには、当然頭では整理しきれない逸脱がある。飛躍がある。けれど堀江の書いている「千手観音」は「算数の正確さ」に代表される堅苦しさがあって、それが逸脱・飛躍といった深みを疎外している。
小説の場合なら、ふっとよそ見した瞬間の一行に作品全体が救われるというような逸脱と飛躍があるが、この堀江の詩には、それに通じるものが欠けていると感じてしまう。小説の場合にある静かな脇道が、堅苦しい算数にとじこめられていると感じてしまう。
堀江の書いていることは「正しい」とは思うけれど、正しすぎて、簡単には近づけない。
「誤読」して、「誤読」を指摘されたとき、「あ、間違えた? でも、詩(文学)って、読んだひとのものでしょ? どう読んだっていいじゃないか。私はこう読みたいんだから、こう読みます」と言い切って、書いた人と喧嘩する楽しみがない。
こういう詩は、私は、ちょっと苦手だ。(とっても苦手だ。)
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