詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

黒岩隆「鳥」

2011-12-26 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
黒岩隆「鳥」(「歴程」577 、2011年12月20日発行)

 黒岩隆「鳥」を繰り返し読んでしまった。

死ぬとしたら
あなたと死にたい

朝露で濡れた枯葉のなかで
溶けてゆく羽の 白のように
いちばん 誇りだったものを
汚してゆきたい

だれも来ない 森のはずれで
一日が暮れるだろう

月が出て
あるものと
ないものの境があいまいになり
ほの白く浮き出るものと
深々と沈むものとが
ひりひり抱き合っている

あなたは
僕とはゆかいなというだろう

ちょうどこんな夜に
つい はみだしてしまったのだ
大潮の波が
残してゆく潮だまりのように
僕の思念は
無音の窪みに
浸かってしまった

 「意味」はよくわからないのだが。
 書き出しの、

死ぬとしたら
あなたと死にたい

と、5連目の、

あなたは
僕とはゆかいなというだろう

 この2行ずつの連が、とても気になるのである。ここには「あなた」と「僕」がいるのだが、私には、その区別がうまくつかめない。
 1連目の「あなた」と5連目の「あなた」は同一人物か。
 1連目は、つまり、「ぼくは」死ぬとしてたら/あなたと死にたい、ということなのだろうか。主語が省略されているのだろうか。
 私には、なぜかわからないけれど、つまり直感で「誤読」しているだけなのかもしれないが、どうもそういう具合には音が響いて来ない。
 1連目の主語は「あなた」である。「僕」にとっての「あなた」が、つまり恋人か妻かが、「僕」向かって、死ぬとしたら「あなた」(つまり、僕と)死にたい--そう語っているように思えるのである。
 そう読んでしまうと、辻褄が合わないのだけれど、私は辻褄を合わせたくないのかもしれない。辻褄を超えるものを、読みとりたいのかもしれない。

 2連目の「いちばん 誇りだったものを/汚してゆきたい」というの行には「死ぬ」ということばが省略されているように思える。いちばん 誇りだったものを/汚して「死んで」ゆきたい。この欲望というか、この夢・願いは、不思議な「矛盾」である。
 なぜ、いちばん誇りだったものを汚したいのか。
 美しいものを美しいままに死んでしまっては、それがいつまでも記憶に残る。そうして悲しみは永遠につづいてしまう。それでは悲しすぎる。いつまでも、残された人が悲しんでいると思うと安心して死んでゆくことができない。だから、美しいもの、誇りだったものを汚して死んでゆきたい。そうすれば、私のことを忘れることができるはずだ……。
 この「矛盾」は、しかし、だれのことばなのか。
 あなた(女、と区別しておこう)の願いなのか、僕(男)が、女はそんなことを思っているのではないのか--と想像したことばなのか。
 でも、こういう「想像」は、過剰じゃない? 
 つい、過剰に想像してしまうほど、男は(つまり黒岩は、ということだが)女を愛していて、愛のあまり、何か区別がつかなくなったのかもしれない。
 4連目は、その区別のつかない感じがそのまま揺れ動いている。

月が出て
あるものと
ないものの境があいまいになり
ほの白く浮き出るものと
深々と沈むものとが
ひりひり抱き合っている

 私が「区別」と書いたものを、黒岩は「境」と呼んでいる。
 浮き出るものと沈むものの「境」があいまいになる。--これは、とてもたいへんなことである。「境」ではなく、運動の「方向」の区別がなくなるのだから。
 そして、そのことを黒岩は「抱き合っている」と書いている。
 抱き合うとは、「ふたつ」のものが「ひとつ」になることである。男と女が「一体」になることである。区別がつかなくなることである。
 その区別のつかない「一体」について、黒岩は「ひりひり」ということばで説明している。
 この「ひりひり」は、私には、表面が傷ついている感じを呼び覚ます。表面が剥がれて、内部が剥き出しになる。そのとき「ひりひり」する。抱き合って、一体になりすぎて、二人の「境」である「皮膚(肌)」が剥けてしまって、内面がぶつかりあって「ひりひり」する。
 その「ひりひり」のとき--もう、きっと「内面」の区別はない。
 その「ひりひり」はだれのもの? 男のもの? 女のもの? 
 区別がつかないだけではなく、「ひりひり」は「ひりひり」を通り越して、不思議なあたたかさになる。
 たとえて言えば、傷ついた指をなめる。そのとき傷口は唾液に侵入されるのだけれど、なんだかあったかくて気持ちがいいでしょ? 指を口でつつむ。舌でつつむ。区別がなくなり、痛みが溶けていく。ほんとうは「ひりひり」するところがあるのだけれど、わからなくなる。

 で。

あなたは
僕とはゆかないというだろう

 は、あなたは/僕とは「死んで」ゆかない、という。女は、私はひとりで「死んで」ゆく。あなた(男)は、私と別れて、別の道を、つまり「生きて」ゆく、「生きて」いってほしいと、願う。きっと、そういうふうに言うだろうと、男は想像する。
 そのとき、この男の想像を「論理的」に繋ぎ止めるには、1連目は、「男(僕)」であった方が都合(?)がいい。
 つまり、僕(男)は、しぬとしたらあなた(女)と死にたい、いっしょに死にたい、だから死ぬな、と言う。それに対して、女(あなた)は、私(女)はあなた(男、つまり僕)とはいっしょに「死んで」ゆかない。ひとりで「死んで」ゆく。あなた(男、僕)はひとりで「生きて」いってと、言うだろう。
 こう考えると、とてもわかりやすい。

 わかりやすいのだけれど、そのわかりやすさに対して、私の何かが異議をとなえている。そんなふうに論理的にことばが動いてしまっては、詩ではない、と私の本能がいやがるのである。
 論理的に読むと、4連目の「ひりひり」が落ち着かない。「境があいまいになり」が落ち着かない。

死ぬとしたら
あなたと死にたい

 これを「僕(黒岩/男)」の思いと考えると、すっきりしすぎる。
 あなた(女)が僕に対して「死ぬとしたら/あなた(男、僕)と死にたい」というのでは、女がわがまますぎることになる。
 でも、「僕(男、黒岩)」は、女(あなた)に、そう言ってもらいたかったのではないのか。
 ひとりで死んでゆくのはいや。さびしい。あなたといっしょに死にたい。
 そんな具合に、他人の悲しみなんか気にせず、ほんとうの欲望を言ってくれたら、どんなに気持ちが落ち着くだろう。
 「僕(男、黒岩)」といっしょに「死んで」ゆかない、私(女)ひとりが「死んで」ゆく。あなた(男、僕)は、私(女)について来ないで、ひとりで「生きて」いってください--というのは、けなげすぎる。
 逆に悲しい。
 悲しすぎる。
 その、悲しみが、この詩のことばを、不思議な形でゆさぶっている。

死ぬとしたら
あなたと死にたい

 これは、男と女の願いが「ひりひりと抱き合って」、「ひとつ」になっている願いである。1連目の発話の主語は「男(黒岩、僕)」であると同時に、「女(あなた、恋人、妻)」なのだ。



海の領分
黒岩 隆
書肆山田
コメント (1)
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